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着ぐるみとメイドの物語3


  3



 八月の終わり。

 今日も朝から気温は三十度目前だ。ここ最近、とても暑い日が続く。

 僕は、ミオコのかつての親友「ユキエ」が起こした事件が解決した後、覚悟を決めて井之上家の屋敷に引っ越した。一階の厨房の向かいに、六畳ほどの小さな「使用人部屋」があり、その部屋を間借りすることになった。屋敷全体の広さに比べれば狭い部屋だけど、それでもベッドなど必要最低限の家具は揃っているし、何も問題ない。

 今朝も、いつものように六時起床。

 頭が痛い。どうやら軽く二日酔いのようだ。引っ越してきてからというもの、ほぼ毎晩、ミオコの飲み相手をさせられている。当然ではあるが拒否権は持ち合わせていない。

 身支度を整えて、厨房へ向かう。朝食の準備だ。と言っても、ミオコと僕の二人分だけなので、そう手間ではない。むしろ、最近まで住んでいたアパートはキッチンが狭くて使い勝手が悪かったので、これだけ広々としたスペースで料理ができるのが、正直とても嬉しい。ビルトインの三つ口ガスコンロに、ガスオーブン、大理石のシンク。料理好きにはたまらない、夢の世界だ。

 一通り準備を終えると、ミオコを起こしに行く。昨夜の酒盛りの後片付けもしなければならない。

 なるべく音を立てないように、静かにミオコの部屋のドアを開ける。

 広い部屋の中に、微かにアルコールの臭いが漂う。暖炉の前のテーブルに乱立する、空のワインボトル。それにしてもよく飲んだものだ。九割方、ミオコが飲んだのだけれど。

 天蓋にふんわりと包まれたベッドにそーっと近づくと、ミオコがあられもない姿で気持ち良さそうに寝ていた。

 毎日のことだが、目の毒だ。パンツ一枚で、シーツに包まれている。なんて無防備なんだろう。しばらく見惚れた後、はっとして、明後日の方向を向いて一つ咳払いする。

「ミオコ、起きて。朝ご飯できたよ」

 彼女は眉間に皺を寄せて、うーんと唸った。シーツにぐるぐる包まる。

「もうちょっと……」

「今日はお茶とピアノのお稽古だろ?」

 ミオコは目をゆっくり開けると、再びうーんと唸り、シーツに包まったまま体を起こした。僕は慌ててミオコに背中を向ける。

「あ、あのさ、いつも思うんだけど、寝間着か何か着て寝たほうがいいんじゃない? いくら夏といっても風邪ひいちゃうよ」

「余計なお世話よ。どうせまた見惚れてたんでしょ?」

 図星だ。

「そ、そんな、見惚れてなんか」

 慌てて反論する僕の目に、ミオコの裸体が飛び込んできた。

「見ないでよ、バカ!」

 ミオコは僕の顔面めがけて、枕を全力投球してきた。

 ミオコが出かけると、井之上家の使用人としての仕事が本格的に始まる。洗濯物を干し終えると、このバカみたいに広い屋敷の掃除にとりかかる。

 まずは、朝の比較的涼しいうちに庭の草むしり。といっても、かなり広い庭なので、毎日少しずつやるしかない。鬱蒼と茂る林の木々も剪定やら何やらしなければならないのだろうが、さすがに僕にはどうすることもできない。近いうちに業者に依頼しなければならないだろう。

 そうこうしているうちに、時計は十時を回っている。急いで屋敷内の掃除にとりかかる。まずは絨毯の敷かれた廊下に、業務用の掃除機をかける。続いて、浴場、洗面所、トイレの掃除。これだけ広い屋敷なので、浴場、洗面所、トイレはそれぞれ一か所ではなく何か所もある。しかし今はミオコと僕しか住んでいないので、使用しているのは各一か所だけだ。ということで、ミオコから「使っていない所は掃除しなくていい」と言われている。そして、何枚あるのかよく分からない窓を拭き、立派な彫刻が施された階段の手すりを拭く。

 十一時を過ぎたところで、掃除を終了し、慌てて着替えて、屋敷を出る。十二時から、クレハのカフェ「フィユ・ルジー」でバイトだ。

 店に入ると、コーヒーの良い香りが漂ってくる。

「やあ、クレハ」

「あ、惣市郎さん。こんにちは。今日も暑いですね」

 十二時の開店の前に、クレハが作ってくれたサンドイッチを頬張り、コーヒーをすする。一日の中で唯一落ち着く瞬間だ。

「惣市郎さん、昨日もミオコと飲んだんですか?」

「え、うん」

「無理して飲んで、身体を壊さないでくださいね」

 クレハの優しさが、肝臓に沁みる。

「たまには、私と飲みませんか?」そう言って、クレハは僕にすり寄って来る。

「は、ははは。そ、そうだね」

 その時、店のドアがバタンと開いた。

「あー、暑い! おなかすいた!」

 ミオコだ。クレハは慌てて僕から離れる。僕はサンドイッチを喉に詰まらせてむせてしまった。

 ミオコは夏休み中、お稽古ごとやサークル活動やらに大忙しだ。ピアノ、お茶、お花、バイオリンなどなど、これでもかというほど習い事をこなしている。しかも、最近まで知らなかったのだが、バレエも習っているらしい。お嬢様とはこういうことなのか。僕とは反対側の世界にいる女の子だ。

 ミオコは僕と視線を合わそうとせず、サンドイッチをバクバク食べる。食べながら、何だか小難しそうな学術書に目を通している。期末試験も終わっているというのに、勉強熱心な娘だ。これでもうちょっとだけ優しくて、しかも酒癖が悪くなければ、非の打ちどころがないお嬢様なのに。

「ごちそうさま。じゃあね、お姉ちゃん」

 ミオコは食器をカウンターに置くと、さっと店を出て行った。

 と、思ったら再びドアが開き、ミオコが僕を睨む。

「ソウイチロウ」

「は、はい」

「私、今夜はハンバーグが食べたい」

 何なんだ、まったく。

「美味しいやつね、分かった? じゃあね」

 ドアがバタンと閉まる。

「まったく、あの子ったら……」クレハはため息をつく。

「ごめんなさい。食事の準備までさせてしまって」

「いや、いいんだよ。僕、料理するの好きだし。化学実験に通じるものがあるからね」

「はあ、化学実験、ですか……」クレハはなぜか眉をひそめる。

 ドアがゆっくりと開く。今日最初のお客さんだ。

「いらっしゃいませ」僕とクレハは、声を揃える。さあ、仕事だ。

 このカフェで働き出して一か月近く経ち、今まで経験したことのなかった接客にもだいぶ慣れてきた。自分の新たな面を発見できて、何だか嬉しい。

 この姿を、彼女に見せてあげたい。

 田中さんに。

 彼女が失踪して、もうそろそろ三カ月。一体、今頃どこで何をしているんだろうか。氷室に捕らわれて、ひどいことをされてるんじゃないだろうか。

 彼女と一緒の、大学からの帰り道。とても懐かしい。今は、ただひたすら彼女の無事を祈るしかない。

 五時になると、フィユ・ルジーでのバイトは終了だ。店を出てすぐにある、ガード下のスーパーに立ち寄る。

 店内はヒンヤリして気持ちいい。さて、ミオコ様ご所望のハンバーグを作るため、合挽き肉を買わないと。

 こうやって買い物をしているだけでも、田中さんのことが自然と思い出される。彼女には、鮮度の良い野菜や魚の選び方を教えてもらったものだ。

「キュウリはですね、トゲがトゲトゲしているものがいいんですよ」

 彼女は、トマトが大の苦手だった。食べるのはもちろん、見るのも触るのも嫌だという珍しい娘だった。

「はい、田中さん、トマト」と、いたずらで彼女の目の前にトマトを差し出すと、彼女は顔を青くして飛ぶように逃げていったものだ。何だか懐かしい。

 ハンバーグの付け合わせにするトマトを選んでいると、何だか目が潤んできた。

「田中さん……」

 買い物袋を引っ提げて家路を急ぐ。途中、ついこの間まで住んでいたアパートの前を通る。そして、田中さんの住んでいたマンション。顔を赤くして手を振る田中さんの姿が、目に浮かぶ。

 屋敷に着くと、二階のバルコニーに干した洗濯物を取り込む。もちろん、ミオコの下着もある。どうも彼女はそういうところが無頓着だ。もう慣れてしまったが、できれば下着は自分で洗ってほしいものだ。

 厨房へ入り、夕飯の準備をする。まるで料理教室のように広いキッチン台があるので、気持ち良く料理ができる。それでも二人分しか作らないので、つくづくもったいない。

 ハンバーグが焼き上がる頃、ミオコが厨房に顔を出した。

「お、ハンバーグね」

「キミが作れって言ったんじゃないか。もうすぐ出来上がるから、準備しておいで」

「はーい」

 夕飯を食べ終えて、後片付けをし、ミオコの後でお風呂に入る。

 へとへとになって、ベッドにごろんと転がる。時計を見ると、十時を過ぎている。

 コンコン、とドアを叩く音がする。来たな。

「ソウイチロウ、ちょっと飲まない?」

 ドアを開けると、メイド姿のミオコが、ワインのボトルを持ってニコニコしていた。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 ミオコの部屋に移動すると、ぬいぐるみたちがベッドの上を跳ねまわっていた。

「おっ! ソウイチロウが来たぜ!」

「飲みましょ飲みましょ」

 ミオコは、地下の貯蔵庫に眠っていた恐らく大変高価であろうワインを、水のようにガバガバと飲み干す。僕も、ミオコの美しいメイド姿に見惚れないように、ワインを飲んで気を紛らわす。

「あ、そうそう。母が一時帰国するらしいわ」

「え、お母さんが?」

「仕事の関係みたい。あんたのことは電話で話してあるから、心配しなくていいわよ」

 井之上商事の欧州現地法人の社長さん。そして、ミオコとクレハのお母さん。一体、どういう人なんだろう。

 あっという間に、テーブルの上に空のワインボトルが乱立する。ミオコはなおさら元気になっていく。それにしても、昼間あんなにアクティブに過ごして、夜もこんなに飲めるとは。やっぱり若さだろうか。それとも、やはり魔女の力なんだろうか……。

「ちょっと、何よ。気持ち悪い」

 僕はハッとして目をそらす。

「いや、何でもありません。ごめんなさい」

「そういえばあんた、お姉ちゃんからお給料もらったんでしょ?」

 その通り。つい最近、フィユ・ルジーでのバイトの初月給が出た。

「宝船でパアッとやりましょうよ、ね!」

「いやいやいや、勘弁してよ……」

「まあ、それは冗談として、いつアクアリウムを始めるの?」

「今度の休みに、ショップへ行こうかな、と」

 ミオコはふーんと鼻を鳴らす。

「それで、自分の部屋に置くの? 水槽」

「そりゃもちろん」

 ミオコはしばらく何かを考えているようだった。

「そしたら、ついでにウチのエントランスにも置いてくれない? なるだけ大きいヤツ。お金は私が出すから」

「え、何でまた」

「別にいいでしょ。ただ、管理はあんたに任せるわ。あんただって、沢山オサカナがいたほうが楽しいでしょ?」

 それは否定できない。正直言って、かなり嬉しい提案だった。研究室レベルまではいかなくても、この屋敷のエントランスホールなら、それなりの水槽が置ける。

「よ、予算はどのくらい?」

「そんなの心配しなくていいわよ。どうするの? やるのやらないの?」

「是非ともやらせてください!」

 ミオコはニヤリと笑い、ベッドにもふっと突っ伏した。

「じゃあ、背中のマッサージ、よろしく」

 そうくると思った。


 フィユ・ルジーでのバイトが休みのある日、中野の「アクアショップおおはた」の店長、大畠さんが見積もりにやってきた。

「村上くん、本当にここに住んでるの?」

 店長は、ただひたすら感嘆の声を上げる。

「ええ、『使用人』ですけどね」僕は自嘲気味に答える。

「いやはや、それにしても、クレハちゃんが井之上商事の創業家の娘さんだったなんてね。正真正銘のお嬢様じゃないの」

「でも、クレハはここに住んでないんです。今は彼女の妹と僕が暮らしています。ミオコっていうんですけど」

「クレハちゃんの妹さんかあ。これまた美人なんでしょうねえ」

「まあ、否定はしませんけど。やや難ありですよ」

 店長は、エントランスホールで手早く寸法を測っていく。

「あら、そうなの? それで、今日はそのミオコちゃんは?」

「残念ながら、朝から出かけてます」

「残念ねえ。じゃあ、帰りにクレハちゃんのカフェにでも寄っていこうかしら」

 店長はノートにメモを取ると、一息ついた。

「はい、終了。本当にレイアウトや値段は任せてもらっていいの?」

「はい。ミオコお嬢様が何とかしてくれますので」

 店長は笑う。

「なかなか大変な思いをしてるみたいね。さて、次は村上くんの部屋ね。どんな感じにする?」

「僕の方は、アベニー・パファーが一匹で大丈夫です。『テトロ』のことが未だに忘れられなくて。それと、店長」

 店長は、ニヤリと笑う。

「分かってるわ。例の『あれ』よね?」

「ええ。もう一台は、アクアテラリウムにして、例のエキノドルスを育ててみたいんです」

「実はね、育成が調子いいの! 少しは安く提供できると思うわ」

 春先に店長に見せてもらった、珍しい水草だ。冴木先生に買ってもらう作戦は失敗に終わったけど、今ならバイトの給料で何とか手に入れることができるかもしれない。

 部屋の方の採寸も終わり、店長は帰り際に僕に囁いた。

「それで、ミオコちゃんて何歳なの?」

「え、二十歳ですけど」

 店長はニンマリ笑うと、僕の肩をポンポンと叩いて頷く。

「それならいいわ。がんばって」

「ちょっとちょっと! どういう意味ですか」

 店長はニヤニヤしながら、「アクアショップおおはた」と書かれたバンに乗って帰っていった。

「まったく……」

 困ったものだ。そもそも、未成年でなければいいという訳ではないだろう。僕は来月で三十歳だ。十も歳が離れた男女が、ひとつ屋根の下で暮らすというのは、いかがなものか。一刻も早く研究室に戻り、住まいを探し、ここを出ていかなくてはならない。そのほうが、ミオコのためにもなるだろう。そのためには、氷室を見つけ出し、冴木教授の洗脳を解かなければならない。しかし、氷室は一体どこに?

 僕は、ため息をついた。その時、携帯が鳴った。液晶画面には、「真木さん」と表示されている。あの、女の刑事さんだ。

「村上くん、久しぶりね」

「お久しぶりです。あの、何かありましたか?」

 真木刑事の言葉に、僕は耳を疑った。

「嬉しいニュースよ。田中咲さんが見つかったの」


 病院に飛び込むと、待合ロビーに日下部刑事と真木刑事がいた。

「村上くん。早かったね」

「田中さんは、どこですか!」

 真木刑事は苦笑いして僕の肩に優しく手を添えた。

「落ち着いて。今、検査をしているところよ。とりあえず、大きなケガや病気はしてないみたい」

「よかった……」

「彼女、失踪した時と同じ格好で、高尾の駐在所に突然現れたらしい。『最近の記憶がない』と言ったそうだ。病院のベッドにいたはずなのに、気がついたら、高尾山のケーブルカーに乗っていた、と」

 日下部刑事は、釈然としない様子でそう言った。

「高尾山、ですか」

「ああ。ひょっとすると、高尾の付近に連続失踪事件の手掛かりがあるかもしれない。彼女から聴取した後、高尾に向かってみようと思っている」

 失踪した女性が高野の研究施設「マフリ」で保護されているということは、二人は知らない。もちろん、氷室のことも。ただ、ひょっとすると氷室は高尾の辺りにいるのかもしれない。

 真木刑事が「あ」と声をあげた。

 彼女の視線の先に、田中さんが立っていた。

「田中さん」

 僕は、ふらふらと彼女に近づく。彼女は、大好きな森ガールファッションに身を包んでいた。まるで、これから高円寺のメルヘンなカフェにでも行くかのような自然さだ。

「あの、あの、村上さん。お久しぶりです……」

 彼女は、顔を赤らめてモジモジしている。ふんわりボブに赤いメガネ。それは、間違いなくあの田中さんだった。

 涙が溢れる。彼女のシルエットがぼやける。

 僕は、彼女を強く抱きしめた。

「ひゃう」

 彼女はよく分からない声を出して立ち尽くしていたが、しばらくして、僕の背中に腕を回してきた。

「村上さん……会いたかったです」

「……僕もだよ」

 田中さんの健康状態は良好で、むしろ何も異常は見られず、入院の必要はないとのことだった。というより、田中さん自身が家に帰りたがったため、即日退院となった。その日の聴取は、簡単なものだった。日下部刑事と真木刑事が気を遣ってくれたのだろう。

 田中さんのご両親も駆け付けたのだが、彼女は頑なに、大丈夫だ、実家に帰る必要はないと言い張った。そして僕のことを紹介して「村上さんがいるから大丈夫」とも言った。彼女は常々僕のことを話していたらしく、ご両親は安心した様子で帰って行った。

 その日は、田中さんの家で夕飯を食べることにした。

 田中さんの部屋は、予想通りの可愛らしい部屋だ。

「あ、あのっ、ずっと掃除してなかったので汚いですけど、くつろいでください。夕飯の準備をしますので」

「ぼ、僕も一緒に作るよ」

「あ、そ、そうですか。それではよろしくお願いいたしますです」

 何だか、田中さんの動きがぎこちない。僕も何だか落ち着かない。それはそうだ。

「考えてみると、田中さんの部屋にお邪魔するのって初めてだよね」

「あ、はい」

「さらに考えてみると、田中さんと一緒に食事をするのも初めてだよね」

「そ、そうでしたっけ」

 その瞬間、僕は大変なことを思い出した。

「ごめん、ちょっとメールするね」

 ミオコに、今日の夕飯は作れないと伝えなければ。田中さんが無事に見つかったということも報告してないし。

 メールを送ると、すぐにミオコから電話がかかってきた。

「それで、彼女の様子は?」

「元気だよ。依然と何も変わりない」

「ふーん、そうなの……」

「何だよ、嬉しくないのかよ」

 ミオコは、少しの間何も言わなかった。

「……彼女、氷室にマインドコントロールされてるのよ?」

「だ、だから何だって言うんだ」

「あんた、彼女に殺されるかもしれないわ」

 何を言ってるんだ、こいつは。沸々と怒りがこみ上げてくる。

「そんなことあるわけないだろ! ほっといてくれ」

「どうぞご自由に。ばーか」

 僕はブチッと電話を切った。

 そんなことあるもんか。田中さんが、僕のことを、殺すなんて。そんなことが。

「……大丈夫ですか? 村上さん」

 びくっとして振り返ると、田中さんが心配そうにキッチンから僕を見ていた。

「あ、うん、何でもない」

「カノジョさん、ですか?」

「ち、違う! 彼女なんていないよ!」

 僕は、住んでいたアパートの部屋が荒らされて住めなくなったという話を田中さんにした。研究室もクビになって、今はミオコの屋敷で使用人として働いているということも。

「そんな、クビだなんて。冴木先生、ひどいです」

 食事を終え、後片付けをして、二人でお茶をすする。

「それで、その、今はミオコさんていう人と一緒に住んでるんですよね?」

「い、一緒に住んでるというか、何というか、その、ひろーい屋敷の中の片隅の部屋で、ひっそりと暮らしてるんだけどね」

 田中さんは、眉をひそめて俯いている。僕は、意を決して言った。

「田中さん、今日、泊まっていってもいいかな」

 彼女はびくっとして顔を上げると、口をカクカク動かして「あううう」と声をあげた。うっすらと額に汗をかいている。顔は真っ赤だ。

「は、はい……」彼女は頷いた。

 お風呂をいただいて部屋に戻ると、パジャマに着替えた田中さんが、ベッドの横に敷いた布団の上にちょこんと座っていた。

「あ、あの、村上さんはベッドで寝てください。私は、こ、こっちで寝ます」

「そ、それは悪いよ。僕が布団で寝るから」

「じゃ、じゃあ、えーと、えーと、私も布団で寝ます」

 何だかよく分からないけれど、僕は田中さんと一緒に寝ることになった。

 電気を消してはみたものの、心臓がバクバクして、とても眠れそうにない。すぐ横に田中さんがいて、彼女の息遣いが聞こえる。ちらっと見ると、彼女は目を開けていた。彼女も眠れないのだろう。

「メガネをしてない田中さんも、初めて見た」

「は、はいっ?」

「いや、ごめん、その、なかなか眠れなくて」

「わ、私もです」

 僕は、ずっと気になっていることを彼女に訊くことにした。ホームカミングデーの日、氷室に何をされたのか。そして、病院を抜け出した日のことを。

 田中さんはしばらく何も言わなかった。エアコンの音だけが小さく聞こえてくる。

「……ごめんなさい。思い出せないんです。思い出したく、ない」

「いや、いいんだ。ごめん。思い出さなくていい」

 すると、彼女は僕にゆっくりと寄り添ってきた。

「村上さん。私、怖いです。ずっと、傍にいていただけませんか」

 彼女は小さく震えている。僕は慌てて彼女をぎゅっと抱きしめた。


 一週間後、僕とミオコは成田国際空港の国際線到着ロビーにいた。ミオコのお母さんが一時帰国する日だ。夏休みも終盤ということもあって、ターミナルビルの中は人で溢れ返っている。

 ミオコは、待合席に座って缶ビールをあおっている。

「昼間から空港で缶ビールを飲む女子大生もいたもんだ」僕は呆れて、缶コーヒーをすする。

「何よ、うっさいわね」

 あの日――僕が田中さんの家に泊まった日以来、ミオコは家で夕食をとらず、毎日「宝船」で飲んだくれ、柴崎さんの車で送られて帰って来る日が続いていた。僕を部屋に飲みに誘うこともなかった。そして、あの日のことも全く訊いてこない。

 ミオコは、僕が田中さんに殺されるかもしれないと言ったが、もちろんそんなことはなかった。気がつくと、夜が明けていた――そう、何もなかったんだ。何も。

 田中さんは、研究室に復帰したそうだ。彼女の先輩の今井さんが、フィユ・ルジーに来て彼女の様子を教えてくれた。

 僕は悩んでいた。田中さんのことがとても心配だった。またどこかへ行ってしまうような気がして、落ち着かない。できることなら、彼女の傍にいてあげたい。しかし、いくら田中さんに信頼されているとはいえ、無職の男との同棲を彼女の両親が許すとは思えない。ひとまず、何とかして冴木先生のマインドコントロールを解き、研究室に戻らなければならない。

 しかし、僕にはもう一つ気がかりなことがあった。ミオコだ。果たして、彼女は井之上家の使用人を辞めることを許可してくれるのだろうか。

「来たわ」

 ハッとして顔を上げると、鍔の広い帽子を被った女性が手を振りながらこちらに向かって歩いてくる。

「久しぶり! って、ミオコ、またあなた昼間から飲んじゃって」

 ミオコのお母さんだ。サングラスを外すと、明らかにハーフの顔立ちだが、どこかにミオコやクレハの面影がある。

「お母さんまでソウイチロウと同じこと言わないでよ。どうせ空の上でワインでも空けてきたんでしょ? 顔赤いわよ」

「あら、そうかしら。そんなに飲んでないんだけどなあ。……あなたがソウイチロウね?」

「初めまして。村上惣市郎です。ミオコさんには本当にお世話になってます」

「ミオコの母のエミリです。よろしく」

 お母さんは、僕の顔をまじまじと見つめて、ニヤッと笑った。

「なるほどねえ。死んだ父の若い頃にそっくりだわね」

 ミオコのお祖父さんに、僕が似ている?

「ど、どこがよ! ぜんっぜん似てないわ!」

「ミオコ、おじいちゃんの若い頃の写真を見て、一目惚れしちゃったのよねえ」

「ちょっと! お母さん! もうっ!」

 ミオコはお母さんからスーツケースを奪い取ると、ずかずかと歩き出した。

「あれ、あなたたち、付き合ってるんじゃないの?」

 僕はお母さんの言葉に唖然とした。

「そ、そういう関係じゃありません」

「あら、そう。ふうん」

 お母さんは、ミオコの背中を見つめて呟く。

「あの子ったら……」


 その日の夜は、珍しくクレハも屋敷に帰ってきて、四人で夕食を一緒にとることになった。久々の食事なんだし、僕はいないほうが良いとも思ったのだが、お母さんが是非とも一緒に食事をしたいと言い出したのだ。しかも僕は使用人だ。お母さんご所望の「和食」を、僕が作ることになった。肉じゃが、出汁巻き玉子に茶碗蒸し、焼き魚に味噌汁。これでもかというくらい超ベタなメニューだ。

「凄いじゃない! 本当に料理が得意なのね、ソウイチロウ」

 お母さんは歓声をあげる。

「ああ、やっぱり和食よねえ。心に沁みるわ」

 日本人離れした顔のお母さんの言葉に、何だか不思議な違和感を感じる。

「惣市郎さん、話には聞いてましたが、本当に料理が上手なんですね」

 クレハも嬉しそうだ。

「ミオコは毎日こんな食事ができて、幸せね」

「……別に」

 ミオコは、出汁巻き玉子に少し箸をつけただけで、あとはひたすら冷酒をあおっていた。

 クレハは困ったように僕に目を合わせてくる。ミオコの奴、機嫌が悪そうだ。

「それで、お母さん。今回は何で日本に?」

 クレハは話を変えた。

「んー? 特に用事はないわ。久々に休みがとれたし、可愛い娘たちの顔を見たくてね。あと、お父さんのお墓参りにも行かないと。お盆にはちょっと早いけどね」

 ミオコのお父さん――つまり、井之上商事の先代の社長――は、十数年前に亡くなっている。

 すると、ミオコが突然立ち上がった。

「――ごちそうさま。部屋に戻るわ」

 結局、ほとんど何も食べていない。

「ミオコ、具合でも悪いの?」

 心配そうなお母さんに何も答えず、ミオコはダイニングルームを出ていった。

「惣市郎さん、ミオコとケンカでもしました?」

 クレハの問いに、僕は困った。

「うーん、どうなんだろう」

 すると、お母さんが苦笑する。

「どうやら、半分は私のせいかもしれないわね」

 クレハは、ハッとしてお母さんを見た。何か思い当たることがあるようだ。

「あの子、もしかして……」

 お母さんは、物憂げな表情で口に笑みを浮かべる。

「僕、様子を見てきます」

 何だか、彼女のことが心配になった。厨房に入って冷蔵庫からチーズを取り出し、パンの残りを袋に詰めると、彼女の部屋へと向かった。その時、廊下でお母さんに呼び止められた。

「ソウイチロウ、これをあの子に」

 僕は、お母さんから紙袋を渡された。

「あの、後片付けは僕がしますので、そのままにしておいてください」

「そんなこと気にしないで。それより、ソウイチロウ」

「はい?」

「あなたは、ミオコのことをどう思ってるの?」

 僕は焦った。実のお母さんに、いきなりそんなことを訊かれても。

「好きなの?」

「す、好きとか嫌いとかじゃなくて、その」

 そう。そうなんだ。僕は、ミオコのことをどう思ってるんだろう。しばらく考えて、僕はお母さんをまっすぐ見つめ、答えた。

「気になるんです。放っておけないんです、あの娘。……失礼します」

 二階に上がり、彼女の部屋のドアを叩く。

「ミオコ、チーズ持ってきたよ。一緒に飲もう」

 中から小さく声がする。

「来ないで。ほっといて」

「いいから開けなよ。お腹が空くと眠れないくせに」

 何も返事はない。

「ここに置いておくよ。パンもあるから。しっかり食べるんだよ」

 ドアの近くにパンとチーズが入った袋を置くと、僕はゆっくりとその場を離れた。すると、ドアが開く音がした。

 ミオコは、扉から少し顔を覗かせて僕を睨んでいる。やがて部屋から出てくると、袋を手に取った。彼女は、メイド服に着替えていた。口を尖らせている。気のせいか、目の周りが赤くなっているように見える。

「一緒に飲んであげても、いいけど?」

 部屋に入ると、アリエスがワインのボトルを持って小躍りしていた。

「久しぶりですねえ、ソウイチロウさん! 飲みましょ飲みましょ!」

 僕はアリエスからボトルを受け取ると、ミオコのグラスに並々とワインを注ぐ。ミオコは申し訳なさそうに僕に目をやると、グラスのワインを一口で飲み干した。

 厨房から持ってきたチーズをパンに挟んだものを、ミオコに渡す。彼女はそれにかぶりつくと、モグモグしながらアリエスを片手でムギュムギュし始めた。

「み、みおこさん、お、おて、おてやわらかに……」

 アリエスは泣きそうな声を出す。言いたいことがある時の彼女の癖だ。他のぬいぐるみたちが、その様子を固唾を飲んで見守っている。

「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」僕はたまらず彼女をたしなめる。

 ミオコはグラスにワインを注ぐ。もう一度飲み干して、彼女は俯いた。

「……出ていっても、いいのよ」

 また、ワインを注ぐ。

「あの娘のことが、心配なんでしょ?」

 その一言に、僕は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。

「それは……もちろん心配だよ」

「じゃあ、いいのよ。あの娘の近くにいてあげて」

「でもっ!」

 僕は、ミオコの肩を掴んだ。

「何というか、その、キミのことも心配なんだ!」

 ミオコは、驚いた様子で僕を見つめる。何だか、弱々しい。今までに見たこともないような不安そうな表情をしている。彼女らしくない。

 気がつくと、僕はミオコをベッドの上に押し倒していた。彼女は、抵抗することもなく、ただ僕のことを見つめている。

 アリエスをはじめとして、ぬいぐるみたちはいつの間にやらどこかへ消えてしまっていた。まったく、あいつら。

 僕は、ミオコに顔を近づけた。アルコールの臭いが一瞬漂い、すぐに柔らかなミオコの匂いに包まれた。メイド服の下に、彼女の胸の鼓動を感じる。

 その時だった。

「ばるばーる。ばるばーるばる」

 何だかよく分からない不思議な声に、僕もミオコも顔を赤くしてベッドから起き上がる。

「な、何? 何なの?」

 ミオコは顔を真っ赤にして辺りを見回す。よく見ると、さっきお母さんから預かった紙袋が、ガサガサと動いている。僕は、恐る恐る紙袋を開けた。

 そこから飛び出てきたのは――何だ、これは?

「ばるばるー。ここはハポンだべかー?」

 ぱっと見た感じ、オレンジ色のぬいぐるみだ。しかし、何とも言えない不思議な形をしている。ぼてっとした胴体に、気の抜けた顔。足らしきものはなく、胴体から上の方に四本の腕が伸びている。

「ばるー、セニョーラ・エミリの言ってた通り、ハポンはジメジメした国だべー」

「あなた、お母さんを知ってるの?」

「おや、セニョリータ。エミリの娘さんだべか? 知ってるも何も、おらはエミリに買われてここまでやってきただよー」

 腕のようなものを、ひょいひょい動かしながら喋る。何だか、宇宙人みたいだ。僕は何が何だか分からずにとりあえず説明した。

「さっき、お母さんから、ミオコに渡すようにって」

「うーん、お土産ってこと? それにしても、あんた何者? スペイン語を話してるようだけど」

 すると、そのオレンジ色のぬいぐるみは胸を張った。

「見て分からないべか? エスパーニャが誇る世界遺産、『サグラダ・ファミリア』のぬいぐるみ『バル』様だべ!」

 そう言われて、ミオコと僕はそのぬいぐるみをじっと見つめた。しばらく沈黙が流れる。すると、突然ミオコが大声で笑い出した。

「あー! はいはい! なるほどね!」

 彼女は腹を抱えてのけぞり、ベッドの上を転げ回り、布団をぼふぼふ叩いて爆笑した。言われてみれば、なるほど確かにサグラダ・ファミリアのように見える。建築家ガウディによる未完の作品、聖家族教会である。腕のようなものは、どうやら四本の塔のつもりらしい。

「かーわーいいー!」

 ミオコは「バル」を掴むと、仰向けに転がった。

「カワイイとは失礼な! ガウディおじさんに言いつけてやる! えーん」

 バルは不服そうだ。

「まあまあ。私はミオコ。よろしくね。ほら、みんなもいらっしゃい。新しい仲間よ。アリエス! セラーにスペインのワインあったわよね? 持ってきてくれる?」

 ふいに、ベッドの上が賑やかになってきた。ミオコは、すっかりいつもの調子を取り戻している。何だか、安心した。

「何よ?」

 彼女は不思議そうに僕を見つめる。

「いや、不覚にも、笑顔が可愛いとか思っちゃって」

 その瞬間、ミオコは僕の顔面めがけてバルを剛速球で投げつけてきた。

「出てけ! このオッサン! 変態!」


 次の日、高野から呼び出しがあった。場所はフィユ・ルジー。ミオコも一緒だった。

 フィユ・ルジーは休みだったが、店内にはクレハの淹れたコーヒーの匂いが漂っている。

 ソファの隣に座るミオコは、「バル」をぐにぐにしてニヤニヤしている。しかしメイド服を着ているわけではないのでバルは動かないし、何も言わない。どうやら、ミオコはバルを相当気にいったようだ。

 向かいに座っている高野は、テーブルに手を組んで深刻そうな顔をしている。

「どうしたんだよ、高野」

「あ、ああ、すまない」

 クレハが、コーヒーを差し出す。高野は、それを一口すすると、切り出した。

「次の仕事が、決まった」

 来たか。僕は唾を飲み込む。

「相手は、氷室か?」

「いや、まだ分からない。というか、正確に言うと、今回はまだ奴らの攻撃があると決まったわけではない。『念のため』の作戦だ」

 どういうことだろう? ミオコも釈然としない表情をしている。高野は、一度目を瞑って呼吸を整えた。

「明日の夜、総理の極秘会談が行われる。場所は『時縁』だ。君たちには総理の警護をお願いしたい」

「総理? 総理大臣の?」

 高野は頷く。

「それはつまり、氷室が総理大臣の暗殺を狙っている、っていうことか?」

「その可能性を否定できないんだ。非公式な会談なので、警護も極少数しか同行しない」

 ミオコは、バルをぐにぐにしながら目を細める。

「それで、会談の相手は?」

 高野は俯いたまま何も答えない。極秘会談というくらいだから答えることができないのだろう。

「申し訳ない。今は言えない。明日、時縁に行けば分かる」

 ミオコはため息をつく。

「まあいいわ。やるわよ。ね、ソウイチロウ?」

「え、うん」

 その時、携帯が鳴った。田中さんからのメールだった。「これから、プールに行きませんか?」という内容だ。彼女にプールに誘われるなんてもちろん初めてのことだ。慌ててオーケーの返信をする。

「どうした、村上」高野が怪訝そうな顔をしている。

「いや、別に、何でも」

 高野は、田中さんのマインドコントロールが解けたとは考えていない。仕事の前に彼女と会うなんて、高野には言えない。

 ふとミオコに目をやって、心臓が止まりそうになった。彼女は、細い目で僕を睨み、薄ら笑いを浮かべている。

「さーて、私、バレエのレッスンがあるから」

 彼女は僕の周りにふわりと良い香りを残して、店を出ていった。

 どうやら、ミオコにはメールが田中さんからだと分かったらしい。彼女に借りができたようだ。

 フィユ・ルジーを出ると、田中さんと待ち合わせをしている駅の改札に向かった。彼女は、落ち着かない様子でちょこんと立っていた。僕を見つけると、顔を赤らめて頭を下げてきた。

「と、突然ごめんなさい! 今井先輩にプールのチケットをもらって、その、今日しか休みがとれなくて……!」

 彼女は、白地に淡いグリーンのラインが入ったマキシワンピースを着て、麦わら帽子を被っている。彼女は、僕と目を合わそうとしない。彼女の家に泊まった日のことを思い出して、僕も何だか彼女と目を合わせられない。

「じゃ、じゃあ行こうか」

「はい!」

 残暑が厳しいこともあって、立川の昭和記念公園にあるプールは結構混雑していた。プールなんてめったに行かない僕は当然水着なんて持っている訳もなく、入り口の所にある売店で購入し、更衣室で着替える。そして出口のあたりで田中さんが出てくるのを待つ。何だか落ち着かない。田中さんの水着姿なんて、当然ながら見たことがないのだ。

 ところが、十分ほど経っても、なかなか田中さんが来ない。おかしいな、と思ったその時、ベンチの近くに一本だけ立った木の陰から、誰かが僕のほうをちらちら見ていることに気付いた。僕はゆっくりとその木に近づき、覗きこむ。

「ひゃうっ」

 田中さんだ。彼女の姿を見て、僕はドキッとした。フリルがついたライトピンクのオールインワンの水着。田中さんらしい、何とも可愛らしい水着だ。しかし、彼女は僕に背を向けたまま「あうう」と唸っている。

 僕は気恥ずかしさを堪えて、彼女の手をぎゅっと握った。

「行こう、田中さん」

 プールに入ると、次第に田中さんは落ち着いてきて、笑顔になった。

「冷たくて、気持ちいいですね」

 太陽は相変わらず強く輝いているが、水の中にいると、とても気持ちが良い。田中さんはメガネをしたままなので潜ったりできないようだが、それでも楽しそうだ。

 いきなり、田中さんが水をかけてきた。

「お決まりなので、あしからず!」

 確かに、お決まりもいいところだ。しかし僕も負けじと田中さんに水をかける。そんなベタなことをしたり、流れるプールやウォータースライダーを滑り落ちたりして、時が経つのを忘れて僕たちは遊んだ。

 遊び疲れた僕たちは、パラソルのある休憩場所で休むことにした。僕は売店に飲み物を買いに行った。戻ってきて、僕は慌てた。

「田中さん?」

 彼女は、体育座りの格好で頭を抱えて震えている。

「どうしたの、田中さん!」

「――て」

「え?」

「に……げて……むらかみさ……」

 逃げて? 一体どういうことだろうか。

 しばらく田中さんに寄り添っていると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「ご、ごめんなさい。ちょっと気分が悪くなっちゃって。もう、大丈夫です」

 彼女は微笑む。何だか分からないけれど、とりあえず安心した。

「もう少し休んだら、帰ろうか」僕は田中さんにジュースを手渡す。

「はい、でも、あの、あの……」

 田中さんは、プールの向こうを小さく指差した。見てみると、掘っ立て小屋のような建物がある。

「あそこに新しくお化け屋敷ができたみたいで、ちょっと、興味が……」

 彼女の目が輝いている。田中さんは、突然何かに興味をもつことがあり、決まってこのように生き生きとした目をするのだ。

 建物の中は薄暗く、ひんやりとしていて、お化け屋敷らしく低いBGMが流れている。人の気配はない。プールの営業期間に「ついで」で作ったような施設らしく、わざわざ入ろうとする客も少ないのだろう。

 薄暗い中に、墓石のようなものがいくつか見える。墓場のセットのようだ。自分から入りたいと言ったのに、田中さんはどうやら怖がっている様子で、僕の背後に隠れるようにして様子を窺っている。

 突然、地面に置かれた箱のような物から、何かが飛び出した。

「ひゃっ!」

 田中さんが、僕の腕にしがみつく。飛び出してきたのは、作りもののゾンビのような人形だった。僕の心臓が、バクバクし始めた。ゾンビに驚いたのではない。二の腕に、彼女の胸の柔らかい感触が伝わってきたからだ。ふと、ホームカミングデーで着ぐるみを着た時のことを思い出した。しかし、あの時とは比べ物にならない。僕は着ぐるみを着ていないし、田中さんは水着だ。

「た、田中さん……ちょっと」

「は、早く出ましょう」

 どうやら本気で怖がっているらしく、田中さんは涙声だ。彼女に密着されたまま、僕はひとまず出口へと向かう。外から見た時に小さい建物だと思ったけれど、やはり中も狭く、あっという間に出口の光が見えてきた。

 その時だ。

 僕は、急に横に引っ張られた。何が起こったのか訳が分からず、気が付くと、全身に温もりを感じていた。暗闇に目が慣れてきて、僕は驚いた。目の前に、田中さんの顔がある。彼女は、僕の体を抱き締めている。

 僕らの周りは、黒い布のような物で囲まれていた。仕切りのカーテンだろうか。

「え? た、たなかさ……」

 唇に、温かい感触があった。田中さんが僕に唇を重ねてきたのだ。頭の中が真っ白になった。彼女は、ゆっくりと唇を離した。そして、小さな声で言った。

「ダメですよ。声を出したら、見つかっちゃいます」

 そして、さらに信じられないことに、彼女は僕の股間に手を伸ばしてきた。

「ちょ、ちょっと、田中さん!」

 その時、田中さんの目を見て僕は息が止まりそうになった。

 彼女の目が、紫色に揺らめいている。

「バカな男」

 田中さんは吐き捨てるようにそう言い、嘲笑を浮かべる。その瞬間、息ができなくなった。あまりの苦しさに、その場にしゃがみこむ。

 やはり、氷室の洗脳は解けていなかったのか。彼女は、ゆっくりとしゃがみこむ。

「ここには誰も来ないわ。従業員もちょっとマインドコントロールさせてもらったし、入り口に『調整中』の札もかけてある。誰もこの建物に見向きもしないのよ」

 田中さんの話し方がおかしい。声色は田中さんのものだが、温かみのない話し方だ。完全に別の人格のようだ。

「まったく、カンペキに騙されちゃって。ていうか、何であの夜『私』のこと襲わないわけ? 据え膳食わぬはナントカっていうじゃない。あの時殺してあげてもよかったんだけど、何だかその気も失せちゃって。……どうする? せっかくだから今、しよっか?」そう言って、彼女はキャキャキャと楽しそうに笑った。

「やめろ……田中さんは、そんな、笑い方を、しない」僕は声を絞り出す。

 彼女はふいに真顔に戻り、僕の頬を強く引っ叩いた。

「何よ、ムカツク」

 ゆっくりと立ち上がって、彼女は言った。

「明日の夜、何かあるらしいじゃない」

 僕は彼女の顔を見つめる。

「なぜ、それを」

「さあ? なぜかしらね。ええと、ソーリダイジン?」

 彼女はわざとらしく唇に人差し指を当て、首を傾げる。

「私、ソーリダイジン、殺しちゃおっかなあ」

 あまりにも無邪気な言い方だ。水着姿に余計に違和感を覚える。

「やめろ、彼女を、田中さんを巻き込むな」

 彼女は顔をしかめて、腕組みして僕を踏みつけてきた。

「うっさいわね。これは、私の意志なの。全ては、氷室様のため」

 何とかして、彼女を止めなければ。僕は体を動かそうとするが、金縛りにあったように全く言うことを聞かない。

「さあて、じゃあそろそろ行くわね。熱中症になっても可哀相だし、空調だけは入れておいてあげる。ま、脱水か飢え死にするか、いずれにせよ長くはもたないでしょうけどね」

 彼女は再びしゃがみこむと、僕の目の前で言った。

「さようなら。『村上さん』」

 彼女は姿を消した。

 どう頑張っても、体が動かない。声も出ない。悔しさと、田中さんを再び失ってしまった悲しさから、涙だけが流れ続ける。

 何分、何時間経ったのか全く分からない。次第に気が遠くなり、何も考えられなくなった。薄れゆく意識の中で、ミオコの顔が浮かんできた。

 彼女の言う通りだったな。僕は、田中さんを助けられなかったうえに、ミオコも傷つけてしまって。どうしようもない男だ。できることなら、ミオコに謝りたい。

 ごめん、ミオコ。


「……るばる。ばるばる」

 何だろう。幻聴だろうか。

 ゆっくりと目を開ける。視界がぼやける。どうやら、まだ死んではいないようだ。再び目を閉じる。

 その時、顔の辺りに何かが当たったような気がした。しかも、何度も。バシバシと何かで叩かれているかのようだ。

「おい! しっかりするだよ!」

 どこかで聞いたことのある声だ。目を開けると、オレンジ色の宇宙人のようなものが顔の前で飛び跳ねている。

 君は、確か……と声に出そうとしたが、口が動かない。

「いただよ! セニョリータ・ミオコ! こっちに来てけれ!」

 地面から、足音が伝わってくる。

「ソウイチロウ!」

 懐かしい声だ。ずっと聞きたいと思っていた声だった。ふいに上半身が起こされ、人の温もりに包みこまれた。ふんわりと優しい匂いがする。

「よかった……」

 しかし、優しく抱き締められていたのも束の間、僕は乱暴に仰向けに押し倒された。目の前には、メイド姿のミオコが、鬼のような形相で覆い被さっている。彼女の目は真っ赤だった。

 そして、強烈なビンタを喰らった。今まで全く体の感覚がなかったのに、その痛みは鋭く頬に残った。そして次の瞬間、体の感覚が急に戻った。息苦しさもなくなり、今なら声も出せそうだ。

「ミ、オコ……ありがと――」

 しかし、何とミオコは再び頬を引っ叩いてきた。叩くというか、グーで殴られたんじゃないかと思うくらい、物凄く強力な一発だ。僕は思わず叫んで、地面に転がる。

「心配かけてんじゃないわよっ! この変態オタク! プールに沈めてやろうかっ?」

「ごっ、ごめんなさい! 申し訳ございません!」

 ミオコの剣幕に、僕は土下座して必死に謝る。いつの間にか、カーテンに隠れるようにしてミオコのぬいぐるみたちが集まり、クスクス笑っている。

「この落とし前は必ずつけてもらうからね! 今はとにかく時間がないわ。行くわよ! さあ、あなたたちもトランクに入って!」

 小屋の外に出ると、空は紺色に染まり、辺りは薄暗くなっていた。プールの営業時間を過ぎているのか、人の姿は見当たらない。時計を見ると、七時を回ったところだ。

「もうこんな時間か……」

 すると、ミオコは振り返って怒鳴った。

「あんた、また勘違いしてるわね? あんたがあの娘とここに来たのは、昨日! 丸一日、気を失ってたのよ!」

 そんな馬鹿な。

「ていうことは」

「そうよ! 今日は『仕事』の日なの! 総理大臣の会談が始まるまで、あと一時間もないわ! このバカ!」

 プールの出口の方から、誰かの声が聞こえる。

「見つかったか!」

「いたわ! どうやら怪我はないみたい」

 暗くてよく分からないが、どうやら高野のようだ。ミオコはトランクを片手にずかずかとプールサイドを歩いていく。何だかブツブツ言っているようだ。

「大体何よ、せっかくプールに来たのに、泳がずに帰るなんて。信じられない。まったくもう」

 彼女は、振り返らずに続ける。

「そうだわ、ソウイチロウ。今度は私と来なさい。ここに」

 僕は、ミオコの言葉に多少戸惑った。

「そ、そうだね。ミオコの水着姿も見たいし」

 その瞬間、ミオコはぴたっと立ち止まり、トランクをフルスイングして僕をプールに跳ね飛ばした。

「調子に乗るなあっ!」


 高野の運転する車に乗って、五分も経たないうちに車はどこかの施設の敷地内に入っていった。門のところで警備員らしき人が敬礼をしている。

「時縁に向かうんじゃないのか?」

 高野は答える。

「車は駄目だ。首都高は故障車が続出で、話にならないほど渋滞している。その影響で一般道も大渋滞だ。都心に向かう交通網は完全にマヒしている。恐らく、氷室の仕業だろう」

 車を降りると、大きな音が聞こえてきた。建物の入り口の所に、整備士のような格好をした人々が何人かいて、さらにその隣に立っていたのは、白衣姿の検見川さんだった。

「所長、すぐに飛べます」

 彼女は僕に目を向けることもなく、高野と一緒に建物の中に入っていく。僕は、入り口に掲げられた看板を見た。

「警視庁航空隊、立川飛行センター……?」

 細い通路を通って外に出ると、音がひときわ大きくなった。そして目に飛び込んできたのは、ヘリコプターだった。広いヘリポートの中央に、ローターが回転している少し大きめのヘリが一機停まっていて、職員に先導されて高野が向かっていく。

「村上さんっ!」検見川さんが、ヘリの音に負けないように大声で僕を呼び止める。彼女は、プラスチックの小さな容器を差し出してきた。

「例の薬の改良版! あと、着ぐるみはもう積んであるから!」

 彼女はちらっとミオコを見ると、すぐに僕に視線を戻し、相変わらず無表情で、腰に手を当てて言う。

「ほら、さっさと乗って!」

「あ、ありがとう、検見川さん」

 ローターの起こす強烈な風に逆らい、ヘリに向かう。それにしても、ヘリコプターに乗ることになるとは。もちろん初体験だ。高野に続いてミオコと僕が乗りこむと、間もなくヘリは離陸した。下で見送る検見川さん達の姿が、みるみる小さくなっていく。

 遠くに、新宿副都心の夜景が見える。とても綺麗だ。

 窓に張り付いて景色に夢中になっていると、隣に座るミオコが何かを差し出してきた。竹で編まれた弁当カゴのようだ。顔はそっぽを向いている。

 カゴを開けると、中にはサンドイッチが入っていた。急激に空腹感が生まれてきた。そういえば、丸一日何も口にしていない。

「さっさと食べなさいよ。すぐに着いちゃうわよ」

「あ、ありがとう」

「か、勘違いしないでよ。作ったのはお姉ちゃんだからね」

 サンドイッチにかぶりつく。クレハに感謝しながら、無我夢中で口に詰め込む。

「ったく、もっと落ち着いて味わって食べなさいよ! ほら、水!」

 ミオコからペットボトルを受け取ると、サンドイッチを喉に流し込んだ。そして、検見川さんからもらった薬を飲む。高野は僕の耳元で大声で言った。

「総理が時縁に入店したそうだ。このヘリは間もなく警視庁本部に到着する。そこからすぐに緊急車両で時縁まで向かう。時間がないから、今のうちに着ぐるみを着ておいてくれ!」

 ミオコの手を借りて、着ぐるみを着始める。田中さんが作ってくれた着ぐるみだ。

「それにしても、あの人、相変わらず無愛想よね。なんか苦手だわ」

 どうやら、検見川さんのことを言っているらしい。

「でも彼女、科学者としてはかなり有能だよ。確かにちょっと癖はあるけど」

「ふん、まあ、ねえ」

 ミオコは何だか機嫌悪そうに、クマの頭の部分を乱暴に僕に被せた。その瞬間、目の前が真っ白になる。不安や緊張がなくなり、呼吸も心臓の鼓動も遅くなっていく。気がつくと、視界がぱっと開けた状態になっていて、着ぐるみを着ている違和感が全く無くなっていた。

「凄い……」

「何、そんなに調子いいわけ?」ミオコは興味深そうに僕の顔を覗く。

「うん。井の頭公園の時よりも」

 恐らく、検見川さんの改良した薬のおかげだろう。

「着ぐるみだけじゃなくて、薬にも愛がこもってるのねえ」

「え? 何て?」

 ミオコは、頬杖をついて窓の外を眺めている。

「どうせサンドイッチには……」

 ヘリの音が大きくて、ミオコの声がよく聞き取れない。

「間もなく警視庁本部に到着する!」

 高野の声に、僕は窓の外を見下ろした。ドラマでよく出てくる、見覚えのある建物が見える。屋上に「H」と書かれたヘリポートが見えたかと思うと、ヘリはたちまち高度を下げ、驚くほどスムーズに着陸を終えた。高野の後について足早にヘリポートを後にし、業務用と思われる大きなエレベータに乗り込む。

 地下一階に着くと、そこは駐車場だった。前後をパトカーに挟まれて、黒塗りの車が停まっている。僕とミオコが後部に乗り込み、高野が助手席に乗ると、運転手の男性が無線機のようなものを手に取り、何か指示を出した。前のパトカーが赤色灯を回し始め、発進する。僕たちの乗る車も、後に続く。

 坂道を上り、地上に出ると、パトカーはサイレンを鳴らし始めた。混雑する大通りを避け、車列は銀座の細い路地をぐんぐん進む。銀座の街は、多くの人で賑わっていた。サイレンを鳴らしながら中央通りを横切る様子を、通行人は何事かといった表情で見つめている。

 何度か大通りを横切り、人気の少ない細い路地を進んだあたりで、パトカーはサイレンを止め、赤色灯を消した。少し先に、見覚えのある建物がある。

「時縁だ」

 車の時計を見ると、八時前だった。立川のプールを出てからおよそ三十分。確かに、車だったらこんなに早く来れなかっただろう。

 先導していたパトカーは信号を曲がり、どこかへ走り去った。僕たちの乗る車だけが、ゆっくりと時縁の脇に停車した。道路には、前に来た時と同じように黒塗りの車がずらっと並んで停まっている。しかし、総理大臣が中にいるにしては、警察関係の人間の姿が見当たらない。

「裏の勝手口から入る。行くぞ」

 ミオコと僕は車を降りると、高野に続いて素早く路地裏に入った。板塀に沿って店の裏側に回ると小さな扉があり、その前に女将が立っている。僕たち三人が中に入ると、女将は扉を閉めた。

「高野様、会談の準備はできております。こちらへ」

 女将の後に続いて、板張りの廊下を奥へと進む。前に来た時とは違い、どこの部屋もひっそりと静まり返っている。総理大臣が来るから、店自体は休業しているのかもしれない。とすると、外に停まっていた黒塗りの車はダミーということか。乗っているのは警察官かもしれない。

 二階に上がり、少し進むと、女将が振り返った。

「こちらでございます」

 高野は頷くと、僕たちを見た。

「俺は会談に臨席する。君たちは、こっちの部屋で待機していてくれ」そう言って高野が障子戸を開けると、座卓の上にノートパソコンが一台置かれている。

「店の入り口や廊下、会談する部屋の中など数か所に、カメラを設置してある。映像は、そのパソコンでリアルタイムに確認できる。何か異状に気づいたら、俺に知らせるとともに行動を開始してくれ。頼んだぞ」

 高野は女将に何か耳打ちすると、部屋を出ていった。

 僕はパソコンの前に座り、画面を眺めた。確かに、防犯カメラのような映像が流れるウィンドウがいくつも開いている。

 突然、ミオコが畳の上にごろんと横になった。

「あー、暇ね」

 暇ね、って、これから始まるところだろう。と突っ込もうとした時、女将がクスクス笑い出した。

「澪子さま。念の為に申し上げておきますが、先ほど高野さまから『虎ノ門を飲ませるな』と仰せつかりましたので、お許しください」

 ミオコは驚いた顔をしてガバッと起き上がった。

「なっ! の、飲むわけないでしょ! 仕事中なのよ?」

 どうやら図星のようだ。ミオコの慌てっぷりに、思わず吹き出してしまう。

「ね。あんた、今笑ったでしょ? え?」

 ミオコは着ぐるみの襟元を掴んで迫ってくる。しかし、着ぐるみを着ているからか、いつもほど恐怖心を感じない。

「はいはい。会談が始まりますよ。ミオコさん」

 僕はパソコンの画面に視線を戻す。

「きーっ! 腹立つ! 覚えてなさい!」

 着ぐるみを脱いだ後のことに若干の不安を覚えながら、僕はパソコンの画面を見つめた。

 ウィンドウの一つに、会談場所と思われる映像が流れている。そこには、見覚えのある男性の姿があった。総理大臣だ。向かいに二人の人物が座っている。一人は高野だ。そしてもう一人は、どうやら女性のようだ。

「ん?」

 どこかで見たことがあるような気が……。

 次の瞬間、ミオコがパソコンの画面にしがみついた。

「お母さんっ?」

 そうだ。この人、ミオコのお母さんだ。

 音声は聞こえないが、彼女も総理も笑顔だ。和やかな雰囲気で会談は始まったようだ。

「何で、よりによってお母さんが……」ミオコは困惑の表情を浮かべている。

 一昨日一緒に食事をした時とは違い、お母さんはある種のオーラというか威厳に満ちている。日本を代表する総合商社「井之上商事」の欧州現地法人社長なのだから、当然といえば当然であろう。総理との会談も珍しいことではないのかもしれない。しかし、なぜ極秘会談なのだろうか。そして、なぜ氷室がこのタイミングで襲撃してくる可能性があるのだろう。極秘会談ということもあって、身辺警護のレベルもそれほど高くなさそうだ。氷室はそこを狙っているのだろうか。

 ミオコは再び畳に寝転がる。

「大体、本当にアイツは来るのかしら」

 僕は、ふいに思い出した。田中さんが言っていたことを。

「氷室は、田中さんに総理大臣の暗殺をさせる気なんだ」

「彼女、やっぱりマインドコントロールが解けてなかったのね」

 僕は、黙って頷いた。

「あんたって、本当にバカ」

 イヤホンを耳に着けて、ミオコは僕に背を向けた。

「寝る。何かあったら起こして」

 よくこんな状況で寝れるものだ。僕はため息をつく。

 会談が始まって三十分が経った時だ。総理が立ち上がった。ミオコのお母さんと高野は、座ったままだ。部屋を出ると、SPと思われるスーツ姿の男性二人とともに、廊下を歩き出した。仲居さんが先導している。トイレにでも行くのだろうか。

 その瞬間、僕は思わず声を上げてしまった。

「田中さんっ!」

 ミオコはすっと起き上がり、イヤホンを外した。

「彼女はどこ?」ミオコが画面を睨む。さっきまでとは打って変わって、鋭い目をしている。僕は画面を指差した。

「この仲居さん……彼女だ。間違いない!」

 総理を先導する仲居さんは、まぎれもなく田中さんだった。背が小さく、ふんわりボブの黒い髪。メガネをしていないが、雰囲気が田中さんだ。僕は画面に釘付けになった。着物姿の田中さんを初めて見たからだ。何だか、とても似合っている。

 すると、ミオコに思いきり引っ叩かれた。

「見惚れてないで、行くわよ!」

 ミオコはトランクを持ち、勢いよく障子戸を開けた。その音が聞こえたのか、隣の部屋から高野も飛び出してきた。

「どうした!」

「田中さんだ! 総理が危ない!」

 すると、突然高野の背後に白衣姿の男が現れた。男の手にはナイフが握られており、彼に襲いかかる。

「高野! 後ろだ!」

 彼は間一髪ナイフをかわすと、男に人差し指を向けた。高野の手が眩く光る。次の瞬間、衝撃音とともに男が吹き飛ばされた。ユキエとの戦いの時に見た、あの武器か。

 息をつく間もなく、廊下の向こうから白衣姿の男たちが走り寄ってくる。

「ソウイチロウ! あの娘は私に任せて! あいつらを始末したら来なさい!」

 ミオコは、田中さんと総理の向かった方向へと走り出した。

「ミオコ!」僕は彼女を呼び止める。

「何よ!」

「その……彼女を、田中さんを、助けてくれ!」

「分かってるわ! あんたこそ、お母さんを頼んだわよ!」

 ミオコは僕の目を見て小さく頷く。廊下の角を曲がり、彼女の姿は見えなくなった。

「高野! ミオコのお母さんを頼む!」

「分かった!」

 高野が部屋に入るのを確認すると、僕は迫って来る白衣の男たちに向かって走り出した。

「うおおおおっ!」

 男たちが振りかざすナイフを避けながら、確実に打撃を加えていく。井の頭公園の時よりも、体がよりスムーズに動く。着ぐるみの効果ではあるが、男たちの動きがスローモーションのように見える。彼らは低く呻いて、その場に崩れていく。

 すると、最後尾にいた男が慌てて腰から銃を抜き、引き金を引いた。

 弾が見える。弾道が見える。何か、こんな映画を見たことがあるような気がする。僕は三発の弾丸を軽く避けながら、男との間合いを詰めていく。そして男の手を蹴り上げた。拳銃が弾き飛ばされ、男は目を見開いて呆然としている。すかさず男の腹に突きをくわえると、男は情けない声を上げながら、その場にうずくまった。

 白衣の男たちが十人ほど。全員、ピクリとも動かない。それにしても、こいつら、いつの間に店の中に入り込んだのだろうか。

 会談が行われていた部屋に入ると、高野が僕に向けて「指」を向けてきた。背後にはお母さんが隠れている。しかし、怖がっている感じはない。凛とした表情のままだ。

「奴らは片付けた」

 高野は一息ついて指を下ろす。

「しかし、信じられない強さだな」

「あいつら、まだ他にもいるかもしれない。ミオコのお母さんを安全な場所へ」

「ああ。しかし、周辺にいる警護の人間が、誰も応答しない。恐らく車に乗っている警官も含めて全員やられてしまったのだろう。応援は要請したが、危険な状況だ」

 僕は耳をすませた。辺りはしんと静まり返っている。

「よし、ミオコに合流しよう。高野、お母さんをガードしながらついてきてくれ!」

 高野は頷く。すると、ミオコのお母さんが口を開いた。

「あなた、ソウイチロウね? 可愛らしいクマさんだこと」

 僕はポリポリと着ぐるみの頭を掻く仕草をした。お母さんはフフ、と笑う。

「巻き込んでしまってごめんなさい。でも、あなたは宇宙を救う存在なの」

「宇宙……」

 そういえば、ぬいぐるみの長老もそんなことを言っていたな。

「あの、一体僕が何を……」

 お母さんは、ぎゅっとクマの手を握ってきた。

「そのためにも、ミオコを、あの子を守って」

 そうだ。宇宙がどうのこうのじゃなくて、ミオコが危ない。僕は、彼女を守らなければならない。

「任せて下さい。高野、行くぞ!」

 廊下の角を左に曲がり、さらに右に曲がると、男が二人倒れていた。総理と一緒にいたSPだ。高野が駆け寄る。一人は気を失っているようだが、もう一人は喉を押さえて苦しそうに小さく唸っている。

「おい、総理はどこだ!」

「……な、仲居が……」SPが廊下の先を指差す。誰もいない。どこへ行ってしまったんだろうか。

 廊下を進むと、一階に降りる階段が見えてきた。

「総理を拉致して逃げたのかしら」ミオコのお母さんは高野に目を向けた。高野は少し考えているようだったが、何かを思い出したように走り出した。

「おい、高野!」

「この先に、大宴会場がある。そこかもしれない!」

 高野の後についていくと、広々とした宴会場があった。

 入り口近くに、ミオコの姿があった。彼女の周りに、ぬいぐるみが浮かんでいる。

「ミオコ!」

 彼女は、床の間のほうを睨んでいる。視線の先には、仲居姿の田中さんが立っていた。田中さんは僕を見ると、ニヤリと笑った。

「あら、生きてたの。『村上さん』」

 彼女の背後で、総理大臣がぐったりと座りこんでいる。そして、その傍らにいる男の顔を見た時、心臓が大きく波打った。

 細いメガネの奥に鋭い眼光。整った目鼻立ち。間違いない。氷室だ。

 高野は氷室に「銃口」を向ける。

「氷室……」

 氷室は、まるで旧知の友に出会ったかのように微笑んだ。

「久しぶりだね、高野くん。二年ぶりか」

「お前、一体何を企んでるんだ」

 氷室は失笑して、ゆっくりと総理大臣の喉元にナイフを突きつける。

「企んでいるだなんて、とんでもない。僕はただ、こちらの総理大臣を殺すように『頼まれた』だけですよ」

「頼まれただと? 一体誰に……」

「お分かりですよね? 井之上社長」

 氷室の言葉に、全員がミオコのお母さんに目を向ける。彼女は固い表情で口を開いた。

「――不易会の革新派、かしら」

 その言葉に、高野は驚いているように見えた。

「そうだったのか……!」

 フエキカイとは、一体何なのだろう。僕はミオコを見る。彼女は僕に目を向けると、首を傾げた。どうやら彼女も知らないようだ。

「偉い方々の考えることには、全く興味はないのだがね。ああ、そういえば、そろそろマフリの部下から連絡が来る頃ではないかな?」

「何? どういう意味だ」

 その時、電話の着信音が鳴った。高野の携帯電話のようだ。彼は「銃口」を氷室に向けたまま、胸ポケットから携帯を取り出した。

「どうした?」

 高野の顔が、みるみる青ざめていく。

「何だって?」

 彼の体が小さく震えている。一体誰からだろう。

「……分かった。気をつけてくれ」高野はゆっくりと電話を切った。

「高野、どうしたんだ」

 彼は黙ったままだ。すると、氷室と田中さんがクスクス笑いだした。

「マフリが襲撃されている、という電話じゃないのかい?」

 氷室の言葉は衝撃的だった。

「そ、そうなのか、高野」

「……ああ。検見川さんからだ。マフリが自衛隊員に占拠されたらしい」

 自衛隊? あの白衣の男たちじゃなくて?

「そ、それで、検見川さんは無事なのか?」

 高野は答えなかった。代わりに氷室が言う。

「素直に従えば危害は加えないさ。何しろ有能な人材ばかりだ。しかし、抵抗する人間は容赦なく殺すように指示は出してある」

「氷室、お前!」高野は「銃口」を氷室に向けて叫んだ。

「まあまあ、落ち着いて。総理大臣も吹っ飛んでしまうよ。というか、『そんなもの』が僕に通用するとでも思っているのか?」

 総理大臣を盾にされている以上、どうすることもできない。

「さて、まずは自分の目的を果たすことにしよう。咲、代わってくれないか」

「はい、氷室さま!」田中さんはニコッと微笑んで、可愛らしい声で返事をした。「咲」だって? くそ、田中さんを馴れ馴れしく呼び捨てにしやがって。何だか腹が立つ。

 田中さんは総理大臣の背後に回り込むと、首の近くに両手をかざした。その瞬間、総理大臣は苦しそうな表情を浮かべた。

「うっ! うううっ!」

「だいじょーぶ、死にゃしないわよ」田中さんは、楽しそうに笑う。きっと、彼女が入院していた時に護衛の男の首を絞めたのと同じやり方だろう。

「ミオコ」

 氷室に名前を呼ばれた彼女は、はっとして彼を睨んだ。

「僕の美しいミオコ。いや、『ミオ』と呼んでいいかな?」

「はあっ? キモイこと言わないでくれる? 私がいつあんたの所有物になったのよ? ていうかその呼び方やめて。マジキモい」

 いつものミオコ節なのだが、気のせいか声に緊張感がある。氷室は高い声で笑うと、大きく腕を広げた。

「それでこそ僕の『ミオ』だ。調教のし甲斐があるというものだよ。さあ、こっちにおいで」

「おいこら! あんた、人の親のいる前でよくそんなことが言えるわね!」

 ミオコは頬をピクピクさせている。ガブリエルやステラは、今にも氷室に飛びかかろうという勢いだ。

 氷室は苦笑を浮かべると、田中さんに視線を送った。彼女は嬉しそうに頷く。

「うっぐああああああっ」

 総理大臣の苦しそうな声が響く。

「分かった。分かったからっ!」ミオコはそう叫ぶと、床の間のほうに向かって歩き出した。

「ダメだ、ミオコ!」僕は彼女を呼び止める。彼女は振り返ると、つかつかと僕に歩み寄り、着ぐるみの首筋をぐっと掴み上げた。

 彼女は僕に顔を寄せて囁く。

「プールの約束、忘れるんじゃないわよ」

 今まで聞いたことのない、とても優しい口調だった。僕は驚いて、着ぐるみ越しに彼女の顔を見た。今まで見たことのない穏やかな表情で、優しく微笑んでいる。

「ミオコ……」

 彼女はキッと表情を戻すと、氷室の方へズンズンと歩き出した。

「ミオコちゃん!」ぬいぐるみたちは、おろおろとしている。

 僕は、お母さんに目をやった。

「お母さん……」

「大丈夫。心配ないわ」彼女は、娘の後ろ姿をじっと見つめた。

 ミオコが氷室の前に立つ。腰に手を当て、鋭い目つきで氷室を睨みつけている。氷室は下品な笑みを浮かべた。

「おお、近くで見ると、本当に美しい。この黒髪、まるで芸術作品のようだ」

 氷室がミオコの髪に手を伸ばす。すると、ミオコは乱暴にその手を振り払った。

「触るな」

 氷室は、より一層嬉しそうにニヤニヤ笑う。

 再び、総理大臣の叫び声が響いた。田中さんが力を加えたのだろう。憔悴しきった顔で、がっくりと体を丸めている。

「氷室様、このままだと、この人死んじゃいますよぉ」田中さんは口元に手を当て、わざとらしく困った顔をしてみせた。

 ミオコは舌打ちをして、顔を背ける。氷室は、再び彼女の髪に手を伸ばした。今度は拒絶しない。氷室の手は、ミオコの真っ直ぐな髪を頭頂部からゆっくりと撫でる。

「何という触り心地だ。ああ、ワインを傾けながら、ずっと撫で続けていたい」

 正気とは思えない言葉だ。この氷室という奴、何を考えているんだ。

 氷室はしばらく髪の表面を撫でまわすと、今度はうなじに手を伸ばした。ゆっくりと首元を撫で上げているように見える。ミオコは目を閉じて顔をしかめる。どうやら、耳を弄んでいるようだ。

「やめろ……!」

 僕は思わず走り出していた。すると、ミオコが叫ぶ。

「来ないで!」

「で、でも!」

 このまま黙って見ていろというのか。

 氷室は、胸元から何かを取り出した。カプセル錠のようだ。

「さあ、ミオ、口を開けてごらん」

 しばらくミオコは口を閉じ、氷室を睨んでいたが、やがて少しだけ口を緩めた。氷室は、彼女の口にカプセル錠を滑り込ませる。

「飲み込みなさい」

 しかし、ミオコは口元に笑みを浮かべたままだ。氷室は顔色を変え、ミオコの首を掴んだ。

「何をやっている? 早く飲め、飲み込め!」

 その時だ。

「ひゃうっ!」

 聞き覚えのある、可愛らしい声が響いた。これは、田中さんの声だ。見ると、彼女の顔が何やら赤くグチャグチャになっている。

「ちょ、や、何よこれっ! と、トマトじゃないのっ」

 彼女は慌てふためきながら、必死で顔を拭う。すると、彼女にトマトの集中砲火が浴びせられた。

「ばーるばーる」

 見ると、バルが四本の手(?)でトマトを投げ続けている。

「これが、バレンシアの伝統行事『ラ・トマティーナ』だべ! 燃えるべさー!」

 テレビで見たことがある。スペインのトマト祭りだ。田中さんの全身が、みるみる赤く染まっていく。

「き、気持ち悪いっ! やめてーっ」

 全ては一瞬の出来事だった。

 氷室が呆然としているその隙に、ミオコは彼の手を振り払い、口からカプセルを吐き出した。ぬいぐるみたちが、一斉に田中さんめがけて突っ込む。

 僕は氷室めがけて思い切り体当たりをかました。氷室もろとも床の間の壁に激突する。

「総理!」

 視界の端で、高野が総理を救出したのが確認できた。

「貴様!」

 氷室は目を見開いて僕の首を絞めつけてくる。物凄い力だ。着ぐるみを着ている僕は相当のパワーを持っているはずだが、それでも苦しい。やはり、氷室は人間離れした能力をもっている。これが術場の力か。

 不意をついて氷室を突き払い、逆に氷室にのしかかる。かと思うと、今度は氷室に押さえつけられる。ごろごろと宴会場の畳の上を転がり、座椅子や座卓を跳ね飛ばしていく。

 僕は、叫び声をあげて氷室の腹をめがけ思いきり突きを放った。氷室は声にならない声を出して、その場にうずくまる。

 息を整えて立ち上がり、周りの状況を確認する。

 高野、そしてミオコのお母さんが、総理に肩を貸してゆっくりと宴会場を出ていこうとしている。

 田中さんの方を見ると、いつの間にか周りをぬいぐるみが囲み、田中さんは膝をついて俯いている。低い呪文のような声が響く。長老の声だ。ユキエの時と同じく、淡く光るぬいぐるみ達によって魔法陣が出来上がっていた。

 ミオコは、凛とした表情でその様子を見守っている。ポシェットからアンプル瓶を取り出す。

「ミオコ、大丈夫か!」

「ええ、こっちは任せて! あんたは、そのどうしようもないクズ野郎を何とかしなさい!」

 いつもと変わらないミオコ節を聞いて、何だかとても安心した。彼女を、失うわけにはいかない。何だか、心の底からそう感じる。

 僕は、呻きながら立ち上がろうとする氷室に顔を戻した。

 その時だ。背後で、バサッと音がした。見ると、ミオコが倒れている。

「ミオコっ!」

 彼女に駆け寄り、抱き起こす。顔には汗が浮き出ており、呼吸も荒い。

「大丈夫か?」

 次の瞬間、魔法陣を作っていたぬいぐるみたちが、ぼたぼたと畳に落下していった。みんな苦しそうに呻いている。長老も、ごろんと横たわってしまった。薄汚れたモップにしか見えない。

 田中さんの低い笑い声が響く。

「危なかったわ」

 突然、体が宙に浮いた。氷室に着ぐるみの首のあたりを掴まれてしまった。そして、物凄い勢いで放り投げられた。中庭に面したサッシ窓を破り、そのまま池の中に突っ込んでしまった。弾みで、着ぐるみの胴体が一部裂けてしまったようだ。急に、体中が痛みに襲われる。苦痛に耐えながら池から這い上がり、宴会場に戻る。

 氷室と田中さんが、横たわるミオコを見下ろしていた。

「どうやら口の中でカプセルが割れて、微量ながら薬が体内に吸収されたようだな」

「手間取らせてくれるわね」田中さんは不機嫌そうに腕を組みながら、ミオコの頭を踏みつけた。

「やめろ、咲。彼女のほうはもういい。総理を追うぞ」

 氷室は、畳に這いつくばる僕を見て笑みを浮かべた。

「君とはひとまずお別れだ。ミオは、いずれ君のもとを去るだろう。咲と同じように」

 そして、氷室は宴会場の出口へと歩き出した。田中さんも不敵な笑みを浮かべると、氷室の後を追っていった。

「ミオコ……」

 僕は、力を振り絞ってミオコの元へと這っていった。彼女は、必死に体を起こそうとしている。美しい黒髪は乱れ、顔はよく見えない。

「私はいいから……。総理が危ない。早く追いかけて」彼女は苦痛に顔を歪めながら、苦しんでいるぬいぐるみたちを一つずつトランクに入れ始めた。

「ミオコ、お前……」

「ええ。この子たちの力が弱まってしまったわ。私にも、何が起こったのか分からない」

 ミオコは、自分の手のひらをしばらく見つめていた。やがてグッと握ると、僕の方を向いた。凛とした表情を保ってはいるが、何だかとても弱々しい感じがする。

「ソウイチロウ」

 返事をしようとすると、ミオコは僕に抱きついてきた。ふわりと優しい匂いに包まれる。僕は、ゆっくりと彼女の背中に手をあてた。

「もし、私の様子がおかしくなったら、私から離れるのよ。じゃないと、あんたを殺しかねないから」

「何を、言ってるんだよ」

「あいつの薬、少し口にしてしまったみたい。さすがの私でも、何だか不安なの」

 僕はたまらず彼女を強く抱きしめた。

「君まで失って、たまるもんか……!」

 ミオコは何も言わなかった。ただ、胸の鼓動が伝わってくる気がした。いや、自分の鼓動だろうか。突然、彼女は僕を突き離した。

「ま、そうよね。私の水着姿、見れなくなっちゃうし?」

 精一杯の明るい声で、彼女は言った。ツンと澄ました顔をしている。僕は思わず笑ってしまった。

「少しは元気出た?」

 そういえば、いつの間にか体の痛みがひいている。

「よかった。私にも少しは『力』が残っているみたい」ミオコはニヤッと笑うと、僕の肩をパーンと叩いた。

「さあ、行け、ソウイチロウ! 総理を守るのよ!」

 僕は大きく頷いて、立ち上がった。宴会場を出て、氷室の後を追う。

 店の玄関があるフロアに、高野が倒れているのを見つけた。彼に駆け寄る。

「高野! 大丈夫か!」

 高野は腹を押さえて呻いている。

「氷室が……総理を……!」彼は震える指で玄関のほうを差した。

 僕は玄関から外に飛び出た。店の前の道路に通じる石畳の通路を曲がると、辺りはまるで昼間のように明るかった。どうやら、投光器のようなもので照らされているようだ。手で光を遮り、目を凝らす。道路上には、警察の特殊部隊と思われる数名が銃を構えているのが分かる。そして、その手前に、四人の影が見えた。一人はミオコのお母さんだ。ゆっくりと出口に向かって歩いていく。その隣を、まるでお母さんを介抱するかのように付き添っているのは、田中さんだ。そして、その隣には、もう一人の肩を借りて足を引きずりながら歩く総理大臣。何やら声にならない声をあげている。それにしても、何かがおかしい。目が慣れてきて、僕は何かがおかしいことに気付いた。

 総理に肩を貸す男の後ろ姿。それは、氷室のものではない。あれは、そんな、馬鹿な。

「待てっ!」

 男が振り返ると、心臓が止まったかのような感覚に襲われた。笑みを浮かべるその男は、まぎれもなく高野だった。

「そんな……」高野は、店の中にいたはずだ。その時、玄関の奥から悲鳴のような声が響いた。

「村上っ! そいつは、そいつは氷室だっ!」

 どういうことだ。確かに、氷室と高野は背格好が似ているような気もするが、それにしてもあの男は高野そのものだ。

 武装した隊員たちが、ゆっくりと銃を下ろす。どうやら、総理を介抱しているのが政府の関係者だという連絡が届いたのだろう。

 僕は、ふと思い出した。田中さんが入院していた病院で、初めて日下部刑事と真木刑事に会った時のことを。

『これまでに二十人以上の女性が行方不明になっているんだけど、それぞれの現場で得られている防犯カメラの映像や指紋、DNAも何もかも、てんでばらばらなのよ』

 そうか、これも氷室の「能力」なのか。俄かには信じ難いが、彼は自分の姿格好を全く別の誰かのものに「変化」させることができるのだろう。しかも、まさかとは思うのだが、「細胞レベル」で変化させることができるのかもしれない。ということは……。

 彼は、胸ポケットから細長い物を抜き取った。それは、投光器の光に照らされて、鈍く輝きを放った。

「待て! 氷室!」

 隊員たちは、慌てて銃を構え直す。しかし、手遅れだった。氷室は、まるで指揮者のように滑らかに腕を振った。間もなくして、総理の首から液体が滴り落ち、次第に勢いを増していく。石畳に、赤い血だまりがみるみる広がっていく。

 氷室の手から、ナイフが滑り落ちた。カツンと音がして、ナイフが石畳に落ちる。そして、総理は氷室の肩から崩れ落ちていった。

 気が付くと、田中さんが両手を大きく横に開いていた。振り返って僕を見ると、クスッと微笑んだ。

「もう会えないかもね。村上さん?」

 次の瞬間、猛烈な耳鳴りに襲われた。耳の奥の方が、とてつもなく痛い。立っていられない。思わずその場にうずくまる。何とか顔を上げて前を見ると、その場にいる隊員たちも全員頭を抱えて悶絶している。中には、地面に転がってもがいている者もいる。田中さんの「力」か。

 その中を、高野の姿をした氷室が悠々と歩いていく。田中さんは、ミオコのお母さんを無理矢理引っ張るようにして氷室の後についていく。ほどなくして、一台の黒塗りの車が、店の入り口に横付けされた。氷室は滑らかな動作で後部座席に乗り込む。田中さんは、ミオコのお母さんを後部座席に押し込み、バタンとドアを閉めて助手席に滑り込む。そしてその車は、何事もなかったかのようにその場から走り去った。

 しばらくして、激しい耳鳴りは治まってきた。隊員の中にも、立ちあがれる者が出てきたようだ。僕は、大きく息をついた。石畳には、ピクリとも動かない総理大臣の姿があった。恐らくもう死んでいるだろう。

 急いで高野のもとに戻る。ちょうど、ミオコもトランクを持ってフロアにやってきた。

「村上、総理は……」

 僕は首を振った。高野は体を震わせて、床を拳で叩く。

「お母さんは?」ミオコは、僕の体を掴んだ。

「氷室が連れて行ってしまった……ごめん、助けられなくて」

「そう……」

 玄関の外が騒がしい。急がないと。

「高野」

「ああ、分かってる。氷室に嵌められた」

 ミオコは不安そうな顔をしている。

「何、どういうこと?」

「後で説明するよ。今はここを離れないと」

 僕は高野を背負うと、ミオコとともに店の奥へと走った。

「村上、来る時に入った勝手口に向かってくれ。あの細道から隅田川に出られる。勝鬨橋まで出てタクシーをつかまえよう」

 高野の言う通り、勝手口を出ると隅田川沿いの遊歩道に出ることができた。人目を避けて勝鬨橋のたもとまで来ると、通りがかったタクシーに飛び乗った。運転手の男性が、呆然と僕たちを見ている。着ぐるみとメイド。無理もない。助手席に乗りこんだミオコが、その初老の運転手にむかってニコリと微笑む。

「お台場までお願いできます? これから、仮装パーティーなの」

 運転手は納得のいったように大きく頷いて、車を出した。ミオコは微笑んだまま、後ろに座る僕にスマートフォンを差し出してきた。画面を見ると「柴崎」と表示されている。彼女のお抱え運転手だ。僕は全てを理解して、発信ボタンを押した。柴崎さんが電話に出ると、僕はうずくまって小声で話す。

「村上です。お台場まで来ていただけますか? 至急です。お願いします」

 タクシーは、運河にかかる橋を滑るように走り抜けていく。遠くに輝く高層ビルの明かりがとても綺麗だ。

 これからどうすればよいのか。とても不安だった。


 それから一週間が過ぎても、テレビは総理大臣の暗殺の話題ばかりだった。いつの間に撮影されていたのか分からないが、殺害の瞬間の映像がネットに出回り、テレビでも放送された。画質は悪いが、総理を殺害したその男は、やはりどう見ても高野だった。さらに、凶器のナイフからは高野のDNA型が検出された、とニュースでは伝えられた。彼は事件後すぐに特別指名手配され、顔写真が繰り返し報道された。

 あの日、僕とミオコはお台場で高野と別れた。井之上邸に潜伏することを提案したのだが、僕らを巻き込むわけにはいかない、と高野は断った。それ以来、彼とは連絡をとっていない。ただひたすら無事を祈るばかりだ。

 そして、ミオコはほとんど外に出ることなく、自分の部屋にこもることが多くなっていた。メイド服を着てベッドに腰を降ろし、全く動く気配のないもじゃもじゃの長老をぼんやり見つめている。ベッドの上に転がる他のぬいぐるみも、全く動かない。

 一階の客間で、僕はミオコの見舞いに来たクレハと一緒にいた。

「ミオコ、ずっとあんな感じなんですか?」

「うん、食事はそれなりにとってるんだけど、前みたいな元気が全くないんだ」

「氷室に飲まされた薬の影響でしょうか……」

 僕は、サンプル瓶を胸ポケットから取り出した。中には、ミオコが吐き出したカプセルの残骸が入っている。

「でも、中身はほとんど残っているみたいだから、そんなには体内に吸収されてないと思う。この薬を解析すれば、彼女を救う手掛かりが掴めるかもしれないんだけど……」

「解析するための設備がない――ですよね」

 その通りだ。大学の機器分析室を使おうにも、僕はもう大学の学生ではない。マフリで検見川さんの力を借りて解析するのが一番早いのだが、マフリは何やら占拠されてしまった上に、検見川さんも行方不明になってしまった。

「クレハは、大丈夫? お母さんから連絡はあった?」

 彼女は首を振った。クレハ、そしてミオコのお母さんのエミリは、氷室に拉致されたまま行方不明だ。

「母なら大丈夫だと思います。あの人、肝がすわってますから」

 確かに、クレハの言う通りかもしれない。しかし、彼女のお母さんだけではない。高野のことも……。

「……高野さんも、きっと無事だと思います」

 クレハは、自分に言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。両手をぐっと握りしめている。

 僕たちは、氷室に完全に追い詰められてしまったようだ。奴の目的は何なのか。この上さらにミオコがいなくなってしまうのは、絶対に嫌だ。

 僕は、ふと思い出した。

「フエキカイ……」

 クレハは目を見開いて、顔を上げた。

「どこでそれを?」

「氷室が、総理の殺害を依頼されたと言ってた。お母さんも、高野も知っているみたいだった」

 クレハはしばらく俯いていたが、やがて話を切り出した。

「私も詳しくは知らないのですが……」

 彼女の話は、信じられないようなものだった。

 不易会というのは、明治時代の初期から存在する秘密結社のような組織で、国益を第一に国を裏側から支えてきたそうだ。日本各地に先祖代々受け継がれる会員がいて、井之上商事の先代の社長、つまり、ミオコとクレハのお父さんも、会員だった。彼が亡くなった後、その会員権は、創業家出身ではない新社長ではなく、エミリへと移譲された。

「裏側から支えるって、具体的にどういうこと?」

「会員の多くは資産家で、豊富な資金力によって実質的に国家を動かしてきました。戦争、経済、外交――その全ての転換点に、不易会が関わっているそうです」クレハは、紅茶を一口すする。「そして、不易会が現在最も重要視しているのが、『術場』です」

 経済が低迷し、衰退の一途をたどる日本の起爆剤として不易会が目をつけたのが、純国産の技術である「術場」だった。この革新的な技術は、不易会によって高度に保護され、他国はおろか日本国民にもその存在を知られることなく、直轄組織であるマフリで秘密裏に研究が進められていった。

「高野さんのお父様も、不易会の会員なんです」

「なるほど。それで、高野もマフリの創設メンバーに加わった訳か」

 そういえば、高野の実家は名古屋に本社を置く大手の製薬会社の次男坊だ。不易会のメンバーであってもおかしくない。しかも、高野はとても優秀な科学者だ。

「高野さんから教えてもらったのは、そのくらいです。私も、こんな話、すぐには信じられませんでした」

「総理大臣を殺害するよう氷室に指示したのは、不易会の『革新派』だと言っていたけど……」

「マフリの占拠の件も含めて、不易会の内部で何か内紛のようなものが起こっているのかもしれませんね」

 携帯電話が鳴った。画面を見ると、「アクアショップおおはた」の店長からだった。

「村上くん。悪いんだけどさ、今すぐ店に来てくれないかしら」

 店長は、なぜか声のトーンを落としている。

「ええ、分かりました。何かあったんですか?」

「えーと、今は言えないわ。とにかく、すぐに来て」

 何だかよく分からないのだが、とりあえずアクアショップおおはたに向かうことにした。

 ミオコのことをクレハに任せて、屋敷を出る。門の通用口を出たところで、誰かに呼び止められた。

「村上くんじゃないか」

 日下部刑事と真木刑事だ。思わず身構えてしまう。高野のことを聞きにきたのだろうか。

「こ、こんにちは」

 目を合わせずに会釈をすると、真木刑事がクスクス笑いだした。

「あら、どうしたの? あなたに用事があるわけじゃないのに」

 思わず真木刑事の顔を見る。その瞬間、何か違和感を感じた。何だろう、この嫌な感じは。

「今日は、井之上エミリ氏の拉致事件の件で、彼女の娘さんたちに話を聞きにきたんだ。紅葉さんに澪子さん。二人ともご在宅かな?」

「ええ……でも、ミオコと話をするのは無理かもしれません。少し具合が悪いみたいで……じゃあ、失礼します」

「あ、村上くん」真木刑事に呼び止められる。「あの事件の映像、見たかしら」

「――はい」

「井之上社長を拉致して逃走した被疑者の中に、仲居風の女性がいたわよね? あれ、田中さんに似てるような気がするの」

 心臓が高鳴る。

「そ、そうでしょうか……」

「それにね、あの日あの料亭にいた従業員の話なんだけど、『クマの着ぐるみ』を着た誰かがいたそうよ」真木刑事は冷たい笑みを浮かべる。「それって、村上くん。あなたなんじゃない?」

「真木、やめろ」日下部刑事が遮る。僕が答えずにいると、真木刑事は目を細めて僕を睨んできた。

「そして、あなた……あの首相殺害犯の高野潤と、学生時代に同じ研究室に所属していたわね? 今でも親交があるんじゃないかしら?」

「高野は、無実です」僕は思わず声を荒げてしまった。「高野は、そんなことをする奴じゃない」

「あら、それはどういう意味?」

「真木、いい加減にするんだ。村上くん、もう行っていいよ」

 日下部刑事に促され、僕は足早にその場を離れた。後ろから、真木刑事が声をかけてくる。

「村上くん、近いうちにまた会うことになりそうね」


 アクアショップおおはたに着くと、店長が店の奥から飛び出してきた。

「村上くん! 待ってたわよ」彼は僕の腕をぽんぽん叩くと、店の中をキョロキョロと見回して、さらに入り口の扉を少しだけ開けて、店の外の様子を窺った。

「後を尾けられたりしなかった?」

「どういうことですか?」

 店長はドアに「休業日」の札をかけると、鍵をかけ、シャッとカーテンを閉じた。

「どういうことも何も、突然『命を狙われているから匿ってほしい』っていう女の子が店にやってきて、しかも村上くんを呼んでほしいって言うもんだから、電話したわけよ」

 命を狙われている? 女の子ということは高野ではない。一体誰だ? ひょっとして、田中さんだろうか。

「ほら、電話だと盗聴の危険性があるでしょ? だから詳細を言わなかったわけ」

 店長の目が輝いている。何だかいつも以上に生き生きしている。そういえば、店長はスパイ映画だとかそういうものが大好きだと言っていた気がする。

「何日もお風呂に入ってないみたいで、ちょっと汚らしい身なりだったもんだから、今シャワーを貸してあげてるところ。覗いちゃダメよ」

「分かってますって。ところでその娘、名前は言ってなかったんですか?」

「ええ、教えてくれなかったわ。ワタシを完全に信頼したわけじゃないだろうから、当然のことよ」店長は腕組みをしてウンウン頷く。「でも、何ていうのかしら、命を狙われているっていうのにビクビクしてないし、芯の通った、落ち着いた娘ね。悪く言えば、『固い』んだけど」

 バックヤードの方に、人の気配がした。

「あら、もう終わったかしら」

 店長の後についてバックヤードに入ると、一人の女の子がしゃがんでいた。水槽をじっと見つめるその娘は、何と検見川さんだった。

「検見川さん!」

 彼女は僕に気付くと、慌てて立ち上がった。

「ひ、久しぶりね。村上さん」彼女はもちろん白衣姿ではなく、ピンク色のインナーに灰色のパーカーを羽織り、デニムのショートパンツをはいている。その姿を見て、店長は頷いた。

「サイズは大丈夫そうね。あなたの着てた服は、洗濯してるから」

「お気遣いありがとうございます。着替えまで準備していただいて」検見川さんは丁寧にお辞儀をした。

「いえいえ。近くのショップで買ってきたんだけど、時間がなかったもんだからちゃんと選べなくて。ごめんなさいね」

「いえ、十分です。でも、あの、ちょっと短すぎないですか、これ……」

 検見川さんは恥ずかしそうにショートパンツの裾を抑えながら、ちらちらと僕を見る。

「そんなことないわよ、今時の女の子なんてみんなそんな感じよ。ねえ、村上くん」

 店長にふられて戸惑ったが、僕は何回も頷いて言った。

「うん、何ていうか、その、若返った感じだよ」ショートパンツと黒いハイソックスの間の、いわゆる「絶対領域」に、どうしても目がいってしまう。

 検見川さんは僕を睨んだ。

「ごめんなさいね、今まで若く見えなくて」

「ああっ、ごめん! そんなつもりで言ったんじゃ」

 やってしまった。しかし、店長が慌ててフォローしてくれた。

「あれ、あなた、髪濡れてるじゃない。ドライヤー使ってないの?」

 確かに、後ろで束ねただけの検見川さんの髪はぐしゃぐしゃで、ライトに当たって乱反射している。

「いえ、いいんです。面倒なので……」

「何言ってるのよ。髪は女の命よ。ほら、レジの隣に椅子があるから座ってて。私が乾かしてあげる。あと、何か飲む?」

 僕たちは、店内にある商談用のスペースに移動した。検見川さんが座る後ろから、店長がドライヤーを当てる。検見川さんは顔を赤くして俯いているが、まるでプロのような店長のドライヤーさばきで、彼女の髪はみるみるまとまっていく。

「村上くんには言ってなかったけど、若い頃美容師をやってたのよ、ワタシ」

 プロだったのか。店長は謎の多い人だ。

「ポニーテールにするにしても、ただゴムで結うだけじゃなくて、こんな感じで……」

 どこをどうやったのか分からないが、髪を束ねたゴムが見えなくなり、全体的にふんわりした感じに変わった。鏡を見る検見川さんも、驚いているようだ。

「これで伊達メガネでもかければ、ぱっと見た感じは別人ね。逃亡するにはまずイメージチェンジしないと。はい、出来上がり」

「ありがとうございます」

 気のせいか、性格的にも柔らかくなったように感じる。

「じゃあワタシは奥にいるから。ゆっくりしていってね」店長はニコリと笑ってバックヤードへと戻っていった。

 検見川さんはしばらく鏡に見入っていたが、やがてハッとして麦茶の入ったグラスを手に取った。

「……いい人ね、店長さん」

「うん、信頼できる人だよ」

「所長の言っていた通りだった」検見川さんは麦茶を一口飲んだ。所長というのは高野のことだ。

「高野は、無事なのか?」

「ええ、無事よ。今は言えないけど、都内のアジトに身を潜めてるの」

 僕は胸を撫で下ろした。高野はひとまず生きている。

「この店の店長に会って村上さんと接触するように、所長に言われたのよ。所長は指名手配されてしまったものね。まあ、私も裏では捜索の対象になってるんでしょうけど」

 僕は、彼女にあの日マフリで何が起こったのか訊ねた。

「あなたの乗ったヘリが離陸するのを見届けた後、マフリに戻ったの。しばらくして、研究フロアに突然武装した集団が侵入してきた。どこの部隊か分からなかったけど、自衛隊員なのは間違いないわ。私はあのNMRの裏のほうに隠れて様子を窺ってたんだけど、研究員は全員フロア入り口のスペースに集められてた。でも……」そこまで話して、検見川さんはぐっと拳を握って俯いた。「そこから逃げ出そうとした研究員が、撃たれたわ」

「自衛隊員に?」

「違う――『副所長』に」

 僕は耳を疑った。副所長というのは、あの柴原という女性のことか。

「あの人、顔色も変えずに引き金を引いた。本当に訳が分からない」

 施設を襲撃した自衛隊員は、柴原副所長の命令に従っているように見えたらしい。そして、集められた研究員を前に、こう言ったそうだ。

「『現時刻をもって、マフリは私の管理下に置かれる。所属の研究員や事務職員は、期限を定めることなく施設内で軟禁状態となる。そして、命令に従わない場合は、躊躇することなくその場で処刑する』と……」

 恐らく柴原副所長は氷室とつながっていて、クーデターのようなものが行われたのだろう。

「所長はこのようなことが起こると予測していたのかもしれない。施設からの脱出方法を、以前所長から直接指導されたことがあったわ」

 検見川さんは静かにその場を離れ、ある部屋から通風口を通って地上に脱出したそうだ。

「そして所長に連絡を入れたの。その後のことは、知っての通りよ」

 僕は、気になっていたことを検見川さんに訊いてみた。

「僕は、あの瞬間を見ていた。確かに、総理大臣を刺したのは『高野』だった。でも違う。あいつは氷室だ。あれも、術場の力なのか?」

「ええ、その通り。氷室は、マフリから失踪する際に、当時最高レベルだった術場技術を持ち出しているわ。恐らく、術場を利用して自分の肉体を改造したんだと思う」

「凶器のナイフに高野のDNAが付着していたというのは……」

 検見川さんはフッと笑って言った。

「あの時、氷室は『分子レベルで』所長に変化していたのよ。術場の力を利用すれば、不可能なことではないわ。所長は、完全に嵌められたの」

 考えてみると恐ろしい話だ。世間ではようやくDNA型を利用した犯罪捜査が本格化してきたところだというのに、術場はそれを根本から覆す技術だということになる。

「ところで、彼女は?」検見川さんは、伏し目がちに訊いてきた。ミオコのことだろう。

「実は、あの時氷室に例の薬を飲まされそうになった」

「えっ?」

「すぐに吐き出したんだけど、それ以来様子がおかしいんだ」僕は胸ポケットからサンプル瓶を取り出した。「微量ながら体内に吸収されてしまったんだと思う」

「ちょっと! それ!」

 検見川さんは目を丸くして、サンプル瓶を強引に僕から奪い取った。

「こ、これ……これがあれば……!」

「どういうこと?」

「あなた、これ、分析した?」彼女は目を輝かせている。

「いや、僕はもう大学の人間ではないから……」

「あ、そうだったわね。これ、私が預かってもいい?」

 検見川さんによると、氷室に洗脳された女の子たちの臨床データから、かなりのところまで治療薬の研究が進んでいたそうだ。創薬研究には非常に長い時間がかかるのだが、術場は創薬の分野でもイノベーションを起こすものなのだろう。

 彼女の推測では、氷室が彼女たちに飲ませた薬の中の物質――恐らく術場エネルギーをもったもの――が、脳内の特定の受容体と結合することで、一種の洗脳状態を引き起こしているのだという。しかし、その物質の情報が全く無かったために、理論的な治療薬のモデルを作ることしかできなかった。

「この物質の構造解析をすれば、全てが解決するわ」

 さっきまで一人の可愛い女の子だった検見川さんから、いつの間にか「研究者」のオーラが溢れだしている。

「でも、検見川さんはどこで分析をするつもりなの?」

 マフリは占拠されてしまっているし、検見川さんも追われる身だ。

「大丈夫。こんな私でも、それなりにパイプはあるの。サンプルを分析するだけなら、どうにかなる」

 一か月後、再びこの「アクアショップおおはた」で、僕たちは再会することにした。

 検見川さんは、店を出ようとして立ち止まった。

「あ、そうだ」彼女は僕の顔を見ずに、呟くように言った。「あなたは、大丈夫?」

「え?」

「だから、その、私があげた薬で何か副作用は出てないのかって訊いてるのよ」

 そういえば、初めの頃に比べて、着ぐるみを脱いだ後でも体調の変化は見られないような気がする。

「うん、大丈夫。検見川さんのおかげだね、ありがとう」

「そ、そう。それならいいの。じゃあ、また」

 彼女は店を出ようとしたが、再び立ち止まった。

「……あの、メガネ」彼女は顔を赤くして僕を振り返る。「メガネ、かけたほうが、いいかな」

 僕はドキッとした。「え?」

「いえ、あの、さっき店長さんが、伊達メガネをかけたほうが逃亡しやすいって言ってたから」

「そ、そうだね。検見川さんは、メガネをかけたほうが」

 メガネをかけたほうが可愛いかも、と言いそうになって口をつぐむ。すると、彼女は満更でもないといった笑みを浮かべて、店を出ていった。

 

 井之上邸に戻って玄関を開けると、クレハが待ちかねていたかのように走り寄ってきた。

「おかえりなさい、惣市郎さん。少し前に警察の方が……」

「うん、ここを出る時に会った。ミオコは?」

「あの子、部屋から出てこようとしなくて。私が少しお話をして、今日の所は帰られました」

 そうだ、クレハに伝えなければならないことがある。

「クレハ、高野は無事だ。安心して」

「本当ですか!」彼女は目を見開いて僕の腕を握った。「彼に、高野さんに会ったのですか?」

「いや、高野の部下の検見川さんに会ってきたんだ。高野と一緒に都内に潜伏しているらしい」

 クレハは涙を浮かべて、その場に座り込んだ。

「よかった……」

 僕は、クレハの肩を支えて客間のソファに座らせた。心なしか、クレハの顔に疲れが見える。

「クレハ、大丈夫かい?」

「ええ。でも、少し疲れてしまって……」

 日下部刑事たちはお母さんの拉致事件に関してクレハに話を聞いたらしい。そこで、真木刑事が高野との関係についてしつこく訊いてきたようだ。

「なぜクレハと高野が知り合いだと分かったんだろう」

「分かりません……でも、これが取り調べなんだなっていう感じでした」

 クレハは苦笑いを浮かべて、立ち上がる。

「コーヒー、淹れますね」

 クレハは立ち止まった。

「……ミオコ!」

 客間の入り口に、ミオコの姿があった。

「ミオコ! 具合はどうだい?」僕は彼女に駆け寄る。しかし、その瞬間、彼女は叫んだ。

「近寄らないで!」

 ミオコは、鋭い目で僕を睨みつける。その時、彼女の瞳が、うっすらと紫色がかっていることに気が付いた。

「ミオコ、もしかして……」

 まさか、氷室に飲まされた薬が効いてきたのだろうか。

「ソウイチロウ、あんた、どこに行ってたの?」

「どこって、その、アクアショップおおはたで、検見川さんに会ってきたんだ」

 ミオコは、ふっと吹き出すように笑う。

「ああ、あの人か。あの人、あんたのこと好きみたいだもんね」

「はあっ?」

 いきなりこいつは何を言い出すんだ。

「私とお姉ちゃんを放っておいて、あの人とイチャイチャしてきたんだ。ふーん」

「何言ってるんだよ。彼女、氷室の洗脳を解く特効薬を開発してくれてるんだぞ?」

 ミオコは僕の話を遮るように言った。

「あの人、磨けば光るタイプだしね。意外と脚がキレイだから、ミニスカートと黒のハイソでも履けば、なかなかエロカワイイんじゃない? あんたなんかすぐに誘惑されちゃうわよ。ああいうタイプって、結構淫乱なのよね」

 気が付くと、僕はミオコの頬を平手打ちしていた。

 我に返ってミオコを見る。彼女は頬を押さえ、紫色の瞳で僕のことを睨んでいる。

「……ご、ごめん」

 静寂の中、彼女はゆっくりと口を開いた。

「出てって」

「ミオコ……」

「早くここから出てって! 二度と私の前に現れないで!」

 今まで聞いたことのない、重く、響く声だ。彼女は本気で言っているようだ。

 僕は何も言わず、彼女の横をすり抜け、玄関を出た。門へと続く小道を歩いていると、クレハが追いかけてきた。

「惣市郎さん!」

「ごめん、クレハ。ミオコのこと叩いちゃって」

「いえ、気にしないでください。あの子、やっぱり何だかおかしいわ。惣市郎さんが心配してくれてるのも知らずに……」

 辺りは薄暗くなってきている。小道に置かれたライトが、明かりを放ち始めた。

「とりあえず、今日から私の店で寝泊まりしてください。ミオコの非礼の、せめてものお詫びの気持ちです」

 僕は、井之上家の使用人をクビになった訳だ。あとは、クレハの店でのバイトで何とかやっていくしかない。ここはひとまず、クレハの厚意に甘えることにした。

 ゆっくりと屋敷を眺める。こんな形で、ミオコと別れることになるとは。でも、今は何も考えることができない。僕は屋敷に背を向け、井之上邸を後にした。


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