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着ぐるみとメイドの物語2


  2



「村上くん。……村上!」

 僕はハッと我に返った。

 声のする方向に顔を向けると、有機化学研究室の教授、冴木先生が腕組みをして仁王立ちしていた。細い目で僕を睨みつける。

「TLCが、上がりきってるわよ」

 先生にそう言われて、僕は慌てて展開槽の蓋を開け、中に入っている薄層板を取り出した。

「す、すみません」

 TLCとは「薄層クロマトグラフィー」の略で、複数の成分が混ざったものの中に、目的の成分があるかどうかを確認したり、もしくはそれだけを取り出したりできるという便利な手法だ。

 冴木先生は、大きくため息をついた。細いフレームのメガネのブリッジの部分を、くいっと持ち上げる。彼女の癖だ。

「あなた、TLCが上がるのをボンヤリ眺めてるなんて、学生実験でもしてるつもり? ほんとにポスドクなの?」

「い、いえ、その」

 研究室の中にいた学生たちが、遠巻きに僕と先生の様子を眺めている。

「ふん、まあいいわ。お昼にしましょう」

 冴木先生と僕は、僕がこの研究室に来てからというもの必ず一緒に学食でお昼ご飯を食べている。先生に誘われたのが始まりだ。同じ中島先生の門下生同士ということで目をかけてもらっているんだろうけれど、毎日毎日研究の話ばかりで、小言も散々言われるし、正直なところ遠慮したい。

 化学棟を出ると、冴木先生はいつものように何も話さずに歩き出した。僕も何も言わず、ただ先生の後をついていく。

 冴木先生は、こういうのも何だが美人だ。しかも、スタイルがかなり良い。すらっとした身体に白衣をまとい、ポケットに手を入れて颯爽と歩く姿は、まるでドラマに出てくる女医さんのようだ。実験室では危険なので履いていないが、今みたいに学食に行ったりする時はわざわざヒールの高い靴に履き替える。本人なりのこだわりがあるのだろう。

 まだ四十にもなっていないのだが、立派な教授職である。中島先生の門下生の中では一、二を争うほど優秀な先生だ。学部生の時から、新規化合物をいくつも発見していたという話を聞いたことがある。しかも彼女の凄いところは、モノを見つけるだけでなく、自分で合成する能力ももっているという点だ。単離屋と合成屋、どちらでも食っていけるということである。

 ずばぬけた能力とその美貌から、全国的にかなり有名だったらしい。学会なんかがあると、彼女目当てで会場が満席になることもあったようだ。非公式のファンクラブもあったとかなかったとか。

 でも、冴木先生は現在独身である。というか、正確に言うと、バツイチだ。それは、「氷の女王」と呼ばれる彼女のことをよく知っている人なら誰でも納得がいくと思う。思ったことをオブラートに包まずにズバズバと言う。できない人間にはひたすら冷たい言葉を吐く。できる研究者とはそういうものなのかもしれないが、プライベートでも一緒にいたいとはさすがに誰も思わない。

 午後一時を過ぎているということもあって、学食は比較的空いている。冴木先生は行列に並んだりするのが大嫌いな人なので、混雑する時間を避けて毎日お昼ご飯を食べている。もちろん、僕も混んでいる食堂は嫌いだ。並ばずに食事ができるのは、授業に縛られない上級生の特権であろう。

 カフェテリア方式のカウンターで、僕はいつものように定食を選んだ。冴木先生は、いつものようにラーメンだ。毎日毎日ラーメン。飽きないのだろうか。というか、栄養バランスが偏り過ぎている。たまには違うものを食べたらどうですか? とか、サラダも食べたほうがいいんじゃないですか? とか言いたいことは色々あるのだが、怒らせるのが怖くて言えない。

 いつもと同じ窓際の席に座ると、冴木先生は「いただきます」も言わずにラーメンをすすり始める。

「村上くん、何か進展はあった?」

 彼女は、僕を見ることなくそう訊ねてきた。これも、いつもの通りだ。毎日同じことを訊かれる。

「いえ、特には……」

 ここ最近、僕の返事はいつも同じだ。先生は、凍るような視線を僕に一瞬投げかける。背筋が冷たくなる。

「あなた、最近おかしいわよ」

 僕は動揺を隠せなかった。先生の言う通りだ。でも、おかしくなって当たり前だ。数日前の「あの一件」以来、僕はろくに先生から与えられた研究を進めることができないでいた。

 先生は、無表情で呟く。

「彼女でもできた?」

「いや、それはないです」

「ま、それもそうね」

 動揺して、箸がなかなか動かない。いつも以上に耐えがたい食事だ。

「あなた、中島先生のお墨付きなんでしょ? それなりの能力を持ってるっていうんで指導してあげてるんだから、私の期待に応えてもらわないと。ここで何も成果を挙げられないなら、『その他大勢』と何も変わらないじゃない。ここにいてもらう必要ないんだからね」

 隣のテーブルに座る学生たちが、ちらちらとこちらを見ている。胃が痛い。

「……申し訳ありません」

 先生は微かに口元に笑みを浮かべると、レンゲでスープをすすった。

「ふん。まあ、いいんだけどね」

 いつものように僕をこき下ろして、とても満足そうだ。まったく、嫌な女だ。超サディスティック。

「あ、ところで」

 僕はびくっとして顔を上げた。

「は、はい?」

「そういえば、その、アクアリウムは順調なの?」

 僕は耳を疑った。先生は僕に目を合わさずに、コップの水を口に含む。呆然とその様子を見ていると、彼女は少し顔を赤くして僕を睨んだ。

「何よ、その顔は。アクアリウムよ。あなた、趣味なんじゃないの?」

「あ、えーと、はい、順調? です」

 まさか冴木先生にそんなことを訊かれるとは思ってもいなかったので、僕はかなり動揺した。

「一度、見に行こうかしら」

「はい?」

 何を言ってるんだ?

「だから、その、話によれば、それなりの腕をもってるらしいじゃない。えーと、実はうちの研究室にも、サンプルの海洋生物を入れておくための水槽を作ろうかなーと考えてて」

「本当ですか!」

 僕は無意識に立ち上がっていた。冴木先生はもちろん、周りの学生が一斉に僕を見る。

「し、失礼しました」そそくさと腰を下ろす。

「まあ、それで、村上くんの家のアクアリウムを参考にして、その」

 それにしても、冴木先生がこんなにたどたどしい様子を初めて見た。一体何なんだろう。

「場合によっては、村上くんに管理をお願いしようかしらと思って」

「ほ、本当ですか!」

「ま、まあ、一度村上くんの家に行って見に行ってみないと」

 いまいち理屈が分からないが、とにかく研究室で水槽をいじれる、というところに物凄く惹かれた。

「どうぞどうぞ! 僕の家なんていくらでも来てください!」

 先生は何やら驚いた様子で僕を見ているようだったが、すぐに目をそらしてラーメンの丼を箸でかき回し始めた。どうやらラーメンをすくおうとしているようだけど、もうほとんど麺はない。

「まあ、そうね。そこまで言うんだったら、行ってあげてもいいけど? また後で予定を合わせましょう」

 先生のほうから家の水槽を見たいと言ってきたのではなかったか。そんな疑問はすぐに消えてしまい、かわりに研究室の水槽のレイアウトイメージで頭の中は一杯になった。


 その日の夕方、冴木先生は会合があるとかで早々に研究室を後にした。これはチャンスだ。田中さんのお見舞いに行くことにしよう。田中さんは中野の病院に入院しているのだが、平日は研究室が忙しくてなかなかお見舞いに行くことができなかったのだ。

 病院は、中野駅から少し歩いたところにあった。何年か前にできたばかりの新しい総合病院で、現代的なデザインの建物だった。受付のお姉さんに見舞いに来たことを伝えると、彼女は「少々お待ち下さい」と言って受話器を手に取り、誰かと話を始めた。

「ムラカミソウイチロウ様です。はい。ええ」

 彼女は受話器を置くと、笑顔で言った。

「お待たせいたしました。五階病棟フロアの、五○八号室でございます」

「は、はい、どうも」

 エレベータで五階に上がり、ナースステーションを過ぎて五○八号室を探す。すると、前からスーツ姿の男が近づいてきた。僕の顔をジロジロと見ている。

「すみません、ちょっとそこで止まってもらえますか」

 僕は訳も分からず立ち止まると、男は持っていたファイルのようなものを開いた。

「失礼ですが、村上惣市郎さん?」

「はい、そうですけど」

 男は何度か僕の顔とファイルを見比べた。

「田中咲さんに面会?」

「は、はあ」

 背が高く、がっしりとした男は、ふんと鼻を鳴らした。この人も護衛だろうか。僕とそれほど年は離れていないように見えるが。

「こちらにどうぞ」

 彼の後について少し歩くと、五○八号室があった。彼は部屋の前に立ち、周囲を見回す。

「入ってください。手短にお願いします」

 手短に、と言われても。そう思いながら、僕はゆっくり部屋の中に入った。狭い個室の先にベッドがあり、そこに田中さんがいた。

「田中さん」

 彼女は横にはなっておらず、身体を起こしてぼんやりと正面を眺めている感じだった。僕が呼びかけてみても、反応はない。口を小さく開け、無表情のままだ。

「あの、田中さん?」

 もう一度呼びかけてみると、彼女はゆっくりと僕に顔を向けた。少しだけ目を大きくした感じがしたけれど、それほど驚いてはいないようだ。

「村上さん」

「ごめんね、夕飯時に来ちゃって」

「いえ、ありがとうございます。どうぞ、座ってください」

 ベッドの横にあるパイプ椅子に腰を下ろす。

「村上さん、今日はお休みですか?」

「あ、いや、冴木先生が会合で早上がりしたんで、これはチャンスと思って抜け出してきたんだ。今日もお昼に散々小言を聞かされて、大変だったよ」

 田中さんは優しく微笑んだ。

「冴木先生って本当に厳しいですよね」

 彼女の笑顔に少し安心する。

「まったくだよ。あんな研究室に配属されなきゃよかった。でも、まあ」

「でも?」

「帝都女子大に来なかったら、田中さんとも会えなかったわけだし、東京に来てよかったかな」

 田中さんと一緒に帰っていたのがだいぶ昔のように感じられて、懐かしくなって思わずそんなことを呟いていた。すると、彼女の目はさらに大きくなった。

「また、村上さんは、そういうことを」

 微かに顔を赤らめる田中さんを見て、何だかドキドキしてしまう。ミオコが変なことを言うから、やたら意識してしまうのだろう。あいつめ。

 でも、言われてみると、田中さんって、カワイイよな。言われてみなくてもカワイイんだけど。小さい鼻、小さい唇。赤いフレームのメガネの奥には、ぼんやりとしたブラウンの瞳。

 ふと、彼女が目をそらした。無意識のうちに彼女の顔をじっと見てしまっていたのだろう。僕も慌てて目をそらす。視線に困って病室の中をキョロキョロ見回した。すると、ベッドの脇に置いてある小さなテーブルの上に、写真立てが置いてあるのに気が付いた。

 そこには、笑顔の田中さんとオレンジ色のクマのツーショット写真が入れられていた。

「その写真」

 僕は一瞬ためらったが、田中さんは自分から写真立てを手に取り、微笑みながら写真を眺めた。

「ホームカミングデーの時の写真です。今井さんが置いていってくれたんです」

 今井さんが撮ったのか。いつの間に。

「宝物、です」

 そう呟いた田中さんの目から、涙がこぼれた。

「え、田中さん」

「村上さん、迷惑をかけてしまってごめんなさい」

 彼女の目から、とめどなく涙が溢れてくる。気が付くと、僕は彼女の手を強く握りしめていた。とても冷たい手だ。考えてみると、田中さんの手を握ったことなんか今までなかったと思う。

「迷惑なんて、かけてないから。泣かないで。えーと、その、元気になったら、一緒に高尾山に登ろう。ね?」

 僕は必死だった。女の子に泣かれることに全然慣れてないのだ。椅子から立ち上がり、彼女に寄り添う。

「む、村上さん」

 それまで生気のなかった田中さんの顔が、みるみる赤くなっていく。額に汗がにじみ、呼吸も荒くなっている。

「えーと、えーと、その」

 田中さんは、ゆっくりと目を閉じた。これは、ダメだ。やっぱりミオコの言う通りかもしれない。僕は、田中さんのことが好きなんだろう。どうにもならなくなって、僕はゆっくりと彼女に顔を近づけていく。そして目を閉じた。

 その時だった。

 目を閉じて酒臭い唇を近づけてくるミオコの顔が、脳裏をよぎった。僕はハッとして目を開ける。

 あの晩、僕は何てことをやらかしてしまったんだろう。酔っていてよく覚えていないのだが、ミオコとキスをしたのは、きっと間違いない。

 ダメだ。やっぱり僕には田中さんと付き合う資格はない。

 その時僕は、田中さんの様子がおかしいことに気がついた。

「うう」

 僕の手を振りほどき、両手で頭を押さえ、苦痛に顔を歪めているようだ。顔色は先ほどと打って変わって真っ白になっている。額の汗の量も増えているように見える。

「田中さん? 大丈夫?」

「いたい……頭が、いたい」

「田中さん!」

 病室のドアが開き、先ほどの護衛らしき男が飛び込んできた。

「どうした!」

「彼女、急に具合が悪くなったみたいで」

「どけ!」

 男は僕を押しのけると、田中さんの様子を確認し、ベッドの隅にあった呼び出しブザーを押した。ほどなくして看護師や医者らしき人たちが入ってきた。

「出るぞ。キミもだ」

 僕は男に言われるがまま、病室の外に出た。出るやいなや、僕は男に詰め寄られた。

「彼女に何をした!」

 僕は男の迫力に圧倒されて、何とか声を絞り出した。

「い、いえ。な、何もしてません」

 男はため息をつくと、携帯を取り出し僕から離れた。誰かに連絡をしているようだ。しばらくの間、僕は病室の前で立ち尽くしていた。

 田中さんは、大丈夫だろうか。

 何もしていない、とは言ったものの、彼女とキスをしようとしていたのは、たぶん、否定できない。でも、待てよ。なぜ、そんなことに?

 確か、田中さんのほうから……

「おい、キミ。ちょっと!」

 ハッと我に返って振り向くと、男が僕を睨んでいた。

「申し訳ないが、今日のところはお引き取り願いたい」

 そんな。こいつは、一体何を言っているのか。

「いや、彼女の様子が、心配なんですけど」

「もう一度だけ言う。お引き取り願いたい。強制力は使いたくないんでね」

 僕は、それ以上どうすることもできずに、ゆっくりとエレベーターホールに向かった。とても悔しい。僕はなんて無力なんだろうか。

 一階に降りると、ふらふらとロビーのソファに腰をかけた。

 六時を過ぎていることもあって、ロビーには人がまばらだ。会計窓口はとっくに閉まっていて、正面玄関もシャッターが下りている。

 何だか喉が渇いた。何か飲み物を買ってこよう。そう思って立ち上がろうとした時だ。

「どうぞ」

 視界に缶コーヒーが飛び込んできた。顔を上げると、紺色のパンツスーツ姿の美しい女性が立っていた。後ろには、背広姿の中年の男性が立っている。

「あ、どうも」

 僕は缶コーヒーを受け取る。いや、ちょっと待てよ。

「あの、どちら様?」

 男性のほうが、胸ポケットから手帳のようなものを取り出した。

「失礼。警察です。村上惣市郎くんだね?」

 僕は頷いた。男性は、名刺入れから名刺を一枚取り出す。

「日下部です。こっちは真木」

 女性のほうも名刺を差し出してきた。

「よろしくね」

 名刺には、見覚えのあるマスコットキャラクターの絵と、「警視庁刑事部捜査第一課」という肩書が書かれている。二人とも、刑事か。

「私たちは、例の連続女性失踪事件の捜査をしてるの。田中咲さんが被害に遭った件も関連してる可能性があってね」

 真木と名乗る女性(名刺には巡査部長と書かれている)は、穏やかな口調で続けた。

「村上さん、現場に居合わせたそうね。少し、話を聞かせてもらっても良いかしら?」

「え、ええ」

 二人は、僕の近くのソファに腰を下ろした。

「田中さんには面会できたかい?」日下部と名乗る男性(こっちは警部補だ)が訊いてきた。顔だけ見ると、魚屋とか八百屋にいそうなオジサンだけど、やはりどこかしら只者ではない雰囲気が感じられる。

「ええ、一応」

「見てたよ。あの野郎、気に入らねえな」

 どうやら、あの護衛の男のことのようだ。

「とは言っても、同業者なんだけどね。警護課の人間らしいわ」真木刑事が言う。やっぱりそうだったか。たぶん、高野が依頼したんだろう。

「それにしても、何でまたこんな事件に警護課がしゃしゃり出てくるんだ? そうそう、キミにも分かるかな。あの男だけじゃないんだ。例えば、このフロアだって、何だかよく分からない連中が何人かいる」

 日下部刑事にそう言われて、僕は辺りを見回した。確かにソファに座ったり、廊下に立ったりしている人たちがいるが、僕にはそれほど不自然には見えない。日下部刑事は続ける。

「俺たちも、なかなか彼女に面会できないんだ。一度上司に文句を言ったんだが、どうやらもっと上のほうでストップがかけられてるらしくてね」日下部刑事は首を振る。

 高野の言った通りだ。現場の捜査員は、氷室の犯行だということを知らないのだろう。真木刑事は、バッグから写真のようなものを取り出す。

「村上さん、生物学棟の四階で見たのは、この男かしら?」

 僕は写真を受け取った。どうやら防犯カメラの映像のようだ。少しブレているが、顔の輪郭はそれなりに分かる。服装も、あの日氷室が着ていたものに良く似ている。しかし、何かおかしい。

「これは……別人です。こいつじゃない」

 氷室は、もっと華奢な体つきだったはずだ。顔立ちももっと細かった。しかし、写真に写る男の体型はやや太めで、顔もぽっちゃりして見える。

「やっぱりか」日下部刑事はため息をついた。

「あの日、現場から逃走する男の映像が各所の防犯カメラから得られているんだが、全て同じ男なんだ。しかし、キミもそうだが、現場に居合わせた学生、警備員、全員が違う男だと言っている」

 これは一体どういうことだろうか。

「しかも、現場からは指紋やDNAが採取されているんだが、どちらも登録されていなくてね。もちろん、その写真の男も何者なのか分からない。それに」

 日下部刑事は言い淀んだ。真木刑事が続ける。

「これまでに二十人以上の女性が行方不明になっているんだけど、それぞれの現場で得られている防犯カメラの映像や指紋、DNAも何もかも、てんでばらばらなのよ」

「どういうことですか?」

「さあ、分からないわ。こっちが教えてほしいくらい。手口としては同一人物の犯行だと思うんだけど。複数犯なのかもしれないわね」

 真木刑事は、耳の辺りまでのショートヘアだ。斜めに下ろした前髪を手で整える。刑事さんにしては、かなりオシャレな感じだ。

「ところで村上くん。キミ、井之上澪子さんを知ってるよね?」日下部刑事にそう言われて、僕は少し動揺した。

「え、ええ。まあ」

「彼女からも話は聞いたんだけど、キミはあの日、着ぐるみを着ていたとか」

「はい。田中さんに頼まれて、ホームカミングデーの仕事で着てました」

「飲み物を買いに行った田中さんがなかなか戻ってこないので、偶然居合わせた井之上さんとともに生物学棟に向かった、と」

「は、はい。その通りです」

 ちらっと真木刑事に目をやると、彼女は真剣に僕の顔を見つめている。

「キミは着ぐるみを着ていたので四階に着くのが遅くなってしまい、着いた頃には犯人と井之上さんが対峙していた。そうだね?」

 なるほど、それなら不自然じゃない。

「そ、そうです。犯人の物と思われるナイフを、彼女は構えてました」

 僕は頷きながらそう答えた。

「うん。確かに、ナイフからは犯人の指紋とともに井之上さんの指紋も検出されているんだ。彼女、なかなか気が強いもんな」

「ええ。強いなんてもんじゃないです」僕が苦笑すると、真木刑事は嬉しそうに言った。

「あら、あなた、彼女と交際してたりする?」

 僕は大きく手を振った。

「とんでもない! 十も年が離れてるのに」

 僕の様子を見て、二人は失笑した。日下部刑事は言う。

「この真木も、井之上さんに負けず劣らず気が強いんだよ。彼女、キミと同い年だけど、男がいなくてね。どうだい、いっそ付き合っちまったら」

 真木刑事は細い目で日下部刑事を睨んだ。

「ちょっと主任。おもいっきりセクハラですよ? 課長に報告しますからね」

「おお、こわ」日下部刑事は身震いする仕草をする。

「それで村上さん、事件の後、なぜ現場からいなくなっちゃったの?」真木刑事は、身を乗り出して僕に迫ってきた。

 どうしよう。やっぱりそうだよな。ミオコの奴、何て説明したんだ?

「えーと、その、外階段を降りて、男を追いかけたんですけど……」

 やばい。明らかにしどろもどろになってる。

「それで?」

「えーと、そうだ、途中で、その、熱中症か何か分からないですけど、具合が悪くなってしまって。あとは、意識を失ってしまったみたいで、よく分かりません。ミオコ……井之上さんが、介抱してくれていたようです」

 真木刑事は、相変わらず僕のことをじっと見ている。

「ふーん」

「おい、真木。村上くん、困ってるじゃないか。井之上さんの話の通りだし、何も問題ないだろ」日下部刑事が彼女をたしなめる。真木刑事は、不服そうだ。

「ええ。でも」

「いくら村上くんがイイ男だからって、そうジロジロ見ちゃいけない」

 日下部刑事に言われて、真木刑事は眉をひそめた。

「だから、そんなんじゃないって言ってるでしょ? 冗談抜きで課長に言いつけますよ」

 日下部刑事は、愉快そうな顔で僕に視線を送ってくる。僕はほっとして、頬を緩めた。日下部刑事は「よいしょ」と言って立ち上がる。

「村上くん、今日のところはこの辺にしておこう。もし何か思い出したりしたことがあったら、その名刺に載ってる番号に電話してもらいたい」

「は、はい」

「真木、行くぞ」日下部刑事はゆっくりとその場を離れた。

「……はい」真木刑事は、しぶしぶ立ち上がった。と思ったら、僕の耳元で囁いた。

「電話、私のほうでもいいからね」

 僕は驚いて彼女の顔を見た。彼女は、満面の笑みを浮かべている。

「じゃあね」

 真木刑事は手を振って、日下部刑事の後を追っていった。僕は無意識に手を小さく振り返していた。

 あんな刑事さんもいるんだなあ。何ていうか、美人だし。まあ、男がいないってことは、かなりのクセモノってことだろうけど。冴木先生と一緒だな。

「あ、そうそう」真木刑事は、何か思い出したかのように僕に声をかけた。僕はびくっとして彼女に顔を向ける。

「あの日、生物学棟の近くの広場にいた学生が、『空飛ぶクマを見た』と言ってるんだけど」

「あ」僕は思わず声を出してしまった。真木刑事は、ニヤリと笑みを浮かべたようだ。

「私が知ってる『空飛ぶクマ』は、アニメの中でしか出てこないわ。学生たちの見間違いよね。じゃあ、またね」

 僕は、呆然としたまま二人の姿を見送った。


 五月の半ばを過ぎた頃、冴木先生が僕の家にやってきた。その日は朝から土砂降りだった。

「すごい雨ね。傘差してるのに、こんなに濡れちゃった」

 玄関先で一息ついた先生は、ハンドタオルで腕や足元を拭う。

「梅雨入りしたんでしょうか? バスタオル、どうぞ」

「ありがとう。じゃあ、お邪魔します」

 冴木先生はバスタオルを首にかけ、家の中をキョロキョロと見回しながら白いハイヒールを脱いだ。

「いや、あの、あまり色々見ないでください。散らかってるんで」僕は、彼女の様子を窺いながら、声をかける。

「いや、どこが散らかってるのよ。むしろメチャクチャ綺麗に片付いてるじゃない。最近の男の子の部屋って、こんなものなの?」

 男の子、という言葉に違和感を覚えたが、ぐっと堪えた。

「自炊、してるのよね?」先生は、腕組みをしてキッチンのシンクを睨んでいる。

「ええ、でも、平日の朝と休日だけですけどね」

 彼女は、両手をワサワサと動かして唸った。

「何というか、こう、私のイメージだと、汁の入ったカップ麺だとか汚れた食器が、シンクに積み重なってる感じなんだけど」

 何を言ってるんだ、この人は。

「そんな訳ないじゃないですか。そんなの耐えられませんよ。考えただけでも気持ち悪い」

 先生は苦笑いを浮かべる。

「そういえば村上くん、研究室でも洗い物とか喜んでやってるものね」

「ええ、掃除や洗い物、大好きです」僕は胸を張って答える。

 ダイニングキッチンを抜けて居間の方に行くと、先生は感嘆の声を上げた。

「へえ! 凄いじゃない」

 彼女は、三つの水槽を見て回る。

「思っていた以上に本格的ね」

「まあ、このくらい普通ですよ」

 それにしても、普段はダメ出しばかりの先生から褒められると、正直何だかとても嬉しい。

「でも、このサイズの水槽が三つもあると、かなりの重量じゃないの? 水の量も半端じゃないし。よく大家さんが許してくれたわね」

 そう言われて、僕はドキッとした。

「え、ええ、まあその」

 彼女は苦笑する。

「ああ、なるほど。大家さんには内緒なのか」

 僕は笑ってごまかす。先生の言う通り、大家さんが許してくれるはずがない。

 彼女は、ごく自然にベッドの端に腰をかけた。そして、足を組んで頬杖をつきながら、水槽を眺める。その姿を見て、僕は何だか落ち着かない気分になった。それもそのはず、今日の先生の服装は、研究室では見たこともないほど若い感じだったからだ。白いプリーツブラウスに、ベージュ色のフレアスカート。腰のあたりに、同じくベージュの幅の広いふんわりとしたリボンが付いている。

 そもそも、違和感を感じる最大の理由があった。僕は恐る恐る先生に訊ねる。

「先生、あの、メガネは」

 いつもしているはずの、メガネをしていないのだ。

「ああ、私、休みの日はコンタクトなの。村上くんは、メガネしてるほうが好き?」

 彼女は、水槽を眺めたまま答えた。僕はうろたえる。

「え、いや、そんなことは。何か、ちょっと新鮮だったので」

 正直、メガネをしていない先生のほうがいい。若く見えるし。

「えーと、お茶、入れますね」

 僕は、いたたまれなくなってその場を離れた。

「どうぞお構いなく。ところでこれ、どこで調達したの?」

 どうやら、水槽のことを言っているらしい。

「あ、これは、名古屋から持ってきました。中野に行きつけのショップがあるんですけど、そこの店長が凄く良い人で、アクアリウムの引っ越しを引き受けてくれたんです」僕は、台所でお茶の準備をしながら答えた。

「え、じゃあ、この魚も?」

「ええ、ほとんどの魚がそうです。本当に助かりましたよ」

「ふーん」

 お茶を淹れて居間に戻った僕は、目を疑った。

「せ、先生、何を」

 彼女は、ベッドに腰をかけたままストッキングを脱いでいる最中だった。

「あ、ごめんね、雨で濡れちゃって、気持ち悪いの」

 危うくお茶をこぼしそうになったが、何とか持ちこたえて、お盆をベッドサイドの低いテーブルに置いた。

「そ、そういうものですか」

 僕は、動揺を隠して先生にお茶を差し出す。

「そういうものよ。どうもありがとう」先生は無表情でお茶をすする。

 それにしても、信じられないくらいの脚線美だ。四十近いとは思えない。

「そのお店は、もっと大きい水槽も売ってる?」

 僕は我に返って、頷いた。

「ええ、店頭には置いてないですけど、取り寄せることはできると言ってましたね。店長は設置もしてくれるんですよ」

「それはいいわね。設備は全部そのお店で揃えてもいいかもしれない」

「本当ですか! 店長も、きっと喜ぶと思います」

 先生がどのくらいの規模の設備を考えているのか分からないけれど、大学の研究室に食い込むことができるとなれば、大畠さんも大喜びだろう。

「また今度、その店にご案内します」

「そうね、よろしく。ところでこの水槽は何? 魚はいないようだけど」

 先生は右側の水槽に近寄り、しげしげと中を見つめる。僕は待ってましたとばかりに説明をする。

「それは、アクアテラリウムです。水辺の環境を再現しています。熱帯魚などの動物を入れてもいいんですが、僕の場合はその水槽を水草とか水辺植物だけのものにしているんです」

「ふーん、そういうのもあるのか。水草ねえ……」

 彼女は顎に手を当て、何かをブツブツ言っている。

「何か面白いモノがとれないかしら」

 さすが先生、そうくると思った。先生が言っている「モノ」というのは、新規化合物のことである。僕は、あることを思いついた。

「先生、実はその店長に、初めて日本に入ってきた珍しい水草を買わないかと持ちかけられていまして」

「買えばいいじゃない」

「いや、その、それがまた物凄く高価な水草で」

 僕は先生に水草の値段を伝えた。彼女はクスリと笑う。

「それは高いわね。あなたの給料じゃ結構厳しいんじゃない?」

 ストレートな物言いに少し腹が立ったが、僕は作り笑いで続ける。

「それで、その」

 先生は少し考えた様子だったが、すぐにニヤリと笑って言った。

「そうね、研究費で買ってあげてもいいけど」

 やった! 上手くいった!

「ほ、本当ですか!」

 先生はふと立ち上がり、ベランダに出るガラス戸から外を眺めて、呟いた。

「しかし、よく降るわね。今日、帰れるかしら」

「え?」

 すると突然、彼女はカーテンをシャッと閉めた。部屋の中が薄暗くなる。

「せ、先生」

「村上くん、何か急に眠くなってきちゃった。少し横になってもいい?」

 そんなこと、急に言われても。僕は混乱した。

「は、はあ」

 戸惑う僕に、彼女はゆっくりと近づいてくる。

「それでね、ストッキングだけじゃなく、シャツもスカートも濡れて、気持ち悪いの。帰るまで干して乾かしておきたいな」

 僕は唾を飲み込む。何かおかしい。一歩後ずさりする。

「ど、どうぞ。あの、僕、ダイニングにいますから。えーと、ジャージか何か貸しましょうか?」

「ここにいなさい」

「はい?」

 彼女は、妖しい笑みを浮かべている。

「私が脱ぐところを、見てなさい」

 僕は耳を疑った。この人、正気か?

「な、何を言ってるんですか」

「あら、あなた。研究室で水槽の管理、したいんじゃなかったの?」

 僕は、頭をガツンと殴られたかのような衝撃を受けた。冴木先生、こういう人だったのか。

「せっかく、その高価な水草も買ってあげようと思ったのにねえ」

 彼女はクスクス笑った。

「そ、そんなこと言われても、お、おかしいじゃないですか」

 すると、彼女は人差し指でスッと僕の顎をなぞってきた。心臓が大きく波打つ。

「それとも、年増の女は好みじゃない?」

「そ、そういう問題じゃないでしょ。というか、先生は、素敵だと思います、けど、でも」

 僕も一体何を言ってるんだ。何だか、正常な判断ができなくなってきてるような気がする。

「そう。なら別にいいじゃない」

 そう言って、彼女はひらひらした薄いベージュのスカートを、ゆっくりとたくし上げ始めた。

「ちょ、ちょっと、待って」

 僕は、何かにつまずいて後ろ向きに転んでしまった。先生は、スカートを脱ぐと、仰向けになった僕に覆いかぶさってきた。

 僕は、はっとした。

 先生の目が、おかしい。黒目の部分が、何やら紫色に揺らめいている。

「先生、一体、どうしたんですか」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。先生は、一瞬動きを止める。僕は隙をついて先生から離れようとした。しかし、体を掴まれ、さらに手で口を塞がれる。

「静かにしてなさい。どうせ宅配便か何かでしょう」

 彼女はそう囁くと、僕の体を撫でまわし始めた。急激に抵抗する気力がなくなっていく。それどころか、下半身に違和感を感じ始めている。これはいけない。

「体は正直ね」先生はニヤニヤ笑う。

 玄関のチャイムが連打されている。と思ったら、今度は激しくドアを叩く音がし始めた。どうやら、宅配便ではなさそうだ。というか、誰でもいいから、助けてくれ!

 しかし、そんな願いも空しく、先生はシャツを脱ぎ始めた。下着だけの姿になった彼女は、僕の股間へと手を伸ばしていく。

 その時、カチャッと玄関の鍵が開く音がした。

 ドアが大きく開かれ、ガタンと大きな音が響く。何かが投げ込まれたようだ。先生は、目を丸くして玄関の方を見つめている。僕も何とか頑張って玄関の方に目をやった。

 玄関に置かれていたのは、大きなトランクだった。しかも、口が開いている。どこかで見たことのあるトランクだーーそうだ、思い出した!

 その瞬間、メイド姿の女の子が部屋に飛び込んできた。まぎれもなくミオコだ。

「クララ、やっちまいな!」

 ミオコは、こちらをびしっと指差し、声を張り上げた。すると、トランクから白い物体が飛び出してきた。

 あれは確か、クラゲのぬいぐるみの、クララだ。目にも止まらぬ速さで先生に飛びかかると、白色の閃光を放った。眩い光に目がくらむ。同時に、先生の悲鳴が響いた。

 ゆっくりと目を開けると、先生は僕の横に倒れていた。気を失っているようだ。

「やれやれ、まぎれもないド変態ね」

 顔を上げると、ミオコが憐みの表情を浮かべながら僕を見下ろしている。

「ち、違う! これは、せ、先生が勝手に!」

「分かってるわよ。その必死さが笑えてくるわ。ま、『ソコ』も見なかったことにしてあげる」

 ミオコは、手のひらを上に向けてクイッと人差し指を僕に向けてきた。その指差すほうへ目をやる。股間が、まるでテントを張ったように「ムクムク」していた。

「わわわわっ!」

 慌ててうずくまる。ミオコは、部屋とダイニングの間の柱にもたれかかり、大きくため息をついた。

「それで、この人誰?」

「誰って、僕の研究室の教授だよ。冴木先生」

 気を失っている冴木先生を見て、ミオコは感嘆の声をあげる。

「こんなに若いのに教授なの? やるぅ」

「優秀な人なんだよ。性格はちょっとキツイけど」

 僕は改めて先生を見つめた。それにしても、先生の様子はかなりおかしかった。何で僕を襲ってきたのだろう。そもそも、家に来たがる時点でおかしいとは思っていたのだが。

「ちょっと、ソウイチロウ」

 ミオコに目を向けると、彼女は苦い顔をしている。

「下着姿の女性を眺めるのは、そのくらいにしといたら」

 彼女にそう言われて、血の気が引いていくのが分かった。

「ご、ごめんなさい!」僕は先生から目をそらす。

「気を失ってるだけだろうから、今のうちに服を着せておかないと。このままじゃあんた、彼女に叫ばれちゃうわよ。変態! 変質者! って」

 ミオコは楽しそうに笑う。それは、困る。

「ど、どうしよう」

「ったく。世話が焼けるわね。私が服を着せてあげるから、あんたは向こうに行ってなさい!」

「は、はい!」

 僕は言われるがまま、ダイニングの壁にもたれかかった。入れ替わりに、ミオコが居間へと入る。

 ふと、玄関の方に気配を感じた。何やら、クスクスと笑う声が聞こえる。

 目をやると、蓋が開いたトランクの中から、見覚えのあるぬいぐるみたちが僕の方を見ていた。

「あ、こっち見た」

「元気ー?」

 とても賑やかだ。この前は、酔っぱらって夢でも見てるんじゃないかと思ったけど、やっぱり動いてる。これは現実だ。そういえば、ミオコはメイド服を着るとぬいぐるみに命を宿せるって言ってたっけ。それにしても、動くはずのない物が動いて、喋るはずのない物が喋るということは、こうも不思議な感覚なのか。

 あれ? そもそも何でここにミオコが?

「えーと、ミオコさん? どうして僕の家に来たの? というか、住所教えたっけ?」

 居間の方に向かって声をかけると、ミオコは答えた。

「は? 誰があんたのオタク部屋に来たがらなきゃなんないのよ。私はお姉ちゃんの店に行こうとしてただけ。そしたら長老が、この女の人が変だって言い出して」

 長老というのは、あのもじゃもじゃのぬいぐるみのことか。と思い出していると、ちょうどそのぬいぐるみがトランクから出てきた。

「よいしょっと。ふう。ごきげんよう」

「あ、ど、どうも」

「そうなんじゃ。何やら異様な気配を感じて、ミオコにトランクから出してもらったんじゃがの。そしたら、そこの婦人が紫色のオーラを出しながら歩いておった。後をついていってみると、この家の中に入っていってな。そしたら表札が『村上』となっておるではないか。まさかとは思うたんじゃが、やはりお主の家じゃったか」

 そうなのか。でも紫色のオーラって? そういえば。目も紫色に揺らめいていたな。

「あれ、でも玄関の鍵、閉めたと思ったけど」

「そんなときは、おいらの出番でやんす」

 長老の背後から、何やら緑色の細長いものが近づいてきた。それはヘビのぬいぐるみだった。ヘビといっても、小さい子どもが喜びそうな、可愛らしい感じのヘビだ。マンガのような赤い舌をピロピロ出している。

「へびすけでやんす。よろしくでやんす」

 やんす口調のへびすけは、ぺこりと頭を下げた。

「玄関のドアの郵便受けから、おじゃましたでやんす。そんでもって、鍵をガチャッと開けさせてもらったでやんす」

「な、なるほど。器用だね」

 居間から、ミオコの声がした。

「服を着せたから、こっちに来ても大丈夫よ」

 居間に戻ると、先生は元の通り服を着た状態で、ベッドに横たわり、目を閉じていた。

「あ、ありがとう」

 ミオコは、ふんと鼻を鳴らし、クッションにどっかりと腰を下ろす。

「喉渇いた。お茶淹れてよ。あと、お茶菓子」

 僕は言われるがままに台所に向かい、お茶の準備を始める。

「おーい、みんな。こっちに来なさい。お菓子がもらえるわよ」

 ミオコがそう言った瞬間、大きな歓声が上がり、トランクから沢山のぬいぐるみがぽんぽこ飛び出してきた。そして居間へとぽこぽこ入っていく。驚いて居間へ戻ると、部屋の中はぬいぐるみの無法地帯となっていた。

 恐る恐る、テーブルの上にお茶菓子を出す。

「どうぞ。えーと、かりんとう、知ってる?」

 すると、ぬいぐるみ達は一斉にかりんとうの山に群がった。すかさずミオコが叫ぶ。

「こらっ! 行儀が悪いわよ!」

 ぬいぐるみたちはぴたっと動きを止め、せーので「いただきます」と頭を下げる。

「ど、どうぞ、召し上がれ」

 そして、ワイワイとかりんとうを食べ始めた。そこには、あのジュゴンのぬいぐるみや、ヒツジのぬいぐるみもいた。全部で二十体くらいだろうか。

「お茶です」

 ミオコと長老にお茶を差し出す。

「ありがと」

「すまんのう」

 二人、いや、一人と一体は、目を細めてズズイとお茶をすすった。

 その時、あのサメのぬいぐるみが、水槽をジッと見つめているのに気が付いた。アベニー・パファーのテトロをはじめとして、水槽の中の魚が激しく動き回っている。

「こいつら、美味そうだな」サメのガブリエルは、ぼそっと呟く。

「いやいやいや、ちょっと、ちょっと待て!」

 僕は慌てて水槽の前に立ちはだかった。

「冗談だよ、食わねえってばよ」

 ミオコはクスクス笑う。

「やめなさい、ガブリエル。そのお魚さんたちはソウイチロウの数少ないお友達なんだから。そんな冗談は可哀相よ」

 僕はほっとして座りこんだ。ミオコはかりんとうを咥えながら、水槽を眺める。

「でもまあ、さすがに本格的ね。ちょっと感心しちゃった」

「そりゃどうも」

 彼女は部屋の中を見回す。

「しかも、何というかアレよね。気持ち悪いくらいに部屋の中が綺麗に片付いてるわよね。私の部屋なんか比べ物にならないくらい」

 いや、キミの部屋がキタナすぎなんだよ、と突っ込みたかったが、何とか我慢する。

「まあ、掃除とか片付けとか、好きなんで」

「あー、草食系男子ってやつね。いや、違うか。『男子』じゃないな。草食系オヤジね」

 相変わらずヒドイ言い草だ。

「それより、先生は大丈夫かな」

 冴木先生は、相変わらず目を閉じたままだ。

「大丈夫よ。しばらくしたら気が付くでしょ。あ、いけないけない」

 ミオコは何かを思い出したようにポシェットを開けた。

「これを飲ませないと」

 取り出したのは、茶色いアンプル瓶だった。先端をパキッと折ると、先生の口にゆっくりと流し込む。

「それは?」

「ああ、これはね、高野さんからもらったの。中身は何なのか知らないけど、氷室に洗脳された女の子に飲ませると、正気を取り戻すのよ」

 中身がどのような物質なのか非常に気になるところだが、それはいいとして。

「ということは、先生も氷室に洗脳されたのか?」

「ま、状況からしてそうじゃない? 何が狙いなのか知らないけど、この人にあなたをたぶらかさせようとしたんでしょうね。ひょっとしたら、最終的にはあんた、殺されてたかもしれないわねえ」

 よくもそんな恐ろしいことをサラッと言うよな。

「とろけるような甘い快楽に溺れたまま、息の根を止められるの。何だか素敵じゃない?」ミオコはうっとりしている。

「全然素敵じゃない」僕は大きく首を振る。

「ちなみに、正気を取り戻すのは一時的なので、あしからず」

「えっ!」そんな、まさか。「じゃ、じゃあ、そのうちまた元に戻っちゃうの?」

「そうよ」ミオコはさらりと答えた。「私が今まで相手した女の子も、全員そう」

「え? じゃあ、その娘たちはどうなったの?」

 すると、ミオコは僕の耳元で囁くように言った。

「実は、高野さんが働いてる施設で、『保護』してるのよ。行方不明のままという形で」

 僕は耳を疑った。そんなことをして、許されるのだろうか。

「私はしょうがないと思うけどね。だって、しばらくしたらまた姿を消して、氷室の元へ帰ってしまうのよ?」

「ま、まあ、それもそうか」

 ぬいぐるみたちは、相変わらず美味しそうにかりんとうを食べ続けている。気が付くと、ほとんどなくなっていた。東京駅で並んで買ったのに。まあ、いい。そんなことより、問題は冴木先生だ。

「でも、先生がまたおかしくなっちゃったら、僕はどうすればいいんだよ? 研究室に行くたび、今日みたいに、その、襲われたら、たまったもんじゃないよ」

「そんなこと、私が知る訳ないじゃないのよ」

 ミオコは、ボリンとかりんとうを噛み砕いて言い放った。しばらくして、長老が口を開いた。

「恐らくは、元凶をどうにかせねばならんのじゃろうな」

 やはり、そうなのかもしれない。それしか方法はないような気がする。

「氷室、か」

「そういえば、あんた。結局どうするのよ。高野さんに協力するの?」

 ミオコに訊かれて、僕は俯いた。

「いや、そのつもりはないよ。あれ以来、連絡もとってないし」

「やれやれ、やっぱり根に持ってるんだ。お姉ちゃんのこと」ミオコはため息をつく。

「クレハのことだけじゃない! 仕事のことにしたって、僕に嘘をついてたし」

「はー、ねちっこい」

 頭を抱えるミオコに、ジュゴンのステラが同調する。

「ホントにねちっこいわね。ミオコ、こんな奴ほっときなさいよ」

「言われなくてもほっとくわよ。こんな奴いなくても、私一人で万事解決なんだから」

 ミオコはベッドにもたれかかり、めんどくさそうに口だけでかりんとうを食べ進める。

 その時、ベッドの上で冴木先生が微かに呻いた。

「う……うう」

「ほら、気が付いたんじゃない?」

 ミオコは長老とアイコンタクトをとったようだ。長老はぬいぐるみたちに声をかける。

「みんな、トランクに戻るんじゃ。急げ!」

 すると、ぬいぐるみたちは慌ててテーブルから離れ始めた。残りのかりんとうを全部手に持っているところがちゃっかりしている。次々とトランクの中に飛び込んでいくのだが、何やら一体だけ動きの遅いぬいぐるみがいる。こいつもまたアザラシのような、オットセイのような。しかし、ジュゴンのぬいぐるみとはまた違うようだ。、小さなくりくりした目で、気の抜けた顔をしている。ぼへーっとした様子で、ゆっくりと宙に浮かび、トランクを目指していた。

 ジュゴンのステラが、トランクから飛び出した。

「あーもう! 遅いわよリナ! まったく世話の焼ける!」

 ステラは両手というか両ヒレで、リナと呼ばれたぬいぐるみをがしっと掴むと、素早くトランクへと飛び込んだ。

 最後に長老がトランクの中に入り、蓋を閉めた。

 その直後、冴木先生はゆっくりと体を起こした。頭を押さえ、顔を歪めている。

「いたたた」

「先生、大丈夫ですか?」僕は恐る恐る先生に近づく。

 彼女は僕の顔をじっと見つめながら、両目の間のあたりに指を持っていく。メガネをクイッと上げる癖が出たのだろう。

「何で村上くんが? ここは、どこ?」

 彼女は、部屋の中を見回した。見事なまでに記憶を失っているらしい。

「どこって、僕の家ですよ」

「あなたの家? 何で私、あなたの家にいるのよ」

「いや、あの、研究室に設置する水槽の参考にしたいということで、先生の希望で僕の家に来ることに」

 先生は首をかしげる。

「そうだったかしら……あれ?」

 彼女は自分の足に目をやると、慌てた様子で周りを見回す。

「どうして私、ストッキングを履いてないの?」

 本当だ。ストッキングは脱いだままだ。僕はミオコに目をやると、彼女は苦笑いを浮かべた。どうやら履かせ忘れたようだ。僕は慌てて弁解をする。

「そ、それはですね、雨で濡れて気持ち悪いということで、先生が自分で脱いだんです」

 先生はハッとしてスカートの中をまさぐる。そしてギロリと僕を睨んできた。

「あなた、もしかして」

「え? え? いや、いやいやいや」

 やばい、何か勘違いをしているようだ。

「大丈夫ですよ、先生。先生が寝ている間、私ここにずっといましたから」

 ミオコが絶妙なフォローをしてくれた。先生はミオコを睨む。

「あなたは、誰?」

 ミオコは、待ってましたとばかりにニコッと笑った。

「やだなあ、さっき自己紹介したじゃないですか。じゃあもう一度」

 ミオコは可愛らしい仕草で立ち上がり、黒のワンピースをひらひらさせた。

「はじめまして。私、ミオコです。ソウイチロウさんとお付き合いしている者です」

 うんうん、と僕は頷く。上手くごまかしてくれ。

 ……って、おい。

「ちょ、ちょっと! ミオコ!」

「冴木先生ですよね? ごめんなさい。ふと、ソウイチロウさんに会いたくなってしまって、いきなり来ちゃいました。先生がいらしてたなんて知らなくて」

 そう言って、ミオコは僕に寄り添ってきた。先生は目を丸くしている。ミオコは一体何を考えているんだ?

「村上くん、彼女いないって言ってたわよね?」

「え、いや、その」

「しかもあなた、いくつ?」

 先生は胡散臭そうにミオコを睨む。

「二十歳です」

「あなた、村上くんはもう三十近いのよ? 本気なの?」

 ミオコはすぐに頷いた。

「ええ、本気ですよ。それに、恋愛に年の差なんて関係ないっていうことは、先生がよくご存知のはずでは?」

 先生は顔をひきつらせている。ミオコはしたり顔だ。

「大体、村上くんも村上くんよ。こんな若い娘に手を出して。しかも何これ、メイド服? こんなの着させちゃって。そういう趣味だったの?」

「い、いや、その」

 なんて言い訳すればよいのか分からなくて悩んでいると、ミオコは強い口調で言った。

「先生、これは、私自身が着たくて着てるんです。馬鹿にしないでください」

 すると、先生は顔を赤くして立ち上がった。かなり怒っているようだ。

「せ、先生?」

「帰ります」

 そう言って先生はドカドカと玄関へ向かった。僕は慌てて後を追う。

「何よ、このトランク。邪魔ね」

 先生はミオコのトランクを足でどかすと、黙って白いハイヒールを履き始めた。

「あ、あの、先生。研究室の水槽の件は」

「知らないわよ、そんなこと!」

 そ、そんな。

「え、え、じゃあ、水草の件は」

「はあ? 何よ、水草って何の話? ああもうムカツク! じゃあね!」

 先生は、ドアをバタンと閉めて行ってしまった。僕は玄関にへたり込んだ。

「そんな……」

 ミオコが近づいてくる。

「やれやれ、帰った?」

「やれやれ、じゃないよ。怒らせちゃったじゃないか。大体……」

「大体、何よ?」

 僕は唾を飲み込む。

「僕たち、いつ付き合い始めたんだよ」

 途端に、ミオコは腹を抱えて笑い出した。

「はあ? そんなの嘘に決まってるでしょうが! 何を真に受けてんのよ」

 まあ、それはそうか。

「付き合ってる彼女がいると思わせれば、また正気を失っても、ひょっとしたら自制が効くんじゃないかと思ったのよ。まあ、無駄でしょうけど」

 なるほど、確かに。頭が働く娘だ。

「それにしても」ミオコは、笑い涙を拭く。

「あの人もかなりの変人ね。あんたみたいな男を好きになるなんて」

 確かにそうだ。氷室は一体、先生に何をしたんだろう?

「やっぱり、氷室を何とかしなきゃならないのかな」

 すると、ミオコはため息をついて首を振った。

「ちがーう。そういうことを言ってるんじゃない。ったく、どんだけ鈍い男なんだか」

 僕は訳も分からずミオコを見つめる。

「に、鈍いって何だよ」

「もういいわ。さて、じゃあ私はお姉ちゃんのカフェに行くから。あんたも来る?」

 僕はためらった。クレハには、会いたい気持ちにならない。

「いや、僕はやめとく」

 ミオコはエナメルシューズを履くと、トランクを持ち上げた。

「学校で、あの先生に襲われないようにせいぜい気を付けることね。私はもう助けてあげないわよ」

「き、気を付けるっていったって」

 外は、相変わらずしっかりとした雨が降っていた。湿った空気が漂ってくる。

「やれやれ、この雨には参っちゃうわ」

 ミオコは、白いフリフリの付いた黒い傘を手に取り、玄関を出る。

「じゃあね。幸運を祈る」

 彼女は憐みの目で僕をちらっと見ると、行ってしまった。


 次の日になっても、雨は降り続いていた。

 道の所々に、水が溜まってきている。側溝から溢れ出している所もある。東京二十三区西部と多摩地域の一部に、大雨洪水警報が出ているらしい。ところが、東京の東の方では晴れているらしく、訳の分からない天気だ。

 靴とジーパンをびしょ濡れにして、どうにかこうにか大学に辿りついた。正門近くの掲示板を見ると、雨の影響か普段より休講通知が多く掲示されている。化学棟に駆け込んで傘の水滴を払っていると、研究室の秘書、西山さんに出会った。

「おはようございます、西山さん。凄い雨ですね」

 彼女は、どちらかというと僕のことを認めてくれている女性だ。だから彼女の方から話しかけてきてくれるし、僕も話しやすい――のだが、今日は様子がおかしい。何やら気まずそうな顔をしている。

「村上さん、何があったんですか? 急でびっくりしたじゃないですか」

「え、何がですか?」

 すると彼女は周りを見回して、僕に近づいてきた。

「何って、その……」

 僕の耳元で囁く。

「研究室、辞めるんですよね?」

 え?

 辞める?

「辞めるって、何のことです?」

 西山さんは口に手を当て、目を丸くした。

「え? え? 先生から話があったんじゃないんですか? その……クビだって」

 その瞬間、やられた、と思った。まさか、そう来るとは。僕は階段を駆け上がり、五階の有機化学研究室を目指した。

 ノックもせずに教授室に飛び込むと、革張りの椅子に座った冴木先生が、ゆっくりと椅子を回転させてこちらに体を向けた。

「あら、村上くん。ちょうどよかったわ」

 先生は、嘲笑を浮かべてそう言った。僕はずんずんと先生に迫っていく。

「どういうことですか! いきなりクビだなんて!」

 その時、先生の目を見てハッとした。紫色だ。あの時と同じだ。

「どういうこと、じゃないわよ。私の研究室に、あなたみたいな全く成果を挙げないクズのポスドクを雇うだけの研究費がない、という、ただそれだけ。何か間違ってるかしら?」

 彼女はクスクスと笑う。確かに先生の言う通りだ。僕はこの研究室にとって、無駄な存在なのかもしれない。それは否定できない。でも。

「先生、目を覚ましてください! 先生は、『氷室』っていう男に操られているんですよ! どこかで会いましたよね? 覚えてませんか?」

「何を訳の分からないこと言ってるのよ? そんな男、知らないわねえ」

 そ、そんな。

 先生は、ゆっくりと立ち上がる。

「まあ、さすがに可哀相だから、考え直してあげてもいいけど?」

「ほ、ほんとですか?」

 彼女は、一歩ずつ僕に近づいてくる。

「ただし、条件があるわ」

 僕は後ずさりする。

「条件?」

「私のものになりなさい」

 次の瞬間、心臓が一度大きく波打った。

 苦しい。呼吸ができない。

 かと思うと、頭が真っ白になり、フッと楽になった。

「先生の……ものに……?」

 ニヤッと笑って、先生はスッと右手を出した。手の甲を僕に近付ける。

「さあ、契約の印として、口づけをするのよ」

 僕は何も考えることができず、ただ彼女の美しい手先に見惚れていた。そして、ゆっくりと彼女の手の甲に顔を近づける。

 その時、コンコン、という音が響いた。僕はハッとして顔を上げる。僕は一体、何をしているんだろうか。

 先生は、舌を鳴らした。

「邪魔が入ったわね」

 彼女の指が、僕の顎をなぞる。

「すぐに分かるわ。あなたには帰る場所さえない。すぐに私の元に戻って来ることになるのよ」

 先生は、何を言っているのだろうか。

「帰る場所がないって、どういう……」

 もう一度、ドアがノックされた。先生は不機嫌そうな声で答える。

「何の用?」

 ゆっくりとドアが開くと、研究室の学生が恐る恐る顔を出した。

「あ、あの、村上さんいますか?」

「あ、うん」

「あの、村上さんに至急会いたいっていう人が来てますけど」

 教授室から出ると、そこには田中さんの先輩、今井さんの姿があった。何やら顔が真っ青だ。

「どうしたの? 今井さん」

「村上さん、さ、サキが……」

 僕も顔から血が引いていくのが分かった。ゴクリと唾を飲み込む。

「た、田中さんが、どうかしたのかい?」

 今井さんの目に涙が滲む。

「サキが、病院から、いなくなっちゃった」

 僕は駆け出していた。無我夢中で階段を降り、化学棟を飛び出すと、土砂降りの中を走り出した。正門を抜けると、ちょうど来たタクシーの前に飛び出した。


 病院の玄関前には、赤色灯を載せた車が何台か停まっていた。エレベータで五階の病棟フロアに向かうと、日下部刑事と真木刑事の姿があった。

「刑事さん!」

「村上くん。来たか」

 僕は呼吸を落ち着かせてから、二人に訊ねた。

「田中さんは、どこに」

 二人は目を合わせると、真木刑事はゆっくりと答えた。

「病院を、抜け出したみたいなの。今、病院の付近を捜索しているところよ。この雨だし、まだそれほど遠くには行ってないと思う」

 何てことだ。僕は、激しい後悔の念に襲われた。田中さんは、氷室に連れ去られてしまったのだろう。

 いや、でも待てよ。

「抜け出した? さらわれたんじゃなくて?」

 真木刑事は頷く。

「ええ。彼女は一人でここから出て行ったの」

 僕は、はっとした。氷室の言葉を思い出した。

『可哀相に、彼女はやがて自分からキミの元を去ってしまうんだよ』

 僕は、その場に崩れた。何て無力なんだ、僕は。

 真木刑事が、肩に手を添えて優しく言う。

「あなた、彼女のことが好きなのね」

 僕は、頷いた。床に涙がこぼれおちる。

「大丈夫。絶対に私たちが見つけるから」

 しばらく真木刑事に背中をさすられると、気持ちが落ち着いてきた。そして、一つの疑問が浮かんだ。

「あの、警護の男性は、どうしたんですか」

 真木刑事は、困ったように日下部刑事を見上げる。日下部刑事は頷いた。

「そうだな、村上くんにも見てもらおう」

 二人に連れて行かれたのは、ナースステーションの奥だった。パソコンのモニターには、フロアの廊下の映像が映し出されている。防犯カメラの映像だろう。日下部刑事はマウスを動かし、データを再生した。

 映し出された映像には、見覚えのある男が映っていた。あの護衛の男だ。病室の前に立っている。恐らく田中さんの病室だろう。

「田中さんが抜け出した時の映像だ」

 しばらくすると、病室のドアがスライドした。護衛の男は、驚いた様子で振り返る。病室から出てきたのは、田中さんだった。しかも、彼女は病院の服ではなく、私服だ。いつもの「森ガール」的な格好だ。

 彼女は、男に向かって手を掲げた。次の瞬間、男は両手で首を押さえて体を震わせ始めた。しばらくすると男は手をだらんと下ろし、動かなくなった。そしてそのまま前のめりに倒れてしまった。

「な、何が起こったんですか?」

 日下部刑事は首を振る。

「いや、分からない」

 田中さんは辺りを見回すと、小走りでその場を離れ、画面から消えた。しばらくして看護師が男に駆け寄ってきた。そこで映像は止まった。

「か、彼は無事ですか?」

「ああ、気を失っているが、命に別条はないそうだ。ただ、彼の首には、手で絞められたような跡がある」

「でも、映像では、田中さんの手は彼の首に触れていませんでしたよね? それにそもそも、田中さんに彼みたいな男の首を絞められるとは思えません」

 日下部刑事は頷く。

「私だってそう思うよ。まったく、何が起こったのか……」

 映像を巻き戻して、もう一度見てみる。確かに、田中さんが手を掲げると、男は苦しみ出している。日下部刑事と真木刑事は難しい顔で映像を見つめる。何が起こったのかは分からないが、僕には思い当たる節があった。

 恐らく、氷室の仕業だろう。

 田中さんが襲われた時、氷室に何かを飲まされた。きっと、そのせいだ。彼女も、高野の言う「特殊な能力」を持ってしまったのではないだろうか。

 よし、と真木刑事が呟いた。

「考えててもしょうがないわ。私たちはこれから田中さんの自宅に行ってみるの。村上くんも一緒に来ない? あなたの家、隣でしょ? 雨もひどいし、乗っていくといいわ」

 僕は二人の好意に甘えることにした。ひょっとしたら、田中さんは家に帰っているかもしれない。

 病院のエントランスまで来たところで、携帯が鳴った。登録されていない番号だ。

「もしもし」

 電話の相手は、西荻窪警察署の刑事を名乗った。そして、信じられない話を聞かされた。

「村上くん、乗って」

 真木刑事は、後部座席のドアを開けた。

「? どうしたの?」

 僕は、呆然と真木刑事を見つめる。

「僕の部屋が、荒らされてるって……」


 西荻窪まで戻ると、アパートの前にパトカーや赤色灯の付いた白いバンが停まっていた。車を降りて部屋に急ぐと、管理人のおばさんが若い男性と話していた。管理人さんは僕の姿を見るや否や、顔をしかめて怒鳴った。

「ちょっと村上さん! どういうことよ!」

「ど、どういうことって」

「あんなバカでかい水槽、しかも三つも置いちゃって! 下の階に水漏れしちゃったのよ!」

 え?

「水漏れって、まさか」

「すぐに出てってもらうからね!」

 血相を変えて怒る管理人さんを、若い男性がなだめる。

「まあまあ、落ち着いて。あなたが村上さん? 私、連絡した西荻窪署の……って、ちょっとちょっと!」

 僕は彼の話を無視して、部屋の中に入ろうとした。彼は僕の前に立ちはだかる。

「待ちなさい! 現場を荒しちゃダメだよ!」

「どいてください! 水槽は、水槽はどうなってるんですか!」

「水槽は、三つともひっくり返されてる」

 僕は彼を突き飛ばして、土足のまま部屋に上がった。ダイニングからして、すでにメチャクチャだ。テーブルはひっくり返され、食器棚から皿が落ちて割れている。

 恐る恐る居間へと向かうと、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。

「そ、そんな」

 水槽は床に横倒しになり、大きな水たまりを作っている。そこに、動かなくなってしまった魚たちが点々と横たわっていた。

「嘘だろ」

 信じられない。今まで可愛がってきた、親友同然の魚たちが、全て死んでしまっている。僕は水たまりに膝をつき、震える手でそのうちの一匹をすくった。

 それは、アベニー・パファーのテトロだった。

 涙が溢れ出した。気が付くと、僕は大声で叫んでいた。


 目の前に、コーヒーが差し出された。良い香りに、幾分か心が落ち着く。

「どうぞ」

 クレハは優しく言った。

 事件の翌日、僕はクレハのカフェ「feuille rougies(フィユ・ルジー)」に高野を呼び出した。相変わらず雨は降りっぱなしで、近くを流れる善福寺川も氾濫の可能性が出てきているらしい。店の前の道路も、側溝に水が流れきらずに川のように流れている。

 こんな天気だからか、カフェは開店しているものの、他に客はいない。テーブル席の向かいには高野が座っている。テーブルに肘をついて指を組んで、思案顔をしている。

 カウンター席には、ミオコが座っている。彼女も頬杖をついて何かを考えているようだ。しかし、メイド服ではなく普通の格好だ。普通とは言っても、袖にフリルの付いた白のブラウスに、バッセルというのだろうか、ふんわりと広がった黒と白の重ねスカートをはいている。全く違和感がないところが、ミオコらしい。今日は平日だが、中央線が雨の影響で運転を見合わせている上、洪水の危険もあるということで、大学は全学で休講となったそうだ。

 高野が口を開く。

「田中さんの件は、本当にすまない。俺のミスだ」

 僕は、コーヒーカップの中の褐色の液体を見つめる。

「いや、高野のせいじゃない。僕のせいだ。僕に彼女を守る力がないからだ」

 結局、田中さんは自宅に戻らなかった。目撃情報もない。恐らく、氷室の元へと行ってしまったのだろう。

「なあ、高野」

 僕は、高野の目をしっかりと見据えて、言った。覚悟は出来ていた。

「氷室を捕まえる、手伝いをさせてくれ」

 高野は目を見開く。

「本当か」

 僕は、拳を強く握りしめた。

「あいつは、僕から全てを奪った。田中さんだけじゃない。ポスドクの仕事も、住む所も、魚たちも。大切なものを、全部失ってしまったんだ。せめて、田中さんのことは助けたい。それに」

 僕は、氷室の言葉を思い出した。ミオコに目をやる。彼女は不思議そうに僕を睨み返してきた。

『彼女も、いずれ私のものにさせてもらうよ』

 そんなこと、させてたまるか。

「どうした、村上」

 高野の言葉に我に返る。

「いや、何でもない。とにかく、僕にも何かさせてくれ。例の薬の実験台だって、何だってやる」

「……分かった」

 高野はコーヒーを一口すすると、窓の外を眺めた。雨が滝のように降り、辺り一面真っ白になっている。

「実は、ちょっと急がなくてはならないんだ」

「どういうことだよ?」

「この『雨』だ」

 雨が、どうしたのだろうか。しばらく考えて、もしやと思うことがあった。

「もしかして、この雨も?」

 高野は頷く。

「そうだ。我々の調査の結果、この異常な雨も、氷室に洗脳された女の子の仕業だということが判明した」

 そうなのか。確かに、最近の雨は降り方がおかしい。新宿のあたりを境にして、西の方だけに雨雲が停滞しているのだ。雲の様子がテレビでも話題になり、異常気象と騒がれつつあった。

「どうやらその娘は、帝都女子大の学生らしい。文学部の娘だそうだ」

 そういえば、帝都女子大で何人か行方不明になっている女の子の一人が、文学部生だったような気がする。

「ミオコちゃんと同学年らしい」

 僕は、ミオコに目をやった。

「知ってる娘?」

 ミオコは返事をしなかった。何やら憂鬱そうだ。高野は続ける。

「彼女は、井の頭公園の付近で目撃されている」

 井の頭公園か。近いな。

 高野は鋭い視線で僕を見る。

「このまま雨が降り続けば、水害はもちろんのこと、日常生活に混乱が生じる。場合によっては感染症がまん延する危険もある。そこで、村上。お前には、例の薬を飲んで、ミオコちゃんをフォローし、文学部の彼女を止めてほしい。そして、氷室に関する手掛かりを掴んでほしい」

 僕は意を決して頷いた。

「分かった。やらせてくれ」

「よし。そうと決まれば、これから一緒に俺の研究施設に来てくれ。例の薬の改良版を試してもらう」

 高野は携帯を取り出して、どこかに電話をし始めた。

 クレハが僕に近付いてくる。

「あの、惣市郎さん」

「あ、ああ。何?」僕は彼女と目を合わすことができない。

「住まいのほうは、大丈夫ですか?」

 昨日、水槽の中に入っていた膨大な量の水がぶちまけられたことで、階下の部屋が水漏れ被害を受けた。契約違反ということで、今月いっぱいでの退去通告を突きつけられたのだ。

「いや、困ってるんだ。ポスドクをクビになっちゃったし、正直どうしたもんだか。仕事も探さないと」

 頭が痛い。貯金もほとんどないし、この歳になって親に頼るのも気が引ける。というか、実家にはクビになったことを言ってないし。

 僕は頭を抱えた。住所不定無職、とは正にこのことではないか。

「あの、もしよければ」

 いつの間にか、クレハが僕の隣に寄り添っていた。僕は驚いて彼女から離れる。

「このお店でアルバイトしませんか?」

 クレハは、優しく微笑んだ。

「えっ?」

 全く予想外の提案だった。電話を切った高野は、ぎょっとした顔をしている。ミオコはカウンター席の椅子から慌てて立ち上がった。

「ちょっと、お姉ちゃん!」

「次の仕事が見つかるまでの間、週休二日、一日五時間勤務でどうですか? このお店も少しずつお客さんが増えていて、私一人で運営するのがだんだん大変になってきてたから、ちょうどいいわ」

 高野は困惑気味だ。

「紅葉さん、本気ですか?」

 しかし、クレハは平然としている。

「私は本気です。そもそも、高野さん。本来なら、惣市郎さんを巻き込んでしまったあなたが何とかしてあげるべきじゃありませんか?」

「そ、それは確かに、できることなら私の組織で雇うとか、公務員宿舎に住まわせるとかしてやりたいのですが……協力費を出すくらいしか私にはできないのです」

 それを聞いたクレハは、小さくため息をついた。

「どうですか? 惣市郎さん。やってみませんか?」

 僕は少し考える。

「でも、アルバイトといっても、塾の講師とかスーパーのレジ打ちなんかをやったことがあるくらいで、カフェで働いたことなんかないし」

「大丈夫ですよ、村上さんなら。あ、そうそう」

 クレハはミオコにちらっと目をやる。

「このお店、二階は部屋になっていて、普段私が寝泊まりしてるんです。しばらくの間、ここで暮らしませんか? 私と二人だと、狭いかもしれませんけどね」

 僕と高野とミオコは、ほぼ同時に「ええっ」と叫んだ。

 いやいやいや。僕は手と首をブルブル振る。

「さ、さすがにそれは、ちょっと」

 すると、ミオコがカウンターを両手でバン、と叩いた。しばらく俯いていたが、何か思いついたかのように顔を上げる。

「ソウイチロウ、私の家で暮らしなさい」

 僕は、さらに驚かされた。

「な、何を言ってるんだよ」

「家賃と光熱費、それに食費もタダにするわ。そうすれば、この店のバイト代は、好きなことに使えるでしょ? アクアリウムとか、ね」ミオコはニヤリと笑う。

 正直言うと、それはかなり魅力的な話だ。

「たーだーし。あんたには、井之上家の使用人になってもらうわ」

 使用人?

「うちのお手伝いさんの根岸さん、体を壊しちゃって、今月いっぱいで辞めちゃうの。あんたには根岸さんの代わりに使用人部屋に住んでもらって、掃除洗濯炊事、その他諸々バッチリ働いてもらうのよ! いいアイデアだと思わない?」

 何だか、ミオコの目が生き生きしている。

「おお、それはいいアイデアだね」高野が同調する。ったく、こいつは。

「と、いうことなんだけど、いいよね? お姉ちゃん」

 勝ち誇った顔のミオコに、クレハは渋々頷く。

「まあ、ね。惣市郎さんがそれでいいなら」

 ミオコは僕のほうをギッと睨んできた。ゆっくりと近付いてきたかと思うと、いきなり胸ぐらを掴んだ。

「それでいい、わよね?」

「は、はい。もちろんです。ごめんなさい」

 なぜか謝る自分が、そこにいた。


 黒塗りの車に乗り、高野に連れられて着いた先は、立川だった。不思議なことに、国分寺を過ぎたあたりで急に雨雲が途切れて、青い空が広がった。この異常な雨を降らせているらしい女の子が井の頭公園のあたりにいるのであれば、なるほど納得がいく。

 整然と区画整理された広大な敷地に、比較的新しい建物がいくつもそびえている。僕は基本的に出不精で、休日も中野くらいしか行かないので、立川には来たことがなかった。想像と違って何だか近未来的な光景に、僕は感心していた。

 高野が窓の外に目をやりながら、説明する。

「ここは立川の広域防災基地だ。陸自の駐屯地をはじめとして、警察や消防、裁判所、それに政府の施設等が集まっている。もし首都直下地震が起きたりして都心方面が壊滅状態になった場合、都心の機能が復旧するまでの臨時拠点となる所なんだ」

 雑木林の向こうで、ヘリコプターが離陸して上昇していくのが見える。恐らくヘリポートがあるのだろう。

 車は、大通りに面した小さなビルのある敷地の中に入っていく。そして、玄関の前で停止した。

 運転手が後部座席を開け、高野の後に続いて車を降りる。

「え、ここ?」

「そうだ」高野は軽く笑みを浮かべると、自動ドアを通り建物の中に入っていく。ドアの脇に立つガードマンが敬礼をする。壁には「立川テクノ株式会社」と表示された看板が掲げられていた。

 こじんまりとしたロビーに受付があって、そこには受付嬢らしき女性が二人座っている。二人とも、驚くような美しさだ。高野が近づくと、彼女たちはにこやかに会釈をした。

「お帰りなさいませ」

「ああ」

 高野は、受付台の上にある小さな装置の上に手をかざす。しばらくして、ピッと音が鳴った。そして彼は僕のほうを見た。

「彼は、ムラカミソウイチロウ。政府の許可を得ている。管理番号は、Aの18472」

 すると受付嬢は手元のキーボードを素早く叩き、にこやかに答えた。

「ムラカミソウイチロウ様。確認いたしました。こちらを首からお下げください」

 差し出されたストラップ付きのIDカードのようなものを受け取ると、僕は言われたとおりに首に下げた。

「よし、行くぞ」

 高野は、受付台の向こうに見えるオフィスのほうではなく、なぜかロビーの奥の方に歩いていく。

「あ、あれ?」

 僕は慌てて彼の後をついていく。彼の向かう細い廊下には、トイレの表示しかない。つきあたりは非常口のようだ。廊下を歩く高野は、しばらくして立ち止まった。そこには、何の変哲もない銀色のドアがあった。何かの設備室のようだ。高野は、厳しい顔で後ろを振り返る。そして、ゆっくりとそのドアを開けた。

 ドアの向こうにあったのは、階段だった。非常階段だろうか。照明が薄暗い。高野は、上の階ではなく地下へと降りていく。そして階段を降りた先には、何やら頑丈そうなドアがあった。扉の脇に、受付台の上にあった装置と似たようなものが備え付けられている。高野はそこに手をかざした。彼の手をよく見ると、中指に何やら指輪のようなものがはめられている。

 ドアが静かにスライドして開いた。高野の後についてドアをくぐると、すぐにドアは閉まった。そして、目の前にはエレベータがあった。エレベータに乗ると、どうやら下へ降りていっているようだった。

「高野、ここは……」僕は恐る恐る訊ねる。

「ああ。さっきの会社は、ダミーだ。だが、経営実態はちゃんとある。俺の研究施設の『入口』としてだけ作られた会社なんだ」

 僕は唖然とした。

「これから行く施設は、存在が公になっていない。さらに、氷室のような敵に襲撃されるわけにもいかない。入り口は、ああいう風にせざるを得なかったんだ」

 なるほど。確かに、大々的に例のエネルギーの研究施設を作るわけにもいかないし、もしどんな施設なのかを隠して作ったとしても、警備を超厳重なものにすればそれだけで怪しい。彼の言うことはもっともだった。

「ちなみに、さっきの受付嬢は陸自の特殊部隊の隊員だ」

「ええっ!」

 それはさすがに冗談だろ、と思った。美人なのはともかく、あんな華奢な体で特殊部隊の隊員なはずがない。高野は僕の気持ちを察したのか、苦笑して言った。

「特殊部隊といっても、肉弾戦をするような部隊じゃない。彼女たちは、例のエネルギーを利用して武装しているんだ。まあ、理解できないだろうが」

 彼の言うように、僕にはさっぱり理解できない。

「帰り際、無駄に声をかけない方がいいぞ。痛い目を見るからな」高野はクックックと笑う。

 どのくらい降下したのだろうか。エレベータの扉が開き、その向こうにあった光景を見て、僕は声を失った。

 そこには、細長い通路があった。物凄い奥行きだ。あまりに距離があって、奥がどうなっているのか分からない。そこに、新宿や東京駅なんかにある「動く歩道」が設置されている。

「ど、どこまで続いてるんだよ、これ」

「まあ、後で説明するよ。とりあえずこれに乗ってくれ。あ、そうそう。しっかり手すりにつかまれよ。危ないから」

 危ないといっても、その動く歩道のスピードはかなりのんびりしたものだ。むしろ、こんなスピードで果たして終点にいつ着くのだろうか。そんなことを思いながら、僕は高野の後に続いて動く歩道に足を踏み入れた。その瞬間。

「あ、あれ?」

 気が付くと、動く歩道は終点まで来ていた。

「え? え?」

 僕は訳が分からず動く歩道を降りると、後ろを振り向く。後ろには、やはり物凄い奥行きの通路が続いている。

「この動く歩道にも、例のエネルギーが使われているんだ。分野が違うから、俺には上手く説明できないけどな」

 通路の終点には、大きなドアがあった。ここでも、高野はドアの脇の装置に手をかざす。ドアがゆっくりと開いた。

「ようこそ、我々の研究所へ」

 目の前には、広大なスペースが広がっていた。広いだけでなく、天井もかなり高い。所々に、見たこともない巨大な分析装置のようなものが設置してある。さらに、白衣を着た研究者らしき人の姿も見てとれる。

「凄い……」

 僕は、呆然としてその広大なフロアを眺めた。

「ここは、ちょうど昭和記念公園の真下にあたる場所だ。さっき通った動く歩道のある通路は、ちょうど立川駐屯地の下を通っているんだ」

 高野はゆっくりと歩き出す。

「そもそも、例のエネルギーの名前を言っていなかったな。我々が研究しているエネルギーを、我々は『術場エネルギー』と呼んでいる」

「じゅつば?」

「そう。魔術の『術』に、場所の『場』だ。発見者がそう命名したことに由来している。ちなみに英語でそのまま magic field energy とも呼ぶ」

 最先端の技術に、魔術とか、マジックとかいう言葉が使われているのが何だか不思議だ。

「だから、この研究所は『術場研究所』という名称で、MAgic Field Research Instituteの頭文字をとって俗にMAFRIマフリと呼ばれている」

 高野は、この研究所の所長なのだという。

「その『術場』っていうのは、誰が発見したんだ?」

「帝都大の、仲村雄一郎という無名の助教授だ。もう死んでしまったけどな」

 仲村雄一郎。理論物理学が専門のその研究者は、七年前には「術場」という概念を完成させていた。その革新的な発見が「日本復活の起爆剤になる」と確信した彼は、教授にすら自分の研究成果について明らかにせず、独自のツテを頼って政府に連携を打診した。しかしその直後に自殺してしまったそうだ。

「それを、彼の研究室の愛弟子が引き継ぐことになった。仲村助教授は、その愛弟子にだけは、『術場』について語っていたんだ」

 高野は立ち止まり、僕を振り返った。

「それが、氷室だ」

「何だって?」

「マフリが創設されたのは五年前。氷室は、俺と同じくこのマフリの創設メンバーの一人だった。しかし、一昨年に姿を消してしまった。それまでに得られた高度な技術情報を手にして、な」

 前から、実験メガネをかけた女性が歩いてくる。

「所長、お疲れ様です」

 彼女の着る白衣は、薄汚れていた。恐らく、彼女は「合成屋」だろう。

「検見川さん、彼が、例の村上だよ」

「ああ、どうも」

 検見川と呼ばれた彼女は、無表情で小さく会釈した。同い年くらいだろうか。

「彼女は検見川さん。化学ユニットのリーダーだ」

「化学ユニット?」

「ああ、この『マフリ』は、物理、化学、医学などといったセクションに分かれていて、それぞれの分野で術場エネルギーの応用を研究しているんだ。化学ユニットでは、主に新規素材の開発研究を行っている。彼女は、その全てを取り仕切っているんだ」

 高野はそう説明したが、検見川さんは特に何の反応も見せず、髪を後ろで束ねただけの頭をボリボリと掻いた。

「検見川さん、また泊まりこんだの?」

「ええ、帰るのが面倒なので」

 検見川さんは、ぶっきらぼうに答えた。

「せめてデスクで突っ伏して寝るんじゃなく、カプセルで休んだらどうだい? 風邪ひくよ。それに、検見川さんは女性なんだから」

「心配しないでください。私を襲う人なんていないでしょ? そんなことより、実験の準備ができてますので、こちらへどうぞ」

 検見川さんは白衣のポケットに手を突っ込むと、くるっと回れ右をして、つかつかと歩いていった。高野は小声で言う。

「彼女、あんな感じだが、かなり有能な合成化学者なんだ」

「うん、分かる。いるよな、ああいうタイプの研究者」

 すると、彼女が振り向いた。

「何か言いました?」

 僕と高野は、笑ってごまかす。

 彼女の後についていくと、見覚えのある機械が目に飛び込んできた。

「NMRだ」

 NMR――核磁気共鳴装置は、有機化合物の分析に用いる装置だ。未知化合物の構造決定をしたり、有機合成において得られた生成物の確認に用いたりもする。病院にあるMRIも、全く別物ではあるが同じ原理を利用した装置だ。

「でも、見たことないな。どこのメーカーのNMRだろう?」

「うちで開発したんだ」

 高野の言葉に僕は耳を疑った。自前でNMRを作れるのか? この施設は。安い物でも一台数千万円するような機械なのに。

「結構コンパクトだけど、磁場はどのくらい?」

 すると、検見川さんがさらっと言った。

「一万テスラ」

「はあ?」

 僕は立ち止まった。思わず笑ってしまう。

「そんなバカな。技術的に無理でしょ。最近ようやく百テスラの磁場が発生できるようになったっていうのに」

 検見川さんは目を細めて僕を見る。

「私、冗談を言うような人間に見える? 冗談なんて、何の意味ももたないのに」

「いや、だって……」

 高野が苦笑する。

「まあ待て村上。本当に一万テスラ機なんだ。お前、自分がどこにいるのか、まだよく理解してないみたいだな」

 全身に鳥肌が立つのが分かった。そうか、これも「術場エネルギー」とかいうやつなのか。高野は続ける。

「身体への影響は心配いらない。術場を利用して防磁処理してあるからな」

 メイド服を着るとぬいぐるみが動くとか、そんなことよりも何よりも、僕は衝撃を受けた。

「そ、それが本当なら、科学の世界に大革命が起きるぞ」

 高野は大笑いする。

「やっぱり分かってないな。超高磁場の達成どころの話じゃないんだよ、これは」

 確かに、高野の言う通りだ。よく分からないが、このエネルギーを社会のあらゆる分野で応用することができれば、とてつもないイノベーションが起こるに違いない。

 NMRのある場所を離れ、しばらく行くと、自動ドアがあった。中は小部屋で、大きなガラスに仕切られた向こうに、やや広めの空間がある。スタジオのような作りだ。

「村上さん、中に入って。真ん中に椅子が置いてあるので、そこに座って」

 検見川さんは機械的な口調で言った。僕は、言われた通りにガラスの向こう側の部屋へ移動する。

 パイプ椅子に座ってしばらくすると、検見川さんが部屋に入ってきた。椅子の脇にある机に、水の入ったグラスを置く。そして、僕にカプセルのようなものを差し出した。

「はい、これ。あなたが飲んだものの改良版よ。恐らく副作用は起きないと思う」

 彼女は部屋を出て、マイクのようなものを握った。

「じゃあ、飲んでください」

 天井に付けられたスピーカーから、彼女の声が響く。彼女の隣で、高野が腰に手を当てて立っている。僕のほうを見て、頷いた。

 僕はカプセルを見つめ、田中さんのことを頭に思い浮かべた。そして、思い切って口に入れ、水を流し込む。

 心臓が鼓動を打っている。どのくらいの時間が経っただろうか。五分は経っていないと思うが。

 おかしい。変化が感じられない。あの時は、例の薬を飲んですぐに変化が現れたはずだ。しかし今回は、何も起きない。

「どう? 何か変化はある?」検見川さんの声が響く。少し心配そうだ。

「いや、特に何も。前回は、飲んですぐに頭が冴えわたって、体が軽くなるような感じがあったんだけど」

 検見川さんは、高野と何か話している。しばらくして、二人とも僕がいる部屋に入ってきて僕に近づいてきた。

「やはりダメか」高野は浮かない表情で首を振る。

「所長、ごめんなさい。原因が分かりません」検見川さんは口を尖らせて俯く。

「いや、いいんだ、検見川さん」

「ラットでの実験では、村上さんが見つけた化合物と同じように、特異行動が起きることを確認済みなのですが」

 高野は腕組みをする。

「実はな村上。その薬、前もって俺も飲んでみたんだ。だが、何も起きなかった。どうやら、ヒトには効果がないらしい」

「え? じゃあ何で、あの時の僕には効果が現れたんだ?」

「うん、だからひょっとすると、お前には特異的に効くものなのかもしれない、と思っていたんだが……」

 高野はうーんと唸って黙りこんでしまった。検見川さんが、口を開いた。

「あの、一つ試したいことがあるんですが」

 そう言って、彼女は部屋から出て行った。しばらくして、彼女は紙袋を持って戻ってきた。

「村上さん、これを着てもらえる?」

 紙袋から出てきたのは、オレンジ色のもふもふした物だった。

「それは、もしかして」

「そう、クマの着ぐるみ。通販で買ってみたの」

 高野は頷いた。

「なるほど。そういうことか。そういえば、あの時お前はクマの着ぐるみを着ていたという話だったな」

 僕は困惑した。

「いや、そうだけど、でも着ぐるみは関係ないんじゃないかな」

「私もそう思うわ。科学的に説明がつかないし。でも、少しでも可能性があるなら試しておきたいのよ」

 検見川さんの言ってることは分からなくもない。僕はダメもとで着ぐるみを着てみることにした。

「持続時間から考えて、新たに薬を飲む必要はないと思うわ」

 着ぐるみを着て、頭の部分を被り、しばらく待ってみる。

「あれ?」

 わずかに変化を感じたような気がした。何となく、体が軽いような気がする。これは、いけるかもしれない。パンチを繰り出してみる。すると、普段では考えられないようなスピードで腕が動いた。次はキック。足が高く上がる。そして回し蹴り。

「おおっ」

 高野は歓声をあげた。恐らく、着ぐるみとは思えないような素早い動きをしているように見えるのだろう。

 しかし、前回と何か違う。僕は、部屋の壁に向かって走り出した。あの日、生物学棟の階段を上る時に、壁を走るという荒技ができたはずだ。僕は打ちっぱなしのコンクリートの壁に跳びあがり、足をついた。そして、一歩、二歩……。

「とっとっと!」

 バランスを崩し、床に転げ落ちてしまった。

「大丈夫かっ」

 高野と検見川さんが走り寄ってくる。背中を強く打ってしまったようで、かなり痛い。

「いたたたた」

 しかも前回は、足の痛みや氷室に首を絞められた時の痛みが、すぐに引いていったはずだ。しかし今回は、なかなか痛みが引かない。高野が着ぐるみの頭部を外す。

「村上、しっかりしろ」

「何か、おかしい。確かに運動能力は上がるけど、あの時ほどじゃないんだ」

 その日の実験は、そこで終了となった。着ぐるみを脱ぎ、休憩をとることになった。化学ユニットの事務室のような所で、検見川さんがお茶を出してくれた。

「まさか、着ぐるみが関係してるなんて」

 検見川さんは目を輝かせてブツブツ独り言を言っている。とても嬉しそうだ。

「所長、何とかなるかもしれません。着ぐるみを含めて今後実験を続けます」

「検見川さん、よろしく頼むよ」

 その時、事務室に誰かが入ってきた。

「所長、失礼します」

 それは、スーツ姿の美しい女性だった。

「柴原さん」

 彼女は僕に目をやると、微笑んだ。

「あなたが村上くんね? よろしく」すらっと伸びる美しい手が差し出され、僕は慌てて彼女と握手を交わす。

「彼女は副所長の柴原さんだ」

 艶めかしい唇の脇に、小さなホクロがある。微かに爽やかな香水の香りが漂う。雰囲気は冴木先生に似ているが、この人は先生と違い温かい雰囲気がする。冴木先生と歳は同じくらいだろうか。

 おもむろに検見川さんが椅子から立ち、その場を離れようとした。

「検見川さん」

 柴原さんに呼び止められ、彼女はびくっと立ち止まる。

「また泊まり込んだんですってね。あなたはこの研究所の貴重な人材なんだから、体を壊してもらっては困るの。無理をしないようにね」

「……はい」検見川さんは柴原さんと目を合わさず、そのまま部屋から出て行った。

 柴原さんはにこやかな表情で高野に視線を戻す。

「ところで所長、『彼女たち』の所へは案内したのですか?」

「いえ、これからです」

 彼女たちというのは、ミオコが言っていた、保護された女性たちのことだった。柴原さんは、僕に微笑みかける。

「私もご一緒します」


 案内されたのは、さっき実験を行ったのと同じような部屋だった。しかし、ガラスの向こう側にあるのはまるで「病室」のような空間だ。いくつものベッドが壁に沿って並べられ、それぞれに病院服を着た人が横たわっている。

「氷室に連れ去られて洗脳された娘たちよ」

 柴原さんは、彼女たちを見つめながら言った。身体を起こして虚ろな表情をしている娘もいれば、横になって動かない娘もいる。

「彼女たちの手首のあたり、見える?」

 柴原さんに言われて、僕は頷く。

「はい。えーと、何か、ブレスレットのようなものを付けてますね」

「そう。あれは、彼女たちの『能力』を制御するための装置なの。さらに、この部屋全体に強力な術場をかけて、彼女たちが覚醒しないようにしながら保護しているのよ」

 全部で二十人くらいだろうか、彼女たちの顔を見つめる。みんな、美しい顔をしているが、全く生気がない。それにしても、本当にこの娘たちに社会を混乱させるだけの能力があるのだろうか。俄かには信じられない。

「村上、手前のほうに、目を閉じて横になっている娘がいるだろう?」

 高野が指差すベッドに目をやると、高校生くらいの可愛らしい女の子が横たわっていた。眠っているのかどうか分からないが、その穏やかな顔は、まるで天使のようだ。

 高野は、彼女を見つめながら言った。

「彼女、もう長くはない」

 僕は耳を疑った。

「そんな」

「彼女だけじゃない。この中の何人かは、危険な状況なんだ。氷室の洗脳に、身体が適合できなかったんだろう」

 柴原さんが続ける。

「でもね、その逆の娘たちもいるのよ」

「逆?」

 気のせいか、柴原さんは口元に微かに笑みを浮かべているように見える。

「あそこで身体を起こしている娘。彼女、食事も睡眠も全くとらないの。少なくとも彼女がここに来てからずっと。およそ三カ月かしら」

 そんな馬鹿な。

「でも、身体の状態に変化が見られない。正確に言うと、『細胞レベルで全く変化が見られない』のよ」

「それは、もしかして……」

 柴原さんは、ニコリと笑った。

「そう。安っぽい言葉で言えば、氷室は術場エネルギーを利用して、『不老長寿』ないしは『不老不死』の技術を確立している可能性があるのよ。凄いと思わない?」

 何だか頭がクラクラしてきた。途方もない話だ。でも。

 僕は、余命残りわずかな女の子に視線を戻した。その瞬間、心臓が止まりそうになった。その娘はいつの間にか目を開き、横になりながら僕を見つめていたのだ。目が合ったその時、彼女は優しく微笑んだ。

「ああ……」

 僕に見えていたのは、田中さんの優しい笑顔だった。田中さんも、この娘と同じように命を落としてしまうのか。それとも、歳をとることもなく、永遠に生き続けていくのだろうか。そんなことがあっていいのか。

 吐き気を覚えた僕は、部屋から飛び出した。通路に手をついて倒れ込む。通りかかった研究者が驚いた様子で立ち止まる。

「村上! 大丈夫か!」

 高野が僕の肩を支えようとする。僕は、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。そして、急に涙が溢れてきた。

「う……うう」

「村上、聞いてくれ。今、彼女たちを救うために万全の態勢で研究を行っているんだ。あの娘を助けることはできないかもしれないが、他の娘たちを氷室のマインドコントロールから解放する方法は、きっと見つかる。見つけてみせる」

 高野は、しっかりと僕の肩を掴む。

「もちろん、田中さんもだ。絶対に彼女を見つけ出して、救い出してみせる。信じてくれ」

 僕は、高野の腕の中でしばらく泣き続けた。


 五月が終わろうとしている。

 数日前、ようやく雨が小降りになった。しかし、その直後に濃霧が発生し、かえって見通しがきかなくなってしまった。息苦しくなるくらい、空気が重い。

 クレハの店「フィユ・ルジー」の前の道は、雨で十センチくらい水没している。店は、数日前から休業中だ。客なんて来るはずがない。というのも、井の頭公園を中心とした半径五キロのエリアは霧が特にひどく、外を歩くことすら不可能な状態だからだ。中央線も終日運転を見合わせていて、東京はかなり混乱していた。

 テレビはこぞって異常気象の特集を放送し、インターネット上では今回の異常気象の原因が盛んに話題になり、一人の女子大生が絡んでいるのでは、というような鋭い情報も流れ始めていた。

 そこで、高野はこれ以上時間をかけられないと判断し、今日を作戦の決行日と決めたのだった。

「う……あ……いい」

 僕は、店のソファに横になって快楽に溺れていた。

「気持ちいいよ……クレハ……」

「そうですか。よかった。じゃあ、ここは?」

 クレハがそう囁くと、更なる快楽の波が襲ってきた。

「あ……ああ、い、いたたたた」僕はソファから飛び起きた。

「あ、ごめんなさいっ! 痛かったですか?」

「うん、ちょっとね」

「ここは、胃の反射区です。胃腸がお疲れのようですね、惣市郎さま」クレハはニコリと微笑んだ。

 やっぱり、クレハのリフレクソロジー(足裏マッサージ)は最高だ。

「ありがとう。まさか、またクレハのリフレを受けられるとは思わなかったよ」

「おやすい御用です。いつでもしてさしあげますよ」

 クレハはカウンターに戻ると、コーヒーの準備をし始めた。

 数日前から、僕は「フィユ・ルジー」でアルバイトを始めていた。とはいっても休業中で仕事らしい仕事もしていない。ひとまず店の前に土嚢を積んで、後は簡単な接客の練習やコーヒーの淹れ方などを学んでいた。

 家に帰るのも危険な状態なので、ここ数日は店で寝泊まりしている。もちろん、二階でクレハと一緒に寝るのではなく、店内のソファで寝ているのだが。

「それにしても、二階でお布団で寝たほうが、疲れがとれるんじゃないですか?」

 クレハはコーヒーを差し出す。

「いや、だから、そういう訳にもいかないよね」

 苦笑いしながらコーヒーをすすると、クレハは残念そうに呟く。

「この事件が解決したら、ミオコと一緒に住むんですよね」

 僕はハッとした。

「あ、あの、僕がここで寝泊まりしてること、ミオコに言ってないよね?」

「大丈夫ですよ。言ってません」クレハはくすくす笑う。よかった。何だかよく分からないけど、よかった。すると、クレハは僕の耳元で囁いた。

「もちろん、高野さんにも内緒ですからね」

 僕は、ドキッとして彼女を見つめた。エプロンをしたクレハが、悪戯っぽく微笑む。

「え、あ、そうだよね」

 僕がクレハの店に寝泊まりしていることを高野が知ったら、どう思うだろうか。

「それにしても、高野はこの霧の中どうやって来るつもりだろう? いつもの黒塗りの車ってわけにもいかないよなあ」

 ちょうどその時、店の外で車の音が聞こえた。ロールスクリーンを少し上げて外を覗きこむと、車のライトのような光が微かに見える。

「ええっ?」

 僕は思わずドアを開けて外に飛び出た。道路に溜まった雨水が、土嚢の間から少しずつ流れ込んでいる。が、そんなことより、僕は目の前に停まる車に近付いて驚いた。

 何と言ったらいいのだろうか、車のある部分だけ、「霧の層がすっぽり抜け落ちている」のだ。

「な、何だ?」

 その時、運転席のドアが少し開いた。中から出てきたのは、高野だった。いつものように上等なスーツを着ている。彼は傘も差さずに、しかも溜まった水へ足を下ろそうとした。あいつ、何を考えて……。

 そして、僕は目を疑った。

 高野が足を踏み入れた部分の水が、サッと消えてなくなったのだ。消えてなくなったというより、彼の足を「避けた」と言ったほうが正しいかもしれない。

「待たせたな、村上」

 高野は、一歩、また一歩と近付いてくる。そのたびに、彼の足元から水が「避けて」いく。しかも、もう一つおかしいことに気付いた。この雨の中、傘も差していないのに、高野の体は全く濡れていない。目を凝らすと、彼の体に落ちる雨粒が、彼の体の表面から何センチかのところで何かに跳ね返っている。何かに……って、何に跳ね返っているんだ?

「これも術場エネルギーを利用しているんだ。パウリの排他原理を知っているか? まあ、いい。とりあえず店の中に入ろう」

 店の中に入った高野の体を見てみると、どこも濡れていない。革靴もスーツも、全く濡れていないのだ。

「こんにちは、紅葉さん」

 高野はクレハに微笑みかける。

「こんにちは、高野さん。ミオコの所はこれからですか?」

「いえ、先に迎えに行ってきました。車の中で待ってますよ」

 そうなのか。僕は窓から車の様子を見てみようとしたが、車が全く見えない。

「あら、少し休んでコーヒーを飲んでいけばいいのに。私、呼んできます」

 高野は慌ててクレハを止める。

「いや、やめておいたほうがいいです。何だか、今日はいつも以上に不機嫌なようで」

 僕は思わず「えっ」と呟いた。

「あまり待たせると怖いからな。村上、とりあえずこれを足首に付けてくれ。どちらの足でもいい」

 高野はスーツの内ポケットを探ると、金属の輪のようなものを取り出した。もちろん、僕もミオコを怒らせたくないので、高野に言われた通りに急いで足首にそれを取り付ける。金属のようではあるが、重くないし冷たさは感じない。高野がそのリングを触ると、薄い紫色の光を放ち始めた。

「説明をしてる暇がない。さっき、お前が見たような現象を起こす装置だ。お前ならすぐに慣れると思う」

 何だかよく分からないが、恐らく傘は必要ないに違いない。

「では、紅葉さん。行ってきます」

「行ってらっしゃい。ミオコにもよろしく伝えてください」

 高野の後に続いて店を出ようとすると、「惣市郎さん」とクレハに呼びとめられた。彼女は僕の手を握り締める。不安そうな目だ。

「無理はしないでください。そして、ミオコをよろしくお願いします」

 僕は彼女の目を見つめると、大きく頷いた。

「うん。心配しないで」

 店の外に出ると、足首まではあると思われる水を見て躊躇してしまった。高野はすいすいと水の中を歩いていく。

「大丈夫だ! ゆっくり一歩踏み出してみろ!」

 僕は覚悟を決めて思い切り水に足を踏み入れた。

「おおっ」

 すると、気持ち良いほどに水が避けていく。これは、面白い。そして、ふと空を見上げてみた。弱いながらも雨は相変わらず降っているのだが、顔に水滴が当たらない。それどころか、目の前で水滴が弾き返されている。今まで味わったことのない、不思議な感覚だ。

「さあ、早く車に乗ってくれ! 助手席だ!」

 高野に急かされて助手席のドアを開ける。すると、後部座席のほうから怒鳴り声が響いた。

「いつまで待たせるのよ! さっさとしなさいよソウイチロウ! グズは嫌いよ!」

 心臓が止まるかと思った。恐る恐る後部座席に目をやると、メイド姿のミオコがふんぞり返っていた。

「ご、ごめんなさい」僕はそそくさと助手席に乗り込む。

「ふん」ミオコは耳にイヤホンを装着した。

「よし、じゃあ行くぞ」

 高野はそう言ってアクセルをゆっくりと踏みこんだ。車はそろそろと動き出す。クレハの見送る「フィユ・ルジー」を離れると、冠水した細い道を抜けていく。

「それにしてもこれ、運転、難しくないか?」

 あまりに濃い霧のせいで、一メートル先すら見えない。すると高野は笑った。

「まあ、見てろって」

 彼は、フロントパネルにあるスイッチのようなものを押した。その瞬間、車の前方の霧が、魔法のように消え去ってしまった。三十メートルくらい先まで、ヘッドライトに照らされた部分の霧が「切り開かれて」いる。これは、まるであれだ。

「何というか……モーゼの十戒だな」

 僕が呟くと、ミオコが思い切り吹き出した。

「何言ってんのよ」

 車は、井の頭通りと思われる通りに入った。相変わらず人の気配はない。

「そうだ。コンソールボックスに例の薬が入っている。飲んでおいてくれ。水もある」

 高野の言う通り、コンソールボックスにはカプセルが入った袋があった。

「お前が研究所に来た日から、検見川さんが不眠不休で改良してくれた薬だ。実験はしていないが、可能な限りの力は引き出せると思う。後ろに着ぐるみも置いてある」

 確かに、ミオコが座る横には、ぬいぐるみが入っているであろう大きなトランクと、その隣にオレンジ色のもふもふした物が置いてある。着ぐるみのようだ。

「着ぐるみも、我が研究所が総力を結集して改良したものだ。きっと良い結果が出るだろう」

 高野は自信満々に言った。

「そ、そうか」

 ちらりとミオコに目をやる。憂鬱そうな瞳で、窓の外を眺めている。それにしても、見事なまでのメイド姿だ。白と黒に包まれる透き通るような肌。凛とした雰囲気。桜色の唇。ふと、あの夜の出来事を思い出してしまい、心臓が高鳴る。僕の視線に気付いたのか、ギロリと睨んできた。

「何よ」

「ごめんなさい、何でもありません」僕は体を前に戻す。危ない危ない。

「ねえ、ソウイチロウ。あんた」ミオコはイヤホンを外す。

「ご、ごめんなさい」

「……ったく、何でいちいち謝るのよ。そうじゃなくてあんた、いつウチに来るの?」

 え?

「え? じゃないわよ。ウチに住みなさいって言ったでしょ?」

「え、ああ、そうだったね」

 高野がニヤニヤしながら僕とミオコのやりとりを聞いている。

「さっさと引っ越してきなさいよ。飲む相手がいなくてつまんないの」

 この飲んだくれ女子大生は……と言いたいところをぐっと堪える。

「こ、こんな天気で、引っ越しできる訳ないだろ?」

「ふん。まあ、それもそうね。じゃあ、これが済んだらすぐに来なさいよ」

 何だか急に憂鬱になってきた。正直言うと、クレハの店で彼女と一緒に暮らすほうがいいんだけど……。

「返事は?」ミオコが睨む。

「は、はい!」

 高野が小さく笑う。ミオコは再び窓の外に視線を戻して、呟いた。

「だから……死ぬんじゃないわよ」

 心臓が大きく波打つ。予想外の言葉だった。僕は無意識に答えていた。

「キミも」

 ミオコはほんの一瞬目を見開いて、すぐに吹き出した。

「私が死ぬわけないでしょ」

 

 車は駅前の交差点を左折すると、公園の池へと向かう細い道を入っていく。坂を下っていくと、車止めがある公園の入り口で高野は車を止めた。なだらかな坂を、雨水が川のように流れていく。木々の隙間から、井の頭池が見える。どうやら、公園の中はそれほど霧はひどくないようだ。

「車はここまでだな。目標の女の子は、あの池の付近で目撃されている。今でもこの辺りにいる可能性が高い。この場所を拠点にする。捜索を開始してくれ」

 高野はミオコに体を向ける。

「ミオコちゃん、くれぐれも無理しないで」

「大丈夫。私に任せて」ミオコはニコッと微笑むと、すぐに真剣な表情に戻り、僕を睨んできた。

「ソウイチロウ、先に行ってるわよ。早く着替えて追いつきなさい」

 ミオコはトランクを手に取ると、ドアを開けて車の外へ飛び出た。白いフリフリの付いた黒い傘を開く。が、どうやら彼女もあのリングを足首に付けているのだろう。降り注ぐ雨水が、傘に当たらずに弾き返されている。トランクも同様だ。よく分からないが、身に付ける物や手に持っている物にもその効果は現れるのかもしれない。

「さあ村上、早く着替えないと、またミオコちゃんにドヤされるぞ」

 高野は何だか楽しそうだ。

「くそ、他人事だと思って」

 僕は後部座席に移動すると、オレンジ色の着ぐるみに腕を通した。見た目は高野の研究所「マフリ」で着たものと同じ、クマの着ぐるみだ。頭の部分を被ると、早速変化があった。頭の中が冴えわたり、それまで多少なりともあった緊張感がすっかり消え、心が落ち着いていく。着ぐるみを着ている違和感も全くない。

「どうだ? いけそうか」

 高野が心配そうに僕を見る。

「ああ、これは、いけそうな気がする」

 一体この着ぐるみにどのような工夫をしたのか分からないけど、やるな。検見川さん。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「村上、待て」

 車を出ようとして、高野に呼び止められた。

「ミオコちゃんを頼む」

「分かってる。守ってみせるよ」

「いや、そうじゃない。今回の相手は、どうやら彼女の友達のようなんだ。詳しくは話してくれないんだが、つらいに違いない。可能な限りフォローしてあげてくれ」

 そうか、やっぱり。ミオコの憂鬱そうな顔が思い出される。

「……分かった」

 車の外に出ると、軽く柔軟体操をして、その場で跳躍してみた。体が物凄く軽い。車の屋根の高さを余裕で越えることができる。高野は僕の様子を見て驚いているようだ。

 ミオコが向かった方向へ走り出す。まるで空を飛んでいるかのような身軽さだ。あっという間に彼女の姿が見えた。僕の姿を見て、彼女は顔をしかめる。

「その格好で、物凄いスピードで近付いてこないでよ! 純粋に怖いわ」

「だって、早く追いつけって言ったのはキミだろ?」

「ああもう、ウザイ。やだやだ」

 池のほとりの歩道はほとんど水没していて、どこが陸地でどこからが池なのかよく分からず、ちょっと危険な状態だ。しかし、ミオコはずんずんと先へ進んでいく。リングの効果で、彼女の周囲の水が引いていく。

「さっきの交差点の近くに本店があるんだけど、この先に焼き鳥の美味しい店があるのよ。有名でしょ?」

「ああ、そういえば聞いたことあるね」

「たまに飲みに来てるから、こんな状態でも池に落ちることはないわ。勘で歩けるわよ」

 この娘、吉祥寺でも飲み歩いてるのか。まあそれはいいとして、確かにミオコは足を踏み外すことなく歩いていく。

「すっごーい! ちょっと、あれ見てよ!」

 ミオコが指差す方向に、浮島のようなものがある。しかし、何かおかしい。両側に、ずっと柵のようなものが伸びている。どうやら、向こう岸へ渡る橋が水没していて、中間にある展望スペースのような場所だけがかろうじて沈んでいないらしい。

 彼女は足取り軽く、柵に挟まれた空間――橋があると思われる部分――を渡る。彼女が歩く部分だけ橋が姿を現す。何だか神秘的な光景だ。僕は、傘を差してルンルン歩くメイドに見惚れながら後をついていく。

「あははっ。おもしろーい」

 橋の上を、池の鯉が横切る。ミオコが近づくと、鯉は慌てて池へと戻っていく。

 展望スペースの所まで来ると彼女は立ち止まり、雨に煙る池を見渡す。それまで笑顔を見せていたミオコだったが、再び憂鬱そうな表情に戻っていた。

 僕も池を見渡す。この公園のどこかに、これから戦う女の子がいるのだろう。

「……友達なんだって?」

 僕はミオコに訊ねた。彼女は黙っていたが、しばらくして目を合わさずに呟いた。

「友達『だった』の」

 だった、ということは、今は友達じゃないということなのだろうか。

「あの娘は、私を友達だったとさえ思ってないだろうけど」

「ちなみに、その娘の名前は?」

「……ユキエ」

 ミオコは再び歩き出し、ゆっくりと橋を渡りきった。橋を渡った先には、ボート乗り場へと通じる建物があった。売店と一緒になっているが、ここも人の気配がない。

 すると、突然ミオコは言った。

「ねえ、ボート乗ろうか」

「はあ?」

 何を考えているんだ? この娘は。

「いや、あの、それどころじゃないような気が。というか、営業してないし」

 ボート乗り場に通じる通路は閉められている。

「まあ、そりゃそうよね」

「しかも、カップルが乗ると別れるっていう都市伝説があるよね」

 ミオコは醒めた目で僕を見る。

「私たち、いつからカップルになったのよ? むしろ、あんたと縁が切れるんなら喜んで乗るわ」

 そりゃそうだ。彼女の言っていることは正しい。

 その時だ。ミオコが今来た橋のほうを睨む。

「来たわね」

 人のようだ。四人くらいだろうか。白いコートのようなものを着ている。池に沈んだ橋の上を、ゆっくりとこっちへ向かって歩いてくる。

「何だ? あいつら」

 彼らが着ているのは、まぎれもなく白衣だ。しかも、実験の時に付ける保護メガネをしている。化学系の研究室の学生のようだが、何か違和感がある。理系男子とは思えないほど、全員体格が良い。

 ミオコは失笑する。

「まったく。趣味の悪い『親衛隊』だこと」

 そうか、こいつらが高野の言っていた氷室の親衛隊か。元軍人もいるとか言ってたな。

「囲まれたわね」

 反対側の橋からも、白衣の男たちが近付いてくる。ボート乗り場の向かいにある自然文化園の分園も閉鎖されているため、逃げ場がない。

 白衣の集団が、急に走り出した。僕はミオコの前に出る。

「僕に任せて。キミは下がってて」

 ミオコは吹き出す。

「だから、その格好でそういうセリフ言わないでよ」

 彼女は売店の前に置いてあるベンチに、ゆっくりと腰を下ろした。

「まあ、お手並み拝見ね」

 白衣の男たちの動きは素早かった。一人が、瞬く間に僕との間合いを詰めてくる。そして、目にも止まらぬ速さで蹴りを繰り出してきた。速い。何とか避ける。あれ? 何かおかしい。氷室と戦った時ほど、素早く動けない。

 男は、間髪入れずに突きを連発してくる。やばい。避けるので精一杯だ。

 隙をついて男の懐に入り、思い切り男を突き飛ばした。次の瞬間、後ろから別の男が飛び蹴りをしてきた。

「ぐっ」背中に激痛が走る。地面を転がり、倒れ込んでしまった。すぐに男たちに囲まれる。

「ちょっと! 何やってるのよ!」ミオコの声が響く。

「だ、ダメだ。前みたいな力が出ない」

「はあっ? ったく、使えない男ね!」

 彼女が頭を抱えているのが見える。すると、男たちの中の数人が彼女に近付いていく。

「ミオコ! 危ない!」

 僕は声を絞り出して叫ぶと、ミオコは男たちを睨みながらトランクを地面に寝かせた。ぬいぐるみを出すつもりだ。しかし、いくら「あいつら」の力を使ったところで、勝てそうな相手ではない。

 痛みが引いてきた。タイミングを計って素早く立ち上がる。

「うおおおおおっ」

 猛烈な勢いで男たちに突進し、跳ね飛ばしていく。僕はそのままトランクを掴み、呆然としているミオコを両手で抱えた。いつぞやのように、お姫様だっこだ。

「ひゃうっ!」ミオコは情けない声を上げる。

 あの時より重く感じるのは、トランクを持っているせいもあるとは思うが

、やはり能力が完全に出せていないからだろう。しかし、僕は彼女に殴られるのを覚悟で訊ねた。

「もしかして、太った?」

 ミオコは顔をひきつらせて微笑む。

「あんたは絶対に、私が殺す」

 やっぱり言わないほうがよかった。

 白衣の男たちは、ゆっくりと間合いを詰めてくる。

「だから、ここはひとまず生きて帰るわよ」

「了解」

 男たちが飛びかかってきた。僕は瞬時に踏ん張ると、思いっきりジャンプした。何とか建物の屋根の上に着地する。ジャンプ力もイマイチだ。僕は気を取り直してボート乗り場の方へと走る。そのまま建物を飛び降りると、ボートの前でミオコを降ろした。そして先にボートに乗り込むと、彼女に手を差し出す。

「さあ、乗って」

「はあ? 何バカなこと言ってんのよ!」

「さっき乗ろうとか言ってたじゃないか。いいから早く!」

 白衣の男たちが、通路の柵を飛び越えてこちらに向かってくる。ミオコは困惑の表情を浮かべてトランクを掴み、ボートに乗り込んだ。

「しっかり掴まってて」

「こんなので逃げ切れるわけないでしょ!」

 僕は構わずオールを漕ぎだした。ボートはゆっくりと桟橋から離れていく。

「遅っ! ちょっと! どうするのよ!」

 僕は一度深呼吸をし、少しずつオールの回転数を上げていく。一掻きごとに、ありったけの力を込める。すると、ボートは滑るように動き出し、あっという間にボート乗り場から遠ざかっていった。

「ちょっと! 速いっ! 怖い!」ミオコが叫ぶ。

 遅いとか速いとかうるさい奴だ。しかし、確かに速い。今ならオリンピックのボート競技で優勝できるんじゃないだろうか。

 白衣の男たちは、慌ててボートに乗り込んでいる。さすがに屈強なだけあって、彼らのボートもそれなりのスピードが出ているようだ。

「こんな狭い公園じゃ、逃げててもどうしようもないわ」

 ミオコは何かを思いついたようにトランクを開けた。

「ガブリエル! 出てらっしゃい!」

「うっしゃあー!」

 豪快な声とともに飛び出てきたのは、サメのガブリエルだった。

「暴れていいんだな、ミオコ」

「ええ、相手はあのボートに乗った奴らよ。思う存分暴れてきなさい」

「ひゃっほう!」

 ガブリエルは空中でくるくる回ると、そのまま池の中に飛び込んだ。しばらくすると、水面に三角形の背びれが現れた。有名なサメ映画のワンシーンのようだ。しかし、何かおかしい。あの背びれは、明らかにデカい。ガブリエルの背びれには見えない。

 次の瞬間、水しぶきを上げてサメが一台のボートに襲いかかった。巨大化したガブリエルだ。本物のハンマーヘッドシャークより大きい。むしろ、ジンベエザメくらいあるのではないだろうか。白衣の男たちが悲鳴を上げる。ボートはひっくり返り、男たちは池に投げ出される。ガブリエルは他のボートにも次々に襲いかかった。

「奴らはガブリエルに任せて、早くユキエを探しましょう」

「えーと、念のため訊くけど……」

「大丈夫よ。人は喰わないから。あの子、ああ見えて結構グルメなの。そういえば、あの子の好物知ってる?」

「いや、知らない」

「八ツ橋よ。京都名物の。あの子、甘党なのよ」

 ミオコは笑う。

 池の東の端まで来ると、僕たちはボートを降りて公園の中を歩き始めた。

「公園の端の方まで来ちゃったね。ユキエちゃんだっけ? その娘、どこにいるんだろう?」

 井の頭公園と一口に言っても、吉祥寺通りを挟んで反対側に井の頭自然文化園もあるし、南に離れた所に競技場もある。もしかしたら、池の近くにはいないかもしれない。

 ふとミオコに目をやると、何だか憂鬱そうな顔をしている。

「引き返そうか。動物園の方にいるかもしれないし。この先は行き止まりだしね」

 しかし、ミオコは何も言わずに先に進んでいく。

「ミオコ、ちょ、ちょっと!」

 彼女は、神田川の流れる三角公園の近くまで来て、立ち止まった。

「どうしたんだよ、ミオコ」

 彼女の視線の先に、ベンチに座る人影があった。この雨の中、傘も差さずに雨に濡れている。何かの本を読んでいるようだ。

 その時だった。

 ミオコが、メロディを口ずさんだ。これは、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だ。

 ベンチに座っていたのは、ツインテールで、メガネをかけた女の子だった。

 その女の子は、ゆっくりと立ち上がる。よく見ると、彼女は「雨に濡れて」いない。雨の雫は、僕たちと同じように体の直前で跳ね返されている。

「やっと来た」

 小さな声だった。ミオコと彼女は、しばらく睨みあう。

「久しぶりね」

 その女の子は、憐みの目でミオコを見つめる。

「相変わらずのようね。井之上さん」

 ミオコは、ゆっくりと彼女に近づく。

「井之上さん、か」一瞬、寂しそうな顔を浮かべる。

 どうやら彼女がユキエのようだ。真面目で知的な感じの、普通の女の子だ。彼女が、この異常気象を起こしているというのだろうか。何だか信じられない。

 その時、彼女の目を見て僕はハッとした。黒目が紫色に揺らめいている。

「冴木先生と、同じだ」

「マインドコントロールされてるのよ、氷室に」

 ミオコは、ゆっくりとトランクを置く。

「さあ、あんたは下がってなさい」

「えっ、僕も協力するよ」

「いいから! これは私の戦いなの」

 ミオコは僕を見つめ、自分に言い聞かせるかのようにそう言った。

「あの白衣の連中が来たら、よろしくね」

「あ、ああ。分かった」

 僕が後ろに下がると、ユキエはクスクスと笑い出した。

「何? そこのクマ。可愛い」

 彼女は手を広げ、僕を優しく見つめてくる。

「こっちにおいで」

 その時、心臓が大きく波打った。瞬間的に呼吸ができなくなる。

「くっ……!」

 あの時と同じだ。研究室で冴木先生に誘惑された時と。

「ちょっと! ソウイチロウ?」ミオコは僕の肩を揺する。しかし、言葉が出ない。

「世話が焼けるわねっ!」

 彼女はトランクを開けた。

「みんな、いくわよ!」

 眩い光とともに、あのぬいぐるみたちが次々と飛び出してくる。真っ先にユキエに向かっていくのは、クラゲのぬいぐるみ「クララ」だ。物凄い速さでユキエに接近すると、白色の閃光を放った。

 ユキエは右手を突き出す。すると、青白い光は彼女の前で弾き返されてしまった。その瞬間、僕は我に返った。

「気が付いた? 彼女と目を合わせないで!」

 ミオコは僕をかばうようにユキエに向かって立ちはだかる。

「あらあら、ひょっとして、新しいオトコ?」

 ユキエの問いかけに、ミオコは吐き捨てるように答える。

「冗談言わないで。ただのオタクのオッサンよ」

 だから、オッサンはやめてほしいんだけど。

「その人も、殺してしまう訳? あの人と同じように」

 ミオコは、拳を握り締めている。一体ユキエは何を言っているんだろう? 殺すって、僕を?

「あなたこそ、氷室とかいう頭のおかしい変態男に騙されちゃって。可哀相な人ね」

 すると、ユキエが体を震わせ始めた。俯いて、低い唸り声を上げる。

「ううううううううっ! あんたは、絶対に、許さないっ!」

 彼女の周りに、霧のような白い渦が集まる。周囲の木々が大きな音を上げて揺れ始める。猛烈な風だ。

「いかんっ! みんな、トランクに戻るんじゃ!」長老が叫ぶ。

 ユキエは、大きく手を広げた。

「このっ、魔女がああああああああっ!」

 次の瞬間、ユキエの体から無数の水滴が飛び散った。まるで爆風のような強い力に押される。僕は吹き飛ばされないように踏ん張ってみたものの、あえなく背後の茂みに吹き飛ばされてしまった。

 しばらくして、辺りに静けさが戻った。

「いたたたた」

 すぐそばで、ひつじのアリエスが目を回して倒れている。

「お、おい、アリエスくん。大丈夫か?」

「え、ええ。私は何とか。自慢のウールがクッションになったようです。そちらは?」

「僕も大丈夫。着ぐるみを着てるからね」

 それよりも、ミオコは? 彼女は無事だろうか。

 吹き飛ばされる直前、ユキエは確か「魔女」と言っていた。どういうことなんだろう。ミオコのことなんだろうか。彼女が、魔女?

 僕はアリエスを抱えて茂みを抜ける。広場には、ユキエが立っている。彼女の視線の先には、ベンチに座るミオコの姿があった。

「ミオコっ!」

 腕をだらんとさせて、俯いている。返事がない。気を失っているのだろうか。よく見ると、彼女の白い頬を一筋の血が伝っている。頭から出血しているようだ。

「あら、あなたは無事だったの?」

 ユキエが目を細めて笑う。

「ミオコから離れろ!」

「ふふ、勇ましいクマさんだこと。大丈夫よ。彼女はそう簡単に死なないから。というか、簡単に死んでもらっては困るわ」

 背後に人の気配を感じる。振り返ると、白衣の男たちが広場の周りを囲んでいた。体がびしょ濡れだ。池から這い上がってきたのだろう。

 その中の一人が、片手に何かを掴んでいる。それは、ガブリエルだった。

「は、離しやがれ……」

「ガブさんがやられた。こ、これはまずいですよ」

 アリエスはぶるぶると震えている。

「あの、ソウイチロウさん。私を地面に降ろしていただけますか?」

 僕はアリエスを離した。

「トランクを探してきます。すぐに戻ってきますので、それまでどうか無事でいてください」

 アリエスは茂みの中に戻っていく。

 さて、どうしようか。白衣の男たちは、全部で十人くらい。正直、勝てる気がしない。

 その時、ユキエが声をかけてきた。

「あなた、村上惣市郎ね?」

 一瞬ためらったが、答えることにした。

「……ああ」

「氷室さまが、手強い奴だとおっしゃっていたわ。でも」

 彼女の瞳が、より一層紫色に燃え上がる。

 しまった。目が合って……

「うあっ!」

 急に胸が苦しくなる。

「私の力の前には、所詮こんなものよ」

「……ばか」ミオコがうっすらと目を開けて、小さく呟く。

「さあ、そこでその着ぐるみを脱ぎなさい」

 何も考えられない。僕はただ、ユキエに言われるがままにクマの頭を脱いだ。

「あら、いい男」

 胴体も脱ぐ。急激に力が抜けていく。前回ほどではないが、やはり副作用が出ているようだ。

 着ぐるみを脱いでパンツ一枚になった僕を見て、白衣の男たちから失笑が漏れる。

「私の所に来なさい」

 ユキエの言葉に、心臓が大きく波打つ。体が勝手に動く。

「ミオコ、あなたのことは殺してやりたいほどに憎い。でもね、殺さずに氷室さまのもとへお届けしなければならないの」

 ユキエは僕の体を妖しく撫でまわし、首筋に舌を這わせる。ミオコに見せつけるかのように。

「この男は、殺すわ。でも、その前に」

 彼女は僕の股間に手を伸ばす。しかし、何も考えることができない。

「思う存分楽しませてもらうわ。ミオコ、あなたの目の前でね」

「ふ……ざけないで」

 ミオコは、体を震わせながら呟く。

「あははははっ! いい気味ね」

 ユキエは白衣の男たちに向かって言った。

「勝負はもうついたわ。あなたたちは、周囲を見張っていなさい。すぐ終わるから」

 男たちは、ニヤニヤしながらその場を離れていく。

「さて、これで邪魔は入らないわ。『ソウイチロウ』、私と気持ちいいことしましょ?」

 ユキエは僕に唇を重ねる。ミオコは目を背ける。

「そして、絶頂の瞬間に、殺してあげる。最高だと思わない?」ユキエは無邪気に笑う。

 その時だった。

 茂みの方から、サッカーボールくらいの光の塊が飛び出した。真っ直ぐユキエへと向かってくる。

「くっ!」

 ユキエは僕を突き離し、何とかそれをかわす。地面に倒れた弾みで僕ははっと我に返った。

 茂みから飛び出てきたのは、高野だ。

 彼は両手で銃を構え、ユキエに銃口を向けた。……ように見えたのだが、彼の手には何もない。人差し指を伸ばしているだけだ。まるで、子どものピストルごっこのように。

 しかし次の瞬間、高野の指の先から、さっきと同じ光の塊が放たれた。

 ユキエは両手を突き出すと、それを受け止めた。物凄い衝撃音だ。彼女は足を踏ん張って全力で受け止めている。

「だ、誰だ! くだらない真似を」

 もう一人、茂みから飛び出してきた。白衣を着たその女性に、見覚えがある。高野の研究所の検見川さんだ。ジュラルミンケースを手にして、僕のほうへ駆け寄ってくる。高野は絶え間なく光の弾を「撃ち」、検見川さんをバックアップする。

「検見川さん」

 彼女はジュラルミンケースを置き、手早く開ける。中に入っていたのは、クマの着ぐるみだった。

「説明してる暇はないわ。早くこれを着て」

 さっきまで着ていた着ぐるみと、大して違いはないように見える。僕は、鉛のように重い体を起こし、着ぐるみに足を通し始めた。

 その時、白衣の男たちが広場に走り戻ってきた。彼らは二手に分かれ、高野と検見川さんに向かって突進してくる。ピンチだ。

「検見川さん、ダメだ、逃げて!」

 次の瞬間、白い閃光が辺りを包んだ。

「うああああっ!」

 男たちが動きを止める。眩い光の中から、ぬいぐるみたちが姿を現した。ジュゴンのステラが、ガブリエルを捕らえた男に体当たりをする。隙をついてガブリエルが逃れる。白い閃光は、どうやらクララ自慢の放電らしい。

「ガブリエル、大丈夫?」

「おう、ありがとよ。ステラ」

 ステラは大声で言った。

「さあ、みんな! 思いっきり暴れるわよ!」

 ぬいぐるみたちは一斉に声を上げ、男たちに襲いかかった。

 僕はしばらくその様子を眺めていたが、突然、検見川さんが僕にビンタを喰らわせた。

「だから、早く着ろっつーのっ!」

「は、はい!」

 慌てて腕を通し、検見川さんにチャックを閉めてもらう。そして彼女はやや乱暴にクマの頭を被せた。

 違いは明確だった。体の痛みや疲れは嘘のように消えてなくなり、視界が大きく広がる。

「こ、これは」

「予想どおりね。さすが私」検見川さんはドヤ顔で腕を組む。

「その着ぐるみは、あの日、氷室と戦った時に着ていたものよ。紅葉さんの店に置いてあったものを持ってきたの」

 確かに、言われてみるとそうだ。あの日、田中さんに着せてもらった着ぐるみだ。

「ようやく分かったの。その着ぐるみ、田中さんという女の子が作ったらしいわね」

「そ、そうだけど」

「その着ぐるみ、その娘の、あなたに対する愛が極限まで充填されているわ」

 え?

「その娘、あなたのことをよほど愛しているのね」

「ちょ、ちょっと待って。言っている意味が分からない」

 検見川さんは、表情を全く変えずに極めて科学者的な態度で続けた。

「高野所長から聞いてないの? 術場エネルギーの根源は、『愛』のエネルギーなのよ」

 僕ははっとした。料亭「時縁」で高野は確かにそんなことを言っていた。

「現在の私たちの技術では、やはり本物の愛のエネルギーは再現できないようね。さらなる研究が必要だわ」

 検見川さんの言葉が、頭に入ってこない。僕は、田中さんの姿を思い浮かべる。あの、優しい笑顔を。

「うおおおおおっ!」

 僕は、白衣の男たち目掛けて走り出した。一人ずつ、打撃を加えていく。

 彼らを制圧するのに、それほど時間はかからなかった。

 辺りが静まり返る。

「……素晴らしい」検見川さんは、地面に倒れてピクリとも動かない男たちを見つめて呟いた。

 僕は、間髪入れずにユキエに飛びかかる。

「くっ! 何て奴なの!」

 彼女はすかさず、ベンチに座るミオコを掴み上げ、首に腕を回して盾にした。ミオコは苦しそうに顔を歪める。

「近付くな! この娘を絞め殺すわよ!」

 僕は立ち止まった。

「その着ぐるみを脱ぎなさい! それと、そこの男!」

 ユキエは高野を睨む。

「あなたは高野ね? そのくだらないオモチャを外して、こっちによこしなさい」

 高野は渋い顔をして、人差し指に付けた指輪のようなものを外すと、ユキエの方に放り投げた。彼女はそれを拾うと、ニヤリと笑う。

「あなたもいい男ね。あとで遊んであげる」

 ユキエは僕に向かって叫ぶ。

「ほらっ! さっさと脱ぎなさいよ!」

 どうしよう。今度こそ終わりだ。反撃のチャンスは、もうない。高野も僕も無力化してしまえば……。ぬいぐるみたちではユキエに太刀打ちできないだろう。しかし、ミオコを助けるには着ぐるみを脱ぐしかない。僕は、クマの頭に手をかける。

 その時、僕は気付いた。ぬいぐるみたちが、いつの間にか彼女を遠巻きに取り囲んでいる。

「手こずらせてくれるじゃない。楽しんでから殺そうと思ったけど、ムカついたからすぐに殺すわ。ミオコ、よく見てなさい」

 しかし、ミオコは苦痛に顔を歪めながらも、口元に笑みを浮かべた。

「……ちょっと、遅かったわね」

「はあ? 何言ってんのよ!」

 その時、呪文のような低い言葉が広場に響き始めた。

「あ、ああ……か、体が……!」

 ユキエの体が震え始める。ミオコの首を絞めていた腕を、なぜか大きく広げる。ミオコはゆっくりとユキエから離れた。

「ミオコっ!」

「危ないから近づかないで!」

 僕は彼女に走り寄ろうとしたが、制止された。ミオコの顔を見て、僕は不思議に思った。さっきベンチにもたれかかっていた時、頭から出血していたはずだけど、なぜかその様子がない。しかも、さっきまでかなりつらそうだったのに、いつの間にか凛としたいつもの表情に戻っている。

「み、ミオコ……な、何をした……」

 ユキエは、腕を大きく広げたままの格好で体を震わせている。金縛りに遭っているのだろうか。動けないようだ。

 呪文の声の主は、あのもじゃもじゃのぬいぐるみ、長老だ。長老をはじめとして、ユキエを円陣のようにして囲むぬいぐるみたちが、何やら淡く光っているように見える。そして、彼らから光の線のようなものが放たれ、ユキエを中心として模様を描いている。

「魔法陣?」検見川さんは、目を細めて呟く。

 ミオコは、ポシェットから茶色いアンプル瓶を取り出した。恐らく冴木先生に飲ませたのと同じ物だろう。彼女は、ユキエに向かい合う。

「私の勝ちね、ユキエ」

 ユキエは、呻き声を上げる。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。

「絶対に、許さない。宮坂くんを、私の人生を、返して」

 ミヤサカ? 一体誰だろう。

「ごめんね、ユキエ。でも、私にはどうすることもできなかったの」

 ミオコはアンプル瓶を開ける。

「私は、彼を好きになってしまった。そして、彼も私のことを……」

「うそだ! うそだうそだうそだっ!」

 ユキエが泣き叫ぶ。

「この、人殺しっ!」

 ミオコは、唇を噛んで俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。

「恨めばいいわ。気が済むまで」

 抵抗するユキエに、何とかアンプル瓶の中身を飲み込ませる。ユキエはしばらく叫び続けていたが、次第に声が小さくなり、やがて気を失ってしまった。

 長老が呪文を止めると、光はすっと消えてなくなり、ユキエの体は地面に崩れ落ちた。

「雨が、やんだ」

 空を見上げると、長い間留まり続けていた黒雲が、まるで魔法のように消え去っていった。


 夜空に星がちらほら輝いている。

 西荻窪の飲み屋「宝船」は、その日早くも営業を再開していた。

「えいらっしゃーいっ」

 店員の威勢の良い声が響く。水が引いたばかりで客はそれほど多くないが、それでも何人かハイボールをあおっている。常連だろう。

「ぶはーっ!」

 少し目を離した隙に、ミオコはジョッキのハイボールを空にしてしまった。これで五杯目だ。

「一仕事終えた後のお酒は美味しいわねーっ! 大将! もう一杯!」

「はいよっ! ミオコちゃんにハイボールいっちょう!」

 焼き鳥を焼きながら、宝船の大将は威勢よく声を上げる。店のそこかしこから店員の声が響く。

 六杯目のハイボールが届くと、ミオコは満面の笑みで僕にジョッキを突きつけてきた。

「よし! じゃあ乾杯しますか!」

 僕は一瞬返事に困った。

「え、いや、最初にしたよね?」

「え、あ、そうだっけ? あはは! まあいいや。もう一回! かんぱーい!」

「……かんぱーい」

 ジョッキをぶつけると、ミオコはハイボールを一気に喉に流し込んだ。

「ぶはーっ!」

 しかし、何という飲み方だ。この前よりもさらにハイペースではないのか。

「ちょっと、ミオコ。もう少しゆっくり飲みなよ」

「はあ? らにいってんのよソウイチロウ。乾杯というろは、『杯を乾かす』と書いて」

「はいはい。言ってることがオッサン臭い上に、早くも呂律が回ってないじゃないか」

 ミオコは何だかよく分からないけど僕の背中をビシビシ叩いてくる。目も座ってるし。

「オッサンにオッサンて言われたくないろよね。このオッサン。あれ? 私、『オッサン』って何回言った?」

「ああ、もう。めんどくさいなあ。ほら、ちゃんとつまみも食べて」

 僕は、大将が焼いてくれた鶏串をミオコに差し出す。

「あーむ」

 ミオコはそのままかぶりつき、肉を引っ張り抜いた。僕はため息をつく。

「子どもじゃないんだから……」

「はあ、なんか文句あるろ? もぐもぐ」

「それにしても、今日は酔っぱらうのが早いね。だいぶ疲れたんじゃない? 僕はもうヘロヘロだよ。着ぐるみの副作用かな」

 ミオコは、遮るように大声を上げて立ち上がる。

「疲れてらんかいません。私、トイレ」

 呆然とミオコを見上げる。何だか鼻息が荒い。さすがに大将も心配しているようだ。

「ミオコちゃん、今日はあまり飲みすぎないほうがいいんじゃない?」

 ミオコはテーブルをバシバシ叩く。

「何よ! 大将までそんらこと言って! もう知ららい!」

 彼女は大げさに「ふん!」と首を振って、ふらふらとトイレに向かった。かと思うと、振り返ってビシッと指を差す。

「冷酒、準備しといて。よろしくね、大将」

「はいよ、冷酒ね」

 大将が苦笑いすると、ミオコは満足そうにトイレへと向かった。

「ミオコちゃん、今日何かあった?」

 大将は、ミオコの後ろ姿を見送る。

「ええ、まあ。僕も詳しくは知らないんですけどね」

「彼女、結構飲めるクチなんだけど、たまに変な飲み方するんだよね」

 テーブルに、冷酒の徳利が置かれる。

「彼女、ああ見えて結構淋しがりなんだよね」

「え、そうなんですか?」

「ああ。あんたも知ってるかもしれないけど、彼女、小さい頃にお父さんを亡くしてるんだよな」

「ええ、聞きました」

「しかも、冗談めいて『私には友達がいない』ってしょっちゅう言ってるし。明るく振舞ってるけど、淋しさの裏返しなんじゃないのかな」

 友達がいない、か。確かに、ちょっと癖があるのは間違いないけど。

「あの、大将。ユキエちゃんって知ってます?」

「ユキエ? どのユキエちゃん?」

「えーと、ミオコの友達……だった娘かな?」

 大将はしばらく考えて、自信がなさそうに呟く。

「そういえば、ミオコちゃんが初めてこの店に来た時、女の子と一緒だったな。その娘かな?」

「どんな娘でした?」

「大人しい娘だったね。あまり印象に残らない感じの。あ、そうそう。その娘、彼氏を連れてきてたね」

 彼氏。恐らくそれが「宮坂くん」だろう。

「ミオコちゃんと、その娘の彼氏が会うのは初めてだったのかな。でもすぐ打ち解けて、三人で結構楽しそうに飲んでたと思うよ」

 大将は、手際良く焼き鳥をひっくり返していく。

「でも、それっきりだね。ミオコちゃんがその娘と一緒に来たのは。あとはずっと一人で飲みに来てるね」

 僕はハイボールをすする。一体、ミオコとユキエちゃんの間に何があったんだろうか。

「あ、そうそう」大将は、柱に貼ってある小さいメモを見ながら、別のメモ紙にペンを走らせた。

「これ、ミオコちゃんのところの、柴崎っていう運転手さんの連絡先」

 僕はメモを受け取る。

「彼女、今日は途中でダウンしちゃうかもしれない。帰れなくなったら、柴崎さんを呼び出してくれないかい」

 普段は一人で歩いて帰るのだが、たまに飲み過ぎて寝てしまうこともあるらしい。その時は柴崎さんに連れて帰ってもらうのだそうだ。ミオコにも、そんな面があるんだ。

「なあ、えーと、村上くんだっけ?」

「あ、はい」

 大将は、串を焼きながら、やや真剣な表情で呟いた。

「あんた、ミオコちゃんの何なのか知らないけど、彼女をよろしく頼むよ」

「は、はい。もちろん」

 すると大将は豪快に笑った。

「なんか、娘を嫁にやる父親みてえだな、おい」

 僕もつられて笑う。

「いや、だから付き合ってませんから」

 しばらくして、ミオコがふらふらと戻ってきた。

「なに、私の悪口で盛り上がってるわけ?」

 座った目でギロリと睨まれ、僕と大将は必死に首を振る。

「いやいやいや」

「ふいー。よっこいしょういち」

 ミオコは時代錯誤のオヤジギャグを放ちながら、およそ女子大生とは思えないオッサン臭さで椅子に座った。彼女は冷酒の徳利をもち、お猪口に酒を注ごうとする。

「あ、ミオコさん、僕がお注ぎします」

 僕が徳利を取ろうとすると、彼女は面倒くさそうに片手を振った。

「あーいいのいいの。私、全日本手酌協会の名誉副会長だから」

 ミオコはよく分からないことを言って徳利を傾ける。やや勢いがつき過ぎたのか、お猪口からほんの少し溢れてしまった。

「ああ、もったいないもったいない」

 彼女はテーブルに顔を近づけ、なみなみと酒が入ったお猪口を啜る。見事なまでにオッサンだ。

 徳利は、あっという間に空になった。

「よし、ソウイチロウ」ミオコは、バンと立ち上がる。

「帰るかい?」

「何言ってんのよ。カラオケに行くわよ」

「カラオケ?」

 水も完全に引いてないのに、まさかカラオケ屋が再開してる訳がないだろう、と思って駅の北口に行くと、何と営業しているではないか。

 店に入ると、店員たちが笑顔で頭を上げる。

「ミオコ様! いらっしゃいませ!」

「久しぶり。ひどい雨だったわね」

 ここも顔馴染みなのか。まあ、メイド姿で一人カラオケに来たら、有名にもなるか。

 個室に入るなり、ミオコは検索もせずにリモコンで番号を入力した。画面に現れたのは、「白い蝶のサンバ」だった。森山加代子。昭和四十五年。

「あんたは別に入れなくていいわよ」

「いやいやいや、ミオコさん、それはひどくない?」

「あ、生搾りグレフルサワー注文しといて」

「は、はい」

 それから一時間、ミオコはぶっ通しで歌い続けた。もちろん、昭和の名曲ばかりを。

 そして、そのどれもが上手かった。僕は、ひたすら彼女の歌声に聴き入り、自分の曲を入れることができなかった。

 そして、次に彼女が入れた曲は「木綿のハンカチーフ」だった。そういえば、さっき井の頭公園でユキエちゃんと出会った時に歌っていたのも、この曲だ。僕も、フルコーラスでちゃんと聞いたことがない。ミオコの歌声に聞き入っていると、実はちょっと切ない歌だということを知った。

 突然、歌の途中でミオコが口をつぐんだ。不思議に思って彼女を見て、心臓が止まりそうになった。

 ミオコが、泣いている。

 次第に、肩を震わせてしゃくりあげ始め、手で顔を覆った。僕はしばらく頭が混乱していたが、恐る恐るミオコの肩に手を回した。すると、彼女は僕の胸に顔をうずめ、しばらく声を上げて泣き続けた。

 どれくらい時間が経っただろうか。他の部屋から、微かに歌声が聞こえてくる。

 ミオコも少し落ち着いてきたようだ。

「……ふう。疲れちゃった。ちょっと休憩」

 ミオコはそう言って、ばたっとソファに寝転がった。手をぶらぶらと振る。

「何か歌っていいわよ」

 そう言われても……。あれだけの美声を聞かされて、しかも昭和歌謡大好きなミオコの前で一体何を歌えばいいのか。

 散々悩んでいると、いつの間にやら寝息が聞こえてきた。

「寝ちゃったよ……」

 僕は、宝船の大将からもらったメモ紙を取り出した。


 ミオコの屋敷に戻ってくる頃には、日付が変わっていた。

「よ、い、しょ」

 ミオコを背負って、屋敷の階段を上る。

「し、しんどい」

 僕はふらふらと彼女の部屋を目指し、ドアを開け、やっとの思いで彼女をベッドに下ろした。僕もベッドに腰をかける。

「失礼します」

 柴崎さんが、ミオコのトランクを持って部屋の前に立っていた。

「柴崎さん、ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ、お嬢様を送り届けていただいてありがとうございます。それで、その……」

 柴崎さんは、申し訳なさそうに小さな声で訊いてきた。

「すぐに、お帰りになりますか? それならお送りいたしますが……」

「あ、少しだけ彼女の様子を見ていこうと思います」

「ああ! それならいいのです。で、では、邪魔者はこれで失礼いたします」

 柴崎さんはニヤニヤしながら頭を下げ、そそくさと帰っていった。

「……何か、勘違いしてるな」

 部屋の中に戻ると、ミオコが体を起こして「うーん」と唸っていた。

「起こしちゃったかな」

「ソウイチロウ、送ってくれたのね」

 僕はミオコにトランクを渡した。彼女はトランクを開ける。

「みんな、今日はありがとね」

 すると、トランクの中からアリエスの声が聞こえてきた。

「みーおーこーさーんっ!」

 ぽんっと勢いよく飛び出てきたアリエスが手にしていたのは、見覚えのある日本酒の瓶だった。

「アリエス、それ」ミオコは目を輝かせる。

「『虎ノ門』ですっ! 帰り際、高野さんがこっそり持たせてくれたんです!」

「きゃーっ! 飲むわよ! 飲むわよ!」

 ミオコは俄然元気を取り戻し、グラスを準備し始める。

 ソファのほうで、ぬいぐるみたちが宴会を始めた。僕とミオコは、ベッドの上でグラスを合わせる。

「かんぱい」

 ミオコは、それまでと打って変わって穏やかな表情をしていた。グラスに口をつけると、目を閉じ、嬉しそうに笑う。

「やっぱり『虎ノ門』は最高ね」

 僕は頷く。確かに美味い。改めて、術場エネルギーの果てしない可能性に思いを馳せる。

 その時だった。

「私、ユキエの彼氏を殺したの」

 ミオコは、突然そう言った。

「え……」

「ユキエからあの人を奪って、その上で、ね」

 ミオコの話は、衝撃的なものだった。

 ミオコとユキエは、文学部で同じ講義を受けるうちに、自然と仲良くなった。二人とも本を読むのが好きで、井の頭公園の、あのベンチがある場所で待ち合わせて、お互いに薦めたい本を交換して読んだそうだ。さらに二人とも昭和歌謡が好きで、ベンチに座りながら二人で歌うこともよくあったらしい。「木綿のハンカチーフ」も、レパートリーの一つだった。

「二年生になって、ユキエに彼氏ができたの。それが、宮坂くん」

 杉並区のボランティア活動で、ユキエと宮坂くんは知り合った。宮坂くんは読書好きな青年らしく、二人はよく図書館でデートをしていたらしい。お互い異性と付き合うのは初めてで、ミオコはよく相談に乗っていた。ある日、ユキエは宮坂くんをミオコに紹介した。「宝船」で飲み会を開いたのだ。

「私、彼を好きになっちゃった」

 次第に、ミオコはユキエに内緒で宮坂くんと会うようになった。宮坂くんも、初めて会った時からミオコのことが気になっていたらしい。

 そして、ある日二人は一線を越えてしまった。ほどなくして、宮坂くんは原因不明の病気にかかり、しばらく入院した後に、衰弱して死んでしまった。

「彼が亡くなった後、ユキエに全てを話したわ。あの時のユキエの顔、一生忘れられない」

 そして間もなく、ユキエは姿を消してしまった。恐らく、何らかのタイミングで氷室に目を付けられ、誘拐されたのだろう。

「私、どうしようもない女なのよ」

 ミオコは、クイッと酒を飲み干す。

「親友と、好きな人を、同時に失ったの」

「でも、ミオコが宮坂くんを死なせた訳じゃ」

「私が殺したのよっ!」

 ミオコは険しい表情で叫んだ。ぬいぐるみ達が一瞬静かになる。

「あの娘、私を『魔女』って呼んだでしょ?」

 僕は、ユキエが「魔女」と叫んでいたのを思い出した。

「魔女なのよ。私」

「えっ?」

 ソファのほうから、長老が慌てた様子で走り寄ってくる。

「ミオコ、よしなさい」

「いいの。黙ってても仕方ないわ」

 ミオコは僕に言い聞かせるように話し始める。

「私の母方の祖母が英国人だっていう話はしたでしょ?」

「ああ」

「おばあちゃんは、魔女の末裔なのよ。だから、私のお母さんも、私も、魔女の血を継いでいるの。なぜかお姉ちゃんは継いでないみたいだけど」

 そう言われても、俄かには信じ難い話だ。

「だって、魔女なんて、そんな非科学的な……」

 ミオコは大きくため息をつく。

「あんた、バカじゃないの? じゃあ、この子たちが動いて喋ってるのはなぜ?」

 彼女は、ぬいぐるみたちを指差す。

「そうだそうだ」ガブリエルが茶々を入れ、ステラが「やめなさい、バカ!」と彼を引っぱたく。

「百歩譲って『術場エネルギー』とかいうやつで説明したっていいわ。何にせよ、『間違いなく目の前にある力』じゃないのよ」

 僕は、言葉に詰まった。確かに、彼女の言う通りだ。

 ミオコは、嘲り笑うようにして続ける。

「私は宮坂くんと体を重ねて、彼の生気を吸い取ってしまった。彼を、殺してしまったのよ」

 我慢の限界だった。僕は、ミオコの肩を掴む。

「いい加減にしろよ! そんな馬鹿な話があるか!」

 ミオコは、目を丸くしている。顔が次第に赤みを帯びてくる。

「ぼ、僕は、一科学者として、そんな話を信じる訳にはいかない!」

 目の前に、ミオコの美しい顔。彼女の、淡いピンク色の唇が妖しく動く。

「じゃあ、試してみる?」

 彼女のその一言に、心臓が大きく鼓動を打った。喉がカラカラだ。唾を飲み込む。

「あ、ああ」

 その瞬間、ミオコはプッと吹き出して、ベッドを転げ回り大笑いした。

「本気にしないでよ! 嫌に決まってるでしょ。誰があんたみたいなオッサンと」

 こ、こいつは……。

「あー、さすがに今日は疲れたな。私、もう寝るから、どっか行って。おやすみ」

 ミオコは、しっしっと手を振る。

 僕は頭をかきむしって、「虎ノ門」の瓶を手に取り立ち上がった。こうなりゃ、ぬいぐるみたちと自棄酒だ。

 その時、ミオコが何かを呟いた。

「……あんたまで死んじゃ……」

「え?」

 振り向くと、ミオコは寝息を立てていた。何だかよく分からないけど、淋しそうな寝顔だった。僕は大きくため息をついて、笑う。

「よし、アリエスくん。一緒に飲もう」

 久々に輝く月が、広い部屋に淡い光を放っていた。


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