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ワルツ・オン・ザ・マジックフィールド  作者: 水口たつき
プロローグ、1
1/4

着ぐるみとメイドの物語1


  プロローグ



 東京・立川にある国営昭和記念公園では、その日も緊迫した状況が続いていた。

 テレビカメラは、三日前に突如姿を現した「立川城」を映し出している。

 城といっても、日本式の城のようでもあり、はたまたヨーロッパの古城のようでもあり、その割に何だか馬鹿みたいにアニメっぽいファンタジックな城にも見える。

 遠く離れた上空を、自衛隊のヘリが旋回している。立川駅から延びる道路上には、警視庁のパトカーや自衛隊の車両が、乱雑に停車している。

「こちらは、現在の昭和記念公園の様子です。昨夜から、目立った変化はありません」

 男性リポーターは、公園の総合案内所前から、遠く広場方面に高くそびえる城を見上げた。背後では、自衛隊員や機動隊員が慌ただしく行き交う。

「この『城のような物体』は、記念公園と、公園に隣接する陸上自衛隊立川駐屯地をすっぽり飲み込むかのように高い城壁をめぐらしており、現在も内部との連絡はとれていない模様です」

 テレビの画面は、一人の男の写真を映し出した。

「警察が今回の事件の首謀者と断定した氷室容疑者は、依然としてこの内部に潜伏していると考えられています。それでは、数日前、報道各社に送られてきた氷室容疑者の映像を再度ご覧ください」

 白衣を着た若い男が、ソファーにもたれかかっている。細いメガネの奥に、鋭い眼光。口元には、嘲りとも憐みともとれる笑みを浮かべていた。

「はじめまして、氷室と申します」

 氷室の背後には、メイドの格好をした美しい女の子が立っている。無表情で、生気のない目だ。すると、新たなメイド服の女の子が画面に現れ、手に持った盆からワイングラスを取り、氷室の前の低いテーブルにそっと置く。そしてまた新たなメイド服の女の子が現れ、まるでソムリエのように手慣れた感じで赤ワインをグラスに注いだ。

「ありがとう」氷室は、そっとワインを口に含む。「うん、いい味だ」

 グラスをテーブルに戻すと、少し間をおいてから、彼は言った。

「突然ですが、日本の皆さん。僕は、ここ立川に、新しい『国家』を樹立することを宣言します」

 彼は、ゆっくりと身を乗り出す。

「そして、数日以内に、我々の『国家』以外、この『間違った』世界には一度『消滅』していただきます。全てが『ゼロ』になるのです。その後に、『正しい』世界を『創造』したいと思います。僕は、新世界の『神』になるのです。といっても、何を言っているのか理解していただけないでしょうが」

 メイド服の女の子たちは、相変わらず無表情のままだ。

「偵察のつもりでしょうが、昨日、自衛隊さんのほうでヘリを城の上空に飛ばしましたよね? あれはよろしくない。『領空侵犯』ですので、撃墜させていただきました」

 氷室は、クククとおかしそうに笑う。

「無駄な抵抗は、是非ともやめていただきたい。皆さん、『消滅』の際は科学的に言って全く痛みを感じません。『死ぬ』訳ではなく、『消えてなくなる』のです。どうせ消えてなくなるのですから、その前に痛い思いをする必要はないと思いませんか?」

 氷室がワインを飲み干すと、メイドの一人が流れるような動作で再びワインをグラスに注いだ。

「ま、そんなことを言っても、生きている価値もないクズのような方々が、自分だけでも生き延びようとして、勝手に殺し合いを始めないとも限りませんけど?」

 氷室は、腹を抱えて笑う。

「とにかく皆さん、慌てず騒がず冷静に、最期の瞬間まで『人間らしく』行動してくださいね。それでは、お元気で。さようなら」

 そこで、ビデオの映像は切れた。

 リポーターは、マイクを握り締めてモニターを見ていたようだ。しばらくして、テレビカメラに視線を戻した。

「氷室容疑者の映像でした」

 そして、手に持った原稿に目を落とす。

「そして、お伝えしていますように、国内の自衛隊、そして米軍基地のシステムが数日前から軒並みダウンしており、原因は現在も調査中とのことです。同様の現象は、世界各国で起こっているとの情報もあります。世界中の軍隊が、その機能を失っているという、信じられない状況です」

 再びテレビカメラに視線を戻す。

「果たして、氷室容疑者は、一体何をしようとしているのでしょうか。日本は、そして世界は、これからどうなってしまうのでしょうか。以上、昭和記念公園前から……」

 突然、取材クルーの一人が声を上げた。

「何だ? あれ」

 白バイ、そして自衛隊の装甲車や輸送車に先導されて、二台の黒塗りの車が公園の中に入ってきた。警官がホイッスルを鳴らしながら、道を空ける。

「ほら、どいてどいて!」

 取材クルーは慌てて端へと避けていく。

 次の瞬間、輸送車から自動小銃を持った自衛隊員が次々と飛び出し、瞬く間に周囲に散らばった。全方位に銃を向け、一層ものものしい雰囲気になる。

 黒塗りの車が停車し、助手席からスーツ姿の男が出てきた。SPのようだ。周囲に鋭い視線を投げ、手元で何かを呟いた。無線だろうか。

「何だ? 要人か?」

 カメラマンは、後部座席にカメラを向けた。

 SPが、素早く後部座席のドアを開く。車内から中年のスーツ姿の男が出てきた。

「あれは……官房長官だ」

 リポーターは、カメラに顔を向けた。

「官房長官が、公園に姿を見せました。官房長官自ら、容疑者に会いに行くとでもいうのでしょうか?」

 官房長官は、すぐに後続の黒塗りの車に近寄って行った。SPの一人が、すかさず後部座席のドアを開ける。周囲の自衛隊員に、緊張が走る。

「後ろの車には、誰が乗っているのでしょうか? 首相は失踪したまま、行方はまだ分かっていないのですが……」

 その場にいる全ての人間の視線が、そこに集中した。

 ドアが開いた。

 ゆっくりと、足が出てくる。

 オレンジ色の足が。

「あ、あれは」

 カメラマンは、呆然としてカメラをおろしてしまった。

 車から降りてきたのは、着ぐるみだった。

「――着ぐるみ?」

 周囲の機動隊員や自衛隊員も、皆一様に唖然としている。

「着ぐるみ……着ぐるみです! 着ぐるみが出てきました! あれは、クマ? クマです! クマの着ぐるみです!」

 リポーターは、何が何やら分からなくなり、興奮して絶叫する。

「おい、カメラ! カメラ向けろ!」

 目がクリクリしたクマの着ぐるみは、周囲を見回した後、車の中に手を伸ばした。車の中から、何やら大きいトランクを引っ張り出す。昔の船旅で使われていたという、ルイ・ヴィトンのトラベルケースだ。

 クマの着ぐるみは、その大きいトランクを左手に持ち直すと、車内に向かって右手をすっと差し出した。

 その手に、細くて白い指が重ねられる。

 車から降りてきたのは、メイドの格好をした美しい女性だった。

「――メイド?」

「メイド、ですね」

 取材クルーたちは、ポカンと口を開けて、その若いメイド姿の女性に見惚れてしまった。彼らだけでなく、その場にいた機動隊員や自衛隊員も同様だ。

 首元で揃えられた、漆黒のショートヘア。頭の上のホワイトブリムが、髪の黒さを際立たせている。眉のあたりで綺麗に揃えられた前髪の黒さと対照的に、その顔は秋の優しい光を受けて透き通るように白い。膝が隠れるくらいの黒いワンピースに白いエプロン。白のソックスの足元には、エナメル質の靴が髪と同じように美しい輝きを放っている。今時のメイドカフェで見るような過激な格好のメイドではなく、老若男女が口を揃えて「あ、メイドさん」と呼んでしまうような、まさにメイド。そんなメイドだった。

 そのメイドの女性は、テレビカメラが向けられていることに気付くと、カメラに向かって不敵な笑みを浮かべた。後にテレビクルーの一人が言っている。「あんなに美しいドヤ顔、見たことない」と。

 世界がモノクロになったとしても、その美しさを失わないであろう。そんな白と黒のコントラストが、彼女の小さい唇の桃色をかえって際立たせている。

 官房長官は、そのメイドとクマの着ぐるみと交互にがっちりと握手をした。何やら激励の言葉をかけているようだ。クマの着ぐるみはしきりに頷いているようであったが、メイドの女性は興味なさそうに目を背けた。よく見ると、耳にイヤホンをしている。そのコードは、おとなしめなフリルの付いたエプロンの胸ポケットから伸びていた。

 彼女はその胸ポケットに手を入れると、クマの着ぐるみに何やら声をかけ、公園の『城』に向かってゆっくり歩き出した。クマの着ぐるみも、慌てて後を追うように歩いていく。

 しんと静まり返る辺りに、小さく歌声が聞こえてきた。どうやら、メイドの女性が口ずさんでいるようだ。

 リポーターは、耳をすます。

「これは」

 マイクを持った音声のクルーが、すかさず言った。

「これは、『どうにもとまらない』ですね。山本リンダの」

「な、何なんだ、あの娘は」

「おい、官房長官にインタビューだ!」

 リポーターは、今がチャンスと官房長官に走り寄る。カメラも後を追う。

「離れて離れて!」

 自衛隊員に阻まれながらも、リポーターはマイクを官房長官に向けた。

「官房長官! お話を聞かせてください!」

 公園の中に向かっていくメイドと着ぐるみを見つめていた官房長官は、取材クルーに目を向けた。

 騒ぎに気付いた他の報道陣も、官房長官に近づこうとして、自衛隊員ともみ合い始めた。

「官房長官! 中央テレビの者です! あれは、あの二人は、何なんですか!」

 他のテレビ局のリポーターも、同じ質問を叫んでいる。

 官房長官は、再びメイドと着ぐるみに視線を戻した。厳しい表情で、遠い目で、ゆっくりと口を開く。

「あの二人か。あの二人はな」

 官房長官のコメントを拾おうと、報道陣はマイクを何本も向け、一瞬しんと静まり返った。

「……最後の、希望の光だ」

 リポーターは、目を丸くした。

「希望の、光?」

 官房長官は、目を細くして遠ざかる二人を見つめている。

 報道陣は、相変わらず静まり返ったままだったが、その中の一人が、その沈黙を破った。

「希望の光って」

 彼らは、再びその二人へと目をやった。

「……あの、メイドと着ぐるみが?」



  1



 ロータリーエバポレータを回しながら、僕は近くの流し台で洗い物をしていた。今日の学生実験で使ったガラス器具の洗浄だ。青いポリバケツに山盛りになっている。

 ちらっと時計に目をやると、午後十時になろうとしている。いかんいかん、ちょっとのんびりしすぎたか。フラスコを洗う手を、少し早める。

 こまめにエバポレータの様子をチェックする。ロータリーエバポレータは、フラスコの中を減圧状態にすることによって、その中にある有機溶媒を比較的低い温度で気化させ(これを減圧蒸留という)、冷却して取り除くという便利な装置だ。ちなみに、この時に使うフラスコは「ナスフラスコ」と呼ばれている。茄子の形に似ているからナスフラスコなのかどうかは知らないけれど、三角フラスコやビーカーと違い、底が丸いので自立できない。

 有機溶媒を飛ばすといっても、フラスコの中を完全にカラカラにするのはあまりよろしくない。フラスコの中にある必要なモノまで気化して飛んでいってしまうからだ。こまめに様子をチェックするのはそのためである。

 実験室の中は、少し前から僕一人になっていた。いつものことだ。ここは、帝都女子大学理学部化学科。有機化学研究室。この研究室で、僕、村上惣市郎は博士研究員いわゆるポスドクとして働いている。ちなみに、この研究室で男は僕一人だ。教授も、スタッフも、当然だが学生も全員女性である。

 いくら理系女子とはいえ、日が変わるまで実験をしている学生は、この研究室にはいない。そもそも、大学自体がいわゆる「お嬢様大学」である。皆、結構良いところのお嬢様だ。午後六時か七時には、全員家に帰ってしまう。いや待てよ、今日は金曜日だから、合コンに行った娘もいるかもしれない。もちろん、教授なんて真っ先に帰ってしまった。

 実験室には、常時稼働しているドラフトチャンバー(局所排気装置)の低い音と、エバポレータが回る小気味よい音だけが響いている。こんな中で、僕は山のような洗い物をしている。でも、洗い物は嫌いではない。むしろ好きだ。掃除をしたり、物を片づけたりするのが結構好きなのだ。

 その時、廊下のほうに人の気配がした。

「失礼します」

 白衣を着た、ちょっと小さめの女の子だった。よく知った顔だ。

「あ、田中さん。今日はもう終わり?」

 彼女は、顔を赤らめて微笑んだ。

「あ、あの、はい、えーと」

 ふんわり丸いボブの黒い髪に、赤いアンダーリムのメガネ。修士の一年生なのだが、背が小さいうえに顔立ちもカワイイ系なので、学部の一年生に勘違いされることも結構あるらしい。

「あ、いいよ入ってきて。僕以外、もう誰もいないから」

「は、はい! 失礼します!」

 田中さんは、両手で胸のあたりを押さえながら、恐る恐る実験室の中に入ってくる。彼女、田中咲さんは、同じ理学部でも生物学科の研究室に所属している。化学系と生物学系の研究室では、ぱっと見た感じはそれほど違いはないのだが、化学系の研究室、とりわけウチのような有機化学研究室には、得体の知れない怪しげな薬品が所狭しと並べられていて、独特な薬品臭もある。だから彼女もきっと緊張しているんだろう。

「そこの椅子に座ってて。もう少しで洗い物終わるから」僕は、自分のデスクの椅子を指差した。

「は、はい! ありがとうございます!」

 田中さんは顔を真っ赤にして、丸椅子にちょこんと腰を下ろす。そして、何やら幸せそうな顔を浮かべる。

「いやいや、じゃなくて、違うんです。私は、村上さんの椅子に座るためにここに来たのではなくて、つまり、えーと」

 田中さんは両手をふるふると振って、必死な感じだ。僕は苦笑いする。

 田中さんは、急に落ち着きを取り戻した。

「あ、村上さん、エバポが飛び終わってる感じですよ」

 そう言われて僕ははっとした。いけないいけない。

「ありがとう。忘れるところだった。乾固しすぎたかな」

「いえ、なかなかいい感じだと思います」

 僕はエバポレータの回転を止め、コックをゆっくりと開いて真空を開放した。ぶしゅーっという音がして、そのうち安定すると、ナスフラスコを外してフラスコレシーバに立てた。

「うん、なかなかいい感じだね」

 僕はそう言って田中さんに微笑んだ。彼女もクスクス笑いだす。

「有機化学の学生実験が始まったと聞いたので、村上さん、実験の後片付けとか計画とかで、大変だろうなあと思って。それで、今日は早めに切り上げて、洗い物のお手伝いにきたんです」

 何て良い娘なんだろう。研究室の学生はさっさと帰ってしまったというのに、他学科の学生が、そんなことを言ってくれるなんて。

「ありがとう。田中さん」

 感動して、僕は田中さんをじっと見つめた。彼女の顔は、またもや急激に赤くなっていった。

「いえ、あのっ、ごめんなさい! 私のワガママなので、そ、そんな、お礼なんて」

 彼女はばっと立ち上がって、僕の隣に立つと、白衣の袖をめくる。

「よし、がんがん洗いますよ!」

 頼もしい限りだ。

「そういえば、そのフラスコの中身は何ですか?」

 田中さんは、洗い物をしながらチラリと目をやる。さっきまで減圧蒸留していたナスフラスコだ。

「ああ、それね。ちょっと友人に頼まれ事をしてるんだ。何だか怪しげな漢方薬を手に入れたとかで、暇つぶしに新規化合物の探索をね。ま、新規化合物は得られないと思うけど。あ、冴木先生には内緒だよ。ウチは海洋天然物がメインだからね」

 冴木響子教授は、ウチの研究室のボスだ。まだ四十になっていない、やり手研究者である。有機化学の研究者なのに鉄のように無機質で冷酷な性格(という噂)で、学生からは「氷の女王」と呼ばれているとかいないとか。

「ええ、もちろん冴木先生には言いません。自分の研究を進める時間がほとんど取れなくて、村上さんも大変ですよね」

「まったくだよ」


 田中さんのおかげで、予想よりも三十分ほど早く大学を出ることができた。とはいえ、午後十一時を回っている。西荻窪の駅まで延びる細い道は、人通りも少なくなっていた。

 僕と田中さんは、その道をゆっくりと歩いていく。四月に入ったとはいえ、夜風は少しヒンヤリしている。

 白衣姿ではない田中さんも、いつものことながらとても可愛らしい。花柄の白いワンピースに、暗めのショール。ラウンドトゥの靴に、花のモチーフが付いたカゴバッグ。いわゆる、森ガールというやつらしい。少し肌寒そうだけれども。

「いつもながら、素敵だよね。田中さん」

 田中さんは、ぴたっと立ち止まった。暗い中でも、顔が真っ赤になっているのがよく分かる。

「村上さんは、何でいつもそういうことを」

「え、あ、ごめん。ただ、何となくそう思ったから」

「あううう」

 田中さんは、「う」に濁点がついたような声をあげて、俯いてしまった。僕はどうしたらよいのか分からずオロオロする。近くの自動販売機で温かい紅茶を二本買って、田中さんに一本差し出した。

「あ、ありがとうございます」

 再び歩き出す。

「でも、いつも言ってますよね? 普段のファッションは森ガールですけど、実際私は『山ガール』なんですからね」紅茶をぐびっと飲んだ後、彼女はそう言った。

「そ、そうだったね」

「そうです。山が大好きなんです! いいですか、山というものはですね、かのジョージ・マロリーが言ったように」

 ひとしきり山の素晴らしさについて語ると、田中さんは再び顔を赤らめた。そして、独り言のように呟いた。

「それで、あの、村上さんも、もしよければ」

「あ、田中さん、買い物は大丈夫?」

 ガード下にある二十四時間営業のスーパーの入り口まで来たところで、僕は言った。

「え? あ! あ、えと、別に、大丈夫です」

「よし、じゃあ寄らずに帰ろうか」

「は、はあ」

 たまにこのスーパーに立ち寄って、食材だとか日用品だとか、それぞれの必要な買い物をしたりする。僕は、家の冷蔵庫にある食材を頭の中に思い浮かべて、買い物は不要という計算結果をはじき出した。田中さんは、何だか口を尖らせている。

 緩い坂道を降りる途中で、僕たちは夜空を見上げた。

「あ、今日はいくつか星が見えるね」

「そうですね」

 田中さんは、クスッと笑って言った。

「こうして送ってもらうようになって、もう一年経ちますね」

「そうだね。僕が大学に来てから一年経ったんだね」

「いつも、ありがとうございます」

「どうしたの、改まって」

 そう言うと、田中さんはフフッと笑った。

「それにしても、最初は驚いたよね」

「そうですよね。出会って気付いたんでしたよね。ご近所さんだって」

 そうなのだ。僕と田中さんは、住んでいるアパート(田中さんのほうは高級マンションだが)が隣同士である。僕がこの街に引っ越してきて、選んだアパートが偶然彼女のマンションの隣だった。

 僕が帝都女子大に来て間もなく、理学部合同の花見コンパが開催された。その時に二人は顔を合わせ、あれっ、というふうになった。家の近くのゴミ捨て場で顔を合わせ、挨拶をしたことはあるけれど名前も知らない近所の人が、いま目の前にいる、という具合だ。

 その後も何となく学内で顔を合わせ、生物学の研究室で学部四年生として遅くまで研究をする彼女を、家まで送るという日課が、いつの間にか出来上がっていた。

 田中さんの住むマンションの前まで来て、僕らは立ち止まった。

 少しの沈黙の後、田中さんが口を開いた。

「村上さん、明日、お休みですよね?」

「うん、そうだけど」

「あの、あの」

 田中さんは、何か意を決したように僕をじっと見つめてきた。

「明日、一緒に高尾山に登りませんか?」

 た、高尾山。

「う、うん、いいね。高尾山。興味あるなあ」

「ほ、本当ですか! じゃあ、是非とも!」

 田中さんは、体をグイと密着させて僕を見上げてきた。

「ちょっと、ちょっと待って。ごめん、でも、明日は予定が……って、田中さん、ちょっと近いよ」

 田中さんは、ハッとして後ずさりした。

「ご、ごめんなさい! ちょっと興奮してしまって」

 本当に山が好きなんだな、この娘は。僕は苦笑いする。

「予定っていうのは、やっぱり、お魚関係ですか?」

「うん。そうなんだよ。この前給料日だったからね」

「そうですか」

 田中さんは、かなりしょげてしまっているようだ。感情の起伏が激しい娘だなあ。

「そうだ」僕は立ち止まった。「一度見に来なよ。僕の自慢の部屋」

 その瞬間、田中さんは雷に打たれたかのようにびくっとして、目を丸くして僕を見つめた。今日一番の真っ赤な顔で、呼吸も荒くなっている。

「そ、そ、そんな、そんなことは、絶対、ダメです。許されません。あってはいけないことなんです」

 ブルブルと首を振る。大粒の汗をかき始める。体がふらつき始めた。これはいけない。

「た、田中さん、大丈夫?」

 僕は慌てて両手で彼女の肩を支えた。彼女は飛び上がらんばかりにびくっと震えた。

「うううあう」

 またよく分からない言葉を発し始めた。目は涙が今にも溢れ出しそうなくらいに潤んでいる。

「風邪かな? 熱がありそうだね」

 彼女は泣きそうな顔でふるふると首を振り、ばっと僕の手を振り払った。

「ごめんなさい。ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。あううう」

 彼女は、ポーチから鍵を取り出し、震える手でマンションのオートロックの玄関を開けると、「おやすみなさいっ」と泣き叫びながら、中に駆け込んでいった。

 褐色の自動ドアが閉まる。僕はしばらく呆然としていた。

「生まれてきてごめんなさいって……」

 気を取り直して、隣のアパート、つまり自分の家に向かう。

「彼女、よほど魚が苦手なんだろうな」

 大きくため息をつく。残念だな、彼女なら僕の趣味を分かってくれそうなのに。

 外階段を上って玄関の鍵を開け、中に入ると、照明を付けた。

「あれ? でも彼女、生物学科だよな」

 ふと疑問に思ったが、部屋に入った瞬間、全てを忘れ去った。

 目の前には、僕自慢の世界が広がっている。

「ただいま、みんな!」

 ダイニングキッチンの向こうにある部屋の壁に、三つ並んだ水槽。鞄をベッドに放り投げ、ジャケットを脱ぎ棄てて、それぞれの水槽を見て回る。水温やフィルターの状態を細かくチェック。そして、それぞれの水槽に棲んでいる魚たちや、水草の状態をチェック。

 どうやら、問題はないようだ。一安心した僕は台所に向かい、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。ベッドの端に腰をかけ、プルタブを開ける。

 ぐい、と一口ビールを飲み、水槽を眺める。

 至福のひとときだ。

 そう、僕の趣味は、アクアリウム。熱帯魚の飼育だ。最近では、アクアテラリウムにもハマりだしている。水草をはじめとした水生植物の育成である。

 機会があるたびに、自分の趣味について語る。だから、研究室の学生も、教授も、果ては理学部、いや、全学的に広まっているらしい。女子大の中の数少ない男が、何だかよく分からない趣味をもっている。しかも、周りは女の子ばかりだから、そんな噂は光速よりも早く伝わるに違いない。

 どうやら、学生の間で僕はいわゆる「草食系男子」に分類されているらしい。良からぬ噂も流れているようだ。でも、そんなことはどうでもいい。

 はっきり言って、女性に全く興味がない。

 誤解を生まないように付け加えておくが、男にも全く興味はない。念のため。

 僕が興味をもっているのは、今目の前にいる、とてもカワイイ友人たちだけである。

 改めて言おう。本当に幸せだ。

 もう一度ビールを口に含んだ時、田中さんの姿が目に浮かんだ。

「うーん」

 当然のことだが、彼女にも異性として全く興味がない。でもーー

「一度、一緒に高尾山に行ってあげようかな」

 ぐい、とビールを飲み干すと、気合いを入れて立ち上がった。給餌をはじめとして、やらなければならないことがたくさんある。

「よし、やるか!」


 次の日の昼、僕は電車に乗って中野へ向かった。

 田中さんの言った通り、「お魚関係」の用事だ。北口を降りたアーケードの先にあるショッピングモールの中に、僕が行きつけにしているショップがある。月に一度、エサなどの消耗品を買いに行くのである。

 エスカレータで地下に降り、少し行ったところにその店はある。

「こんにちはー」

 鮮やかな水草が生えた水槽が、狭い店内にこれでもかと言わんばかりに陳列されている。アクアリウムについて知らない人が見たら、何だかよく分からないけどこれが熱帯魚屋さんね、くらいにしか思わないだろうが、この店のレイアウト水槽は素晴らしい。まさにプロの仕事だ。

 店の奥、水槽と水槽の間から、中年の男性が出てきた。

「あらー、村上くん。そろそろ来る頃だと思ってたわ」

「どうも、大畠さん」

 ここの店長の大畠さんだ。彼は、いわゆる「オネエ」系である。店の名前は、「アクアショップおおはた」。一年前に東京に出てきた時には、この大畠さんにかなりお世話になった。名古屋から引っ越してくる時は、大畠さんの助けがなければ今育てている「彼ら」を諦めなければならなかっただろう。まさに恩人である。

「いつもの赤虫、お願いします」

「はいはい。それでね、村上くん」

 チョビヒゲが生えた店長は、僕にこっそりと耳打ちした。

「すごーく珍しい『エキノドルス』が入ったんだけど、興味あるかしら?」

 思わず鳥肌が立った。店長に耳元で囁かれたからではない。

 僕は、物凄い速さで頷く。

「もちろん! 是非とも見たいです!」

 店長は、うふふと笑って手招きをした。僕は興奮しながら、店長の後について店のバックヤードに入っていく。

 店の裏手も、水槽でいっぱいだ。店長が売り物にしたくないシロモノが、コレクションのように展示されている。

「これ、これ」

 店長が嬉しそうに指差した水槽を、僕は食いつくように見つめた。

 そこには、とても美しい水草が植えられていた。

「こ、これは、なんと、美しい」

 エキノドルスは、主に南米、アマゾン川などに多くの種類が生息している水草だ。

「でしょでしょでしょー! 村上くんならこの美しさが分かると思ってたわ!」

 この美しさ、水草に興味のない人には説明の仕様がない。しばらくウットリと眺めていると、店長がお茶を運んできた。

「あの、店長」

「分かってる。値段、でしょ?」

 そう、気になるのは値段だ。水草の中には珍種も多く、とんでもない値段がつくものもある。値段によっては、購入しようとすでに心に決めていた。

「はい、その……おいくらですか?」

 店長は、再び僕に耳打ちする。

 その瞬間、体中の力が抜けてしまった。

「そ、そんな」

「日本初上陸なのよ? 妥当な金額だと思うけどねえ」

「ええ、まあ確かに、妥当だとは思いますが、うう」

「ワタシは是非とも村上くんに手に入れてほしいのよ。でも、『ポスドク』っていうんだっけ? 村上くんのお給料じゃ、なかなか厳しいかしら?」

 厳しいなんてもんじゃない。給料一カ月分が吹っ飛んでしまう。でも、欲しい。果たして銀行の口座に、いくらの貯金があっただろうか。部屋のアクアリウムの維持費だけで、給料のかなりの部分が羽を生やして飛んでいく。よって、貯金もほとんどない。でも、欲しい。

 僕は、ゴクリと唾を飲み込む。

「少し、考えさせてください」

「もちろんいいわよ。ちょっと考えてみて。ワタシも頑張って殖やしてみようと思ってるの。上手くいった暁には、もう少し安く提供できると思うわ」

 店長は、バンバンと僕の肩を叩いた。

 ひとしきり店長とアクアリウム談義をした後、新しく入った魚を眺めて回った。お茶目な動きをしているアベニー・パファー(淡水フグの一種)を眺めてニヤニヤしていると、店長が声をかけてきた。

「村上くん、もうそろそろ時間じゃない?」

 そう言われて、腕時計に目をやると、午後三時になろうとしていた。

「おおっと、そうですね。ありがとうございます」

「もちろん、『クレハ』ちゃんよね?」

 店長はニヤニヤしながらそう言った。

「当たり前じゃないですか」

 僕もニヤニヤしながらそう答える。

「クレハちゃん、可愛らしいわよねえ。ワタシもあのコ好きよ。さあさあ、赤虫は帰りに渡すから、存分に楽しんできてちょーだい」

「ありがとうございます、店長! じゃあまた」

 僕は「アクアショップおおはた」を飛び出した。目指す店は二階。僕はスイスイと人を避けながら通路を走り、階段を駆け上がった。クレハが僕を待っている!


 目的の店の前に着いた時、完全に息が上がっていた。苦しい。膝に手をつき、呼吸を整える。やはり三十歳も近くなると、体力の衰えは隠しきれない。そもそも研究室に籠もりきりで、運動らしい運動をしていないのだから無理もない。

 その時、とんでもなく可愛らしい声が響いた。

「お帰りなさいませ、ご主人さま!」

 顔を上げると、店の入り口でメイド服姿の女の子が僕を見つめている。

「あ、リサちゃん。こんにちは」

 ここは、メイドリフレ「ミラベル」。簡単に言うと、メイド姿の女の子が足裏マッサージをしてくれる、という店だ。

 この店も、一年前から月に一度は通っている。それは、一人のメイドとの運命的な出会いからだった。

 それが、クレハだ。漢字だと「紅葉」と書く。その美しさときたら、生まれて初めて見るレベルと言っても過言ではなかった。今までロクに女性を好きになったことはないのだが、クレハには、ある意味一目惚れだった。でも、何だろう? 付き合いたいだとかそういうことじゃなくて、彼女に足裏マッサージをしてもらう時間が、この上もない至福の時なのだ。

「ごぶさたしてます、惣市郎さま! 走ってこられたのですか?」

 リサちゃんは、心配そうに僕を見ている。

「いや、はは、遅れそうだったんで、階段をダッシュしてさ」

「大丈夫です、ちゃんと間に合いましたよ! 間に合ったんですけど……」

 リサちゃんが伏し目がちにそう言ったので、何だか嫌な予感がした。

「え、どうしたの?」

「実は、紅葉お姉さま、急に熱を出してしまって」

 顔から血の気が引いていくのが分かった。

「今日は惣市郎さまの担当をすることができなくなってしまったのです。申し訳ございません、惣市郎さま!」

 リサちゃんは深々と頭を下げた。

「いやいや、そんなに謝らなくてもいいよ。それで、クレハの具合は?」

「いえ、あの、ただの風邪だそうで、熱もそれほど高くはないそうです。電話の声もしっかりしてました。ただ、無理をしてお店に出てきて、惣市郎さまに風邪をうつすわけにはいかないと言ってましたね」

 僕はほっとするのと同時に、クレハの優しさに心を打たれた。何だか泣けてくる。

「それで、惣市郎さま」

「ん、うん?」

「紅葉お姉さまが、今日だけ代わりの者に惣市郎さまの担当をさせていただきたいと言ってまして、変わらず九十分コースを準備してあるのですが、いかがなさいますか?」

 代わりのメイドさんか。正直言うと、クレハ以外には全く興味がないんだよな。九十分で九千円。出費もバカにならないし。

 今月は残念だけど、遠慮しておくか。そう思った瞬間にリサちゃんは言った。

「今回の料金はいただきません、と紅葉お姉さまが」

 え、タダ?

「しかも、次回半額にさせていただくとのことでした」

「そ、そんな。それはさすがに申し訳ないよ」

「紅葉お姉さま、電話口で泣いているようでした。惣市郎さまにはとてもお世話になっているのに、約束を守れずにごめんなさいと」

 クレハが、僕のために泣いていた? そこまで僕のことを?

 僕はリサちゃんに詰め寄る。

「わかった。じゃあお言葉に甘えて、今日も九十分コースでお願いします」

 リサちゃんはとびきりの笑顔を振りまいた。

「ありがとうございます、惣市郎さま!」

「クレハに、僕が心配していたことを伝えておいてもらえるかな」

「もちろんです! さあ、中へお入りください!」

 リサちゃんに促されて店に入ると、カーテンで仕切られた空間に入り、そこに置かれたリクライニングチェアに腰を下ろした。ふんわりとしたアロマの香りと、やわらかな薄暗い照明が心地良い。

「それでは、代わりのメイドを呼んでまいりますので、このハーフパンツに履き替えてお待ちくださいネ、惣市郎さま」

「ありがとう、リサちゃん」

 リサちゃんは軽くはにかんで、シャッとカーテンを閉めた。

 僕は履いていたジーンズを脱ぐと、灰色のハーフパンツにはき替え、ゆったりとチェアに横たわった。

 カーテンを挟んだ隣の席から、客とメイドが楽しそうに話をしているのが聞こえてくる。僕はぼんやりと天井を見つめ、クレハの姿を脳に思い浮かべる。

 クレハは二十四歳。どこか西洋の血をひいているかのような美しい顔立ちに、ブラウンのボブヘアー。背はそれほど高くないが、まるでヴィーナスのような豊満な身体のライン。そのふくよかな肢体がメイド服に包まれている。メルヘンでありながら、とても官能的な雰囲気の女性だ。

 性格もゆったりしていてとても優しく、話し方もおっとりしていて、それでいて一つ一つの言葉に深い思いやりが込められている。何度彼女に救われたか分からない。

 今日は本当に残念だけど、風邪をひいてしまったなら仕方がない。むしろ、自分にとってクレハがどれほど大事な存在なのかを再確認することになった。また次回、彼女に会えるのを楽しみに待つことにしよう。

 そう心に決めた、その瞬間だった。

 シャッ、とカーテンが乱暴に開かれた。

 見たことのないメイドが仁王立ちしている。

 年の頃二十歳。代わりの女の子か、と思った瞬間、僕は目を疑った。

 ……クレハ?

 いや、違う。何となく顔は似ているけど、全くの別人だ。よくよく考えると、クレハと間違えようがないのに。クレハのことをひたすら考えていたからだろう。

 ていうか、何だ、この娘。

 美しすぎる。

 一番印象的なのは、胸の辺りまで伸びた美しい黒髪だ。眉のラインで綺麗に揃えられているが、その顔立ちは明らかに日本人離れしている。きりっとした目のライン。すらっと伸びた鼻。底の厚いエナメルシューズを履いているからかもしれないが、背はそれなりに高く、手足はまるでモデルのようにしなやかだ。

 僕はぽかんと口を開けたまま、そのメイドの女の子に見惚れていた。次第に心臓の鼓動が速くなっていく。

 彼女は右手にやたらと大きいトランクを持ち、左手は腰にあてていた。細く、しかし底知れぬ何かを感じさせる瞳で僕を睨んでいるようだったが、急に視線を外すと、ぽつっと呟いた。

「確かに……」

「えっ?」

 僕が思わず聞き返すと、彼女は顔をしかめてトランクを床にドンと置いた。

「何でもないわよ!」

「は、はい」

 な、なんだ、この娘。メイドとは思えない態度だ。

「あ、あの」

 彼女は脇に置いてあった濡れタオルをつかみ、僕に向かってポイと放り投げてきた。

「さっさと足を拭きなさい」

「え、ちょ、ちょっと、自分で拭く、んですか?」

 彼女はギロリと僕を睨む。

「はあ? 自分の足くらい、自分で拭きなさいよ!」

「いや、でも、いつもはメイドさんに拭いてもらうんだけど……ですけど」

「そんなこと知るか! いいからつべこべ言わずにさっさと拭きなさい!」

「は、はい!」

 物凄い剣幕に、僕は正直ビビってしまった。いそいそと自分の足を拭く。

「拭いたら横になりなさい」

 僕は自分の足を拭きながら、もしかして、と思って恐る恐る訊いてみた。

「ひょっとして、ツンデレ、的な?」

 確かメイド喫茶か何かで、ツンデレ専門の店があったような気がする。この娘もそういうノリなのかもしれない。

 すると、彼女は目を閉じて笑みを浮かべ、ゆっくりと僕に体を寄せてきた。ふわっと何とも言えない良い香りが漂う。彼女の透き通るような白さの頬が、目に飛びこんでくる。そして、小さく淡いピンク色の唇。頭の中が真っ白になる。彼女はゆっくりと目を開いた。

 次の瞬間、彼女は思い切り僕の胸ぐらを掴み上げた。

「ひいっ!」

 僕が情けない声を上げると、彼女は低いトーンでゆっくりと言った。

「何を寝ぼけたこと言ってんの? オタクのオッサン」

 首が締め付けられる。

「ご、ごめんなさい。いたい、いたい」

 そのままリクライニングチェアにドンと体を押し付けられた。

「さっさと終わらせましょう」

 さっさと、って、九十分コースなんですけど――そう言おうとした瞬間、顔にタオルが投げかけられた。

「眩しいだろうから、それで目を隠しなさい」

「い、いえ、眩しくないので」

「隠しなさいと言ってるんだけど?」

「は、はい」

 僕は言われた通りに顔にタオルを被せた。さっきまで楽しそうな会話が聞こえていた隣の席が、しんと静まり返っている。というか、店全体が静まり返ってしまっている。この娘の迫力に、みんな驚いているのだろう。

 ところが、横になってもなかなか足を触られる感触がない。しばらくして、足元でガチャガチャと音が聞こえてきた。何かを開けようとしているのだろうか。マッサージに使う道具? いや、オイルとかパウダーとか、そういうのは全部もともと足元に置いてあるはずだ。僕は何か不安になって、起き上がろうとした。

「寝てなさい。起きたらヒドイ目に遭わせるからね」

「はい……」

 一体、この娘は何を考えているんだろう。やっぱり断るんだった。代わりの女の子なんて、僕には必要ないんだ。僕には、クレハさえいれば。

 クレハの姿を思い浮かべて、僕は「あれ?」と思った。

 何かこの娘、やはりクレハにどことなく似ているような……。

 もちろん、クレハはもっと大人びていて、おっとりしていて、とても優しい。全くの別人だ。でも、その少し日本人離れした美しい顔立ちが、どことなく似ているような気がする。僕は、顔にかけたタオルをそっと持ち上げて、もう一度その娘の顔を見ようとした。

「……あのさ、ヒドイ目に遭いたい訳? あんた、Mなの?」

 僕はぱっとタオルを離した。

「そんな訳ないじゃないですか。ははは」

 もういいや、覚悟を決めよう。

 その時、カーテンが少し開く音がした。

「大丈夫? ミオコちゃん」

 リサちゃんの声だ。

「だ、大丈夫ですよ。心配しないでください」

 メイドの娘は、笑って答えた。何だか動揺しているようだ。

「何も問題ありませんよね、ソウイチロウ様?」彼女は可愛らしく同意を求めてくる。

「え? あ、はい。問題ありません」

 問題なら大いにあるのだが。それにしても、この娘に「様」付で名前を呼ばれると違和感があるな。

「そう。じゃあよろしくね。紅葉お姉さまのお願いなんだから」

 リサちゃんの心配している様子が、目に浮かぶようだ。これなら、リサちゃんにマッサージしてもらった方が断然良いのだが。

 カーテンが閉まる。リサちゃんは行ってしまったようだ。メイドの娘がフウとため息をついたのが聞こえた。

「……ミオコっていうんだね」

「は? そっ、それがどうしたのよ」

「どうしたのよ、って、名前、教えてもらってなかったし。いい名前じゃないか。漢字でどう書くのかな?」

 しばらく何も返事がなかったが、ミオコは小さく呟くように言った。

「いいから黙ってなさいよ、まったく」

 キイッと何かが開く音がした。その瞬間、子どもの笑い声のようなものが聞こえた。それだけではない。ガヤガヤと、子どもが騒いでいるような声が聞こえてきた。どこから聞こえてくるんだろう?

「あ、ミオコちゃん。お外に出てもいい?」

「しっ! 静かにして。長老はどこ? 長老を呼んで」

「えーっ。お外に出たいな出たいな」

「今はダメ。後で遊んであげるから。早く長老を呼びなさい」

 何だ? 誰と喋ってるんだろう?

 しばらく子どもの楽しそうな声が聞こえていたが、そのうち年老いたおじいさんのような声が聞こえた。

「よっこいせ。待たせたのう」

 そして、ガチャッという音がして、子どもの声は聞こえなくなった。

「長老、この足なんだけど」

「おお、クレハの言っていた男じゃな」

 その老人のような声は、間違いなく「クレハ」と言った。一体、誰だ? なぜクレハのことを?

「ほう、良い足の相じゃ」

「えっ! じゃあ、まさか」

「うむ、クレハの言っていた通りじゃな」

「そ、そんなぁ」

 ミオコの泣きそうな声が響く。何なんだ、さっぱり意味が分からない。

「あの、さっきから何を」

「だから、あんたは黙っててよ!」

「は、はい」

「大体、足の相なんかで何が分かるっていうのよ。納得いかないわ」

 その時、足に何か冷たいものを感じた。思わずびくっとしてしまう。

「こんな男のっ! どこがっ!」

 どうやら、ミオコが足を掴んでいるようだ。ひんやりとした指の感覚が気持ち良く、何だかドキドキしてしまう。

 次の瞬間、鋭い痛みが僕を襲った。

「いたたたたたたっ!」

「このこのこのこのっ!」

 彼女は、滅茶苦茶に僕の足裏を指で押し始めたのだ。

「ちょ、ちょ、いたっいたいって!」

 僕はあまりの痛さに跳び起きた。ミオコは、目に涙を浮かべて顔を真っ赤にして僕の足を押し続けて――というか、握り潰そうとしているようだった。

「うー、うー」

 彼女はよく分からない唸り声を上げて鼻息を荒くしている。

「落ち着いて! 落ち着いてよ、いてててててて」

 僕は痛みを堪えながら、ふと不思議な感覚に襲われた。

 さっきまで、おじいさんみたいな人の声が聞こえていたはずだ。でも、この場には僕とミオコしかいない。

 彼女の足元にはトランクが寝かされ、その上に何やらモジャモジャした薄汚いぬいぐるみのようなものが置かれている。

 カーテンがシャッと開き、リサちゃんが驚いたような顔で入ってきた。

「ちょっと、ミオコちゃん、何やってるのっ!」

「うー、うー」

 リサちゃんは後ろからミオコにしがみついて、僕から引き離そうとした。騒ぎを聞いた他のメイドの女の子たちもやってきて、僕とミオコの間に割って入る。

 た、助かった。

 ミオコは急に静かになった。観念したようにうなだれている。

「紅葉お姉さまに報告しますからね」

 リサちゃんは息を荒くしてそう言った。すると、ミオコはすっと立ち上がった。

「自分で言うわ」

「え?」

「帰る」

 ミオコはモジャモジャした薄汚いぬいぐるみを脇にかかえると、大きなトランクを持ち上げ、ふん、と鼻を鳴らしてカーテンの隙間から出ていってしまった。

「ちょ、ちょっと、ミオコちゃん!」

 リサちゃんも、他のメイドの女の子も、そして僕も、みな唖然としていた。


「ははははははっ!」

 高野の笑い声が居酒屋の半個室に響く。といっても周りも賑やかだ。恐らく満席だろう。土曜日の夜の新宿。どの店も大繁盛しているに違いない。

 昼間、僕に振りかかった災難について高野に話していたところだ。

「笑い事じゃないよ。まだ足の裏が痛いんだぞ?」

「いや、すまん。何だか面白くて」

 高野は、細いシルバーフレームのメガネを外すと、おしぼりで目を拭いた。

 彼は、高野潤。学生時代からの親友だ。大学では同じ研究室に所属し、僕が単離屋――自然界に存在する有益な化学物質を見つけ出す仕事――をやっていたのに対して、高野は合成屋――その見つけ出された物質を、様々な有機合成反応を駆使して人工的に作り出す仕事――をしていた。かなり優秀で、修士で卒業すると某超有名製薬企業に就職した。

 僕はジョッキを持ち上げ、ぐいっとビールを流し込んだ。昼間起こったことを忘れようとして、早くも二杯目を空けようとしていた。

「ほんと、何なんだよ、あいつ」

 僕は、あの不思議なメイドを頭に思い浮かべる。

「でも、美人だったって?」

「うん、まあ、それは否定できない。というか、かなり美しかった」

「紅葉さんよりも?」

「それはない。……ない? うーん。どうなんだろう? というか、クレハと同じくらい? というか、クレハにどことなく似てるんだよな」

「ふーん」

 高野は微笑した。

「何が、ふーん、だよ。まったく。他人事だと思って」

「まあ、他人事だしな。ところで、その娘、ミオコちゃんだっけ?」

「うん、ミオコ。名前は良いんだけどなあ」

「その娘、メイド服のまま店から出ていったのか?」

 僕はホッケの干物をいじっていた箸を止める。

「言われてみると、そうだな。着替えてた感じもなかったし」

 ひょっとしたら、コスプレ大好き女の子なのだろうか? もう、どうでもいいけど。

 高野は徳利から燗酒をお猪口に注ぐと、真面目な顔で言った。

「ところで、例の漢方薬の件、どうなった?」

「ああ、とりあえず粗抽出して、これから分画。ラットに投与してみるよ」

 高野は満足そうに酒を飲み干した。

「忙しいのに悪いな」

「自分のところの研究所でやればいいんじゃないのか?」

「だから、前も言ったが、単離屋としてのお前の腕を見込んでお願いしてるんだよ。立体構造決定までの鮮やかな実験能力は、中島先生のお墨付きじゃないか」

 中島先生は、僕と高野の大学時代の恩師だ。そう言われて悪い気はしない。

「そういう高野も忙しいんじゃないのか?」

「……まあな」

「僕と違って、給料も高いし」

「まあな」

 僕は高野を睨みつけた。人がポスドクで毎日ぎりぎりの生活を送っているというのに、こいつはさっさと就職して多額の給料をもらっている。やはり就職すればよかった。僕は徳利を掴みとり、高野に差し出す。

「ほれ、飲め。もっと飲め」

「村上、目が座ってるぞ」

 高野は苦笑いしてお猪口を差し出し、酒を受ける。

「ほっといてくれよ。今日は飲まなきゃやってられない。せっかくの月に一度のクレハとのふれあいが、くそぅ」

 僕はテーブルに額をつけて、クレハの美しい姿を思い出そうとした。しかし、頭に浮かんできたのは、やはり昼間のツンデレメイドの姿だ。僕は頭をかきむしる。

「ちがうちがうちがうちがう」

「おいおい、何をやってるんだ」

「クレハの姿が、美しい顔が、思い出せない」

「出てくるのは、ミオコちゃん、か?」

 僕はガバッと顔を上げ、高野を睨む。通りがかったバイトのお姉さんに「すみません、僕にも熱燗ください」と大声で注文する。

「僕はね、何度も言うけど、クレハにしか興味ないの。他の女なんて、どうでもいいんだよ。ていうか、アベニー・パファーのほうが断然カワイイ!」

「アベ? ああ、あの小さいフグか。そういえば、相変わらず水槽マニアなんだよな」

 高野は、興味なさそうにイカの塩辛に箸を運ぶ。

「水槽マニアって、何だよその言い方! お前はな、アクアリウムの素晴らしさってものが」

「そういえば、例のエムイチの娘とはどうなったんだ?」

 エムイチ? 田中さんのことか。

「どうなったって、仲良くしてるよ」

「研究室の帰り、家まで送っていってるんだよな?」

「うん、もちろん」

 高野はため息をつく。

「付き合わないのか?」

「はあ? だから何度も言ってるけど、彼女にそういう異性的な感情はもってないの! 彼女だってこんな三十近い男に興味ある訳ないだろ」

「そうかね」

 熱燗が運ばれてくると、高野がおしぼりで手に取り、僕に差し出してきた。

「まあ、いい。漢方薬の件だけ頼んだぞ。五月の連休くらいまでには構造決定できるか?」

 僕はもう一つ運ばれてきたお猪口を手に取り、高野から酒を受ける。

「まあ、そうだな。五月の連休、ねえ」

「無理か?」

「いや、無理じゃないけど、連休って何か約束があったような。あ、田中さんだ」

 高野は眉をひそめる。

「お前、それだけ言っておいて、そのエムイチの娘と遊びにでも行くのか?」

 僕はお猪口に口をつけながら手を振る。

「ちがうちがう。何て言ったかな。えーと、あれだ。『ホームカミングデー』」

「ああ、大学が一般市民や学生の家族を招待して、研究やキャンパスライフについて紹介するやつか」

「そうそう、そのホームカミングデーに、彼女から頼まれごとをしてるんだよ」

「頼まれごと?」

 僕は熱燗に手を伸ばす。熱い。思わず手を引っ込める。

「何かよく分からないけど、着ぐるみを着てほしいって」


 翌週、月曜日の夜。僕はその日の学生実験の洗い物を手早く終え、マウスの準備にとりかかった。謎の漢方薬から抽出した液を、さらに化学的性質の違いで三つに分け、マウスに投与することで当たりをつけるのだ。ちなみに、分けることを「分画ぶんかく」、分けたものをそれぞれ「画分かくぶん」と呼んだりする。

 いつものように、研究室には僕一人。いくら理系女子とはいえ、マウスやラットといった実験動物が苦手な学生もいて、この研究室も例外ではない。マウスで実験するには今がチャンスなのだ。

 時計を見ると、十時を過ぎている。そろそろ田中さんが来る頃だと思うが、彼女はマウスやラットは全然苦手ではない。だから問題はないと思う。

 ゲージに入っている三匹のマウスの尻尾にそれぞれマジックで番号を振り、小さい三つのナスフラスコに入った水溶液を、スポイトでそれぞれのマウスに飲ませる。今まで何度となくやってきた作業だ。場合によっては腹腔内に注射することもある。こんなことは朝飯前だ。実際、研究室の学生に頼まれることもある。

 全てのマウスへの投与が終了した後、ストップウォッチをスタートさせる。

 デスクの椅子に腰を下ろし、実験ノートをぼんやりと眺める。

 欠伸をしようとした、その時だった。ゲージからガサガサ音が聞こえてくる。

「早いな」

 あまりにも反応が早かったので僕は少し驚いたが、ゲージの中の様子を見て、声を失った。

「な……」

 ゲージの中では、三匹のマウスのうちの一匹が、物凄い速さで走り回っていた。それも、底面だけではない。ゲージの側面や、上部もだ。

 尋常ではない運動能力だ。

 残りの二匹のマウスは、片隅で小さく震えている。

 僕は、この様子をカメラに収めようとして、慌てて丸椅子に足をつっかけて転んでしまった。

「いててて」

 ゲージからはガンガンと音がし始めた。僕はゲージが置かれた実験台に手をかけ、恐る恐る顔を上げた。そして目を疑った。

 その運動神経抜群のマウスは、何と逆さまになって側面に前足をくっつけ、後足でゲージの蓋を開けようとしているではないか。ふんふんと鼻息を荒くし、一生懸命になっている様子が分かる。

 僕は訳も分からず、蓋を両手で押さえた。マウスは物凄い力で押し返してくる。

「こ、こいつ」

 尻尾の番号は、二番。真ん中の画分だ。

 その時、廊下の方から声が聞こえた。

「失礼します」

 田中さんの声だ。どうしよう。何か、彼女にこの状況を見せる訳にはいかないような気がする。僕はすかさずゲージを体で隠すポジションに移動した。

「た、田中さん! ちょっと待って!」

「は、はい!」

「今、ドラフトの中で、えーと、そう、リチウムアルミニウムハイドライドを使ってるんだ。危ないから、入ってきちゃだめ」

「り、りちうむアル?」

 田中さんは入り口の辺りでオロオロしている。リチウムアルミニウムハイドライドは、正しく扱えばそれほど危険ではないし、そもそも使っていないのだが、ここは嘘をつくしかない。

「ごめん、今日はオーバーナイトで様子を見なきゃならなくて、徹夜なんだ。一緒に帰れなくてごめんね」

 僕は必死でゲージの蓋を押さえながら、無理矢理な笑顔で田中さんに言う。

「そ、そうですか」

 田中さんのションボリとした雰囲気が伝わってくる。

「き、気をつけて帰ってね」

「はい、あの、村上さんもあまり無理しないでくださいね。おやすみなさい」

 そう言って、田中さんはいなくなった。一安心だ。

 ところが、やんちゃ坊主のように元気なマウスは、相変わらず蓋を開けようと頑張っている。僕はストップウォッチに目をやった。十分を過ぎている。白衣の下は、汗だくだった。

「これは、えらいことだ」

 それから、どれくらいの時間が経っただろう。気が付くと、僕は床に倒れこんでいた。窓の外はぼんやりと明るくなっている。いつの間にか寝てしまったのだろうか。

 ばっと起き上がって、ゲージを見た。

 ゲージの中では、三匹のマウスがすやすやと眠っている。

 僕は大きくため息をついて、時計に目をやった。朝の四時だ。

 あれは、一体、何だったんだろう? 夢だったのだろうか? 僕は再び実験室の床に倒れこんでしまった。


 五月の連休。ホームカミングデーの日がやってきた。

 僕は、研究室の自分の席に座り、小さなガラス瓶に入った白色の結晶をぼんやりと眺めていた。あれからおよそ一カ月。僕はほとんど不眠不休で、高野に頼まれた漢方薬由来の化合物の構造解析を続けてきた。最終的に結晶体として得られたことで、エックス線結晶構造解析により立体構造も決定できた。

 その化学構造、これまでの天然物には見られないような特異な骨格を有していた。マウスが異様な運動能力を見せたことから、アルカロイド系のいわゆる麻薬のようなものを予想していたのだが、全く違う。見たことのない形なのだ。少なくとも論文が書けることは間違いない。しかし、それよりもこの物質の作用が大問題だ。存在する化学物質を凌駕する運動能力の向上。これが、ヒトでも同じ作用を引き起こしたら。

 この物質は、果たして社会に公表していいものなのだろうか。そもそも、高野に伝えるべきなのか。

「一体どうすれば」僕は頭を抱えた。

「失礼します」

 田中さんの声だ。僕は白衣の胸ポケットにガラス瓶を押しこんだ。

「おはよう。田中さん」

「おはようございます、村上さん。あの、ひょっとして昨日も徹夜ですか?」

 田中さんは恐る恐る研究室に入ってくると、そっと缶コーヒーを僕に差し出した。

「あ、ありがとう」

 田中さんは相変わらず顔を赤らめて、メガネをクイと触った。

「徹夜明けで着ぐるみを着て、その、大丈夫ですかね?」

 忘れてた。今日は着ぐるみを着る日だ。

「うん、大丈夫大丈夫。徹夜は慣れてるし、問題ないよ」

 そうは言ったものの、田中さんはとても心配そうな顔をしている。というか、田中さんも何だか眠たそうだ。

「田中さんも寝不足気味?」

 彼女は恥ずかしそうに笑う。

「えーと、ちょっと眠いです。じゃあ、あの、私の研究室まで来ていただけますか?」

 僕は研究室の鍵を閉めて、田中さんと一緒に生物学棟へと向かった。建物の外は、ホームカミングデーの準備をする学生で賑やかだ。立て看板を立てたり、ポスターを掲示したり。まるで学園祭のようだ。学園祭と違うのは、理学部の学生はほとんど皆白衣を着ているというところだろうか。もちろん僕も田中さんも、白衣姿だ。女子大のなかではちょっと異色な空間だろう。

 渡り廊下を歩く僕を見て、ある学生は頬を赤らめて会釈し、また別の学生は汚い物を見るように顔をしかめる。興味はないが、この大学で僕の評価は二分されているらしい。こんな男の隣を歩く田中さんに何だか申し訳ない感じもするが、彼女はなぜか顔をニヤニヤさせている。

 生物学棟の五階に着くと、僕は白衣の女子学生の集団に盛大な拍手で出迎えられた。

「村上さんをお連れしました」

 田中さんは、人の良さそうな白衣のおじいちゃんに声をかけた。林教授。田中さんが所属する植物生理学研究室のボスだ。

「やあ、村上くん。忙しいところ今日はありがとう」

「林先生。今日はよろしくお願いします」

「冴木先生がよく許可してくれましたね」

 林教授に言われて、僕は耳打ちをした。

「実は、冴木先生には言ってないんです。是非ともご内密に」

 林教授は大笑いした。

「あっはっは! そうですかそうですか。もちろん内緒ですよ」

 田中さんが、僕の白衣の袖を引っ張る。

「じゃあ村上さん、着替える場所に案内します」

 すると、学生たちは「おおー」と感嘆するような声を上げた。

「サキー、襲うんじゃないわよ」

 学生の一人――田中さんの先輩の今井さんだ――がそう言うと、笑いが起きた。田中さんは顔を真っ赤にして手をばたばたしている。

「ちょ、そういうことを言わないでください!」

 僕は田中さんに引っ張られて、訳も分からずその場を離れた。

 薄暗い廊下を抜けると、階段があった。ここは確か最上階だから、これは屋上へとつながる階段だろう。一段一段の端に、「○○理化器械」とか「○○薬品工業」とか書かれた段ボールがうず高く積まれている。厳密にいうと消防法に抵触するような気もするけど。

 屋上に出る扉がある踊り場に、プラスチックの大型ケースが置かれている。その中に、オレンジ色のもふもふした何かが入れられていた。どうやら今日着ることになっている着ぐるみのようだ。

 狭くて静かな空間に、田中さんと向き合う。すると彼女は真っ赤な顔でうろたえたように言った。

「え、と、じゃあ、あの、ええと」

 彼女の額から、汗が滴り落ちる。

「これを着ればいいんだよね?」

「あ、はい。そうです! わ、私、階段の下で見張りをしてますので、き、着替え終わったら教えてください」

 見張りって? と訊こうとしたが、田中さんはそそくさと階段を下りていってしまった。

 僕は一息置くと、白衣を脱ぎ、ポロシャツを脱ぎ、さらにジーンズを脱いだ。そこで、例の結晶が入ったバイアルが白衣のポケットに入っているのを思い出し、しばらく考えて、トランクスにある小さなポケットのような部分にバイアルをねじ込んだ。

 ケースに入った着ぐるみをごそごそやると、可愛らしいクマの頭の部分が出てきた。

「クマ、ね」

 どうやら頭、胴体、手、足の部分に分かれていて、胴体は後ろでチャックを閉めるタイプの着ぐるみのようだ。僕は胴体に足を入れ、肩まで被ると、後ろ手にチャックを閉めようとした。すると、予想通りチャックを閉めることができない。

「あの、田中さん」

「は、はいっ!」

 田中さんは、叫び声のような声を上げた。

「背中のチャック、閉めてもらっていい?」

 田中さんは、恐る恐る階段を上って来ると、目をつぶって頭を振り続けた。

「見てません見てません見てません」

「いや、見ないと閉められないと思うよ?」

「ううう、ううう」

 彼女は、薄く目を開けて顔を背けながらチャックをゆっくりと上げる。

「ありがとう」

 これで、スリッパみたいな「足」を履いて、手袋のような「手」をつけて、頭をかぶれば、完成。

「おお、予想通り視界が狭い」

 目の部分だけから外が見える感じだ。視界に田中さんの顔を捉える。

「だ、大丈夫ですか?」

「うん、何とか。でも、田中さんにアシストしてもらわないと、一人では歩けないね、これは」

「それは任せてください。今日一日、村上さんに付きっきりです。心配しないでください」

 田中さんはそう言うと笑った。

「そのクマさん、私が作ったんですよ」

「え! そうなの?」

 まさか手作りだったとは。着ぐるみなんて初めて着たけど、商品として売っているものかと思った。かなりクオリティが高いのではないだろうか。田中さんにそんな特技があったとは。そうか、徹夜で着ぐるみを作って、それで寝不足気味なのかな? 僕は手を小さく広げ、驚く仕草をする。

「か、かわいいっ」僕の仕草を見て、田中さんは両手で口を押さえ、嬉しそうに笑う。

「それでは、会場まで行きましょう」

 そして、何やら覚悟を決めたように頷いて、僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。

「た、田中さん?」

「だ、ダメです! 着ぐるみが喋るのはタブーですよ!」

「そ、それはそうだけど、その、二の腕に……」

 二の腕に柔らかい感触を感じて、僕は焦った。

「よし、じゃあ、ゆっくり階段を降りましょうね」

 田中さんは、なぜか満面の笑みを浮かべている。僕はどぎまぎしながら、それでも彼女に身を委ねるしかなかった。

 僕たちは、必要以上にゆっくりと廊下を歩き、エレベーターに乗り、生物学棟の外へと歩いていく。外には、小学生くらいの子どもたちが二十人ほどワイワイと集まっていた。

「あ、やっと来た。サキ、おそーい」

 今井さんが僕らに気が付くと、子どもたちが「クマだ! クマだ!」と騒ぎ始めた。

「お待たせしましたぁ」田中さんは手を振る。

「ちょっとちょっと、サキ、くっつきすぎじゃない?」

 今井さんがニヤニヤしてはやし立てると、他の学生たちからも「ひゅーひゅー」と声が上がった。

「クマさん、歩くの大変なんだもん、しょうがないでしょう?」

 田中さんは、ドヤ顔で言った。そして僕の頭の上の方でこそこそと囁いた。クマの耳の部分に耳打ちしているようだ。芸が細かい。

「村上さん、この裏に、ちょっと広めの雑木林があるの知ってますか?」

「う、うん。知ってるよ。実験林だったよね?」

「その通り。今日は、あそこにいる子どもたちと一緒に、雑木林の生物多様性を観察しよう! という生物学科のイベントなんです」

 なるほど。僕は、このクマの格好で、イベントに付き合うというわけか。

「名付けて、森のクマさん大作戦です!」

 ……田中さん、嬉しそうだなあ。


「この木は、クヌギです。このクヌギの果実、木の実ですね。秋になる木の実が、皆さんの知っているドングリです」

 案内役の学生が、よく通る声で子どもたちに説明をして回る。

 僕は、子どもたちにポコポコ叩かれながら、グループの最後尾について回っている。叩かれるたびに、田中さんが優しくたしなめる。相変わらず、僕の腕は彼女の胸に密着していた。

 この着ぐるみを着てから、どのくらい経っただろうか? 恐らく三十分は経っているに違いない。実験林の中は木陰が多いとはいえ、五月の陽気の中、僕は汗をだらだらかいている。そろそろ休憩したい。

 着ぐるみ越しに田中さんを見ると、心なしかソワソワしているようだ。ソワソワというか、ウズウズというか。

「ちょっとみんな、この根元を見てみて」

 案内役の学生が手招きをすると、僕を叩いていた子どもたちを含めて全員が木の根元に集まった。

 田中さんは、ぴたっと立ち止まる。僕も立ち止まった。

 すると田中さんは、僕を引っ張って、音を立てないようにこっそりとその場を離れた。子どもたちからだいぶ遠ざかると、僕に言った。

「こっちです」

 僕の腕を持って、早歩きで林の中に分け入っていく。しばらくすると、倉庫のような小屋が見えてきた。裏手に回り込む。小屋の裏は、下りの斜面になっていて、藪とフェンスを挟んで、住宅地が見える。

「村上さん、ここに座って」

 田中さんに言われたとおりにゆっくりと土手に腰を下ろすと、彼女は着ぐるみの頭部をゆっくりと脱がせてくれた。

「涼しい」

 外の空気がとても気持ち良い。

「凄い汗ですね。大丈夫ですか?」

「そろそろ休憩したいと思ってたところだよ。ありがとう、田中さん」

「あの、私、生物学棟まで戻って、飲み物を買ってきますね」

 田中さんの言葉に、僕は素直に喜んだ。喉がカラカラだった。着ぐるみを着るとこんなに汗をかくものなのか。

「ちょっと時間がかかるかもしれませんけど、ここで待っててくださいね」

 田中さんは僕に念押しすると、タタタッと走り出した。

 生物学棟までそれほど離れてはいないから、そんなに時間はかからないと思うんだけど。僕はちょっと不思議に思ったが、小屋に背をもたれかけて大きく息をついた。

 雑木林の中を風が通り抜ける。サササ、と葉の音が聞こえてくる。

「風が気持ちいいなあ」

 目をつぶって、風の音に耳をすませる。ふいに、左腕に田中さんの胸の感触を思い出した。心拍数が上がるのが分かる。

 この前、新宿で高野と飲んだ時のことを思い出した。「異性的な感情はもっていない」と言い切ってはみたものの――今でもそういう感情はもっていないと思ってはいるが――それにしても、「ほんわか」してたなあ。

 何だか下半身に違和感を感じたところで、僕は着ぐるみのもふもふした手で自分の頬を叩いた。

「いかんいかん」

 僕は目をつぶって、我が家のカワイイ友人たち、すなわちアクアリウムの魚たちを思い浮かべようとした。しかし、邪念は下半身とともにムクムクと湧き起こってくる。

 その時、トランクスに収納されているガラス瓶の存在を思い出した。自然と、あのラットの物凄いエネルギーが蘇ってくる。今でも、夢を見ていたのかもしれないと思う。しかし、あれは現実に起こった出来事なのだ。

「これ、どうしようかな」

 僕は、着ぐるみの上からガラス瓶の固い感触を確かめるように下半身をさする。

 林の中を、風の音が通り過ぎる。

 ふと、誰かの気配を感じた。はっとして、小屋の端に目をやる。そこにいたのは、田中さんではなかった。

 見知らぬ女の子が立っている。

 いや、ちょっと待て。

 見知らぬ? いや。

 僕は目を見開く。と同時に、心臓がバクバク音を立て始めた。

「あ」

 その女の子の驚きようも尋常ではなかった。見てはいけないものを見てしまったような表情をしている。そして、汚い物を見るように、次第に顔をしかめていった。

「何で、ここにいるのよ」

 それは、まさにあのツンデレメイドだった。

 ミオコだ。

 メイド服こそ着てはいないが、その日本人離れした美貌、そしてツヤのある美しい黒髪は、忘れることはない。すらっと伸びた身体を、軽めのゴスロリ・ファッションが包んでいる。黒と紫のプリーツスカートに、胸のあたりに小さいドクロの絵が入った白いブラウス。そして細身の黒いネクタイがゆるく結ばれている。胸ポケットから伸びたイヤホンを外す。

「そ、それはこっちのセリフだよ」

「いやいや、私は、ここの学生だから」

 僕は言葉を失った。

 まさか、ウチの学生だったとは。

「あんたこそ、何でここに? というか、何その格好。というか、何をさすってるのよ。意味分かんない」

 そう言われて、僕は思わず股間から手を離した。

「こ、これは違う! 僕は、その、何というか!」

 説明すべきことがありすぎて、僕は混乱してしまった。

「さては、変態ね?」

「そう、変態! じゃない! 断じて変態ではない!」

「じゃあ何よ」

 何よ、と言われて、僕は一体何なんだろう? と自己不信に陥りかけたが、首をブルブル振って答えた。

「ぼ、僕も、ここの学生だ」

「はあ?」

 今まで何度となく経験してきた反応だ。女子大に男の学生がいるはずがない、と。しかし、ミオコは違った。フッと吹き出すようにして苦笑する。

「あんた、もしかして、ポスドク?」

 驚いてしまった。何なんだ、この娘は。鋭い。

「男の教員ならいても不思議じゃないけど、学生、って言ったわよね? そしたらポスドクくらいしか考えられないじゃない?」

 僕は、何も言えなかった。

「まあ、それはいいとして、全く意味が分からないのはその着ぐるみよね」

 そう言って、ミオコはスカートの裾を押さえ、僕の隣に腰を下ろした。

「よいしょ、と」

 厚底の黒いブーツを履いた足を斜面に投げ出す。黒のオーバーニー・ソックスの描き出す曲線が、何とも美しい。思わず太腿まで視線を移動したが、僕は我に返って顔を背けた。

「これ、飲みなさい」

 ミオコは、黒革のショルダーバッグから紅茶のペットボトルを取り出すと、僕の目の前に差し出した。

「いや、その」

「いいから。そんな汗かいて、遠慮してんじゃないわよ」

 田中さんが飲み物を買いに行ってくれていることを説明しようとしたが、とりあえずいただくことにしよう。断ると面倒そうだし。

「じゃあ遠慮なく」

 僕は、まだ開けられていないペットボトルをプシッとひねると、ぐびぐびと喉に流し込んだ。体に染み込んでいくようだ。冷たくて美味い。一息つくと、何だか視線を感じてミオコの方を見た。彼女は口を小さく開けて、僕のことを見つめている。

「あの、何か?」

 ミオコははっとして顔を背けた。

「別に。何でもない」

 彼女は体育座りのような格好で、膝の上の腕に顔をうずめて僕に睨むような視線を送ってくる。

「それで、なぜ着ぐるみなんて着てるのよ」

「これは、その、頼まれたんだ」

 僕は、自分が有機化学研究室のポスドクであること、そして生物学科の後輩の女の子に頼まれて、ホームカミングデーの手伝いをしていることを説明した。

「ふーん、へえ、そう」ミオコは、超適当な相槌を打つ。

「興味なさそうだなあ」

「なさそう、じゃなくて、ないの。これっぽっちも。全く」

 まったく、この娘は。僕は負けじと彼女に質問することにした。あの、メイドリフレ「ミラベル」での一件も含めて、訊きたいことが沢山ある。

「そういうキミは」

「そういえば、その飲み物を買いに行ってくれてるカワイイ後輩、遅くない?」

 見事に話の腰を折られてしまった。

「まあ、確かに遅い、かな」

 言われてみれば、もう二十分くらい経つんじゃないだろうか? どこまで買いに行ってるんだろう? 生物学棟じゃなかったのかな? ん? ちょっと待てよ。

「いや、『カワイイ』後輩とは言ってないと思うけど」

 ミオコは苦笑する。

「あのさ、それだけ嬉々としてその娘の話してたら、カワイイって言ってるのと同じだと思うんだけど。ていうか、あんた、その娘のこと好きでしょ?」

 僕は慌てた。

「違う! そういうつもりで話したんじゃなくて、その、好きとか嫌いとかではなく」

 ミオコは、大きくため息をついて「よっこいせ」と立ち上がり、お尻についた土をぺんぺんと掃う。

「やれやれ、無駄な時間を過ごしちゃったな。じゃあね、オッサン」

「オッサン言うな。ていうか、ちょっと待ってよ」

 その場を立ち去ろうとするミオコに、僕は慌てて立ち上がった。上手い具合にはぐらかされて、訊きたいことを何も訊けていない。

 次の瞬間、斜面に足をとられてバランスを崩してしまった。左足に鈍い痛みが走る。

「いてっ」

 そのまま斜面を転がり落ちて、何かにぶつかってガシャンと音がした、土手のすぐ下を流れる川との境にある金網にぶつかって止まったようだ。

 体が痛い。でも、着ていた着ぐるみのおかげで大した怪我はしなかったようだ。

 土手の上から、ミオコが滑り降りてきた。と思うと、僕の肩をしっかりと掴む。

「ちょっと、大丈夫?」

 目の前に、彼女の美しい顔があった。どうやら心配してくれているようだ。

「大丈夫。ごめんごめん」

 微かに良い香りが漂う。そうか、メイドリフレでも同じ匂いがしたっけ。

「怪我してない?」

「うん、着ぐるみがクッションになったみたいで、何ともないみたい」

 ミオコは大きくため息をつく。そして僕の頭を軽く引っぱたいた。

「ったく、ほんとにどうしようもない男ね」

「ご、ごめんなさい」

 そう呟いて、立ち上がろうとした。

 その時、左足に鋭い痛みが走った。

「いててててて」

「何よ、何ともなくないじゃない!」

 どうやら捻挫してしまったようだ。僕はミオコに肩を借り、やっとの思いで土手の上に上がった。スリッパのようになっている着ぐるみの足の部分を外すと、足首が赤く腫れあがっている。

「骨折してるかもしれないわね」

 ミオコはとても冷静だった。ふと彼女の足元を見てみると、土手を滑り降りた時に付いたと思われる泥で、ブーツが汚れている。僕は何だか情けなくなった。

「靴、汚れちゃったね。ほんとにごめん」

「はあ? そんなことより、自分の足の心配しなさいよ。どう? 歩けそうなの?」

 足を踏みしめると、激痛が走る。少なくとも一人で歩けそうにはない。

「ごめん、無理っぽい」

 弱々しく答えると、ミオコはすっと立ち上がった。

「医務室に行って、人を呼んでくる。ちょっと待ってなさい」

 この娘、話し方は冷たいけど、案外優しいのかもしれない。

 そこに、白衣を着た女の子が現れた。今井さんだ。

「あれ、サキ、戻ってきてません?」

 彼女はミオコにちらちらと視線を投げながら、僕に言った。

「あ、うん、まだ来てないよ」

「まったく、しょうがないなあアイツ。着替えるのにどれだけ時間かけてるんだか」

 着替える?

「あれ? 飲み物を買いに行ってくれてるはずなんだけど」

 今井さんは苦笑する。

「違うんですよ。サキね、クマさんに合わせたいとか言って、私服に着替えに生物学棟に戻ったんですよ。アイツ、服が『森ガール』でしょ? すごい興奮しちゃって、これやらなきゃ絶対後悔する! とか言っちゃって」

 え? どういうこと?

 ミオコは僕をじっくり眺めて、頷き始めた。

「あーあーあー、なるほどなるほど」

「でしょ? でしょ?」

 今井さんとミオコはくすくすと笑い出す。

「あの、それであなたは?」

「あ、私はただの通りすがりの者です。ケガをしているクマさんのために、医務室に行って人を呼んでこようかと」

 ミオコは台本を棒読みするかのようにそう言った。今井さんが目を見開く。

「え、村上さん、ケガしちゃったんですか?」

「うん、恥ずかしながら、土手を転げ落ちて足を捻挫しちゃいました」

 大きく腫れた左足を見ると、今井さんはオロオロし始めた。

「大変。私が行って呼んでくる」

 その時、別の白衣の女の子が二人走り寄ってきた。

「今井さん!」

 田中さんの研究室の後輩のようだ。何やら深刻な顔をしている。

「どうしたの?」

「田中さん、まだ来てませんか?」

「まだ生物学棟の中みたいね」

 後輩の二人は顔を見合わせる。そして、恐る恐る切り出した。

「私たち、広場でお喋りしてて、田中さんが生物学棟に入っていくのを見かけたんです」

「それで?」

「その、田中さんが入ってすぐに、変な男の人が、生物学棟に……」

 その瞬間、背筋が寒くなるのを感じた。

「男って、ウチの教職員じゃなくて?」

「いえ、見たことのない人でした」

「なかなか田中さんが出てこなくて、私たち、何か不安になって……」

 僕は、無意識に走り出した。しかし、その瞬間、足に激痛が走る。前のめりになって転んでしまった。

「ちょっと、何やってるのよ!」

 ミオコが駆け寄って来る。

「何か、たぶん、やばいよ!」

「そんなこと言ったって、その足じゃ何もできないでしょうが!」

 今井さんは顔面蒼白で呟く。

「今日は休日だし、林先生は一般講演で外に出てる。生物学棟の中には、ほとんど誰もいない」

 ミオコが動いた。

「私が行く。あなたたちは、守衛室に行って守衛さんを呼んできなさい」

 彼女は、守衛室のある正門の方角を指差した。その冷静さが、彼女の美しさを際立たせる。白衣の三人は、ぽかんとした顔で彼女に見惚れていた。もちろん、僕も。

「早く!」

 ミオコが叫ぶと、今井さんたちは慌てて守衛室に向かって走り出した。その様子を見届けると、彼女は僕に吐き捨てるように言った。

「あんたはここで待ってなさい」

「いや、僕も行く」

 すると彼女は大きくため息をついて、僕に顔を近づけた。そして胸ぐらを掴む。

「だから、その足でどうするつもりなの?」

 確かに、彼女の言う通りだ。一歩も歩けそうにない。

「でも、キミまで危険な目に遭わせる訳にはいかないよ」

 彼女は目を見開いて一瞬顔を赤くしたが、すぐに苦笑した。

「しおらしいこと言うじゃない」

 彼女は立ち上がった。

「確かにね、こんな時にメイド服じゃないのは残念だけど」

「え?」メイド服?

「大丈夫。あんたの惚れてるカワイイ後輩は、私が助けてみせるわ」

 その瞬間。

 僕はとんでもないことを考えてしまった。田中さんを助けることができるかもしれない、とてつもなく危険なアイデアを。

 僕は、慌てて着ぐるみの右の手袋を脱ぐと、そのまま左手で袖を引っ張って腕を抜いた。抜けた右手で着ぐるみの中をまさぐり、股間へと手を伸ばす。

「何やってんの」

 ミオコは、唖然としていた。が、僕は構わずトランクスをまさぐり、硬質のモノを握り締めた。

 それは、あの白色結晶が入れられたガラス瓶だった。

 僕は再び右腕を着ぐるみに通すと、握り締めた瓶を見つめた。手が細かく震えている。

「何、それ」

 僕はミオコの問いに答えず、その白い結晶を見つめながら考えた。例の異常行動を示したマウスの姿が脳裏に浮かぶ。

 これを飲めば。せめて捻挫した足が少しでも動いてくれれば。

「ごめん、さっきのペットボトルを取ってもらえるかな」

「あ、ああ、はい」

 ミオコは訳も分からずペットボトルを取りに行く。僕は、ガラス瓶の黒色スクリューキャップを開けた。

 ちなみに、そのマウスはその後どうなったのかというと、三日ほど全く運動をしなかった。呼吸はしているものの横になったままで、次第にやせ衰え、ついには三日目に全く動かなくなった。死んでしまったのだ。

「はい」

 ミオコがペットボトルを差し出してきた。僕は震える手で受け取る。

 心臓が激しく鼓動を打つ。目を瞑る。

 田中さんが助かるならば、僕はどうなってもいいような気がする。

 ひょっとして、僕は、田中さんのことが好きなんだろうか。

「ちょっと、大丈夫?」

 ミオコの声に僕は目を開いた。そして、ガラス瓶に入った白い粉を全て口に放り込む。

 苦い。とてつもなく苦い。

 思わず吐き出しそうになったが、何とか堪えてペットボトルの紅茶を流し込んだ。凄い勢いで喉に流し込んだので、むせてしまった。

「何? 何を飲んだの?」

 僕は息を荒くして、震える手を見つめた。ラットの場合はすぐに効果が現れたが、人間の場合は……。

 そう考えた瞬間、周囲の音が消えた。視界が明るくなり、手の震えは次第に収まっていった。

 そして、足の痛みが嘘のようにひいていく。どうやら予想通り、あの薬が効いているようだ。僕はゆっくりと立ち上がった。その場で軽く足踏みをしてみる。全く痛くない。腿を大きく上げ、そのスピードを次第に上げていく。

「ちょ、や、ええええっ?」

 ミオコは目を丸くして、唖然としている。僕は特別速く動いているつもりはないが、ミオコには人間離れして見えるに違いない。

 僕は小屋の裏に置いてあったクマの着ぐるみの頭を手に取ると、カポッと頭に被った。その瞬間、頭の中が冴えわたっていくのを感じた。思考回路が整然としていく気がする。そして、着ぐるみを着ているはずなのに視界が広い。まるで着ぐるみの目が自分の目であるかのように全く違和感がない。それは、腕も足も、身体全体に同じことが言える。間違いなく着ぐるみを着ているのだが、何も着ていないような、全裸に近い不思議な感覚だ。

 これなら、いける!

「キミはここで待ってて」

 僕はミオコに言った。彼女は口を開けて僕を見つめていたが、ハッと我に返ったように首を振った。

「いやいやいや、だから、足はどうなったのよ? 何でそんなに動けるの? ていうか、その格好で行くの? じゃなくて、私が行くわよ。じゃなくて、えーと、えーと、あーもう訳わかんないっ!」

 彼女は頭を抱えて唸る。混乱しているようだ。

「あとで説明するよ。一緒に行こう! 今はとにかく田中さんを助けなければ!」

 僕はミオコの足を持ち上げ、背中を支えてヒョイと胸のあたりに抱えた。物凄く軽い。まるで風船を持ち上げているかのようだ。

「ひゃうっ!」

 突然お姫様抱っこをされたミオコは、情けない声を上げて顔を真っ赤にした。

「何? 何なの?」

「ちゃんと掴ってないと、多分かなり危ないよ」

「え? どういうこ……」

 僕は膝を曲げると、思い切り地面を蹴った。あっという間に雑木林の木々の高さを越える。

「ひええええええっ!」

 ミオコは僕の体に腕を巻きつけ、悲鳴のような声を上げた。

 放物線を描きながら、ひとっ飛びで雑木林を飛び越え、生物学棟前の広場に着地する。足には全く衝撃を感じない。この薬、想像通り、いや、想像以上の効果だ。ヒトの場合も、ラットと同じように異常な身体能力の向上を示すようだ。

 突然空から降ってきたクマを見て、広場にいた学生たちが悲鳴を上げる。

「ミオコ、大丈夫?」

 ミオコの様子を窺うと、彼女は目に涙をためて首をブルブル振っている。

「だ、大丈夫な訳ないでしょ?」

「ごめん、でもどんどん行くよ」

「ちょ、ちょ、ちょっと」

 僕は、五十メートルほど向こうにある生物学棟をめがけて再び地面を蹴った。

 一歩で広場を抜け、二歩、三歩。三段跳びのようにして生物学棟のエントランス前に到着。自動ドアが開くと、階段を目指す。踊り場まで十段ちょっとあるが、何てことはない。一歩で踊り場に着地すると、その勢いでもう一歩で二階に辿り着いた。

「あんた、何者?」

 ミオコは息を荒くして涙を流している。

「分からないけど、こんなこともできるよ」

 それまでの強気な彼女とは打って変わって情けない顔をしているミオコを見て、僕は何だか楽しくなってきた。地面を蹴ると、少し身体を横に倒して、階段の壁に足をついた。そしてそのまま壁をタタタッと走り抜け、次の踊り場を目指す。

「ひいいいいいいいいいいっ」

 ミオコはさらに強く僕に抱きついてきた。踊り場に着くとそのまま再び壁を走り抜け、三階へ。そしてあっという間に、田中さんの研究室がある五階へと辿り着いた。一階から十秒も経っていないはずだ。

 五階の長い廊下は、しんと静まり返っている。他のフロアにも、人の気配はなかったと思う。休日ということもあって学生は少ない上に、研究室に来ている学生もホームカミングデーのイベントで外に出てしまっているのだろう。

 僕はゆっくりとミオコを降ろした。彼女はそのまま床に座り込み、手をつく。

「し、死ぬかと思った」

 顔は真っ青だ。

「ちょっとここで休んでて。田中さんを探してくる」

 僕は実験室や事務室を調べ始めた。

「田中さん! 田中さん!」

 大声で叫びながら別の研究室も回って探したが、田中さんどころか誰も見当たらない。トイレや休憩スペースもくまなく探してみたが、やはり誰もいなかった。

 ふと、今井さんの話を思い出した。田中さんは、私服に着替えに戻った、と。

 更衣室だ。

 五階にはそれらしき部屋はなかった。ここが最上階だから、ひとまず四階に降りてみるか。そう考えた僕は、廊下の行き止まりにあるドアを開け、非常用の外階段を使って四階に移動した。

 このフロアもまた、人の気配がない。ひとつずつ部屋を確認する。すると、女子トイレの隣に「更衣室」という札が貼られたドアを見つけた。

「あった」

 僕は耳をすませて中の様子を探った。何やら、ガサガサと音がする。そして、くぐもった悲鳴のようなものが微かに聞こえた。

「田中さん!」

 僕はドアノブに手をかけた。鍵が閉まっている。僕は一歩下がり、思い切りドアに体当たりした。するとドアは音を立てて外れ、僕は外れたドアとともに更衣室に転がり込んだ。

 田中さんは、ロッカーに囲まれた狭い通路で、男に押し倒されていた。白衣が大きくはだけている。男に口を押さえられ、手足をばたばたしている。男は突然現れた僕を見て、動きを止めた。

 細いメガネの下に光る、鋭い眼光。僕と同じくらいの歳だろうか。華奢な身体をしているが、なかなかいい男に見える。研究者か? いや、少なくともうちの大学では見たことがない。不審者だ。

「彼女から離れろ!」

 すると、その男はニヤリと笑ってゆっくりと立ち上がり、僕と向かい合った。

 そして、思いもよらぬスピードで間合いを詰め、回し蹴りを繰り出してきた。僕は間一髪で後ろに避ける。男の足はそのままロッカーにぶち当たり、あろうことか金属製の扉を貫通した。

「な!」

 僕は一瞬たじろいだが、男は間髪いれずに様々な蹴りを繰り出してくる。僕はバック転を繰り返して、一度廊下へと退いた。男も廊下へ出ると、再びニヤリと笑って懐に手を伸ばした。

 出てきたのは、ナイフだった。サバイバルナイフだろうか? 男の目は、殺意に満ち溢れている。これはヤバイかもしれない。普段の僕であれば、腰を抜かして何もできないだろう。でも、今は違う。やけに冷静だ。周囲を見回して、応戦できそうなものを探す。

 男は胸のあたりでナイフを構え、僕に向かってきた。その時、僕の目に窒素ガスのボンベが映った。あった、これだ! 僕はボンベに走り寄ると、上部にはまっていたボンベレンチを引き抜く。

 瞬間、乾いた金属の音が廊下に響いた。男のナイフを、かろうじてレンチで受け止めたのだ。しかし男はすかさずナイフを繰り出してくる。物凄い速さだ。僕は一太刀一太刀をレンチで受ける。そのたびに、金属音が廊下に響き渡る。

 僕は一瞬の隙を突いて、レンチでナイフを振り払った。ナイフが音を立てながら廊下を滑っていく。そしてレンチを男めがけて振りおろした。が、腕を押さえられ、逆にボディーブローを食らってしまった。

 前のめりになった隙をついて、男は背後に回り込むと、腕を首に巻きつけてきた。物凄い力だ。苦しい。息ができない。

 その時、誰かが階段を下りてきた。ミオコだ。

「ソウイチロウ!」

 ミオコは、すかさず廊下に転がったナイフを手に取った。そして男の顔を見つめる。

「あんたは!」

 来るな、と彼女に叫びたいのだが、声が出ない。意識も遠くなってきた。男は最後のトドメのように腕に力を入れる。僕は、声にならないような声を出して、その場にうずくまった。

 男は品定めをするようにミオコを眺めると、怪しい笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと彼女に近づいていく。

「やめろ……」

 何とか起き上がろうとするが、身体に力が入らない。ミオコは、落ち着いた表情で男を睨み、両手でナイフを構えている。しかし、彼女がかなう相手ではない。

 僕は必死で呼吸をしていた。そのはずだった。しかし気がつくと、呼吸は楽になり、意識も戻っていた。首を絞められた痛みも残っていない。驚異的な回復力だ。信じられない。

 ゆっくりと立ち上がった。そして、次第にスピードを上げて男に走り寄っていく。男は驚いた表情で振り返った。その瞬間、僕は男に飛び蹴りを食らわせる。

「ぐっ!」

 それまで言葉を発しなかった男は、苦しそうに呻いた。そのまま、廊下を滑り転がっていく。僕はすかさずミオコの前に立った。

「田中さんが、そこの更衣室にいるんだ。彼女を頼む!」

 ミオコはしばらく呆然としていたが、急に笑い出した。な、何だいきなり。

「何笑ってるんだよ!」

 ミオコは腹を抱えている。

「だって、あんた、その格好で、そんなカッコイイこと言って、しかも信じられないくらい強いし。訳分かんない」

 た、確かに。僕にはまるで違和感がないのだが、はたから見ればクマの着ぐるみだ。

「い、今はそんなことどうでもいいだろ? 早く田中さんの所へ行ってくれ!」

「はいはい、ごめんなさい」

 ミオコは、笑い涙を拭きながら更衣室へと入っていった。

 男がゆっくりと立ち上がる。僕も僕だが、あの男もあの男だ。何なんだ、アイツ。

 その時、階段を上ってくる音が聞こえた。

「あ、いた! 村上さん!」

 白衣を着た女の子たち。今井さんをはじめ、研究室の面々だ。後ろからガードマンの格好をした守衛のおじさんたちが三人ついてきた。一人は警棒のようなものを、一人はさすまたを持っている。もう一人が僕の姿を見ると、無線機に叫んだ。

「不審者発見! 生物学棟四階。クマの着ぐるみを着ている。応援をよこしてくれ!」

 えっ?

「ちがうちがう! あっちです! あっち!」

 今井さんが廊下の奥に立ち止まった男を指差す。その場にいる全員の視線を受けると、男は舌打ちをした。そして、廊下の奥に駆け出した。すぐに階段へ消える。

「待て!」

 僕は走って追いかけた。男は階段を上っていく。五階からさらに上へと続く階段を上りはじめた。さっき着ぐるみに着替えた場所だ。男は、階段に積まれた段ボールを崩しながら上に進む。僕は転げ落ちる段ボールを飛んでかわしながら、男を捕まえようとした。しかし、あと少しのところでかわされる。男は屋上へ出る扉に体当たりした。扉はぐにゃりと曲がって吹き飛ぶ。ドラフトの排気筒を避けながら、屋上の端まで行くと、男は僕の方に振り返った。僕はゆっくりと間合いを詰めながら言った。

「何なんだ、お前は」

 男は苦笑した。

「着ぐるみに言われたくないな」

 男の声は、暗いけれど思ったより高かった。人を見下したような喋り方だ。

「まあ、いずれまた会うことになるさ。村上惣市郎くん」

 僕はぎょっとした。

「なんで、僕の名前を?」

「僕は何でも知っているんだよ。なんたって、キミの大事な田中咲さんを奪おうとしているんだからね」

「何を言ってるんだ!」

 コイツは一体、何を考えているんだ。田中さんをどうするつもりなんだ?

「可哀相に、彼女はやがて自分からキミの元を去ってしまうんだよ」

 そう言って、男は笑い出した。

「だから、何を訳のわからないことを」

「あ、そうそう。さっきの美しい黒髪の娘も、キミの知り合いかな?」

 ミオコのことか。

「気に入った。彼女も、いずれ私のものにさせてもらうよ」

 その言葉に、僕は衝撃を受けた。僕は自然と男に向かって走り出していた。男はニヤニヤ笑いながら、軽くジャンプをした。そして音もなく屋上の手すりに立つ。

「おっと、そうだ。高野くんにもよろしく」

 僕は耳を疑った。思わず立ち止まる。

「何で高野を?」

 言い終わらないうちに、男は手すりを蹴って姿を消した。信じられないことに五階建ての屋上から飛び降りたのだ。僕は慌てて手すりから身を乗り出して地上を見下ろす。

 男は、何事もなかったかのように駐車場のあたりを走っていた。怪我をしている様子もない。

 僕もきっとこの着ぐるみを着ていれば、ここから飛び降りても大丈夫だろう。奴を追いかけなければ! そう思って手すりに手をかけた。

「大丈夫か!」

 その時、守衛のおじさんたちが屋上に出てきた。僕は手すりから手を離す。彼らが見ている中、ここから飛び降りる訳にはいかない。

「あの男は、下を走って逃げています!」

「何だって?」

 守衛のおじさんたちは、僕の言葉の意味を理解できないようだったが、僕の指し示す方向を見下ろすと、驚いたように目を丸くした。男は、講堂の裏手に回り込む。恐らく、東門の近くの塀を越えて逃げるつもりだろう。

「ほ、本当だ」

「不審者は、東門の方向に逃走中!」

「行くぞ!」

 彼らは狐につままれたような顔をして、再び階段を下りて行った。

 パトカーのサイレンのような音が、次第に大きくなってくる。守衛が警察に通報したのだろう。しかし、もうあの男には追いつけないと思う。僕も追跡を諦め、田中さんのところへと急いだ。彼女が心配だ。

 四階の更衣室の前には、白衣の女の子の人だかりができていた。田中さんの身を案じているようだ。中には泣いている娘もいる。

「ソウイチロウ!」

 ミオコが僕を見つけて走り寄ってきた。

「ミオコ! 怪我はない?」僕は彼女の肩を掴んだ。彼女は目を見開いて、くすくすと笑い出す。

「はいはい、大丈夫。だから、その格好でそういうセリフ言わないでよ」

「そうか、よかった。それで、田中さんは?」

「今、お友達が付き添ってるわ。救急車も呼んである。それで、あの男は?」

 僕は声を小さくして言った。

「屋上から飛び降りて、そのまま逃げた」

「そっか」ミオコはさして驚かずに呟く。

「田中さんに会ってくる」

 僕は更衣室に向かおうとした。しかし、ミオコが引き止める。

「やめておきなさい。彼女はショックを受けてる。今はあんたに会いたくないって言ってるの」

「そんな」

「分かってあげて」

 ミオコは僕の目を見つめてきた。その優しい眼差しに、ドキッとしてしまう。

「それより、警察が来るわ。状況を説明するのが面倒よ。ひとまずこの建物を離れましょう」

「え、逃げたらかえって怪しまれるんじゃないか?」

「大丈夫、私に任せて」

 僕はいったん屋上へ続く階段へ戻り、服を取りに行った。そしてミオコに連れられ、外の非常階段を使って一階に下りると、誰かに見つからないように雑木林の小屋を目指した。

 小屋の裏手に回ると、ミオコは周囲を確認して、僕に言った。

「早く着替えて。頭を脱がすわよ」

 彼女は、クマの頭を引っ張り抜いた。

「ううっ」

 その瞬間、激しい頭痛が襲ってきた。強烈な痛みだ。ハンマーか何かで叩かれているかのように激痛が走る。

「ちょっと、大丈夫?」

 ミオコに支えられて、土手にしゃがみこむ。

「頭が、痛い」

「熱中症かしら。背中のファスナー、開けるわ」

 ジーッという音がして、背中のあたりが涼しくなる。

「あの、ミオコ、この着ぐるみの下、下着だけだから」

「分かってるわよ、私だってオッサンの下着姿なんか見たくないわ」

 ミオコは苦笑して後ろを向き、小屋の向こうの様子を確認し始めた。

「さっさと着替えてね」

「あ、ありがとう」

 僕は割れそうな頭の痛みに耐えながら、手袋状のクマの手とスリッパ状のクマの足を外し、クマの着ぐるみから腕と脚を抜いた。

 その時。

 体中を今まで味わったこともないような激痛が走りまわった。あまりの痛さに声が出せない。そして、痛みとともに襲ってくる猛烈な脱力感。どうしようもできなくなって、その場に倒れ込む。

「え、ちょっと!」

 ミオコが慌てて近寄ってきて、僕を支えた。彼女は僕の顔を覗き込む。

「しっかりして!」

「ごめん……下着姿の上に、汗だくなオッサンの、相手をさせちゃって」

 目の前がだんだん白くなっていく。ミオコの美しい顔が、次第に霞んでいく。

 思った通り、あの薬の副作用が出てきたようだ。僕も、あのラットのように死んでしまうのだろう。田中さんを助けることはできたが、あの男は逃げてしまった。田中さんを、そしてミオコを守りきることができずに死んでしまうのは残念だ。そして、愛すべき友人(魚)たち。大畠さんが何とかしてくれればよいのだが。

 ああ、クレハ。せめてもう一度だけ、足裏マッサージをしてもらいたかった。

 次第に遠のいていく意識の中で、ミオコの声が聞こえたような気がした。

「ソウイチロウ!」

 そこで、僕の記憶は途絶えた。


 遠くから、声が聞こえる。

 目を開けると、僕はリクライニングチェアに横たわっていた。何だか見覚えのある場所だ。ここは「ミラベル」だろうか?

 そこに、メイド姿の女の子が現れた。優しく微笑むその娘は、正真正銘、クレハだ。

「クレハ」

 そう口を動かしたつもりだったが、声が出ない。彼女は穏やかな目で僕を見つめ、口元に人差し指を当てた。喋ってはいけないということだろうか。僕はゆっくりと頷く。その時、自分の口からポコポコと泡が出ていることに気付いた。ここは、水の中? でも、苦しくないし、冷たくもない。むしろほんのりと温かい。

 クレハは僕の足に優しく触れると、何ともいえない絶妙な加減でマッサージを始めた。僕は思わずため息をつく。とても気持ちがいい。やっぱりクレハは最高だ。

 いつの間にか、僕の体はリクライニングチェアから離れ、その空間に浮かんでいた。ふと周りを見てみると、家で飼育しているアベニー・パファーのテトロがぷかぷかと浮かんでいた。僕は思わず手を差し出す。テトロだけではない。周りでは、ネオンテトラやエンゼルフィッシュ、下の方には砂底があり、オトシンクルスやコリドラス、クラウンローチが見える。大きく育った水草の間を、アロワナが悠々とすり抜けていく。

 はるか頭上から陽の光が注ぐ。気が付くと、マッサージをしていたはずのクレハが僕の横に身体を密着させていた。彼女の吐息が、僕の耳にかかる。彼女のしなやかな指が、僕の頬を妖しくなぞる。

 そうか。ここは、天国なのか。やはり僕は死んでしまったんだ。

 でもまあ、天国がこんなにいい所だとは思わなかった。むしろ、死んでよかったかもしれない。いつもクレハや魚たちと一緒にいられるんだから。

 でも、何か変だ。

 死んでしまってからも、心臓がドキドキするものだろうか。しかも、クレハに密着されて、下半身のほうもやたら元気になっている。

 こんなことがあるだろうか?

 そこに突然、もう一人メイド姿の女の子が現れた。

 それは、紛れもなくミオコだった。彼女は、これでもかと言わんばかりに顔をしかめている。

「ミオコ!」

 僕は思わずそう口を動かしたが、やはり声は出ない。

 何だろう、また彼女に会えて、やけに嬉しい。その美しい姿に見惚れていると、ミオコはゆっくりと僕の股間を指差した。簡単に言ってしまえば「ムクムク」していたのだ。

 僕は慌てて言い訳しようとした。とはいえ、何を言えばよいのか。考えているうちに、ミオコは僕の目の前で叫んだ。

「このっ、変態があああああああっ!」

 そして、彼女の強烈な平手打ちが、僕を襲った。僕は、声にならない声で叫んだ。

「ごめんなさああああああああいっ!」


「はうっ!」

 僕は飛び起きた。

 まず感じたのは、コーヒーの匂い。そして、身体の節々の痛み。横たわっているのは、リクライニングチェアではなくコーデュロイのソファだった。

「ここは?」

 ロールスクリーンの下りた窓から、うっすらと外の光が差し込んでいる。

「うわっ!」

 ソファの向こう側に、見慣れた顔があった。ミオコだ。

「おはよう」

 彼女は、ソファの背もたれに顎をのせて、細い目で僕を睨みながら言った。僕はソファの上で慌てふためき、転げ落ちてしまった。

「ちょっと、人の顔を見て、そのリアクションはひどくない?」

「ご、ごめんなさい」

 彼女は立ち上がってため息をつく。あれ? メイド姿じゃない。

「大体、それは何? ニヤニヤしながら寝ちゃって。気持ち悪い。どんだけヤラシイ夢見てんのよ」

 ミオコは僕の股間を指差した。スウェットのパンツが「ムクムク」している。僕は慌てて彼女に背を向けた。

「これは、その」

「やれやれ、心配して損しちゃった」

 ミオコは首を振りながらその場を離れた。

「お姉ちゃん、ソウイチロウが起きたよ」

 ここは、喫茶店だろうか? カウンターには古そうな本が何冊も並べられ、落ち着いたデザインの椅子が並んでいる。ミオコはそのカウンターに入っていくと、スイングドアを押して奥に消えていった。

 ゆっくりと部屋の中を見回してみる。天井からは様々な形のランプシェードが吊り下げられ、暖かい色の光を放っている。一定の間隔で置かれたテーブルの木目を、その光が浮かび上がらせている。テーブルの上には、色々な形の小物が置いてある。カウンターのほうに目をやると、棚にグラスやカップが並べられ、メニューらしき冊子のようなものが立てかけられていた。

 確かに喫茶店のようだ。でも、客らしき姿はない。何面かある窓には全てロールスクリーンが下ろされている。営業中ではなさそうだ。

 スイングドアが動いた。出てきたのはミオコではなかった。

「惣市郎さん!」

 僕は目を疑った。それは、クレハだった。メイド姿ではないが、すぐに分かった。

「クレハ!」

 今度は、声が出た。さっきのあれは、夢だったんだろう。それにしても、なぜクレハが? というか、ここは一体どこなんだろう?

「大丈夫ですか? 足は痛くありませんか?」

 クレハは心配そうに僕に寄り添ってソファに座った。瞬間、ふんわりと優しい香りが漂う。何だかとても懐かしく感じる。涙が出そうだ。

「惣市郎さん?」

「あ、うん。大丈夫、かな」

 クレハに言われて気付いたけど、くじいたはずの足は少し痛むだけで腫れは治まっていた。

「それより、ここは? 何でクレハがいるの?」

 クレハは優しく微笑む、

「そうですよね。今の状況が全く理解できないでしょうね」

 スイングドアからミオコが現れた。彼女はつんとした表情で、カウンターの裏で何かをしている。クレハは続けた。

「ここは、西荻窪。私が経営しているカフェです」

「カフェ? クレハが?」

「そう。ミラベルでのメイドのお仕事は、バイトのようなものなんですよ。こっちが本職なんです」

 そうなんだ、と何となく感心していると、ミオコがやはりつんとした表情でお盆に載せてコーヒーカップを持ってきた。そのカップをテーブルにガチャッと音を立てて置く。

「飲みなさい。お姉ちゃんの淹れたコーヒーはかなり美味しいから」

 今にもこぼれそうだったが、とても良い香りだ。その褐色の液体に、吸い込まれていきそうになる。

「いただきます」僕はゆっくりとカップを手に取ると、口に運んだ。

 美味しい。思わずため息をついてしまう。

 その様子を見てか、クレハはくすっと笑った。ミオコも苦笑する。

「お姉ちゃんもどうぞ」

「ありがとう」

 ミオコはクレハの前にカップを置く。そして、自分はカウンター席に座って、残りのカップをカウンターに置いた。

 僕はしばらくそのコーヒーの虜になっていた。

「美味しい」

 次第に気持ちが落ち着いてきたところで、何かがひっかかることに気付いた。

「……お姉ちゃん?」

 僕はミオコに視線を送る。彼女はコーヒーを一口すすって、怪訝そうな表情をした。

「は?」

「いや、お姉ちゃんて」

 クレハが事情を察したかのように笑った。

「ああ、本当に何も話してないのね、ミオコは」

「え、だって、そんなことどうでもいいじゃない」ミオコは口を尖らせる。クレハはゆっくりとカウンターに近づき、ミオコの両肩に手を置いた。

「ミオコは、私の妹なんです」

 並んだ二人の顔を見つめたまま、僕は固まってしまった。

 そういうことか。そういえば、どことなく顔立ちが似ていると思った。感嘆のため息をつきながら、二人を見比べる。でも、どことなく似ているとはいえ……

「クレハの妹とは思えないなあ」

 すると、ミオコは音を立ててコーヒーカップを置き、僕に近づいてきた。そして、またもや胸ぐらを掴まれる。

「それってどういう意味?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 クレハが慌てて間に入る。

「ちょっと、やめなさい、ミオコ」

 ミオコは僕を離すと「不愉快だわ」と呟いてカウンターに戻った。

「ところで、惣市郎さん。これから時間とれます?」

 クレハは再び僕の隣に座って、身体を寄せてきた。

「あ、うん、もちろん」僕は激しく頷く。

「何を期待してんのよ、変態、オッサン」ミオコは顔をしかめる。

「変態はやめてくれよ。あとオッサンも」

「何よ、変態であってなおかつオッサンじゃないの。何も間違ってないわ」

 それにしても言ってくれるな、この娘は。

 何か言い返そうと思ったが、何だか気力がわかない。原因は明らかだった。

「腹減った……」

 異常な空腹感だ。立ち上がる気力もない。

「あらら、ちょっと待って下さいね」そう言ってクレハはカウンターに入った。

「そりゃそうよ、あんた、丸一日何も食べてないんだもの」

 ミオコはさらっと言った。

「丸一日? 朝ご飯は食べたけど」

「ちがうちがう。それは昨日の話でしょ? あんた、学校で気を失ってから今までずっと寝てたのよ。丸一日」

「え! 今日は五月三日だよね?」

「四日よ。しかももう夕方」

 そんなバカな。本当に丸一日寝てたのか。たまの休日に半日寝続けたことはあるけど、一日中寝たのは初めてかもしれない。それほど身体を酷使したということなんだろう。それにしても驚くべき薬だった。どうやら副作用で命を落とす危険性も去ったようだ。

 クレハが、カウンターの裏で何か作業をしながら笑った。

「この子、心配そうにずーっと惣市郎さんのこと見てたんですよ。一日中」

「ちょっと、お姉ちゃん!」ミオコはうろたえた様子で、しかもちょっとコーヒーをこぼしてしまったようだ。

「夜は夜で、惣市郎さんの寝てるソファの向かいのソファで私も寝るって。おかしな子」

「お姉ちゃん! ちょっとひどくない?」ミオコは顔を真っ赤にして、泣きそうな顔でクレハの話を遮ろうとする。クレハはくすくす笑いながら、皿を持ってカウンターから出てきた。

「はい、簡単なものですけどどうぞ」

 クレハが差し出したのは、サンドイッチだった。空腹なのはもちろんのこと、クレハの手作りサンドイッチだ。感激で目が潤んでしまう。

「あ、ありがとう。いただきます」

 一切れつまんで口に入れる。美味い。もう一切れつまむ。

 クレハはニコリと笑った後、ゆっくりと切り出した。

「惣市郎さん、この子から話は聞きました。この子も危ないところだったそうで、助けていただいて本当にありがとうございます」

 僕はごくりとサンドイッチを飲み込み、首を振る。

「いやいやいや、むしろ彼女を巻き込んでしまって申し訳ない」

 そして、一番気になっていたことをミオコに訊いた。

「田中さんは、大丈夫かな?」

 ミオコは一呼吸おいて答える。

「うん、乱暴なことはされなかったみたい。ただやっぱりショックを受けてるみたいで、しばらく入院するそうよ」

「そうか……」

「あと」そう言ってミオコは俯いた。

「あと?」

「あの男に、何かを飲まされたって言ってるらしいの」

 話によると、睡眠薬のようなものが疑われたのだが、病院の検査では検出されなかったらしい。僕は言われようのない不安に襲われた。

「あいつ、田中さんに何を飲ませたんだ」

 三人とも、黙ってしまった。外を歩く人の笑い声が、微かに聞こえる。外から差し込む光も、次第に弱くなってきていた。クレハが口を開く。

「惣市郎さん、色々とお話したいことがありますので、今晩一緒に外で食事をしませんか?」

「え、う、うん」

「ミオコ、あなたも来なさい」

「ええっ?」ミオコは嫌そうな顔をする。クレハと二人きりの食事ができると期待していた僕も、内心がっかりした。でも、またミオコに胸ぐらを掴まれるのは勘弁なので、顔には出さなかったが。

「私は関係ないでしょ?」

「関係あるのよ。ちなみに、場所は『時縁』だけど?」

 ジエン? 僕は意味が分からなかったが、ミオコは何やら反応を示したようだ。

「『虎ノ門』ある?」

「準備させてあるわ」

 ミオコは目を輝かせて、すっと立ち上がった。

「よし、行こう。すぐ行こう」

「まったく、あなたって子は」クレハはため息をつく。

「あの、クレハ。僕、シャワー浴びたいし、魚たちのことも気になるから、一度家に帰っていいかな?」

「あ、そうですよね。じゃあ五時頃に迎えに行きます」

 すると、ミオコが不審そうに訊いてきた。

「魚たち?」

「そうよ、惣市郎さんの趣味はアクアリウムなの。まだ聞いてなかった?」

「アクアリウムって、熱帯魚を飼ったりする、あれ?」

 僕が頷くと、ミオコは苦い物を口にしたかのような顔をして、頭を抱えた。

「かーっ、あんたって、正真正銘ホンモノのオタクなのね」

「オ、オタクじゃない」

「独り淋しく魚に話しかけて、メイド足裏マッサージにも行って、オタクじゃなくて何だっていうのよ!」

 僕はたじろいでしまった。確かにその通りだ。

「ちょっと、ミオコ、失礼でしょ」

 クレハに諭されて、ミオコは口を尖らせてカウンターの奥へ向かう。

「まあ、いいわ。さっさと準備しなさいよ」


 五時になってクレハが迎えに来てくれた。外に出てみて僕は驚いた。

「これに乗るの?」

「ええ、そうです。さあ乗ってください」

 アパートの前に停まっていたのは、よく政治家が乗っているような黒塗りのセダンだった。運転手らしい白髪の男性が後部ドアを開ける。クレハに言われるがまま車に乗り込むと、助手席にはミオコが座っていた。イヤホンを付けて、何か音楽を聴いているようだ。窓際に肘をついて目を閉じている。

 高井戸から高速道路に入ると、車はスピードを上げて都心方面へ走り続ける。新宿の高層ビル群を抜け、都心環状線に入り、しばらくして高速を出た。歩道を歩く沢山の人の姿が見える。数えるほどしか来たことはないが、ここは恐らく銀座の辺りだろう。車は築地の方向へしばらく走ると、隅田川を渡る手前で細い道に入った。

 ゆっくりとスピードが落ち、車が止まる。運転手が素早く降車して後部ドアを開ける。クレハに続いて車を降りると、目の前には竹塀に囲まれた建物があった。恐らくここは、高級料亭っていうやつだろう。入り口には「時縁」と書かれた提灯が、柔らかい光を放っている。

「なるほど、ジエンね」

 道に目をやると、同じような黒塗りのセダンが十台くらいずらっと停まっている。きっと中にいる客が乗ってきた車だろう。いずれも運転手らしい人物が乗っているようだ。食事が終わるまで待機しているのだと思う。

「あんた、料亭なんて入ったことないでしょ」ミオコが背後から嬉しそうに声をかけてきた。

「あ、ある訳ないだろう」僕は何だか緊張していた。僕みたいな冴えない男が、こんな店に入ってよいのだろうか。

 入り口で、着物姿の女性が頭を下げる。

「ようこそいらっしゃいました。紅葉さま。澪子さま」

「女将さん、今日はよろしくお願いします」クレハはにこやかに言った。

「いえいえ、御贔屓いただきまして、本当にありがとうございます。澪子さま、『虎ノ門』、しっかりご用意させていただいておりますよ」

「ありがとうっ! 女将さん!」ミオコは目を輝かせて女将の手をぎゅっと握る。

「ささ、どうぞどうぞ」

 女将の後について、店の中に入る。僕はクレハとミオコの後について、申し訳なさそうに背を丸めて歩く。長い廊下では、すれ違う仲居が「いらっしゃいませ」と綺麗に会釈をしてくる。障子戸の向こうからは、時折豪快な笑い声が聞こえてくる。それにしても、どんな人がこういう店に来ているんだろうか。ドラマやニュースでよく見るように、政治家や大企業の重役といった人たちが、密談をしていたりするんだろうか。

「こちらでございます」

 女将が立ち止まって障子戸を開けると、まさに想像通りの世界が広がっていた。広々とした畳の室内に、漆塗りの座卓が置かれている。その下は掘り炬燵になっていて、足が伸ばせるようになっている。座敷芸のためであろうか、上座のほうに少し広いスペースがある。ガラス戸のすぐ向こう側には、大きな池が広がっているのが見える。

 クレハとミオコが並んで座椅子に腰を下ろすと、僕はミオコの向かい側に座った。僕の隣の席にも、箸や小皿が置いてある。もう一人、誰か来るのだろうか? 僕の疑問に気付いたのか、クレハが優しく言った。

「少し遅れるそうですけど、もう一人、惣市郎さんに会っていただきたい方がいらっしゃいます」

 僕はこくこくと頷く。一体誰だろう?

「女将さん、さっそくなんですけど」ミオコが恐る恐る言うと、女将はニコッと笑った。すぐに仲居が部屋に入ってくる。

「そうおっしゃると思いまして、すでにお持ちしておりますよ」

 仲居は、ミオコの目の前に瑠璃色のガラス徳利を差し出した。どうやら冷酒のようだ。

「ふあー」ミオコはうっとりとした表情で、間の抜けた嘆声をあげた。仲居は僕とクレハにも徳利を一本ずつ差し出す。ミオコは置いてあったお猪口に手酌すると、目を閉じて香りを確かめ、そのままクイッと飲み干してしまった。

「くううううっ! 美味い!」

 そしてさらに酒を注ぎ入れる。その様子に、僕は唖然とした。

「それでは、どうぞごゆっくり」

 そうして、女将と仲居が部屋を離れた。クレハは席を立ち、僕の隣に来ると、徳利を手に取った。

「惣市郎さんもどうぞ。お嫌いでなければ」

「あ、ありがとう」

 クレハにお酌をしてもらうなんて、もちろん初めてのことだ。何だかよく分からないけど、とても幸せな気分だ。すると、ミオコがクックックと笑う。

「まーた、デレデレしちゃって」

「な、何だよ。いいじゃないか」

「どうせすぐにがっかりすることになるのに」

 がっかり?

「ちょっと、ミオコ! 本当に怒るわよ」クレハは強い調子で言った。ミオコは構わずにお猪口の酒を飲み干す。

「さ、さあ、どうぞ。このお酒は本当に美味しいですよ」

 僕はクレハに促されて、お猪口を口に近付ける。その瞬間、フルーティーな良い香りが鼻をかすめた。思わず手を止める。

「びっくりするでしょ? その吟醸香」

 ミオコはドヤ顔で僕の様子を眺めている。僕は正直に頷くと、お猪口に口をつけた。

 言葉が出なかった。それは、今まで経験したことのない芳醇な味わいだった。酒はそれほど飲まないし、高い日本酒なんて飲んだことないから分からないけど、それでも今飲んでいる酒は、信じられないような美味さだった。思わず飲み干してしまう。

「さすがにオッサンはいい飲みっぷりだねえ」

 ミオコがニヤニヤして徳利を差し出してくる。僕はお猪口を差し出す。

「そういうキミこそ、よく飲むな。そもそも、一体いくつなんだよ?」

「は、た、ち」

 二十歳か。今まで何となく若いと思ってたけれど、二十歳だったのか。

「二十歳にしてその飲みっぷりか」

「何言ってんのよ、もっと前から」

「ちょっとちょっと、ストップ。ミオコ、こら」クレハは慌てて止める。

 その時、障子戸の向こうから声がした。

「高野さまがいらっしゃいました」

 クレハはさっと立ちあがって、顔を赤らめて席に戻る。

 ん? タカノ? どこかで聞いたような。障子戸がゆっくりと開いて、そこに立っている男の顔を見た時、僕は息が止まりそうになった。

「高野?」

 そこに立っていたのは、間違いなく親友の高野だった。濃紺のスーツに身を固めた彼は、よお、と手を上げた。

「あれ、やっぱりもう飲んでるね。さすがミオコちゃん」

 高野は僕の隣に腰を下ろす。

「あ、高野さん、どうもー」ミオコは可愛らしく首を傾ける。

 僕は頭が混乱していた。なぜ高野が? なぜクレハやミオコと?

「高野さん、お仕事お疲れさまでした」

 クレハは高野に徳利を差し出す。

「ありがとう、紅葉さん。昨日の事件について総理に説明していて、遅くなってしまいました」

 こいつは一体何を言っているのだろう? ソウリ? 総理大臣?

「高野、お前」

 すると、高野は酒を飲み干し、真剣な顔で僕に向き合った。

「村上、すまん。お前には謝らなければならないことがある。そして、一からちゃんと説明させてくれ」

 時折運ばれてくる料理に箸をつけることもなく、僕はただ高野の話に聞き入っていた。彼からまず聞かされたのは、製薬会社に勤務しているというのは嘘だということだった。

「実は、俺は政府の役人なんだ」

 彼の話によれば、在学中から政府関係者に誘いを受けていて、大学を出てすぐに文部科学省の官僚になったらしい。

「何でだよ? そんな嘘つく必要なかったじゃないか」

「それはな、村上。俺の今やっている仕事が、政府の極秘任務だからだ」

「極秘任務?」

「お前昨日、帝都女子大で大変な目に遭ったそうだな」

 高野は、あの謎の男が田中さんを襲ったこと、そして僕があの薬を飲んでミオコとともにその男と戦ったこと、全てを知っていた。

「その男は、氷室だ」

「ヒムロ?」

「そう。奴は、簡単に言えば我々の敵だ。日本の敵、さらに言えば、世界の敵なんだ」

 クレハが身を乗り出して、小さな声で言う。

「一年ほど前から、都内で若い女性が失踪する事件が起こっていること、知ってますよね?」

 それは知っている。この前テレビでやっていた。確かすでに二十人くらいが行方不明になっていたと思う。帝都女子大でも、何人かいなくなっているらしい。そして、未だに誰一人見つかっていないそうだ。

「あれは、氷室の犯行なんだ」高野が言う。

「そ、そうなのか」

 田中さんも、その被害に遭いかけた、という訳か。

「でも、その氷室とかいう男の犯行だと分かってるなら、指名手配をかけるとかすればいいんじゃないのか?」

「無理だ。警察は奴の犯行だということを知らない」

 高野の言葉の意味が分からなかった。

「正確に言うと、警察も上層部の人間は知っているが、奴に手を出すことはできない。というより、我々が出させないようにしている」

「え、何で?」

 そこでミオコが大声を上げる。

「すみませーん、『虎ノ門』おかわりー」

 空の徳利をぶらぶらさせる姿は、まさにオッサンそのものだ。ただし、顔色は全く変わっていない。少しの赤みもなく、相変わらず透き通るような白い肌の色をしている。ほんの少し目が座ってきているようではあるが。

 仲居が新しい徳利を持ってくる。ミオコはクククっと笑いながら、お猪口に酒を注ぐ。

「あんた、あの男の強さを見たでしょ?」

 僕は頷く。昨日の光景が、甦ってくる。ロッカーに穴を開けるほどの回し蹴り。巧みなナイフ捌き。そして、五階建ての生物学棟の屋上から飛び降りて逃げた姿。人間離れしているとしか言いようがない。

「アイツの実力はまだまだあんなものじゃないからね。そんな男に、日本の警察が太刀打ちできると思う? 死人が出るわよ」

 ミオコは、こともなげに酒を飲み干した。

「ま、警察どころか、自衛隊でも米軍でも、アイツを止めることはできないわね。このままいけば、この地球はアイツのものよ」

「そんな、大げさな」さすがに、ミオコの言っていることがおかしくて笑ってしまった。

 ミオコはムッとしてお猪口を机に叩きつける。

「まあまあ」高野がミオコをなだめる。

「なあ村上。この酒、美味いだろ?」

「あ、ああ。信じられないくらい美味い」

 高野は僕のお猪口に酒を注ぐ。

「この酒は、世の中に出回っていないんだ。まだ研究中の酒でな。国の機関が、新しい品種の酒米と、新種の麹菌とを使って、理論的に考えうる最高の製法、環境を科学的に再現して、日本最高峰の杜氏の協力を得て作られた酒なんだ」

 何だかよく分からないが、とにかく美味くて当たり前なんだろう。僕はお猪口を口に運ぶ。

「しかし、それだけじゃない。そこに我々が『愛』を込める」

「ぶっ!」僕は思わず吹き出してしまった。

「ちょっと、何やってんのよ! 勿体ない!」

 酒が気道に入りかけてむせながら、僕は高野に訊き返した。

「愛?」

「ああ、『愛』だ。ただし、物理的に『エネルギー』に変換された『愛』だけどな」

 こいつ、酔っぱらってるのか? 一瞬そう思ったが、高野は相変わらずクールな顔をしている。とすると、僕が酔っぱらっているのだろうか? 高野の言っていることが理解できない。

 高野は僕の隣に座り、僕の肩をがっしり掴む。

「村上、気持ちは分かる。お前も科学者だ。俺の言っていることがトンデモ科学に聞こえるだろう。しかしこれは真実なんだ。科学技術の本当の最先端は、もうその次元までいってるんだよ」

 高野の顔は真剣だった。冗談を言っている顔ではない。

「そう言われてもなあ……」

 僕は困った。何というか、とても気持ちいい酔いに襲われていた。何なんだろう、こんな酒、本当に飲んだことがない。

「なあ村上。例の漢方薬のことを思い出してみろ」

 そう高野に言われて、僕は彼に話したいことが沢山あることを思い出した。

「そう、その漢方薬だよ! 何なんだあれ。見たことのない構造の新規化合物がとれたぞ」

 僕は、ラットによる試験の様子を高野に話した。

「それでお前、昨日、自分でその結晶を飲んだらしいな」

「それはその、田中さんを助けるためにはそれしかないような気がして」

 高野はため息をつく。

「まったく無茶をするなお前は。シュルギンじゃあるまいし」

 シュルギンというのはアメリカの化学者で、自宅の研究室でいわゆる「ドラッグ」を合成し、自分でそれをテストしたというその道では有名な研究者である。もうだいぶ高齢らしい。

「でも、考えてもみろ。化学物質ひとつにしたって、お前が見つけたような信じられない効能を有するものがまだまだ世の中に溢れているんだ。現代物理学だって、とてもじゃないが物理現象の全てを説明しきれる訳じゃない。今まで精神論とか感情論で語られていた『愛』だって、エネルギーになってもおかしくないと思わないか?」

 何だろう、高野の言っていることが間違っていないような気がしてきた。

「氷室は、その力を悪用して、何かとんでもないことをしようと企んでいるようなんだ」

「とんでもないことって、女の子を何人もさらって何をしようっていうんだ?」

 高野はうーんと唸る。

「そこなんだ。実は氷室は、今までにその女の子の何人かをこちらに差し向けてきてる」

「差し向ける?」

「その新しいエネルギーを利用して彼女たちをマインドコントロールし、特殊な能力をもたせて、我々に戦いを挑ませているんだ」

 うーん、意味が分からない。そこに、またクレハが入ってくる。

「少し前に、西荻窪の駅で電車が止まらなくなるっていう騒ぎがあったこと、覚えてます?」

 僕はすぐに思い出した。西荻窪駅は休日ダイヤだと中央線の快速が止まらないのだが、ある時、平日なのに快速が止まらなくなるという事件が起きたのだ。しかも、快速だけではない。各駅停車さえも止まらなくなってしまったのである。

「うん、覚えてる。電車に乗れない人で駅が溢れて、大変なことになったんだよね。ニュースでもやってた。でも、原因は不明のままじゃなかったかな?」

「そう。運転士も乗客も全員、荻窪を過ぎてふと気がつくと吉祥寺に着いていた、と証言してましたよね」

 高野は言う。

「あれも氷室の仕業だ」

 僕は高野の言葉に唖然とした。

「正確に言うと、氷室にさらわれた女の子の一人がやったことだった」

「な、何のために?」

「分からないが、恐らく社会秩序を破壊するための実験的なものだろう。単に、我々を試しているだけなのかもしれない。西荻窪駅の事件だけじゃない。似たような不可解極まりない事件が、ここ一年で何度も起きている」

 すると、向かいのミオコが片肘ついてお猪口の縁を指でなぞりながらクスクス笑った。

「あー、あの娘ね。あの娘は弱かったなあ」

 弱かった、って、何でミオコが知ってるんだろう? 高野は説明する。

「それで、それらの不可解な事件に対応してくれているのが、ミオコちゃんなんだ」

 僕は、目の前で飲んだくれているヨッパライ女子大生を見つめた。

「キミが? 何で? どうやって?」

「オッサンには関係のないことよ。すみませーん! 冷酒追加! 三本ね!」

 ミオコは大声を張り上げる。まだ飲むのか、この娘は。

 高野は苦笑いする。

「ミオコちゃん、飲みすぎないようにね。あと、ミオコちゃんの能力は、村上にも関係あることなんだよ」

 ミオコの能力ってなんだ? しかも何で僕に関係があるのだろうか。彼女のほうも不思議に思っているようだ。

「何で関係あるの?」

「ミオコちゃん。今後は、この村上とチームを組んで作戦を遂行してもらう」

 チーム? 作戦? 何のこっちゃ。ミオコはというと、絶句しているようだ。

「はあ? 何で? どうして私がこのオッサンと?」

 高野は真剣な面持ちでミオコに向かう。

「実は、氷室のほうで最近動きがあったようなんだ。どうやら、元軍人らを集めて親衛隊のようなものを組織したらしい」

「親衛隊? 一昔前のアイドルオタクじゃあるまいし。それが何だっていうのよ」

「奴がさらって洗脳した女の子だけじゃなく、屈強な男たちが相手になるんだ。しかも、氷室のテクノロジーによってさらに強力になっているはずだ。いくらミオコちゃんとはいえ、そんな奴らを相手にして無事である保証はない」

 ミオコは座卓を思い切り叩く。

「そんな奴らに、私が負けるわけないじゃない! こんなオッサン、むしろ足手まといよ!」

 うん、僕が言うのも何だけど、きっと足手まといになると思う。僕は恐る恐る手を挙げる。

「あのー、僕がそんな奴らに敵うと思えないんですが」

「何を言ってるんだ。例の薬を飲んだ時のお前の様子は、ミオコちゃんに聞いたぞ。あの薬があれば、お前にだってできる」

 僕は信じられない思いで高野を見つめた。

「いや、ちょっと待てよ、副作用で死ぬかもしれなかったんだぞ?」

「だから、これから副作用をなるだけ抑えるための研究に着手するんだ。本当は、お前にはこの有効成分の構造決定をしてもらうだけで、巻き込むつもりは全くなかった。でも、この薬の有効性が確認されるまでは、唯一の経験者であるお前に頑張ってもらう」

「頑張ってもらう、って、おい」

 高野は僕の耳元で囁く。

「氷室は、いずれ田中さんを奪いにくるぞ。お前は何もしなくていいのか」

 確かに、その通りだ。田中さんに危険が迫っていることに変わりはない。でも、果たしてあの薬を飲んだからといって、あの男に勝つことができるのだろうか。

 田中さんが顔を赤らめて笑う様子が脳裏に浮かぶ。

「なんか、ちょっと頭が混乱してる。酔ったかな。……少し、考えさせてくれないか」

「分かった。また連絡する」高野は僕の肩に手を置く。

 ミオコは、ふん、と鼻を鳴らしてお猪口を空にした。


 料亭「時縁」の外は、真っ暗になっていた。時計を見ると、九時少し前だ。女将と料理長に見送られて、店の前につけた黒塗りの車に乗り込もうとした時、高野がミオコを呼び止めた。

「ミオコちゃん、悪いんだけど」

 ミオコは顔をしかめる。

「ええっ? やっぱり?」

「ごめんね、ミオコ。惣市郎さんを送ってさしあげて」クレハが言う。僕は不思議に思った。

「え、あの、一緒に帰らないの?」

「悪い、村上。ちょっと紅葉さんと、その、話があるんだ」

 ミオコはため息をつく。そして僕を押しのけて車に乗り込み、後部座席にどかっと腰を下ろすと、怒鳴った。

「何やってんのよ、ソウイチロウ、早く乗りなさい。置いてくわよ」

「あ、はい」

 僕はクレハと高野の顔を見て、車に乗り込んだ。白髪の運転手がドアを閉める。窓越しにもう一度二人を見ると、目を合わせて微笑み合っていた。そして、後ろにつけていた別の車に乗り込んだ。

 僕とミオコの乗った車が、そろそろと動き出す。あっという間に、料亭が見えなくなった。

「だから言ったでしょ。がっかりすることになるって」

 ミオコがぼんやりと外を眺めながら呟く。ひっく、と小さくしゃっくりをした。顔に赤みがさしている。さすがに酔ったのだろう。冷酒の徳利を一人で十本は空けていたから、酔わないほうがおかしいけど。

「がっかり、って?」

「あんた、お姉ちゃんが目当てであの足裏マッサージに通ってたんでしょ?」

 図星だった。言葉に詰まってしまう。

「い、いや、僕は、単に足裏マッサージが好きなだけで」

 ミオコは大きくため息をつく。

「ったく、今さら嘘つくの? どんだけ小さい男なんだか」

 僕は俯いた。酒も入っているし、何だか切ない気持ちになってしまう。

「あんただって分かったでしょ? あの二人、できてるわよ」

 ミオコの言葉にはっとした。

「そんな……」

 ミオコは首を振りながらイヤホンを耳につける。

「鈍いにもほどがあるわね」

 そんな。唯一異性として興味を抱いていたクレハが、よりによって親友の高野とそういう仲になっているなんて。僕は頭を抱えて、首を振った。そんなことがあるわけがない。あってたまるか。

 それでも、自然と涙が溢れてくる。

「そんな訳、ない。ある訳ない」

 絶望の淵に立たされた時、首をぐいっと持ち上げられる感覚にあった。顔を上げると、そこにはミオコの鬼のような顔があった。

 次の瞬間、頬に衝撃を受けた。

「腐ってんじゃないわよ! 鬱陶しい!」

 彼女の平手打ちが、直撃したらしい。車がブレーキをかける。運転手の男性が、心配そうに様子を窺う。

 頬が、痛い。僕は、涙目でミオコの顔を見つめた。彼女は口を尖らせて、僕を睨んでいる。そのまましばらく僕たちは向き合った。

「あの、お嬢様……」

 白髪の運転手が恐る恐る呟いた。

「飲みなおすわ。『宝船』までやってちょうだい」

「は、はい」

 飲みなおすって、まだ飲むつもりなんだろうか。『ホウセン』って、何だか聞き覚えがあるけれども。

 車は高速道路を新宿方面へ走る。副都心の高層ビル群の明かりをぼんやりと眺めながら、僕はクレハと高野の顔を思い出していた。

 いつ高野はクレハと知り合ったのだろうか。僕が、行きつけのメイド足裏マッサージの店に綺麗な女性がいると教える前から、彼はクレハのことを知っていたのかもしれない。それにしてもひどい奴だ。仕事のことにしたって、長いこと僕に嘘をついていたのだ。学生時代に苦楽を共にした数少ない親友だと思っていたのに。彼に対する怒りが沸々とわいてくる。

 気がつくと、車は高井戸で高速を降りて、環状八号線を北上していた。

 西荻窪の駅前まで来ると、車はゆっくりと止まった。ミオコがイヤホンを外す。

「ありがとう、柴崎。帰りは歩いて帰るから、待ってなくていいわ」

 運転手さん、柴崎さんっていうのか。

「またでございますか、お嬢様」

「心配しないで。今夜はこんなに頼もしいボディガードがついているんだから」

 ミオコは失笑しながら僕の肩に手をまわしてきた。思わずびくっとしてしまう。どうやら身体が彼女に拒否反応を示しているらしい。しかも酒臭い。

「は、はあ」柴崎さんはバックミラー越しに僕たちに視線を投げかけてくる。物凄く不安そうだ。

「さあ、降りて」

 僕は慌てて車を降りる。飲み屋が多いこともあって、午後十時過ぎの西荻窪駅前は若者やらおじさんやらで、まだまだ賑やかだ。

「よーし、飲むわよ」

 ミオコは足取り軽く歩いていく。あれだけの酒を飲んだというのに、全くふらついていない。僕は感心しながら、彼女の後をふらふらとついていく。

 細い路地に、賑やかな笑い声が響いている。所々に「宝船」という看板が赤く光り、焼き鳥の煙がもうもうと立ち込めている。ただでさえ狭い道に、小さな丸椅子に座る客が溢れている。ビールケースにベニヤ板を載せただけのテーブルの上に、ハイボールが満たされたジョッキが置かれている。そして、従業員が慌ただしく動き回り、威勢の良い声をあげている。

「そうか、ここか」

「何よ、あんた、ニシオギに住んでるのに、ここに来たことないの?」

「いや、だって、僕そんなにお酒飲まないから」

「やれやれ、勿体ない」ミオコは首を振りながら、従業員の一人に「よっ」と声をかける。

「おーっ! ミオコちゃん!」若い従業員は、嬉しそうに声をあげる。「大将! ミオコちゃんご入店でーす!」

 路地のあちこちから「へいらっしゃーい!」と声が響く。

「よう、ミオコちゃん。今日も綺麗だね」顔を真っ赤にした客のおじさんが、ニヤニヤしながらミオコに声をかける。

「あったり前田のクラッカーよ!」とミオコは嬉しそうにおじさんの背中をバシッと叩く。周りのおじさんたちからドッと笑いが起こる。

 僕は唖然とした。

「えーと、そのフレーズって」

「何、あんた知らないの? オッサンのくせに」

「いや、知ってるけど、僕が生まれる前の話だし、だからオッサンって言うなよもう」

 ミオコは僕の様子を見てケタケタと笑う。

「おっ、いらっしゃい! ミオコちゃん!」

 店の奥から、捻じり鉢巻きをした丸坊主のおじさんが姿を現した。

「どうも、大将。来てあげたわよ」

「いやいや、昨日来なかったから、どうしたんだろうって心配してたんだよ! さあ座って座って!」

 大将は道に置かれた丸椅子を指差し、テーブルに面した焼き網に鶏の串を並べ始める。ミオコと僕が椅子に座ると、大将は目を丸くして僕を見つめた。

「あれま、あんた、ミオコちゃんの彼氏かい?」

「ちがいます」僕とクレハは声を揃えて言った。大将はガハハと豪快に笑う。

「そりゃそうだよな。ミオコちゃんが彼氏なんて連れてきた日にゃ、一大事だぜ」

「ちょっと大将、それどういう意味よ」

「まあまあ。最初はハイボールでいいかい?」

 ミオコは大きく頷く。「僕も同じで」と僕は答える。

「ハイボールふたちょうっ!」大将の声が響く。店の奥から「ハイボールふたちょう!」という声が聞こえてくる。

「それはそうと、今日はメイド服じゃないんだね」大将は鮮やかな手さばきで串を焼きながら言った。

「うん、まあ、色々あってね」ミオコは答える。

 メイド服?

「え、いつもメイド服着てくるの?」

「え? うん、まあ」

「今日はまた普通の格好だけど、やっぱり綺麗だねミオコちゃんは! でも俺はメイド服のほうが好きだけどなあ」

 大将にそう言われて、ミオコはニンヤリと笑った。

「ハイボールお待ちい!」

 若い従業員が、ベニヤ板のテーブルにジョッキを二つ置いた。ミオコはすかさずジョッキを持ち上げる。

「よーし、じゃあ、残念会始めようか!」

「ざ、残念会?」

「いいから、早く持ちなさいよ!」

 僕は慌ててジョッキを手に取る。

「かんぱーい!」

 ジョッキがガッとぶつかる。ミオコはジョッキを口に運ぶと、物凄い勢いで喉に流し込み始めた。驚いている間もなく、ジョッキは空になった。ドンとテーブルに置く。

「ふいー」

 ミオコは目を瞑って、物凄く幸せそうな顔をしている。

「次はどうする?」大将は鮮やかに串を返していく。

「前の店でちょっといい日本酒飲んじゃったから、もう少しハイボールにするわ」

「はいよ、ハイボール追加!」

 僕はちびりとハイボールを一口飲んだ。

「しかし、ホントによく飲むね」

「え? 何よ。このくらい普通でしょ」

「普通じゃないよ。こんなに飲む女の子、見たことない」

「うっさいわね。いくら飲もうが、私の勝手でしょ」

「いやでも、キミ、男いないの? キミみたいな彼女だったら、心配しちゃうと思うんだけどな」

 ミオコは顔をしかめて、僕の胸ぐらを掴む。

「私のことはどうでもいいでしょ? あんたの残念会だって言ってるじゃない」

「は、はい。ごめんなさい」

「盛り合わせお待ちい!」大将が串の盛り合わせをテーブルに置く。ミオコは「ありがとー」と顔を緩める。素早く串を一本手に取ると、モモ肉にガブリと噛みつき、豪快に串を引き抜いた。そこにちょうど二杯目のハイボールがやってくる。彼女はモシャモシャと口を動かしながらジョッキを持ち上げ、ハイボールを喉に流し込んだ。

「ふいー。それで? お姉ちゃんとはどうやって知り合ったの?」

「どうやってって、だから、中野だよ。あの『ミラベル』のあるビル」

「あのマッサージの店で?」

「いや、そうじゃないんだ。あのビルの中に行きつけのアクアリウムのショップがあって、そこで初めてクレハと会った」

 ミオコは串を持つ手を止めた。

「え? お姉ちゃんが熱帯魚の店にいたってこと?」

「うん。ちょうど去年の今頃だったな」

 僕はクレハと初めて会った時のことを思い出していた。メイド服姿のクレハが、ミドリフグを眺めながら微笑んでいる様子に、僕は一目惚れしてしまったのだ。気が付くと、僕は彼女に声をかけていた。

「そしたら同じビルのメイド足裏マッサージの店で働いてるって言われて、そのまま店に行って、クレハにマッサージしてもらったんだ」

「ふーん、それで病みつきになっちゃった、と」

 ミオコは目を細めてハイボールをすする。

「あ、大将、熱燗ちょうだい。お猪口二つね」

「はいよ、熱燗いっちょう!」

 ミオコは遠くを見るような目で呟いた。

「ったく、お姉ちゃんは……」

 そのままグイグイとハイボールを飲み干す。そして、空のジョッキをテーブルに置いた。ゲフッと酒臭い息を吐く。

「あんた、利用されてるわよ」

 利用? 何のことだ?

「お姉ちゃんと、あの高野っていう人に」

「な、何を言ってるんだよ」

「お姉ちゃんと高野さんは、もうだいぶ前に知り合ってるわ。そうね、私が高校生になる頃だから、五年くらい前かしら。家に来て、紹介されたのを覚えてる」

 ミオコの言葉に僕は動揺した。まさかそんな昔から、高野とクレハが会っていたなんて。

「熱燗お待ちい」

 従業員から徳利を受け取ると、ミオコは僕のお猪口に熱燗を注いだ。微かに湯気が上る。

「まあ飲め、まあ飲め」

 僕は言われるがまま、酒を飲み干した。外で飲んでいるからか、熱くもなくほどよく美味しい。

「おー、いい飲みっぷりだねえ」ミオコは嬉しそうに、僕の肩に腕を置いて身体を寄せてきた。僕は一瞬どきりとしたが、いい感じでアルコールが回ってきて、何だかどうでもよくなっていた。ミオコの息は酒臭かったが、それでも微かに良い香りが漂ってくる。

 ミオコは自分のお猪口にも酒を注ぎ、口元に持っていく。そして僕の耳元に口を近づけてきて、囁いた。

「高野さん、お姉ちゃんのカフェに、しょっちゅう泊まりに来てるよ」

 頭の中が真っ白になった。酔いが急激に冷めていくような感じがする。

「まあ飲め、まあ飲め」ミオコは口元に笑みを浮かべて、僕のお猪口に酒を注ぐ。

 高野とクレハが、そんな関係だなんて。僕は手を震わせながら、お猪口を口元に運ぶと、思い切り飲み干した。

「そうそう、そうこなくちゃ!」

 ミオコは何やら嬉しそうに僕の背中をバシバシ叩く。次第に、高野に対する怒りが再び沸々とわいてくる。

 あの野郎。

「慰めるつもりじゃないけど、私もあの人のことはイマイチ好きになれないな。まあ、『虎ノ門』を飲ませてくれるから、どうでもいいけど」

 あっという間に徳利が空になった。熱燗をもう一本頼んだ後、僕はミオコにひたすら愚痴った。ひとしきり愚痴を言った後は、アクアリウムの話だとか、研究の話だとか、脈絡のない話をした。ミオコは聞いているのか聞いていないのか分からないが、鳥串をモシャモシャ食べながらただ頷いていた。

 ミオコも自分のことについて少しだが話をしてくれた。大学では英文学を専攻していて、西荻窪と吉祥寺の間ぐらいに実家があるらしい。一番驚いたのが、おばあちゃんが英国人で、向こうで暮らしているという話だった。それってクオーターってやつじゃないか。道理でクレハもこの娘も日本人離れした顔立ちのはずだ。

 気が付くと、店の閉店時間になっていた。辺りを眺めると、客は僕たちだけだ。従業員が、外の椅子を店の中にしまい始めている。時計を見ると、零時を回っていた。

「ミオコ、店じまいだよ。そろそろ帰ろう」

「えーっ」ミオコは飲み足りないと言わんばかりに声をあげた。空の徳利を逆さまにして、雫をお猪口に受けてすすり飲む。

「大将、おかわり」

 大将が苦笑いするのを見て、僕はミオコをなだめる。

「だーかーら、ダメだって。もう帰るよ。大将、ごちそうさまでした!」

「はいよ! ミオコちゃんを頼んだよ」

 ミオコは、だいぶ目が座ってきている。さすがに飲みすぎだろう。

「何よ、心配しなくたってだいじょーぶですよー」

 ミオコはゆっくりと立ち上がった。と、バランスを崩してよろけてしまう。僕は慌てて彼女を支えた。

「どこが大丈夫なんだか」

「いいからほっといてよ。大将、また来るねー」

 ミオコは手を大きく振って、歩き出した。千鳥足だけど、あれだけ飲んで動けるんだから大したもんだ。大将も「また来てな!」と言って手を振る。

「ほら、ソウイチロウ。行くよ!」

「ちょ、ちょっと、お代は?」

「いつもツケてるの。それに今日はあんたの残念会だし、気にしなくていいのよ」

 二十歳にしてツケっていうのもどうなんだろうか。そんなことを一瞬思ったが、だいぶ酔いが回っていてすぐにどうでもよくなった。

「さて、飲みなおすか! ソウイチロウ、私の家までついてらっしゃい!」

「飲みなおすって、まさか、まだ飲むの?」

「いいから、来なさいって。こんなか弱い女子大生を、一人で帰らせる気?」

 か弱い?

 ミオコは、細い路地をふらふらと歩いていく。鼻歌も歌っている。だいぶ上機嫌のようだ。彼女の後ろを僕もふらふらと歩きながら、彼女の鼻歌に耳をすませた。

 この歌は……。

「狙いうち?」

 僕が呟くと、ミオコはくるっと振り返った。

「あれ、知ってるの?」

「そりゃ知ってるよ。山本リンダでしょ? 高校野球の応援歌に使われたりするよね。ていうか、キミこそその歳でよく知ってるなあ」

 ミオコはいきなり僕の手をぎゅっと握ってきた。

「私ね、山本リンダが大好きなの! 彼女の曲、ちょーヤバいと思わない?」

「ええと、ヤバい? のかな?」

 僕はどぎまぎして答える。ミオコは再びくるっと回ってふらふらと歩き始めた。

「でもね、やっぱり、『恋のフーガ』も好きなんだよねえ」

 ミオコはそう言って、「恋のフーガ」を歌い始めた。おいおい、ちょっと待て。これ、誰の歌だったっけ? 

 そうだ。たしか、「ザ・ピーナッツ」だ。山本リンダの「狙いうち」にしてもそうだけど、昭和四十年代の曲じゃないのか?

「あーでも、『ちあきなおみ』もいいよね。『喝采』とかね!」

 ちあきなおみ?

「ちょ、ちょっと待って。現役女子大生の言うこととは思えないんだけど。最近の曲は聴かないの? 流行りの歌とか」

「聴かない。興味ないもん」ミオコは言い切った。

「そういえば、イヤホンしてることが多いけど」

「あ、見る? 私のコレクション」

 ミオコは嬉しそうに胸ポケットからスマートフォンを取り出し、細い指先をくいくいと走らせる。僕は横から画面をのぞき見た。

「どうよ? どうよ?」

 僕は目を疑った。彼女のスマートフォンに入っていたのは、昭和の歌謡曲、そして演歌ばかりだった。聞いたことのない曲もある。しかし歌手名は昭和の有名どころばかりだ。ぱっと見た感じ、平成の曲は一つも入っていない。

「す、すごいね」

「でしょ? でしょ? あ、これ、今の感じにピッタリかも」そう言ってミオコはイヤホンを片方の耳に付け、もう片方を僕に差し出してきた。

「早く。付けなさいよ」

「え、あ、はい」

 僕は慌ててイヤホンを付ける。ミオコは僕に身体を密着させてきた。

 流れてきたのは、ちあきなおみの「星影の小径」だった。

「うん、ぴったりだ」

 ミオコは嬉しそうに笑って、歩き出した。僕もイヤホンが外れないように彼女に合わせて歩いていく。

 それにしても、何なんだ。この状況。三十も近い男が、二十歳の女の子とイヤホンを共有して、聴いているのは昭和の名曲。酔ってるから、どうでもよくなってくる。

 確かに夜空を見上げながらこの曲を聴いていると、幸せな気分になってくる。ミオコはミオコなりに、僕のことを励ましてくれてるんだろうなあ。そう思うことにしよう。

 ミオコは曲を口ずさんでいる。

 三十分くらい歩いただろうか。気が付くと、閑静な住宅街の中だった。東京にしては少し大きめな一軒家が多い。停まっている車も、高そうなものばかりだ。裕福な人たちが多く住んでいるのだろう。

 僕たちの他に、人影は見当たらない。もう一時になろうとしている。街灯の明かりがぽつりぽつりと光っているだけで、しんと静まり返っている。

「それにしても、いつもこんな時間まで飲んでるの?」

「うん、ほぼ毎日」ミオコは平然と言った。

「いつもこんなふうにして歩いて帰るの?」

「うーん、柴崎に送ってもらうことが多いけど、歩いて帰ることもあるかな」

 何だか普通に危ないような気がする。しかも、いつもはメイド服だと言っていたような気が。痴漢の絶好のターゲットだと思うんだけど。

「危ないって思ってるでしょ? そりゃそうよね」

 ミオコは自動販売機に向かって歩いていった。小銭を入れる音が聞こえて、ガタンガタンと缶が出てくる音がする。彼女は、缶コーヒーを二本持っていた。ちょっと熱いのか、ブラウスの袖を少し伸ばして袖越しに持っている。僕に一本くれるのかと思いきや、彼女は今来た道を戻り始めた。

「え、ちょっと」

 僕は彼女の後をついていく。曲がり角まで来たところで、彼女は「ばーん!」と角から飛び出した。何事か、と思って僕も角の向こうを見ると、若い男女の二人連れが驚いたようにこちらを見ていた。何だかおろおろしている。

「ちょっと、ミオコ。何やってるんだよ」

 この酔っぱらい。僕は慌ててその二人連れに謝ろうとした。その時、ミオコはその二人に缶コーヒーを差し出した。二人は困ったように、とりあえず缶を受け取る。

「お勤め御苦労さまです!」

 ミオコは満面の笑みで敬礼の仕草をした。

 どういうことだ? 僕はミオコと二人を交互に見た。そのうち、二人連れの女性の方が恐る恐る言った。

「もしかして、気付いてました?」

「ええ、だいぶ前から。おかげさまで、いつも気兼ねなく飲むことができるわ。ありがとう」

 呆然とする二人にぺこりと頭を下げると、ミオコは再び道を戻っていく。

「行くわよ、ソウイチロウ!」

「え? え?」

 意味が分からない。後ろを振り返ると、二人は立ち尽くしている。

「何? あの二人、知り合い?」

「分からないの? 警察よ。身辺警護。気付かれてないと思ってたみたいだけど」

 警察? 身辺警護?

「あんた、見なかった? 二人とも黒いイヤホンしてたでしょ。それに、拳銃を持ってるわよ」

 全く気付かなかった。

「政府の仕事をし始めた頃から、常に尾行されてるのよ。身辺警護というより監視かな? 恐らく高野さんが指示したんでしょうけどね。まあ、別に気にならないからいいけど」

「え、じゃあ『宝船』からずっと?」

「正確に言えば、『時縁』から車で尾けられてたわ。まあ、気付かなくて当然よ。だってプロなんだから。さあ、着いたわよ」

 ミオコが立ち止まったのは、大きな門の手前だった。金属の重量感のある門の両側には、高い塀が連なっている。その塀の向こう側から、木の枝が顔をのぞかせている。

「着いたって、え?」

 ミオコは、門の脇にある通用口っぽい扉を鍵で開ける。キイッと音がして、扉が開いた。「早く入って」

 彼女の後について中に入ると、鬱蒼とした林が広がっていた。大きな門からは、車が一台通れるくらいの砂利道が伸びている。点々とライトが点いているが、道は緩やかに上り坂になっているうえ、緩やかにカーブしていて、先が見えない。

「広い。というか、ここ、キミの家の敷地なの?」

「当たり前でしょ。私の家じゃなかったら、不法侵入でしょうが」

 酔いが少し醒めたのか、ミオコはしっかりした足取りでずんずんと道を進んでいく。僕は呆然としながら彼女の後をついていく。

 坂を上ると、目の前に建物が見えてきた。二階建ての大きな洋館だ。

「すごい」

 夢を見ているんだろうか? まるで映画に出てくるような、伯爵だとか貴族だとかが住んでいるような屋敷だ。さすがに暗くてよく見えないし、沢山ある窓からはほとんど明かりが見えない。でも、日中明るい時に見れば、それまたきっと圧倒されるに違いない。

 玄関上部は手すりのついたスペースが張り出していて、何本かの石柱で支えられている。恐らくバルコニーになっているのだろう。ミオコは玄関の扉を鍵で開けると、僕に言った。

「ようこそ。私の家へ」

 僕は恐縮して中へ入った。暖かな色味の照明が、高い天井から吊り下がっている。天井は、落ち着いたデザインの彫刻がされた褐色の木製で、それを漆喰の壁と褐色の木の柱が支えている。足元には、赤い絨毯が敷き詰められている。

「り、立派なお屋敷だね」

 すると、ミオコはふんと鼻を鳴らした。

「何が立派よ。だだっ広いだけじゃない。実質、私と根岸さんしか住んでないのにさ」

「根岸さん?」

「お手伝いさんよ。掃除するのばかり大変で、本当に申し訳ないわ」

 お手伝いさんか。住み込みで働いているのか。本当にいるんだな、お手伝いさんって。ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと疑問に思った。

「あの、ご両親は?」

 広々としたホールの脇にある大階段をミオコは上っていく。彼女は僕を見ないで答えた。

「父は私が小さい頃に亡くなったわ。母は今、ロンドン。あんた、井之上商事って知らない?」

「いやいや、知ってるに決まってるでしょ。超大手の商社じゃないか」

 井之上商事。「イノショウ」と呼ばれる日本を代表する総合商社だ。学生時代の友人にも就職した奴が何人かいる。

「私の母は、井之上商事の欧州現地法人の社長なの」

 社長、という響きだけで何だか感心してしまったが、何かおかしい。それにしたって、この「超」がつくほどの豪邸は何なのだろうか。お抱えの運転手も、お手伝いさんもいるし。

 待てよ。

 僕は階段の途中で、足を止めた。

「ミオコ。あの、ちょっと」

「何よ」

「えーと、苗字を聞いてなかったよね」

 僕が恐る恐る尋ねると、ミオコは呆れたように言う。

「だから、イノウエよ。井之上澪子」

 急激に酔いが醒めていくような感じがした。

「もしかしてその、キミ、創業家の娘さん?」

「そうだけど、何?」

「何って……」

 ミオコは構わずに二階の廊下を進む。

「お姉ちゃんも自分の店で寝泊まりしてるし。ほとんど幽霊屋敷よ」

 大きな両開きの扉の前で、彼女は立ち止まった。そして「あ」と何かを思い出したように言った。

「私、ワインを持ってくる。あんたは先に入ってて」

「ここ、キミの部屋?」

「そうよ。ソファにでも座ってくつろいでて」

 そう言ってミオコは引き返していった。くつろいでと言われても、女の子の部屋だ。そう簡単に中に入ってしまっていいものなのだろうか。少し迷ったが、思い切って中に入ることにした。

 ドアノブをひねり、ゆっくりとドアを開け、隙間から恐る恐る中に入る。薄暗い。窓から入ってくる外のライトの弱い明かりのおかげで、かろうじて家具のようなシルエットが見える。しかし奥行きは全く分からない。僕は無意識に壁を触り、照明のスイッチを探した。すると、それらしき感触があった。カチッとスイッチを入れると、辺りが明るくなった。

 そして、僕は言葉を失った。

 そこには、僕の部屋の四、五倍くらいある空間が広がっていた。一面にもふもふとした絨毯が敷き詰められ、中央奥に、もはや何サイズと呼ぶのか分からないくらいの大きなベッドが置いてある。そのベッドの上には、映画なんかでよく見るレースの立派な天蓋が吊り下げられている。そういえば、天井も高い。壁際には大きな本棚があって、その手前に立派な木の机が置かれている。そして手前の角には煉瓦造りの暖炉があって、それを囲むように長いソファが二台と低いテーブルが並んでいた。

 なんて豪華な部屋なんだろう。そう思ったのも束の間、すぐにその部屋の異常さに気付いた。

 まず、床に散らかった衣服。ブラウスやらスカートやら、いかにも脱いだままの状態でそこかしこに放置されている。そして、暖炉の前のテーブル。ビールの空き缶やら、ワインの空ボトルやらが新宿の高層ビル群のように乱立している。学生が自宅で飲み会を開いた翌日の光景そのままだ。

 僕はゆっくりと、床に放置された服を踏まないように部屋の中を歩く。本棚には、古そうな本や英語の題名の本などがぎゅうぎゅうに詰められている。机の上にも分厚い本が積み上げられ、流れるような筆記体の英文が書かれたノートが開いてある。ミオコが書いたのだろう。かと思うと、机の脇には若い女の子が読むようなファッション雑誌が無造作に置いてあったりする。

 ベッドは、朝起きたままのような状態だ。シーツはしわしわで、布団がめくれ上がっている。シーツの上には、何だかよく分からない様々なぬいぐるみが転がっている。僕はその一つを手にとってみた。

「何だ、これ」

 三角の背びれに、ギザギザの歯。サメのぬいぐるみのようだが、目がやたらと離れている。すぐに思い当たった。こいつは、ハンマーヘッドシャークだ。日本名でシュモクザメ。かなりデフォルメ化されていて、怖いというよりむしろ可愛い。

 他にもクマ、ヒツジ、カエル。どれもみな全然リアルでなく、子どもが喜びそうなものばかりだ。その中に、モジャモジャした薄汚いぬいぐるみがあった。

「これ、どっかで見たな」

 そのモジャモジャしたものに手を伸ばそうとした時、隣に置いてあるものを見て驚き、手を引っ込めた。

 下着だ。上と下の。しかも、これまた脱いでそのままといった感じで。

 その瞬間、扉がガチャッと開いた。僕は心臓が止まりそうな気持ちで二、三歩後ずさりした。

「お待たせ」

 ミオコが、片手にワインのボトル、そして脇に何かを抱えていた。彼女はベッドの近くにいる僕を見て、ニヤリと笑った。

「あれ、もしかして、触っちゃった?」

 顔から血の気が引いていく。僕は思い切り首を振った。

「触ってない! 神に誓って触ってません!」

「その子たち、意外とナイーブだから、気安く触らないほうがいいわよ」

 その子たち? このぬいぐるみのことか?

「どういうこと?」

「さあ? 知らない」ミオコはクククと笑いながら、ソファにどっかりと腰かける。

「さあ、飲むわよ。早くこっちに来なさい」

 彼女は慣れた手つきでワインのコルクを開け、テーブルに置いてあったワイングラスにワインを注ぐ。そして、同じく置いてあったペティナイフで何かを切り始めた。その乳白色の塊は、恐らくチーズであろう。何という種類なのかさっぱり分からないが。

 僕はソファに腰を下ろすと、ワインのラベルを読んでみた。

「ロマネ、コンティ……って、書いてあるような」

 ワインの知識は全くないけど、何か聞いたことがある。ムチャクチャ高価なワインじゃないのかこれ?

「よーし、じゃあかんぱーい!」

「か、乾杯」

 ミオコはグラスを高々と掲げた後、色味を確認し、やや真剣な表情でワインの香りをチェックし始めた。グラスを少し揺すって、さらに香りをチェックする。

「うーん、たまらない」

 しばらくしてグラスに口をつけた。ワインを口に含み、目を閉じてゆっくりと味わっているようだ。その姿は、酔っぱらいとは思えないほどに美しく洗練されていた。

 と、見惚れていると、彼女は急に「うふふふふふふふ」と笑い出し、膝をぽんぽん叩き始めた。やっぱり酔っぱらいだ。

「おいしー」

「これって、かなり高い物なんじゃないの?」

 僕は、未だに飲む踏ん切りがつかない。

「まあ、そりゃ高いけど、気にしなくていいわよ。おじい様と父がワインの収集家だったんだけど、二人とももうこの世にいないし。酒は飲まれるために存在してる訳だし」

「それはそうだけど」

「別にいいのよ。飲まないなら、私が全部もらうわ」

 そう言ってミオコはグラスのワインを飲み干すと、二杯目を注ぎ始めた。

「それはそうと、あんた。近いうちに彼女の見舞いに行ってあげなさいよ」

 田中さんのことか。

「ああ、もちろん行くよ」

「田中さんだっけ? 可愛らしい人じゃない」

 ミオコはニヤニヤと僕を見つめる。

「何だよ、気持ち悪いなあ」

「好きなくせに」

「だから、何とも思ってないって!」

 僕はグラスを掴むと、ワインをグイと飲み干した。飲んでから、これが物凄く高いワインだということを思い出した。もっと味わって飲むべきだったのではないか。

「お姉ちゃんなんかより、だいぶ脈があると思うけどな」

「あ、ある訳ないだろ」

 ミオコは僕のグラスにワインを注ぐと、体を乗り出してきた。

「いや、ソウイチロウ。あんた、オタクだけど顔は悪くないから、興味をもってる娘は結構いると思うわよ」

「そんな訳ないだろ」この娘は、何を言い出すのか。

「まさか、女の子と付き合ったことがない訳じゃないわよね?」

「……あるのは、ある。大学生の頃に、何度か」

 すると、ミオコは目を輝かせて食いついてきた。

「ほー、ほー」

「いつも向こうから告白されるんだけど、すぐに別れ話を切り出されるんだ」

「その原因は、魚なんでしょ?」

 図星だった。部屋に女の子を連れてきて自慢のアクアリウムを見せると、なぜかその翌日には「別れましょう」と言われる。その繰り返しだった。

「『なぜか』って、あんた」

 ミオコは頭を抱える。

「ちなみに、その娘たちと『するべきこと』は『した』んでしょ?」

 ワインを飲もうとしていた僕は、思わずむせてしまった。

「な、いきなり何を!」

「なに動揺してんのよ。三十にもなって」

 そうは言っても、まさか二十歳の女の子にそんなことを訊かれるとは思わなかった。

 僕は少し間を置いて答えた。

「……いや、してない。その、実は僕、したことないんだ」

「はあ?」

 ミオコは、僕から思いっきり遠ざかった。

「信じらんない。あんた、童貞なの? ムッツリスケベなのね」

「ムッツリはないでしょ……」

 何だかガックリきてしまった。間違ってはいないのかもしれないけれど。

「僕、そろそろ、帰るよ」

 そう言って立ち上がると、ミオコは慌てた感じで僕を引き止める。

「ご、ごめん。怒った?」

「いや、そうじゃなくて、ほら、もう二時だし」

「え、え、もっと飲もうよぅ。泊まっていけばいいじゃない」

 何だか悲しそうな顔でミオコはせがんでくる。酔っぱらっているからか、妙に艶っぽい表情だ。

「いや、さすがに泊まるのはちょっと」

「私は別に気にしないよ?」そう言ってミオコは僕に抱きついてくる。

「あ、あの、ミオコさん。だいぶ酔ってません?」

 やばい。酒臭いけど、いい匂いだ。心臓が指数関数的にバクバク早まっていく。と同時に、股のあたりにエネルギーが集中し始めた。明らかに「ムクムク」し始めている。

「ちょ、ちょっと、えーと」

「あ、そうだ」

 ミオコは、僕からぱっと離れた。

「いいもの見せてあげる」残りのワインを全てグラスに注ぐと、彼女は腰に手を当てて銭湯のコーヒー牛乳のごとくゴクゴクと喉に流し込んだ。ワイン通の人が見たらきっと怒り狂うと思う。

「ふう」

 手の甲で口を拭うと、ベッドに向かってふらふらと歩き出した。ようやく寝るんだろうか? でも、何かおかしい。歩きながら、ベルトをカチャカチャしているようだ。そして次の瞬間、するっと黒のスカートが滑り落ちた。

「え」

 何が起こったのか把握できないでいるうちに、今度はブラウスのボタンを外して、脱ぎ捨てた。彼女は、あっという間に下着姿になってしまったのだ。

 僕は慌てて目をそらした。ミオコの笑い声が聞こえる。

「見てればいいじゃない」

「な、何を言ってんだよ!」

 僕はどうしたらいいのか分からず、とりあえずチーズを口に押し込み、ワインで流し込んだ。一体何を考えてるんだ、彼女は。

 どぎまぎしていると、彼女はクローゼットらしき扉を開け、何か服を取り出し、それを着始めた。何だか見覚えのある格好だ。

 それは、まぎれもなくメイド服だった。

「もう着替え終わったから大丈夫よ。こっちに来なさい」

 僕は恐る恐る彼女を見た。彼女はベッドに腰をかけ、僕に向かって指をクイクイしている。こんな表現が正しいのかどうか分からないけれど、物凄くセクシーだ。

 彼女が着ているメイド服は、中野の「ミラベル」で見たものとたぶん同じだった。黒いワンピースに白いエプロン。白のオーバーニー・ソックスに、エナメル質の靴。まさにメイドそのものなのだが、何かがおかしい。少し考えたが、単純なことだった。彼女は酔っぱらっている。目が座ったメイドさんが、果たして世の中に存在するだろうか。

「座りなさいよ」

 僕は言われた通りに、彼女の隣へ恐る恐る腰を下ろした。脱ぎっぱなしの下着を見ないようにして。

「どう? 似合う?」

 ミオコは僕の耳元で囁いてきた。僕がぎゅっと目を瞑り、何回も頷く。心臓が激しく波打っている。体中から変な汗が染み出している。

 僕は一体こんな夜中に何をしているんだろうか。ベッドの上で、酔ったメイド姿の二十歳の女の子と二人。

「目を瞑ってたら分からないでしょ? こっちを見て」

 彼女は僕の手を握る。僕ははっとして彼女を見た。

「……好きにしていいのよ」

 目の前に、とても美しいミオコの顔があった。ためらいがちに僕を見つめてくる。透き通る白い肌に、紅がさしている。そして、薄い桃色の小さな唇。

 僕は大きく唾を飲み込んだ。こんなことがあってよいのだろうか。そもそも彼女は二十歳、僕は三十近い、彼女に言わせればオッサンだぞ?

 いろんな思いが頭を駆け巡ったが、理性の壁は崩壊寸前だ。それだけは間違いない。僕は、どうしようもなくなって彼女と唇を重ねようとした。

 その時だった。

「はーい、そこまで」

 僕はぴたっと動きを止めた。僕のすぐ隣から、突然誰かの声が聞こえた。女の子の声だ。

 僕は驚いて顔を横に向けた。その瞬間、頬に何だか「もふっ」とした衝撃を受けた。

「わわっ!」

 訳が分からずベッドから滑り落ちて、尻もちをついてしまった。顔を上げると、僕は目を疑った。

 ミオコの隣に、何か黄色くてもふもふしたものが、ぷかぷかと浮いている。あれは確か、ベッドの上に転がっていたぬいぐるみの一つでは? 何で、ぬいぐるみが宙に浮いているんだ?

 ミオコは、ベッドに寝転がって手を叩いて大笑いしている。

「ちょっとミオコ、悪趣味な芝居しないでくれる?」信じられないことに、その黄色いぬいぐるみは顔をしかめてそう喋った。間違いなく、喋った。そう、「顔をしかめて」。

「ごめんごめん。でも、彼の顔見た? もうサイコー」ミオコは腹を抱えて爆笑しながら、そのぬいぐるみに答える。

 気がつくと、ベッドの上が何やら賑やかだ。僕は立ち上がってベッドの上を覗いてみる。すると、他のぬいぐるみももぞもぞと動き出していた。

「ミオコちゃん、おかえりー」

「ねむいー」

「この人だれー?」

 ぬいぐるみは、もぞもぞとミオコに集まっていく。そのうちの一つが、ミオコに話しかけた。どうやら、ヒツジのぬいぐるみのようだ。

「あのー、ミオコさん。私もワイン、いただいてよろしいでしょうか?」

「あ、ごめんアリエス、一本飲み干しちゃった。悪いけど、地下から持ってきてくれる? 好きなやつでいいから」ミオコがそう言うと、ヒツジのぬいぐるみは、目を輝かせた。

「ほ、ほんとですか! 喜んで行ってまいりますっ」

 ヒツジのぬいぐるみはぴょんぴょんと大きく跳ねながら部屋の入口に向かうと、扉のドアノブにしがみつき、器用にノブを回して扉を開け、部屋を出ていった。僕は呆然とその様子を眺めていた。

「おい、オマエ!」

 低い声にはっとしてベッドのほうに視線を戻すと、さっきのサメのぬいぐるみがぷかりぷかりと浮いている。

「さっき俺様に触っただろ? 気安く触るんじゃねえ! 俺様を誰だと思ってるんだ! ガブリエル様だぞ!」

 サメのぬいぐるみはそう怒鳴った。そして、みるみる大きくなっていく。あっという間に、本物のサメくらいの大きさになってしまった。口を大きく開ける。鋭く尖った三角の歯が、大迫力で迫ってくる。僕は思わず叫んでしまった。

 その瞬間、サメがびりびりと痺れたように動きを止めた。

「うげげげげげげっ!」

 ぼてっと床に落ちると、みるみるしぼんでいき、元のぬいぐるみの大きさに戻ってしまった。代わりに宙に浮いていたのは、クラゲっぽい白いぬいぐるみだった。まるでUFOのようだ。

「な、なにするんだよぉクララ」サメは目に涙を浮かべ、情けない声をあげる。クラゲのぬいぐるみは何も言わなかったが、上下にふよふよ浮いている。心なしか得意げだ。

「それにしても、この男が長老の言ってたミオコの運命の人なの?」

 黄色いぬいぐるみは、品定めするように僕の目の前をふよふよ浮かびながら言った。鼻がやたら大きく、ひれ状の手のようなものと、尾びれが付いている。何のぬいぐるみだろう。

「えーと、君は、アザラシ?」

 僕が恐る恐る訊ねると、その黄色いぬいぐるみは尾びれで僕の頬を叩いてきた。

「誰がアザラシよ! 私はジュゴンのステラ! まったく!」

 なるほど、ジュゴンか。僕は納得しながら、根本的な疑問をミオコにぶつけた。

「えーと、ミオコ? これは夢なのかな?」

 ミオコはクマのぬいぐるみを撫でながら、苦笑した。

「夢じゃないわ。現実よ」

「でも、その、これってぬいぐるみだよね?」

「ぬいぐるみね」

「動いてるよね?」

「動いてるわよね」

 その時、入口の方から声が響いた。

「お待たせしましたあっ!」

 さっきのヒツジのぬいぐるみだ。自分の倍もあるワインボトルを手に持ち、ふらふらと飛んでくる。

「お、待ってました」ミオコは嬉しそうに立ち上がると、ソファに戻ってワイングラスを持ってきた。

「さ、もう一度乾杯しましょう。ソウイチロウと、私の友人たちとの出会いに」

 ベッドサイドの小さなテーブルで、ミオコはヒツジの持ってきたワインをグラスに注ぐ。ヒツジのぬいぐるみはすかさず小さなショットグラスを差し出した。ミオコはそのグラスにもなみなみとワインを注ぐ。

「よーし、じゃあかんぱーい!」

「かんぱーい!」

 ヒツジのぬいぐるみは、ショットグラスを持ち上げるとぐびぐびとワインを飲み干した。

「ぷはーっ! 美味しいですねえ!」

 他のぬいぐるみたちは、チーズをもしゃもしゃと「食べて」いる。

「ほら、ソウイチロウも飲みなさいよ」

「あ、はい」

「これが、私の能力なの」ミオコはそう言って、ワインを一息に飲み干した。

「能力?」

「そう。まあ、恐らく信じられないでしょうけど、私はメイド服を着ると、この子たちに命を宿せるのよ」

 ミオコは自分とヒツジのグラスにワインを注ぎながら、平然と言った。

 さっぱり訳が分からない。ぬいぐるみに命を宿す? そんなことが科学的に可能なはずがない。そもそも、何で「メイド服を着ると」なんだ?

「あーやだやだ。なんでカガクシャってのは、説明のつかないことに弱いのかしら? ていうか、高野さんの言ってたこと、忘れた訳?」

 僕ははっとした。もしかして、これも高野の言っていた「愛」のエネルギーの産物なのだろうか。

「まあ、次第に理解していくことじゃろうよ」

 どこかで聞いたことのある声だ。ベッドの上に、モジャモジャした薄汚いぬいぐるみが座っている。モジャモジャの中に、ぎょろっとした目が埋もれている。少し突き出ているのは手足だろうか。

「思い出した。確か『ミラベル』で聞いた声だ」そういえば、大きなトランクの上にあった薄汚いぬいぐるみだ。間違いない。しかも、そうか。あの時ミオコは確かにメイド服を着ていた。このぬいぐるみが喋っていたのか。

 そのモジャモジャは、にっこりと笑ったようだ。でも、あまりにモジャモジャすぎてよく分からない。

「そうじゃそうじゃ。あの時のミオコのうろたえっぷりは、愉快じゃったのう」

「ちょっと長老! 私はまだ認めた訳じゃないからね」ミオコは口を尖らせる。

「認める認めないではなく、こやつはお前の『運命の人』であることに、変わりはないのじゃよ」

「うー」ミオコは不機嫌そうにワインを飲み干す。

 僕がミオコの運命の人? そんなバカな。二十歳の女子大生の『運命の人』が、三十近いオッサンであってよいはずがない。ミオコは、座った目で僕に言い放つ。

「あんたも、真に受けるんじゃないわよ! そもそも『運命の人』っていっても、『絶対に上手くいかない運命にある人』だったり『お互いに不幸になる運命の人』だったりするかもしれないでしょ? 絶対にそうだわ。そうに違いない」

 最後のほうは、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。

「第一、足の裏なんかで自分の運命の人を決められちゃたまらないわ」

「何を言うとるんじゃ。足の相は、神秘のカタマリなんじゃぞ? 宇宙とつながっておるんじゃ。お前も、こやつの足も、どちらも『宇宙を救う』稀有な相をしとる。自覚を持たぬか」

 宇宙を救う、って?

「僕が、宇宙を救う?」

「違う。わ、た、し、が。あんたは『ついで』よ」ミオコは自分を指差して言った。

「まあ、それはいいとして、宇宙を救うっていうのは?」

「それはつまり、宇宙の危機が迫っているということじゃ」もじゃもじゃは、さらっとそう言った。ミオコは空になったボトルを覗きながら、続ける。

「あの氷室とかいう男が関係してるのかもしれないわね。ワインなくなっちゃった。アリエス、もう一本取ってきて」

 ひつじのアリエスは、顔を赤くしてふらふらしている。

「ういー! しるぶぷれ! まかせてくらさい!」

 アリエスは千鳥足で歩き出した。が、すぐに倒れ込んでしまった。

「まったく、酔いどれのアリエスには困ったもんだわ。ミオコも、もういい加減に飲むのやめなさい」黄色いジュゴンのステラは、寝息を立てるアリエスの介抱をしながらミオコに言った。

「えー、もう一本だけ! ね!」

 それにしても、宇宙の危機って? 氷室っていう男は一体何を企んでいるんだ? そして、愛のエネルギーって何なんだ。この飲んで食べて動き回るぬいぐるみは? 田中さんはどうなってしまうんだろう? 僕に何ができるっていうんだ。そして、この美しいミオコという女の子は何者なんだ。

 頭がグニャグニャしてくる。僕はたまらずグラスのワインを飲み干した。

「なんか、疲れた……」

 僕はふらふらとベッドに近づき、ミオコの隣に腰を下ろした。彼女は憐みの目で僕を見つめる。

「可哀相な男ね。完全に巻き込まれちゃって。でもお願いだから、私の足を引っ張るのだけはやめてよね」

 僕はぼんやりとミオコを見つめた。彼女は、微かに笑みを浮かべると、ゆっくりと僕に顔を近づけてきた。

 その瞬間、彼女の唇の感触を、この唇で感じた。若干アルコール臭い、冷たい感触だった。

 ぬいぐるみたちから、アッと声が上がる。

 僕の意識はそこで途絶えてしまった。

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