三島宿今昔
八
三島宿は、東海道五十三次の起点である江戸
日本橋から数えて十一番目にあたる宿場で、そ
の歴史は古く徳川家康が関八州の領主になった
天正十八年には、三島代官所がつくられ江戸幕
府開府時には、幕府直属の天領となった。それ
ゆえ、本陣がニヶ所と大小七十四軒もの旅籠が
ひしめく大きな宿場で、東から来る旅人が天下
の険と称される箱根の山を越え、下りの道に入
りホッとする最初の宿場と言う立地の良さも手
伝って、昔から栄えている場所である。喜三郎
と、夏がその三島宿の大木戸をくぐり町に入る
と何日も 雨の降ってない街道の道は、カラカ
ラに乾き砂埃を舞い上げていた。道の、両端に
ある何十軒も並んで建っている旅籠に、夕暮れ
の泊り客目当てであろう飯盛り女たちが、店の
前で水を撒いたり箒を持って掃き掃除などをし
ながら目当ての客を目ざとく探している。夏は
宿場を行きかう人の多さに驚いていた。旅人は
勿論の事だが褌ひとつで頭にねじり鉢巻きの男
が馬で荷を運んでいたり白装束に菅笠の巡礼姿
の者もいる。とにかく、ひっきりなしで人が往
来していた。初めて、見る宿場町に目を丸くし
てキョロキョロと辺りを見ながら歩いていたが
前を歩く喜三郎の手を一人の飯盛り女がつかみ
旅籠に強引に引っ張って行こうとした。
「旦那さん、うちの旅籠に泊まっておくれよ」
喜三郎は、慣れた手つきで飯盛り女の手を振
りほどくと軽くいなすように言った。
「悪いな、今夜泊る宿は決まっていてな」
すると、喜三郎の後ろに立っていた夏が口を
挟んで来た。
「この宿に、泊りてえな」
夏にとっては、悪気の無い一言だったのだが
喜三郎はこいつ余計な事をと言う顔で夏を睨ん
で言った。
「お前は、黙ってろ!」
喜三郎の、怒鳴り声を聞きながら我が意を得
たりとばかりに飯盛り女がまくし立てて来た。
「ほら、若いご新造さんも泊まりたがって居な
さるしやっぱりうちにしなよ」
そのうちに、他の旅籠の飯盛り女たちも集ま
って来て泊り客の取り合いで二人の女の喧嘩
が始まってしまった。
「あんた、この客はあたしが先に声を掛けたん
だからね」
「へん、そんなの知った事かい何処の旅籠にす
るかは客の勝手じゃないか」
いきなり、水を撒いていた女が柄杓でもう一
人の飯盛り女の頭を叩いたものだから、もう片
方の女は持っていた箒を振り回し始めて、とう
とう髪のつかみ合いをする程の大騒ぎになって
しまった。まわりの、女たちは面白がって囃し
立てている。
「おい、行くぞ」
夏の手を、つかんだ喜三郎はこの騒ぎをこれ
幸いとその場から逃げ出し夏の手を引っ張った
まま旅籠の通りを抜けた。しばらくすると、左
手に大きな鳥居が見えて来た夕暮れに差し掛か
ってはいたが初夏のこの刻限の日差しはまだま
だ結構強い、早足で来た二人の額には汗がにじ
み出ていた。三島宿には、神社は幾つもあるが
その中でも三嶋大社はつとに有名で、かの源頼
朝が旗揚げ戦勝祈願をこの神社で行い成功をお
さめた事から武士に人気の神社となっている。
まあ、そんな事には関わり合いのない喜三郎と
夏であったが、とにかく汗を鎮めようと旅籠の
ある通りからそう遠くない三嶋大社の境内に入
って喜三郎は、手水舎の竹の柄杓で手を清めた
後に口に含んだ水をゴクッと飲みほした。
「フー、やっと落ち着いたぜ」
夏も、喜三郎の真似をして同じ様にしたが此
処でも初めて見る神社の大きさに柄杓を置くと
思わず社殿に向かって歩き出していた。
「おい、待て何処に行くんだよ」
喜三郎は、慌てて夏の後を追ったが夏の方は
と言うと見るもの全てが珍しく社殿に向かうと
天井からぶら下がっている大きな鈴をガランガ
ランと鳴らし始めた。追いついた喜三郎は、夏
の手をつかみ鈴を鳴らすのをやめさせると少し
怒気を含んで言った。
「お前、何か勘違いしてねえか俺たちは物見遊
山で旅してる訳じゃねえんだぞ」
喜三郎の、言ってる事はもっともな事と夏は
解ってはいたが「鈴を鳴らす位ええじゃねえか
・・・」とも思っていた。
「おい、行くぞ」
そう言って、先に歩きだした喜三郎の後を夏
はついていった。三島宿は、清らかな水の豊富
な事でも知られている。街道を横切る形で用水
路が各所を通っているが、その用水路の一つを
見て夏は立ち止った。喜三郎は、てっきり夏が
後をついてきているものと思い振り返るとその
当人はしゃがみ込んで用水路の中を覗き込んで
いる。
「あいつ、また何してんだ」
近づいて行くと、夏が興奮した声で言った。
「なあ、この黒くてウネウネしている魚は何だ」
夏が、指差した先には澄んだ用水路の水草の
合間を群れをなして、魚が泳いでいた。
「ああ、そいつは鰻だよ」
「ウナギと言うのか、これは食えんのか?」
喜三郎は、いきなり夏の口を押さえて辺りに
人がいないか伺っていた。
「バカ、そんな事大きな声で言うんじゃねえよ
お前打ち首にされるぞ」
キョトンと、夏は喜三郎を見た。実は、昔か
ら三島の鰻は「三嶋大社のお使い」とされ獲っ
たり食べたりするのは御法度だったのである。
徳川幕府二代将軍秀忠が、三島宿に泊まったお
り家臣の一人がこの鰻を蒲焼にして食べてしま
い、その事を知って激怒した秀忠がこの者を捕
えはりつけにしてしまった故事が伝わっている。
以来、三島宿では鰻を獲る事は勿論だが食する
など、とんでもない話なのである。故に、三島
の河や用水路には鰻が群れて泳いでいると言う
訳であった。
「ふーん、そうかこんなに沢山いるのに勿体
ねえな」
「まだ、そんな事言ってやがるのか呆れた奴
だな、そんな事より今は宿に行く方が先決だ
からな」
鰻に、未練たっぷりの夏だったが、押し黙
って歩く喜三郎の後を追った。先程の、賑や
かな旅籠が立ち並ぶ通りはとっくに過ぎ三島
宿でも一番端の寂し気な所にその宿はあった。