峠の茶屋
十
「おい、早く歩かねえと夕暮れまでに宿場に着
けねえぞ」
夜明け前に、木賃宿を出立した喜三郎と夏だ
ったが箱根宿に続くだらだらとした登り坂に入
ると夏の足取りは急に遅くなった。それでも、
顔をしかめて額に汗している夏であったが弱音
を吐くことはなくただ黙々と歩いていた。
「もう少しで、茶屋だからな辛抱して歩け」
鬱蒼と、繁る樹木の枝葉が道の両側から夏達
に覆い被さる様に垂れ下がり日差しを遮って道
を薄暗くしていた。それが、次第に明るくなり始
め夏を苦しめていた登り坂も心なしか緩くなっ
てきていた。どうやら、峠の頂上近くに近づいた
らしいと思ったその時である。火照って、汗まみ
れな夏の顔に土埃と共につむじ風が舞い上がり
思わず顔をそむけたその先を見て夏は感嘆の声
を上げた。
「お山だ!」
そこに、見えていたのは夏がいつもお山と呼
んでいる富士山だった。伊豆の、海から見てい
たお山はもっと小さく波の合間から見え隠れす
るぐらいだったが、眼前にそびえ立つお山は初
夏だと言うのに頂上付近にはまだ白い雪が残っ
ており、背後の青い空が山肌に積もる純白を映
えさせて、その大きさと絶景に夏は思わず立ち
止まり手を合わせ拝んでいた。先だってから、散
々夏を苦しめてきた足の痛みもその時だけは忘
れる程にである。
「そんなもん、拝んでも一文にもならねえぞ」
喜三郎の、咎めるような声にハッと我に帰っ
た夏だったが、その刹那に足の痛みもまた戻っ
て来た。それを、我慢して歩きだし間もなく街
道沿いに茶屋が見えてくると気持ちホッとし
た。茶屋の、正面に見える石段を登った先の藤
棚に垂れ下がり咲いている藤の紫が、旅人の
涼を誘い店の前に置いてある腰掛には緋毛氈
が掛けてあった。店先の、のぼりに書いてある
甘酒処と言う文字が旅人の疲れた体と胃袋を
刺激するのに充分すぎる光景である。店の中
には、喜三郎たちの他に四、五人程の客がそれ
ぞれに甘酒を飲んだり乾海苔を撒いた餅に舌
鼓を打ったりしている。腰掛に、座ると早速給
仕の若い茶屋娘がお茶と一緒に注文を取りに
来た。
「いらっしゃいませ、お茶どうぞご注文は何に
なさいますか?」
夏が、隣に座った所で喜三郎が茶屋娘に返事
をした。
「甘酒を二つ」
注文を、受けると茶屋娘はそそくさと奥に入
ったがそう時間を掛けずにお盆に乗せた甘酒を
持って来た。夏は、置かれた甘酒を飲まずに器
の中のそれをじっと見ているだけで飲もうとは
しなかった。
「どうしたい、飲まねえのか?」
喜三郎に、そう言われたが何しろ甘酒を生
まれて初めて見た夏は飲むのを躊躇ってい
たのだ。お椀の中に、ドロリと白く濁ってい
るそれは余り美味しそうに見えなかったの
だ。でも、喜三郎がうまそうに飲んでいるの
で夏は思い切って一口啜ってみた。
「う、うめえ何だこれ!」
誰にも、ハッキリ聞こえる大きな声だったの
で周りの客は一斉に夏を見て笑った。
「大きな声、出すんじゃねえ」
そんな、喜三郎の声を聞かぬふりして夏は残
りの甘酒を堪能していた。喉元を通り、胃の腑
に入った甘味が体の疲れをほぐしてくれる気
がした。暫く、休んで二人は茶屋を後にし箱根
宿に向け歩き出していた。異変が、起きたのは
もう半里ほどで箱根宿に着くという所で夏が
急に歩みを止めてしまったのである。
「おい、何してやがる!」
喜三郎は、毒づきながら夏が立っている所ま
で来てその足元を見て合点がいった。履いて
いる草履が血で汚れていたからである。長旅
に、慣れていない夏の足の裏に無数の豆が出
来それが潰れて出血していたのだ。草履を脱
がし、足を見た喜三郎が言った言葉は夏にと
っては意外なものに思えた。
「しょうがねえな、ほれ俺におぶされ」
そう言うと、喜三郎は夏に背を向け立膝を突
き座った。
「 ・ ・ ・ ・ ・ 」
夏は、喜三郎の背中におぶさり両手を肩にお
いた時に遠い昔を思い出していた。夏が、まだ
幼い頃の事で父親におんぶされ傍らには母親
が笑って夏を見ているそんな楽しかった頃の事
だったが、吉原に売られ苦界に身を沈める自分
の身の上を思った時知らず、夏の両眼から涙が
溢れ出し止めどもなく頬を濡らし続けていた。
夏を、背負いながら歩く喜三郎はさすがに何回
か途中で休憩を挟みながら歩き二人が目指す
箱根宿に、辿り着いたのは門番が宿場の木戸を
閉める頃だった。