陽炎
世界は顔を変えることなく回っている。
私が仕事をやめたときも、今日のような曇天だった。
あれから、もう4ヶ月が経とうとしている。
大学を卒業して、私は大人の仲間入りをした。アルバイトとは違う一日の大半を費やす会社という世界に、きっと私は夢を見ていた。それが夢であることは入社して一週間ほどで理解した。
初対面の上司からの心無い一言を聞いた瞬間、上司に理不尽に注意されたこと、些細なきっかけで私は社会の現実を見てしまった。
夢を見ていたが、仕事は嫌なことばかりだと知っていたが、それでも上司の心無い一言が毎日フラッシュバックされ、その度に心が犯される。
いつからか漠然とした自殺願望や消滅願望が、現実的なものになっていた。
コンビニで首を吊るためのビニール紐を買い、自宅のトイレで実行しようとした。
意識が飛ぶ兆候が出た時に、私はふと思った。
「あぁ、今死んだら不審死になる。遺書を書かないと」
今だからわかる。それは未練だったのだ。
自分がどれだけ苦しんだのかを、誰かに知ってほしかっただけだった。
今でも夢に見る。
数分前のことも忘れていくのに、首に走った痛みも一人暮らしの思い出も鮮明に覚えている。
「それは、お前の後悔だからだ。死にたいと思うほど苦しんで手に入れた正社員の地位も自分の好きなように生活できる楽しさも何もかもが、お前の後悔を形作っている。だから、未だにそんな所に迷い込む」
後ろから男性の声がする。振り返ると、首にビニール紐を巻いた男性が不機嫌そうに立っている。
私はこの男を知っている。今眼前に立っている男性は私だ。
「その顔は気づいたようだな。そうだよ、俺はお前だよ。だが、お前とは違う道を歩いた俺だ」
「違う道?」
「そう、お前は心身を壊し自殺未遂をし、仕事を辞める道を歩んだ。でも、俺は正社員という地位と一人暮らしに固執し、死ぬ道を歩んだ。違いは会社の上司に相談したか否かだけだった。あれだよ、平行世界の自分というやつだよ」
平行世界の私は、いつものように嘲笑って言った。
「お前は死ねたのか、それはよかったな」
目の前にいる男は、あの時の理想の自分だ。死ぬことができて、殺したくなるほど清々しい顔をしている。
「で、なぜ私は一人暮らししていた部屋に座っているのか教えてくれよ」
私は苛立ちながら、自分に問うた。
「そりゃ単純な話だよ。ここはお前の後悔の象徴であり、俺とお前が致命的に違う人間になった分岐点だからだよ。仕事をやめたこと、実家に戻ることになったこと、ここで慟哭したこと、その全てがここを形作っている。時間もないし、さっさと本題に入るわ。ここに来るのは、これで最後にしな。いくら後悔しても、過去は変わらないし、無駄に苦しむだけだぞ。お前はこの苦しみも後悔も傷も抱えて生きていくしかないんだよ」
平行世界の私が泣きそうな顔で言ってくる。
「それは無理な話だわ。私はここでの生活を未だに鮮明に覚えている。給料が入ったら、これを買おうあれを買おう。デスクトップパソコンやベッドを通販で見て、楽しもうとしている矢先にあんなことになって、この4ヶ月ずっと後悔しているし、もしかしたらこれは夢なのかもしれないと本気で思うようになって、またそれが辛くて死んだお前がこの苦しみがわかるというのか」
「わからないな、俺はお前ではあるけど、お前じゃない。お前が抱えないといけない痛みを代わりに持ってやるほど優しかないんでね。でも、お前のそれは後悔じゃない。ただの未練だよ。やっと手に入れた自由がまたほしくて、でも現実的に不可能だから代わりに過去に縋っているだけだろ。やっと手に入れたものを理不尽に失って、中途半端に憶えていようとするから、俺みたいな存在が出来上がる。やっと熟睡できたのにさ、まったく」
死んだから、苦しみから解放されて死んでいるのに、自分以上に人間として生きている平行世界の自分を心底から羨ましい。
本当に、なんのために私は頑張ってきたのだろうか。
借金してまで大学に行って、その結果があんなものであったと、信じたくなかった。
これは夢だと何度も思ったけど、世界は何も変わらなくて、私は無価値だと自覚した。
「お前はきっと仕事をやめたこをこの先もずっと後悔し続けるだろう。後悔するなと言う方が無理な話だわ。2月まで就活して、やっと恩返しができると思ったのに、こんな結末があるかと憤慨するだろう。4ヶ月前の今頃、お前は首を吊った時に、死にたい理由はひとつだった。生きることに疲れたから死のうとした。それでもお前の体は生きようとしている。死ぬ直前、生きたい理由がどんどん湧いてきた。
バイクの免許、日本一周、本当に多くの理由があった中で、大切な人たちとまた会いたいと思ったんだろ。仲間と言ってくれたあいつらとまた笑い合うために、お前は今も生きている。ここにはもう来てはいけないけど、それでもお前の思い出としてこの場所は残り続けるだろう。そろそろおはようの時間だ。もう会うことはないけど、元気でやれよ。それじゃまたな」
平行世界の私はそう言うと、玄関に歩いていった。
空は白み始め、動物が動き始める。
これは最初で最後の馬鹿みたいな夢だとわかりながらも、私はもう二度と見ることのない部屋の一通り見て、後ろを振り返ることもなく、玄関をくぐる。
夢は覚めるから夢であり、覚めない夢なんて存在しない。
多くの後悔も苦しみも傷も抱えて生きていくしかないんだ。
今はただ目の前のことに集中しよう、そしていつか過去の自分に会ったら、こう言おう。
「お前が苦しんだ時間は、決して無駄じゃない。今もこうして私の中で生きているから、今は存分に休みなさい。傷ついて泣いた分だけ、人に優しくなれるから」