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海岸沿いの『名前のない喫茶店』へと戻ったのは、僕と辺見先輩だけだった。
僕たち二人を出迎えてくれた秋月さんは、状況を察したような様子で詳しいことを尋ねず、黙ってコーヒーを二杯入れてくれた。辺見先輩はブラックで飲み、僕はミルクを少しだけ足してもらった。先輩は一口飲んで、カップを両手で握ったまま、
「怖かったね」
と言った。僕はボックス席にて先輩の正面に座り、窓の外を眺めて、
「良かったんでしょうか、これで」
と、返した。辺見先輩の言葉を無視した形にはなったが、恐らく彼女もまた、僕と同じことを考えていたはずなのだ。帰りの道中、何度も紅家のある辺りを振り返っていた。
先輩は答えず、もう一口コーヒーを飲んだ。
ガタガタと木の椅子を運んできて、僕達の側に秋月さんが腰を下ろした。
「何にも食べてないんだろう。今奥でめいに作らせてるから、食べて行きな」
力なく微笑み返す辺見先輩を見て、「食欲がないなんて言いっこなしだぞ」と秋月さんが先を取った。
はにかむ先輩をじっと真剣な目で見据えて、秋月さんは言う。
「霊媒体質なんだね?」
辺見先輩は驚くでもなく苦笑し、やがて頷いた。
驚いたのは僕の方で、視線を右往左往させる僕を見かねて、秋月さんは説明してくれた。
霊感がある、あるいは霊感が強いからと言って、幽霊そのものを引き寄せてしまうとは限らないそうだ。そのまた逆で、霊感などないくせに幽霊を引き寄せてしまう人もいるのだという。幽霊とはこの場合肉体を持たない幽体のことであり、寄る辺ない微かな存在としてふわふわとこの世に彷徨い出て来る。そんな彼らが留まる場所として機能する人間を、霊媒体質と呼ぶそうだ。三神さんたち天正堂では彼らのことを、器のある人間、と表現するのだという。
話を聞きながら、僕は池脇竜二さんのことを思い出していた。今年の九月に『リベラメンテ事件』で知り合った池脇さんという男性は、自身は全く霊感がないも関わらず、『神クラス』とまで言われたエーテル体を守られていた。エーテル体とは魂の体のことであり、神の息吹とも呼ばれる人智を越えた光のような形態を指すそうだ。
辺見先輩は池脇さんのような『光』を背負っているわけではないが、その時集まった面子の中でもひときわ霊障を受け易い人ではあった。引き寄せる体質だった、そういう事なのだろう。
「村の奥には行った?」
頷く辺見先輩から、秋月さんの目線が僕へと移動した。
「君も?」
「行きました。紅さんの家の裏庭にある、井戸も拝見しました」
秋月さんの目が再び辺見先輩を見やり、そのまま、
「何を見た?」
と僕に尋ねた。
「大きな、黒い石を」
秋月さんは僅かに目を見開いて僕を見やり、すぐさま辺見先輩へと視線を戻した。
辺見先輩は先ほどから俯いて、言葉を発しようとしない。
「大丈夫?」
右手で辺見先輩の首筋を撫でながら、秋月さんが声をかけた。すると先輩は顔を上げ、秋月さんではなく僕を見た。
「新開君。分かった気がするよ」
と、彼女は言った。そして秋月さんを見つめ返し、辺見先輩はこう続けた。
「秋月さん。正直に教えてください。私たち部外者がこのお店を訪れたタイミングで、あえてあの村へ行かせたのには、理由がありますね?」
秋月さんは答えず、真っ直ぐに辺見先輩を見つめ返した。
「私にも、新開君にも、あの石は大きな黒い石に見えました。三神さんも、これが何か分かるかと私たちに確認していましたし、水中さんもそうでした。今もこうして、秋月さんも同じです。…あの石は」
店の奥で、電話が鳴った。
僕は飛び上がる程驚き、握ったままだったコーヒーカップを落っことしそうになった。カウンターの向こうでめいちゃんが電話を取る気配がし、呼び出し音が止んだ。
「…あの石は」
と辺見先輩は言う。
「少なくとも今年の十月より以前は、もっと違った形で見えていたのではないでしょうか」
十月?
それはつまり、裏神嘗・歪神嘗と呼ばれる下告村発祥の祭事より以前、という意味だろうか。
「もっと違った形…って?」
尋ねる僕を見つめ、辺見先輩は答えた。
「人」
「…ひと?」
お姉ちゃん!
めいちゃんの上げた声に、僕はまたもや飛び上がって驚き、コーヒーを少しこぼした。
秋月さんが振り返り、「電話?」と言って手を伸ばした。しかしめいちゃんは首を振って、「私にだった」と言った。秋月さんは一瞬押し黙り、やがて「誰から」と聞いた。めいちゃんが答える。
「村にいる三神さんから。どうしても、私に来て欲しいんだって」
秋月さんが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、電話を引っ掴んだ。
「三神さん!あんたそれはないよ…」
そこまで言った所で秋月さんは口を噤むと、電話の向こうに耳を傾け、最後まで一言も発することなく、そのまま受話器を戻した。
やはり。こうなった。
またこの村へ戻って来るような、そんな気はしていた。だが今は、僕と辺見先輩だけではない。
日本最強の治癒者と称される秋月六花さんと、その妹めいちゃんがいる。一人の男として情けないとは思うものの、この異常な心強さは認めざるを得なかった。正直、僕の背後に秋月さんがいると思うだけで、この時の僕は怖い物なしだった。
三神さんからの招集を受けて、僕と辺見先輩は席を立った。もともと、三神さん一人を置いて戻ったことに後ろめたさを感じていたのだ。呼び戻されるとは思わなかったが、無視することなど出来なかった。しかし実際ご指名を受けたのは、どういうわけだかめいちゃんであり、その理由も問いただしてみないわけにはいかない。そして何より、辺見先輩が語ろうとした、黒い石の正体を見極めたかったのである。
海岸線から緩やかな坂の小道を登って村へ向かう道中、秋月さんの機嫌はすこぶる悪かった。
背が高く、濃茶のコートを羽織っていても線の細さが見て取れる。それでいて歩く姿にしなやかさと強さがあって、まるでモデルのようだと見惚れてしまう。ただ、その表情は暗かった。客商売をしている喫茶店の主人が浮かべていい表情ではなかった。
「三神さん、なんて?」
僕と辺見先輩の間を歩くめいちゃんに聞くと、
「まあ、モテる女は辛いっていうか?」
という斜め上の回答が返って来た。
一瞬、僕達の背後で吹きだして笑う秋月さんの声が聞こえた。僕が笑顔で振り返ると、秋月さんは殺し屋のような目をしていた。
目的地は、玉宮家であった。そうと知らずに集落最奥の紅家へ向かうべく通り過ぎた所へ、「ここ」と言って秋月さんが立ち止まった。
するとそこへ玉宮家の玄関戸が開き、携帯電話を耳に当てた坂東さんが出て来た。
「いやー、もう、本当。本当にも会えないかもしれないよ、アユミさん。だから早いとこ、こっちに来た方が良いと思うんだけどなぁー」
言いながら、懐から煙草を取り出した所で坂東さんはギクリとし、目の前に秋月さんが立っている事に気が付いた。その目は薄っすらと潤んでいるように見え、言葉が出て来ない様子だった。
秋月さんは坂東さんの手から煙草を取り上げると、
「やめろって言っただろバンビ」
と言った。
坂東さんがゆっくりと敬礼すると、秋月さんはその手を引っ掴んで下まで降ろした。そしてぼそっと、
「まだアユミとか言ってるの?」
と呟いた。
「は」
バツが悪そうな顔で目を逸らすと、坂東さんは僕らに鋭い視線を飛ばして、
「なんで戻って来た」
と言った。そこで初めて僕たちの間に立っているめいちゃんに気付き、「え」と坂東さんは声を漏らした。
来たかー。
玉宮家の中から、明るい声を上げて三神さんが出て来た。
秋月さんは坂東さんの手を離すと彼の後頭部を叩き、そして三神さんに詰め寄った。
しかし三神さんは秋月さんが何かを言うよりも早く両手を上げ、
「中で話そう」
と制した。そして僕と辺見先輩を見やってニンマリ笑うと、「かたじけない」と、そう言った。