問題篇
「僕が勤めている会社の後輩に、気になる子がいるんです」
シャツにネクタイ姿のいかにも勤め人らしい男は、おもむろに口を開いた。
「部署は違うんですけどね。その子は総務部で、僕は企画部。用事があって総務部に顔を出すうちに、意識するようになりました」
一旦言葉を切って、恥ずかしそうに視線を斜め下へと向ける。花も乙女も恥う仕草だった。
「彼女、仕事がすごくできる子なんです。他部署が持ってきた面倒な書類や雑務を、嫌な顔一つせずに引き受けてあっという間に片付ける。しかも、仕事が速いからといって決して雑ではない。とってもスマートなんです、仕事ぶりが」
碓氷は注文用のアイパッドを操作しながら、粟本の話を黙って聞いていた。一品物の料理名がずらりと並ぶ画面に、粟本の視線が引き寄せられる。
「何というか、今どきの女の子には珍しいタイプなんですよ。無理に周囲と合わせたり、他人のご機嫌取りをしたりしない。協調性がないってのとはまた違うというか。あまり笑顔を見せない、ミステリアスな雰囲気なんですけどね。たまに笑った顔が、唇の端をちょっとだけ持ち上げるようにして、それがまた魅力的で」
粟本の隣で無言を貫いていた蒲生が、我慢の糸が切れたように口を挟んだ。
「粟本。お前の話はまとまりがないんだよ、まとまりが。要点は簡潔に、無駄な描写は挟まない。それから結論は最初に提示する。学校で小論文の書き方を習っただろう。結論、具体例、結論の流れが基本だと」
「僕は、小論の話をしているわけじゃないです」粟本は控えめに反論する。蒲生はかつて後輩だった男の頭を小突くと、
「とにかく、言いたいことをはっきりさせろ。泰然自若そうに見えてもな、こいつは案外気が短いところがあるんだ。ずるずる話が長引くとそのうち飽きて帰っちまうぞ」
こいつ、のところで碓氷に親指をくいと向ける。泰然自若そうに見える男は鷹揚に片手を振ってみせた。
「いいよ、どうせこの後は暇だから。それより気が短いのは蒲生のほうだろう。自分の欠点を他人に擦り付けるな」
「俺は、気が短いのではなく思考が論理的なだけだ」
「せっかち性なだけだろう」
「あ、あの。話に戻っても、いいですか」
粟本がつっかえながら割って入る。蒲生は鼻の付け根に皺を寄せて友人を睨むと、「ああ、続けろ」と素っ気無く言い放った。
「それで僕、先週思い切って彼女を映画に誘ってみたんです。映画鑑賞が趣味だって、総務の同期を通じて知っていたので」
「デートの申し込みか。小心者のお前にしちゃ勇気ある行動だな」
飼い主に褒められた犬のように、粟本は嬉しそうに眦を下げる。だがすぐに真顔に戻ると、
「ところが、見事に断られちゃって」
「そりゃ残念だったな。彼女のお眼鏡には適わなかったのか」
「まあ、そうなのかもしれません」曖昧な口ぶりの粟本に、碓氷は手元の画面から視線をスライドさせる。
「何かあったの」
「いや、大したことじゃないのですが。その、断り方がちょっと不思議で」
「不思議?」大学来の友人二人は同時に問い返す。
「彼女、僕の誘いに対してこう言ったんです。『水曜日の夜は会いたくないので、ごめんなさい』って」
「つまり、水曜日以外ならオーケイってことなのか」
粟本は同意を求めるような視線を先輩に送り、
「僕も、真っ先に考えました。本当は水曜日がレディースデイだから映画も安いのですが」
「男なら、金額に拘らず相手の都合からまずは聞き出せよ。太っ腹になれ、じゃなきゃモテるものもモテないぞ」
三時間食べ飲み放題三千円の居酒屋を指定した蒲生は、自分のことを棚に上げて後輩に助言する。
「彼女が言ったのは、『水曜日の夜は会いたくない』ってことだけだったの。他に理由とか何もなしに」
アイパッドを蒲生に手渡しながら碓氷は問う。
「ええ。あまり追求してしつこいと思われるのも嫌なので、僕もそれ以上は詮索しませんでした」
「水曜の夜は会いたくない、か」カラカラと涼しげな音を立てながら、氷入りのグラスを回す碓氷。
「毎週水曜日には、何か別の予定が入っているんですかね。でも、それならそう言えばいいのに」
小さく唇を尖らせる粟本。蒲生は飲み物のページと睨めっこしながら、
「人間誰しも、言いたくないことの一つや二つは抱えているものだ」
「格言ですね。さすが蒲生先輩」
本音とも冗談ともつかない粟本の言葉に、先輩は口元を綻ばせる。
「水曜日はどこにも行かず、自宅でゆっくり過ごす日って決めているとか」
碓氷の意見に、粟本は深々と頷いた。
「確かにそういう人は一定数いるかもですね。水曜は週の半ばですし、疲れも出てくる頃だ」
「つまらない結論だな」アイパッドを粟本に回しながら、蒲生は退屈そうに言う。
「言葉はいかにもミステリなのに。どうしてわざわざ『水曜の夜』と限定したのか。じゃあ他の日ならいいのかと聞き返したくなるし、予定があるとも言わないではぐらかされると気になってしょうがない」
「敢えて曖昧に答えることで、こっちの気を惹こうとしたんでしょうか」
タッチパネルの上で手を止め、粟本は妙案を閃いたかのように声を弾ませる。蒲生は「ははあん」と大袈裟に反応しながら、
「じゃあ、その彼女は小悪魔系女子だな」
碓氷が待ちくたびれたようにアイパッドを覗き込んでいると、粟本は慌てて操作を再開する。ようやく注文内容を送信したところで居住まいを正し、
「正直、一度誘いを断られたくらいで諦めるつもりはありません。ただ、『水曜日の夜は会いたくない』という彼女の言葉がどうも引っかかって。それで蒲生先輩に相談したんです。やっぱり、次に誘うときは水曜日以外を指定したほうがいいのか。あるいは映画じゃない別の誘いがいいのか」
真剣そのものといった眼差しで蒲生と碓氷を交互に見やる。お節介焼きな先輩は、対面の友人に向かってにやりと笑みを投げかけた。
「と、いうわけだ。さしずめ俺らは、粟本の健気な恋を成功に導くキューピットってところだな」
「水曜日、とわざわざ指定したくらいだから、そこに拘りがあると僕は見ている」
生ビールを一口啜ってから、碓氷はさっそく「水曜日問題」に切り込んだ。
「水曜日に限り外出したくなかったのか。単純に誘いを断りたいのなら『用事がある』だけで済むけどな」
ジョッキのビールを一気に半分まで減らす蒲生。恋に悩める青年は唇に残った泡をおしぼりで拭うと、
「女友達に占いとか予言とか好きな子がいるんですけど、彼女は雑誌の星座占いで『この日とこの日は運気が悪い』と書かれていたからその日は外出しなかったらしいです」
「縁起を担いで、水曜日の夜は家に篭っているのか」オカルティズムに対し根っから否定的な蒲生は小さく鼻を鳴らす。粟本は虚空を仰ぎながら、
「そんなふうには見えないですけどね」
客観的意見よりも、そうであってほしいという願望めいた物言いだった。
「会社での彼女の様子はどうなの。水曜日はいつも定時ぴったりで仕事を切り上げるとか、迷信深いような話をしていたとか」
事件関係者に事情聴取をする刑事のように、てきぱきと質疑を進める碓氷。
「部署が違いますからね。それとなく総務部の同期に彼女のことを尋ねることはありますけど、あまり頻繁に通って変な噂が立つのも憚られるので」
粟本青年の良識的な発言に、蒲生は「変わってねえな、変に真面目なところ」と目を細める。
「断られた瞬間は『実はそれほど映画が好きじゃないのかな』とも思ったのですが、総務の同期によると、総務の女の子とよく映画の話で盛り上がっているみたいです。誘ったときにはどの映画を観るか指定していなかったので、映画のチョイスが気に入らなかったという可能性もありませんし」
小気味良い音を立てながらお通しのたこわさを噛んでいた蒲生は、不意に短く叫んだ。
「分かったぞ。彼女はストーカーに怯えているんだ」
「す、ストーカーですか」先輩の唐突な主張に、粟本は丸っこい両目を瞬かせる。
「ああ。彼女をストーキングしている奴は、仕事の都合上水曜日の夜だけがフリーなんだ。だから、毎週水曜日にお前の意中の相手をつけ回している」
「止めてくださいよ、そんな恐ろしいこと言うの」粟本はぶるりと身を震わせた。たとえ冗談だとしても、恋心を寄せる女性に身の危険が迫っているなど一ミリも想像したくないだろう。
「気にするな。蒲生は重度のミステリマニアだからね、常時そんな妄想で脳内が支配されているのさ」
あっけらかんと告げ、碓氷は友人をじろりと睨みつけた。可愛い後輩を怖がらせてどうする、とその目が非難している。
「悪い悪い。ジョークだよ、俺なりのジョーク」蒲生は後輩の肩を叩きながら、
「あれだな。彼女はきっと、水曜日にトラウマめいたものを持っているんじゃないか。『十三日の水曜日』を観て水曜日が怖くなったとか、昔付き合っていた彼氏にこっぴどく振られたのが水曜日だったとか」
「それも、面白くない冗談ですか」
粟本は眉根を寄せながら、皮肉混じりに返す。運ばれてきた明太子卵焼きの皿をテーブルの中央に置きながら、蒲生は困ったように頬を掻いた。
「俺だって、粟本の恋路を心の底から応援しているんだぞ――すまん、ちょっとトイレ」
形勢の悪い試合を中断するように、蒲生はそそくさと手洗いに立った。粟本は黙々と卵焼きを箸で切り分ける碓氷に耳打ちする。
「蒲生先輩って、いつもあんな感じなんですか」
「大学時代からの悪い癖だ。推理小説とかスパイ映画とかに目がなくってね。気分を害したのなら僕からも謝るよ」
「ああ、いえ。そんなことは。先輩の新たな一面を垣間見た気がして、ちょっと楽しいです。仕事場では仕事のこと以外ほとんど話さない人だったから」
今度は碓氷が意外そうに両目を軽く見開いた。
「でも、一体何なんでしょうね。水曜日の夜は外に出たくない理由って」
「蒲生を擁護するわけじゃないけれど、水曜日という特定の曜日にトラウマがある可能性は確かに考えやすいね。人間なんて案外ちょっとした思い込みや妄想で操られる生き物だから」
「はあ。でもそうなると、いくらでも答えを想像できちゃいますね」
「水曜日といえば、キリスト教では『灰色の水曜日』と呼ばれ、己を悔い改めるために行う四旬節中の初日にあたる。また、ユダがイエスを裏切ったのも水曜日」
碓氷が呪文を唱えるように呟いていると、部屋の戸から蒲生がぬっと顔を突き出した。
「先輩、トイレ長かったですね」
茶化すような声で迎えた粟本に、蒲生はこめかみを指で掻きながら席に着く。
「いやね、ちょっと一悶着あってさ」
「何かあったんです」
「ここの店、トイレが男女兼用で一つだけなんだ」
「不便ですね。そこそこ客多そうなのに」
「そうなんだよ。で、トイレの扉がほんの少し開いていたから、当然中は無人だと思って開いたわけ」
「もしかして先客がいたんですか」
「しかも、相手は女性ときたもんだから大慌てさ」
警察に四方を固められ降参する犯人のように両手を上げた蒲生。粟本は「うわあ、悲惨ですね」と同情の眼差しを向ける。
「不幸中の幸いは、彼女が本来の目的でトイレを使用していなかったことだ」
「どういう意味だ」
碓氷の問いに、蒲生はシャツの胸ポケットから煙草の箱をちらりとのぞかせ、
「火災報知機がないんだよ、ここのトイレ」
合点がいったように頷く碓氷。粟本は「火災になったら一大事ですよ」と良識人らしい見解を述べる。
「けどさ、正直俺にしてみれば煙草で良かった。これが用足し中だったら悲惨どころじゃ済まないぞ。こっちが犯罪者になりかねん」
「先輩なら何とかなるんじゃないですか。ほら、前に職場のイベントで女装するために先輩が更衣室使っていたら、新入社員の女の子が間違って入ってきた事件ありましたよね」
テーブルをがたりと鳴らした蒲生に、後輩は意地悪そうな笑みを見せる。
「あのとき、彼女は先輩のこと社内に侵入した変質者と勘違いして」
「粟本、くだらないことをほじくり返すんじゃ――どうした碓氷。地蔵みたいに固まって」
後輩を窘めようとしていた蒲生は、卵焼きを箸で掴んだまま石像のように身動き一つしない友人に怪訝な目を向ける。碓氷は機械じみた動作で箸を取り皿の上に置くと、
「分かったかもしれない。粟本くんが絶賛片思い中の相手が、なぜ水曜日のデートを拒んだのか」