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空良そら


 笈助の合図で、童子が手燭てしょくの火を吹き消す。

 夜雲が月を覆うと、己の存在があやしく溶け落ちてしまいそうな暗闇が満ちる。丑の刻。初秋の外気はむっとしたいやらしい湿気がこもっている。


「来た……」


 いち早く気づいたのは武臣だった。

 闇に浮かぶ提灯ちょうちんのあかり。目を凝らすと『森村屋』の文様が確認できる。間違いない、小梅だ。

 薄ぼんやりとした灯りに照らされた小梅は、ますますやつれたように見えた。髪も滅茶苦茶に乱れ、その様は怪談噺の狂女(くるいめ)にふさわしい。武臣は女房が哀れでならなかった。


「こちらに来るぞ」


 笈助が云う。柳の陰に隠れている三人は身じろぎせずに成り行きを見守っている。小梅は、ひとつの墓石の前に立ち止まると、帯紐を解いて小袖をするりと脱いだ。ところどころ紅くただれた肌があらわになる。片足をぬらりと墓石に絡ませる。


「嗚呼ぁ、ああ……あふ」


 艶かしい嬌声が漏れ出す。肌と石とが擦れ合う音がぐちゅりと響いた。耳を塞ぎたくなるような濡れ音だ。


「始まったね、今夜も」


 不意に、潜む三人の背後から男の声がした。機敏な動作でこちらに寄ってくる。


「むっ? 九摺李くずりの旦那とぼんじゃねえか。アンタらも噂の妖怪女を見物に来たのかい。存外好き者だねえ」


 噂の出所、夢売りの密である。青草をくちゃくちゃ噛みながら、女が乱れる様を眺めている。


「知ってるかい、旦那。ありゃあ妖怪なんじゃねえよ。森村屋の小梅さ。だがな、正体を知ってもバラすようなことはしねぇ。今しばらくは、妖怪けらけら女のままでいてもらわないと、あっしの怪談噺が売れないからさあ。へっへ」

れ者!」


 あまりにも軽薄な物言いに抗議しようと立ち上がった武臣を、笈助が制する。


「あやつは変態だから、かまわなくていい」

「……ぐ」


 武臣は悔しさと憤りで唇を噛む。傍らで笈助が立ち上がる気配がした。


「密よ。お前の商売繁盛は今宵限りで終わるぞ」

「そりゃ一体どういうことでい、九摺李の旦那」


 密の問いには答えず、笈助はすぐ傍で控える空良の背中をそっと押した。

 闇夜の墓場を提灯も持たず童子が進んでいく。夜目がきくのか足取りに迷いがない。袴を履いていない後姿は少女のように華奢だ。


「ああ、あふん、はあぁ……」


 小梅との距離が三尺(約一メートル)になったところで、喘ぎが止まった。

 闖入者ちんにゅうしゃに気付いたらしい。ぎろり、と凄まじい目付きで空良を睨みつける。空良は顔を逸らすことをせず、真っすぐ小梅を見据えている。その間、音も無く視線だけの応酬であった。


わっぱぁ、去ね」


 老婆のようなしゃがれ声で小梅が威嚇する。空良は落ち着いた物腰で云う。


「食医、九摺李笈助が息子、空良と申します。あなた様の邪気を癒しに参りました」

「おぬしに何がわかる」


 刹那、小梅が空良に襲い掛かった。若い女と童子がもつれて転がる。「うひゃあ」と密がはしゃいで悲鳴を上げた。


「笈助、空良が」


 小梅は童子を食い殺さんばかりに口から犬歯を覗かせている。焦った武臣は、笈助の袖を強く引っ張った。


「心配することはない。黙って見ているといい」


 ここからが見せ場だ、とばかりに見物を決め込む旧友に、しびれを切らした武臣が間に入ろうとしたところであった。小梅の動きがぴたりと止まった。

 圧し掛かられたままの空良が小さな手を小梅の胸に当てている。 


「……う……うあ、ぁ」


 痛みとも快楽ともつかぬ呻きを小梅が上げた。

 女の身体の下から這い出た空良は、今度は両手で肌に触れていく――首筋を、乳房を、下腹を、脚を。

 不思議な眺めであった。小梅は呻きさえ漏らさず身体を弛緩させ、童子のされるがままになっている。やがて全身に触れ終えると、空良は何事か小梅の耳元にささやいた。すると小梅は立ちあがり、脱いだ小袖を元通りに着て、墓場から足早に去っていった。


「だ、旦那、こりゃあ一体」


 密が筆を舐め書物をしている。今しがた見聞きした出来事を夢売りするつもりなのだろう。笈助はその筆を奪い、密の短い腕を掴み上げた。


「何すんでぃ!」

「小梅はおれの患者だ。このことを市中に触れ回ることは許さぬ」

「ひっ、わ、わかったから、この手を離しておくれよ、旦那あ」


 恐ろしい剣幕で凄まれた密が泣き言を漏らして、暗闇に消えていった。

 武臣は夢から醒めたように吐息した。去り際に見た小梅は、妖怪女から一変し、元の穏やかで優しい顔つきに戻っていた。

 

「笈助、何が起こったのだ。私にはさっぱりわからぬ」

 

 狐に化かされたような様子の武臣に、笈助は朗らかな笑顔で「帰ろう」と促した。



◆◆◆



「結論から云うと、奥方はあやかしに憑かれていたわけではない」


 本堂の仏象が蝋燭の灯りでにび色に照らされた。香を焚いた笈助が振り返る。武臣は無言のまま話の先を待った。


「妖ではなく、じゃに侵されていたのだよ」

「邪……?」

「病は〈外因〉と〈内因〉から起こる。外因とは“六邪”を指し、自然界のなかのふうかんしょ湿しつそうで病態をあらわすものだ。奥方の場合は、このうちの火、つまり“火邪”であった。肌が赤く腫れていただろう。あれは湿疹だ」


 立ち昇る香の匂いが妙に心地良い。興奮醒めきらぬ武臣は鈍い動きで頷いた。笈助は講釈を続ける。


「湿疹が出ると身体が痒くてたまらなくなり、次第に熱を持つようになる。熱された肌は冷えを求めるが、例えば」食医はそこで微笑して、「丑三つ時の墓石などは夜風に当てられ冷えているから、熱を持った肌には触れるだけで気持ちが良いのかもしれぬな」

「まさか、それが」

「墓石とまぐわう女の正体さ」


 蝋燭の火が揺らめいた。武臣の心の動揺を表しているかのようだ。


「空良が奥方に触れたのは、湿疹に効く軟膏なんこうを塗るためだ。あの軟膏は即効性が強いから、痒みが一時的に和らいで、奥方も正気を取り戻したのであろう。湿疹には、熱を加えた大蒜にんにくや油で炒った人参を食すのも良いから、軟膏と共に後で空良に届けさせよう」

「小梅は元のように戻るのか」

「ああ。身体を清潔に保ち軟膏を毎日欠かさず塗れば、すぐ治る。おれの指示どおり食事療法を続けていれば、もう湿疹が出ることもあるまい」

「嘘のようだ」


 武臣は感極まって嗚咽おえつを漏らした。


「礼をいわなければならぬ、笈助。あの幸せな日々が戻ってくるとは……夢のようだ」

「そなたに礼をいわれるのは満更まんざらでもないがな、武臣。そう万事が上手くもゆかないのだよ。先の話に戻るが、病は〈外因〉と〈内因〉から起こる」

「ああ、その外因というのが、『火邪』であったのだろう」

「いかにも。そして、もうひとつの〈内因〉は、怒りや憂いや悲しみなどが元で身体に変調をきたすことをいう。奥方は火邪と同時に深い悲しみに侵されていたのだ」

「悲しみ?」


 食医の大雑把な顔立ちに一片の陰が落ちる。やがて大きな口が躊躇(とまど)いがちに開いた。


「おぬしを失った悲しみだよ、武臣」

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