弐
本当に此処なのか……?
森村武臣は石階段を上がっていた。
周囲の木々は葉が青く美しいが、無骨な造りの階段は傾きが急で、足の弱い年寄りならば景色に見惚れて転げ落ちてしまうだろう。目指す寺は山頂にある。
「くそぉ、医者がこんな辺鄙なところに住んでいるとは」
愚痴を吐きつつ登りきると、中国風の門前で塵を掃いている男児がいた。小坊主だろうか。にしては法衣を着ておらず袴履きで頭も丸めていない。
「そなたはこの寺の者か」
声をかけると、ゆっくり顔を上げる。武臣は思わず息を呑んだ。
齢は十二、三歳ほどであろうか。見目麗しいが、肌が透けるほどに白く、現実に存在しているものか疑わしく感じた。幽霊……? 童子が小さな口を開く。
「何か御用ですか」
「あ……私は森村武臣と申す者。九摺李笈助に相談したい旨があって訪ねたのだが。九摺李とは幼少からの仲だ」
「承知しました」
童子が姿を消すと、間もなく総門が開く。
案内されるまま本堂に通されると、胡坐をかいて座っている男がひょいと手を上げた。九摺李笈助だ。
武臣はようやく安堵した。なにやら得体の知れぬ幽霊屋敷に迷い込んだような心持ちになっていたのだ。
「やぁ、久方ぶりだな。元気そうだ」
数年ぶりに会った笈助は日に焼けた顔でにぃと笑った。
目も鼻も口も全てが大きい。この男が人相書きで晒されたら、すぐ捕まるに違いない、特徴的な顔立ちだ。武臣と笈助は、町人が読み書きを習う寺子屋で一緒だった。懐かしさに浸りつつも武臣は問う。
「何故このような山寺で開業しているのだ。おまえの父は町医者だったろう」
「なぁに」と笈助は鼻の下をこすって、「知合い坊さんが本山で修行している間、寺守りを頼まれたのさ。ついでに医者稼業をしているというわけだ。この寺は掃除が行き届いて清潔だから、養生にはうってつけだよ」
「しかし、あの石段はどうだ。病人にはきついぞ」
「あれも治療の一種だ。おれの患者は、ここに通う間、石段を上り下りするから自然と体力がつく」
「都合の良いことを」
学友の頃と変わらない、無邪気な屁理屈に武臣は吹き出す。
ふたりはしばし旧友らの現状や、とりとめのない世間話をした。気づくと先刻、武臣を案内してくれた童子が盆に杯を持ち控えている。
「おい、勤務中だろう」
「そなたが訪ねてきてくれたから、今日はもう店じまいだ」
まだ日も高いというのに。しかも坊さんが不在とはいえ、ここは寺ではないか。
武臣はあきれた。そして昔、この男が『われ神仏を恃まず!』とほざき、先生の僧侶に寺子屋を追い出されたことを回想した。破天荒ぶりは相変わらずのようだ。
「そなたは寺小姓か」
杯に酒を注いでくれる童子に問うと、小首を傾げた。肌は抜けるような蒼白だが、唇は朱をさしたように紅く、間近で見るとぞっとするほど美しい。
「違う、武臣。これは空良といって、おれの息子だ」
「以前会ったときは赤子だったか……しかしおまえと全く似ていないではないか」
「死んだ妻の血を濃く継いでいるが、半分はおれの血を引いているぞ」
「ちょっと待て。奥方が、亡くなった?」
「ああ去年に」
武臣は言葉に詰まる。
笈助が妻と死に分かれていたとは……。表向きは飄々としているが心中では辛い思いをしているのではないか。
複雑な心境で母の血を濃く継いでいるという子息を眺めていると、空良は父の背中の後ろに隠れてしまった。「もう良いから下がりなさい」と笈助が命じると、一礼して去る。
「それにしてもよく来てくれたな」
ふたりきりになると笈助が武臣の杯に零れるほどに酒を注ぎ、しみじみと呟いた。武臣は本題を切り出す。
「――実はな、頼みごとがあってきたのよ。おまえは、普通の医者では治せぬ“奇病”を治すと聞いた」
「どこでそんな噂を」
「夢買いの密が吹聴していたぞ」
「あやつめ」と笈助は苦い表情になって、「密の話は嘘っぱちだ。おれはただの『食医』だからな」
「しょくい?」
「正月に雑煮を食うだろう」
「あぁ?」
「まあ、聞け。ひとつの例えだ」
戸惑う武臣に、笈助はしたり顔で説明する。
「師走(十二月)に大掃除とか新年の用意をばたばたとするから、『正月めでたや』とはしゃいでいても、体は疲弊している。餅は栄養価が高いから、疲れているとき食すにはうってつけの食物なのだ。正月に餅を食うことは非常に理に適っている。他にも野菜や山草等、身近な食材を正しく摂れば、大抵の病には負けないものなのだよ。このようなことを専門にしているのが、食医だ。わかるか、武臣」
「うぅむ」
悠々と語ったかつての学友に、武臣は来るべきところを間違ったか、と後悔し始めていた。
「いや、おまえは奇病を治すと聞いたものだからな」
「おぬしの云う奇病とはなんだ。いったい何の相談をしに来たのだ。さっぱり訳がわからんぞ」
はっきりしない武臣の態度に、今度は笈助が眉間に皺を寄せた。
いかん。藁にも縋る思いで、こんな山奥の寺を訪ねたというのに。武臣はこれ以上旧友の機嫌を損ねないよう素早く話を進める。
「『けらけら女』の怪談噺を知っているか」
「それなら聞いたことがあるな。今、流行っているやつだろう。妖怪女が墓石とまぐわうという」
「その妖怪女こそ、私の妻なのだ」
「なんだと」
驚いた笈助が杯をすべり落とした。武臣は押し殺した声音で続ける。
「名を小梅という。小梅は団子屋の娘で客商売に慣れているうえ働き者だったから、私の両親にも大層気に入られていた。私より年は八つ下だが、しっかり者でな」
「おぬしの店は菓子屋だから、そういう娘であれば重宝しただろう。ときに、おぬしが昔、寺子屋に差し入れてくれた餅菓子は美味だったな。また食ってみたいものだ」
「話を戻すぞ」武臣は咳払いして、「その小梅が、もう一月も前になるか。突然魂が抜けたようになってしまったのだ。話しかけても何も答えようとしない。食物もろくに口にしないから痩せ細り、ついには店に出ることも出来なくなった」
かつて武臣が愛しく触れた、小梅の、餅のようにふっくらした頬は、見る影もなくなってしまったのだ。
「――しかも、それだけでは済まなかった。朝目覚めた小梅の足裏が土だらけで、真夜中に徘徊しているらしいと悟った私は、ある晩、小梅の後を尾けた。辿り着いたのは墓場で、小梅は着物を脱いで裸になると、淫靡な声を上げて墓石に体を擦りつけ始めたのだよ」
「……けらけら女」
ぽつりと漏らした笈助に、武臣はつらそうに頷く。
「怪談の正体が己の妻だとは惨めな話だよ。もちろん私は小梅を止めようとした。が、女房は墓石に縋るのを決して止めようとしなかった。墓石に擦りつけた後の肌は赤く擦れて腫れ上がり、痛々しい様になっていた……。あの奇行、妖にとり憑かれたとしか思えぬ」
掌で顔を覆う武臣を横目に、笈助は考え込む素振りをしていたが徐に沈黙をやぶる。
「果たしてそうかな」
「なに」
「いや、妖怪の仕業であれば、おれの専門外だが。なかなか良い人材がおるぞ」
「なんだって! ぜひ紹介してくれ」
「もう会っている。うちの倅だ」
「空良が?」
拍子抜けしたような態度の武臣に、笈助は鷹揚に笑った。
「あれは人には見えぬモノの正体がわかるのよ。おれなどは患者を初診するときには必ず空良を同席させる。体の不調が妖の仕業とわかったときは、患者を追い返してしまうのだ。そういうのは専門外だからな」
「酷いな」
「かわりに徳の高い坊主や神官を紹介してやっているのだから却って親切だろう。空良ならば妖と話ができるから、奥方から妖鬼を追い出すことができるかもしれない。奥方はいつ墓石殿に参じる?」
「二日、三日に一度。おそらく今夜も……」
「では、さっそく試してみようではないか。事は早い方が良い」
意気込む笈助は、浅黒い肌を微かに上気させている。
武臣はにわかに不安になった。この男、興味本位で足を突っ込みたいだけではあるまいな――? あの空良という童子だって、姿形は美しいものの、神官のような真似ができるとは思えない。
「丑の刻までにはまだ時間がある。少し寝ておくか。武臣、おぬしも休め」
「や、私は」
「眠りこそ万能の効薬だぞ。夜に備えて英気を養っておくのだ」
浮かれた声で指示すると、笈助は空良に布団を敷かせて、ぐうぐうと鼾をかき始めたのであった。