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2/3 覆される通説の数々

 さて、本著の第1章は、いきなり複数の一次史料を比較してのお天気情報です。それも、愛宕あたご神社で『ときは今 天が下知る 五月哉』という有名な句を光秀が詠んだ日に、本当に雨が降っていたのかということの検証です。これを備中高松城水攻めと絡めて論旨が展開されるんですが……正直言って、丁寧ではありますが、冗漫であると思います。

 結局、おそらくあの句を読む日の前日辺りから雨は降っていて、梅雨時の陰鬱さが光秀に謀反を決意させたのではないかという推測が述べられるのみ。一次史料の信頼性を確認できますが、「本能寺関係ないじゃん」とここで挫折する人もいるのではないでしょうか。



 第2章からはいよいよ本題に入ります。箇条書きにすると、


・信長は、軍勢を率いて畿内の敵を攻める時以外は、岐阜・安土と京とのあいだを少人数で迅速に移動するのを好んでいた。したがって、本能寺の変の時だけ少人数で宿泊したのではなく、『油断していたに違いない』という通説は誤り。

・秀吉の中国大返しは驚異的な速度ではない。当時の軍勢の進軍速度は街道を進む場合1日に40km程度であり、史料に残る秀吉勢の行程はその速度で無理なく進んでいる。

 6月6日の行程である沼から姫路まで(JR山陽本線で77.9km)は強行軍ではあるが、当日姫路に到着したのが秀吉以下騎馬勢のみであるとすればやはり無理が無く、その姫路で2日を費やして休息と情報収集、そして徒歩勢が追いつくのを待っている。

・山崎の合戦は、山城国を掌握した明智勢と高山右近・中川清秀ら摂津国衆との境目の争いという面があり、信長の弔い合戦のみではない。また、織田方の総大将は信孝であって秀吉ではない。

・四国説については、秀吉と三好家が変以前に接触していたという史料は未発見のため、光秀(長曽我部)と秀吉(三好)との争いかどうかはまだ分からない。そもそも対長曽我部政策の転換に関して、光秀と利三が信長を批判・非難した資料が無い――長曽我部元親が信長の心変わりを嘆き、再考を願う内容の書状はありますが――ため、状況証拠でしかない。


 といったところです。

 どれもなるほどと思わせる内容で、大変面白うございました。第1章よりはまだ読みやすいので、そこから読んでもいいかもしれません。

 そのうえでですが、思ったことを書きたいと思います。

 まず箇条書きの1つ目ですが、油断はあったと思います。『いつも大丈夫だから』という意味での慣れです。

 また、あれほど数多くの叛乱を起こされているのに、家臣の内偵をしていなかったのでしょうか。『ドリフターズ』の信長が「こちとら謀反は慣れとるんじゃ」って言ってましたが、そういう意味でも慣れからくる油断はあったのではないかと思いました。

 そして2つ目ですが、中国大返しはその進軍速度ではなく、(和議を結んだらとりあえず東方の情報を集めるために様子見、なんてしないで)城将清水宗治の切腹を見届けたら殿軍に後始末を任せてその日に東へダッシュした“速さ”を評価すべきなのだなと思いました。


-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-


 さて、実は一つ疑問が生じたことがあるのですが、それは次回にて。

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