芸術作品について
その作品に出会った途端、自分が生きている世界が一瞬にして変わってしまうような、、、。そんな作品に出会ったことはないだろうか。自分の価値観が生まれ変わり、新しい、高いもう一人の自分が自らの中にいるような感覚。作品を通してそんな経験をしたことはないだろうか。
出会ったその日が人生の中で特別な日になるような作品が、私にはある。
作品名を出すのは野暮だろう。出す必要がない。私にとってそう思った作品が、他の人にとってもそうとは限らないからである。むしろその可能性の方が高い。人がある作品について、とても強く、(例えば価値観が変えられてしまうぐらい)感動するときは、ごく個人的に、主観的に感動するのである。
芸術作品が1つの確かなメッセージを言葉として持つことは少ない。究極的に言えば、あるのは芸術作品そのものだけである。そして、それを受け手が解釈をする。
全く同じ人間などいないから、解釈は人それぞれだ。人それぞれ感動の仕方は違う。だからいくら世間が「いい作品」とはやし立てても、それが全ての受け手を深く感動のさせることなど不可能だ。逆に、埋もれている作品が、偶然それを見つけた、たった一人の受け手の心に深く刻まれるということもありえる。これは極端な例だが、作品により、人により、及ぼし、及ぼされる関係は多様であり、同じであることはあり得ない。
しかし、今、人々は作品の解釈を他人に委ねてはいないか。
世間に作品が溢れている。今や技術の進歩によって誰もが作り手になれる時代になった。大量に生み出される作品に、世間が対応しきれなくなっている。
そのせいか映画や音楽、書籍において「いい作品」となる条件とは、どれだけ多くの人に買われたか、どれだけ良い賞を取ったか、に重しを置かれてしまうのが現状だ。誰かも分からない他人に動かされて触れた作品による感動は決して深いものではないと思う。
そしてその流れは作り手側にも、影響を与えている。本当に作りたいものではなく、売れるもの、話題になるもの、流行っているものを作らなくてはいけないという圧力がかかる。そこには、芸術本来の自己表現の喜びはない。
欠けているのは、能動性である。
お金を出して楽しむのだから、評判のいい作品に触れたい心理はわかる。しかしそういった「いい作品」を見極めることよりも大切なのは出会った作品に対して自分なりに、解釈しようと考えることだ。自分がどんなもので感動し、どんなものを美しく、あるいは醜く感じるかを作品を通して考えることだ。
たとえ、その作品の他人による評価はどうであれ、自分の心のうちから出た感想は、本物である。そして、その能動的な態度こそが作品に対する正当な向き合い方なのだ。
作品がどれだけ売れたか、作者がどれだけ有名になったかの競争に果てはない。
作り手の方も、芸術を自己表現の1つと考え、作ること自体に喜びを見出すべきだろう。結果的に、そうして作られた作品はどれも1つ1つが、受け手にとって真摯に向き合うに足る、かけがえのない価値を持っている。
「世界はこんなにも美しい」
作品によって、新しい価値観を与えられたとき、その人の世界は大きく変わる。今まで気づくことのなかった美しさの輝きで世界は満たされる。
その価値観は自分の中に元々あるものではない。何もかもが違う、他者からの贈り物である。
誰にとっても、よい芸術作品など存在しない。そんなものを探すよりも、自ら積極的に様々な作品と出会い、考え、新しいことに気づいてゆきたい。そんなものを作ろうとするよりも、ありのままの自分を見つめ直し、自分が考えるもっとも素晴らしい形で表現する喜びを感じていたい。
作り手と受け手の双方の能動的な姿勢、それが本当の芸術の在り方だと思うのだ。
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