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第72話

 あのあとロノとどんな会話を交わしたのか、よく憶えていない。

 二人の元に戻ってきたイーニアスが、涙を流すシェリアを見て慌てたように声を掛けてくれたはずだが、その内容も曖昧だ。


 遠くで眠るシェリアスティーナのために、今の自分がいる。

 だけど自分は人形じゃない。それならば、自分のためだけに動くことがあってもいいのではないだろうか。


 ロノは、いい、と言ってくれた。シェリアの背中を押してくれた。

 それでも一歩を踏み出せずにいる。

 シェリアは部屋へ戻る道すがら、ずっとそのことを考えていたのだった。



「シェリアスティーナ様、難しいお顔をなさって、どうされたんですか?」

 自室に戻ったシェリアを迎え、お茶の準備をしていたナシャは、手を休めることなくそう声をかけてきた。同じくカップにお茶を注いでいたカーリンも、口は挟まず視線だけを寄こす。

「うーん、ちょっと色々、考えてて……」

 そう答えたシェリアは、ソファの上でクッションを抱いて丸まっている。身体を傾けた拍子にどさりと仰向けに倒れこんだが、起き上がる気にはなれない。

 普段はソファで寝転がるようなことをしないシェリアだ。らしくもないその様子に、ナシャとカーリンはますます辟易したようだった。それでもシェリアはあえて口を開くことはせず、黙ったままむっつりと天井を見つめる。


「あの、もし私でよろしければ、なんでもお伺いしますので」

 遠慮がちな声とともに、ナシャがローテーブルにクロスを掛けた。

「ありがと、……」

 ふとナシャの動きを目で追いかけていたシェリアは、その白い手が少し荒れてかさついているのに気がついた。一般民としては珍しくもない、年頃の娘として相応の手だ。ユーナだった頃の自分も、今のナシャと同じような手をしていた。実家で食器洗いや洗濯を手伝っていたし、薬を扱っていたこともあって、しょっちゅう手を洗っていたあの頃。その当時のことを思えば、今のシェリアスティーナのするりとした傷一つない手が逆に違和感を覚えさせる。

 孤児院にいたころから、院長の歪んだ愛情に守られて、シェリアスティーナはなにをするでもなく過ごしていたのだろうか。


「ナシャの手って……」

「はい」

「ん、なんか、いいよね」

「……はい?」

 ちょうどお茶の準備を終えたナシャは、あっけにとられた様子で目をしばたいた。

 シェリアはのそりと起き上がり、入れてもらったお茶に口をつける。

「ね、ナシャって、今付き合ってる人いるの?」

「はっ?」

 立て続けに理解不能な言葉をかけられたからだろう、ナシャは素っ頓狂な声を上げた。

「将来一緒になる予定の人がいるとか」

「え、いえ、あの。い、いません……けど」

「気になる人はいたりする?」

「え、それは、その……」

 言葉を詰まらせ、ほんのりと頬を染める。

「――ど、どうされたんですか、急に!」

 案外ナシャのガードは堅いらしい。しかし考えてみれば、長く一緒にいてこんな話をするのは初めてだ。そう思うとシェリアは少しおかしくなった。

「なんとなくね、ナシャはどうなのかなあって思って」

 笑いながら答えると、ナシャは頬を染めたまま少し拗ねたようなそぶりを見せる。

「私のことなんてお聞きになっても、なにも面白いお話は出てきませんよ。シェリアスティーナ様とアシュート様みたいに、物語のような恋愛ができれば素敵ですけど」

「私と、アシュートかあ」

 シェリアは噛みしめるように呟いた。

 その表情が一瞬曇ってしまったからだろうか、ナシャは探るような目でシェリアの様子をじっと窺ってくる。

「……アシュート様と、うまく、いってらっしゃるんですよね?」

 遠慮がちだけれど決定的なその問いに、答える術が見つからない。言葉に詰まったシェリアは、曖昧に微笑むだけにとどめておいた。けれど、もう少し話を続けてみたいという気持ちもゆるりと頭をもたげてくる。


「これは、私とアシュートの話じゃないんだけど」

「はい」

「例えば、絶対に結ばれないって分かってる人を好きになっちゃったときって、どうするのが正しいのかな」

「絶対に……結ばれない人、ですか」

「うん、絶対に。でも、相手も自分のことを大切に思ってくれてるとしたら。自分の気持ちは告げるべきかな、それともなにも伝えない方がいいのかな」

 ナシャは困ったように首を少し傾げた。

「ええと……、どうして絶対結ばれないんですか?」

「うーん、相手には別の婚約者がいるから、かな?」

 シェリアの曖昧な返答にますます困惑した様子のナシャは、それでも自分なりの答えを見つけ出そうとするように、わずかに俯いた。

「そうですねえ……。私だったら、自分の気持ちを伝える、と思います。相手も自分のことを好きでいてくれてるなら、ちゃんと気持ちを伝えて、これからどうするべきか二人で話し合うのがいいんじゃないでしょうか」

「そっかぁ」

 一人で悩まずに、二人で未来を開いて行く。それは確かに理想的な形かもしれない。

「じゃあ、絶対に結ばれない理由が、……もうすぐ自分が死んでしまうからだとしたら?」

「ええっ」

 ナシャは一気に悲壮な顔つきに変わった。

「そんな、どうして死んでしまうんですか!」

「え、うーん、不治の病にかかっている、とか」

「そんなのってひどいです!」

 ナシャの目にじんわりと涙が浮かぶのを見て、シェリアは慌てて両手を振る。

「ごめんごめん、これ、ただのたとえ話だから。そんなに真剣に考えないで」

「本当ですか? そういうお知り合いがいらっしゃるんじゃないですか?」

「ううん、違うの。ごめんね、変な話して」

 苦笑いを浮かべてもう一度カップに口をつけたシェリアは、少し離れたところで様子を見守っていたカーリンが、自分に真剣なまなざしを向けていることに気がついた。その真っ直ぐな瞳に吸い込まれるような心地になって、思わずシェリアはカーリンに問いかける。


「……カーリンさんだったら、どうする?」

 カーリンは一度ゆっくりと瞬きをして、それからから静かに口を開いた。

「私がその立場に置かれたなら、きっと相手になにも告げないでしょう」

 落ち着いた深い声。すとんとシェリアの胸に落ちてくる。

「ですから、想いを秘めたまま去ろうという気持ちはよく分かります。……それでも」

 カーリンは握りしめていた両手にぐっと力を入れた。

「その方には、きちんと想いを告げてほしい。どちらにせよ、二人がなにかを失ってしまうのなら、絶対に失ってはいけないものを守ってほしい。私は、そう思います」

 シェリアは手の中のカップに視線を落とした。

 ゆらりとお茶が波打った。



 どうしてだろう。

 今日は何度もおかしな時間に眠気が襲ってくる。

 一人になったとき、ほうっと息をついたとき。その一瞬前まではなんともなかったはずなのに、気づけば意識が揺らめいている。

 どうしてなのか、なんて。

 考えたくない……。

 本当は考えたくない。物分かりのいいふりをしたって、覚悟を決めようとしたって、本当はいつでも逃げ出したい。

 それでも……。


 泣いているシェーラの背中が見える。

 一人きり、泣いている。

 まだ、今でも、たった一人でいるなんて。

 ごめん、ごめんね。手が届かない。どんなに伸ばしても、届かない。


 真っ白な空間の中、存在するのはシェーラとシェリアの二人だけだ。ああ、なんという孤独だろうか。

 膝を抱えるシェーラは、以前夢の中でそうしていたときよりもいくらか大人びているようだった。今のシェリアと変わらないほどの姿かたち。変わらない――そう、きっと、まったく同じ。

 届かないと分かっていても、手を伸ばす。

 声をかけようとして、喉から掠れた音さえ出ない自分に気づき、また絶望する。

 ごめんね、一人にしてごめんね。


「一人じゃ、ないわよ」


 不意に後ろから声をかけられ、シェリアは呪縛が解けたようにはっと振り返った。

 他に誰もいないと思われたこの空間に、ずいぶんと懐かしい姿がある。


「だって、アンタがいるじゃない?」

 にっこりと微笑んだ「彼女」は、変わらず天使そのものの美しさで――。


「あ、あなたは」

「久しぶりね、ユーナ」


 天使アンジェリカ。全ての始まりをもたらした、神の使い。


 馬車に轢かれ死んだはずのユーナを白の世界へ運び、シェリアスティーナとして束の間の生を与えた存在。ユーナを「シェリア」に変えた存在。

 優しく波打つ金の髪を揺らしながら、白いワンピースをまとった天使はゆっくりとシェリアの元へ歩み寄ってくる。

 これは夢の続きだろうか。それとも現実? 彼女は今、確かに自分の前にいるのだろうか。

 いや、きっと、夢であり、シェリアにとっては現実でもあるのだ。

 ついに時が巡って来たのか――。


「ユーナ……いえ、今のアンタのことは『シェリア』と呼ぶべきかしら。だってあの頃のアンタとは全然違うんだもの――なにもかもが、ね」


 あまりに突然の天使の出現に、シェリアは固まったまま動くことができなかった。

「いい顔になった。色んなことを経験してきたのね。ずっと見守ってたのよ、アンタのこと」

「……」

「ねえ、ちょっと」

 アンジェリカはむっとした表情で両手を腰にあてた。

「いつまでもぼうっとしてないでよ。まるで死神にでも遭遇したような顔しちゃって。私はありがたーい天使様なんだから」

「……もう……」

 時間が、来てしまった。

 しかしアンジェリカはゆっくりとかぶりを振って、声にならないシェリアの問いを打ち消す。


「まだよ。アンタには、まだ成すべきことが残ってる。……でしょ?」

「で、でも。それなら、どうして」

「私がアンタの前に現れたかって?」

 アンジェリカは意味深い笑みを一層深めた。シェリアは未だ混乱から抜けきれないまま、魅惑のその微笑みを呆然と見つめる。

「アンタにはもう少しだけ時間があるわ。でも、『終わり』が迫っているのも確か。だからね、悔いのないようにやっときなさいっていう、ありがたいお告げをしに来たわけ」

 終りが、迫っている。シェリアは改めて戦慄を覚えた。

「それと、ちょっとしたご褒美をあげてもいいかなって」

「ご褒美?」

「そう」

 アンジェリカの白い羽が小さく揺れる。すると、真っ白だった空間が「滲み」始め、様々な色が混ざり出した。ぼんやりと輪郭を現したのは、広い野原。それがしっかりと形作られる前に、また別の色が混ざる。今度は町の風景。その次は星月に照らされた川面。今では見慣れた王宮……。

 しかし結局、どれもぼやけたまま次の景色へと変わっていった。


「アンタに『ユーナ』としての時間を、少しだけあげる」

 めくるめくような景色の変化の中、アンジェリカは静かに告げる。

「これは私からのお礼よ。これまでアンタは一生懸命頑張ってくれたからね。今から少しの間だけ、ユーナとして過ごしていいわ」

「そ、んな、こと」

「必要ない? でもせっかくだから、会いたい人に会いに行ったらどうかしら。たとえば、アンタの家族に会いに行ってもいい。恋人がいたならその彼でもいいし。……『ユーナ』として会っておきたい誰かがいるのなら、どんなところでも連れて行ってあげるわよ」


 ユーナとして会っておきたい人……そう言われてすぐに頭に浮かんだのは、アシュートの姿だった。彼に、ユーナとして会いに行って、この想いを告げてもいいのだろうか。自分は本当はユーナという名の少女だと。そして、アシュートのことが好きなのだと。


 ユーナとしてならば、きちんと別れも告げられる。

 しかし同時に、別れたままの家族の姿も思い浮かんだ。

 いつも優しく大らかだった父と母。自分が突然この世から消えてしまって、どれほど悲しんだことだろう。亡霊だと思われてもなんでもいい。もう一度、ユーナとして会いに行くことができるのなら。ありがとうという言葉と、ごめんねという言葉と。その二言だけでも伝えられるのなら――。


「どれくらいの時間、もらえるんですか?」

「あまり長くないわね。私の力が続く程度……今が日暮れの時だから、王宮の夕食が始まるくらいかしら。色んなところに回りたいと思っても、残念ながらそれは無理ね」

「……」

 欲張ることはできない。どうしても、今、一番会わなければいけない人は誰か。

 シェリアはしばらく押し黙ったのち、改めてアンジェリカに向き直った。

「……どんな人のところにも、連れて行ってくれるんですね」

「ええ、いいわ」


「それなら、お願いしたい人がいます」

 シェリアは芯の通った声で、そう告げた。

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