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第70話

「ジークレスト様、あんまりいじめないであげてくださいな」

 ミズレーが助け船を出してくれるが、ジークレストはまだ引く気がないらしい。


「でも重要なことだろ。当人同士の問題だって言われりゃそれまでだけど、この二人じゃ全然話が進まねえ。俺から見てりゃ、シェリアだって悪い気はしてないように思うんだがな。なにがお前をそんなにためらわせるんだ?」

「……」

「俺はアシュートがガキの頃からよく知ってる。あいつはこれまで、なにかをねだるってことをほとんどしないまま大人になっちまった。俺はずーーっとそれが気に入らなかったんだ。だからお前のおかげでアシュートが変わり始めてることが、俺は嬉しい。うまくいってほしいって思ってるんだよ。なあ、シェリア」

 ジークレストの言葉が胸に刺さる。それでも説明しようのないこの状況に、シェリアはただうつむくしかできなかった。


 自分の想いをまっすぐアシュートに伝えることができたらどんなにいいだろう。ただ、伝えるだけでも構わない。たとえその先に二人で歩む未来が続いていなくても。想いを、伝えることさえ、叶うのなら――。

 しかし今のこの身は自分自身のものではない。

 ――ああ、一体何度同じ苦しみの渦に溺れたことだろう。どれだけ悩んでも辿り着く答えは同じだと分かっているのに、どうしても気持ちを抑えられない。分かっているのに、それでも自分は。

 お茶のカップを握りしめる自分の指先が熱を持ち始める。じんじんと鈍く痺れる指先は、そのままシェリアの心を反映しているかのようだった。熱を持った想いが、溢れ出しそうになりながらも抑え込まれ、麻痺しかけている。


「私は逆に、シェリアスティーナ様のお気持ちが少し分かる気がします」

 うつむいたシェリアを気遣うように目を細めたミズレーが、控えめながらも口を挟んだ。

「もちろん問題の本質は私には分かりませんが、想う人からの想いを受け入れられないという苦しみなら」

「へえ、経験済みって?」

 ミズレーは苦笑を浮かべてジークレストに頷き返す。

「私、十七歳の時に結婚したんです。ちょっと早い嫁入りでしたけど、ありがたいことに、好きでしょうがなかった相手と」

 昔を懐かしむように視線を落とすミズレーの言葉に、シェリアはじっと耳を傾けた。

「とても幸せでした。大好きな人と想いが通じ合うということが奇跡のように感じられて。毎日とても楽しかったんです」

 でも、とミズレーは顔を上げた。

「結婚生活を続けるうちに、一つ気がかりな問題が持ち上がりました。……子供が、できなかったんです。結婚したはじめから、私たち夫婦はいつか授かるはずの赤ちゃんについてあれこれ話をしていました。でも、駄目で。焦るうちに月日は流れ、あっという間に十年が経ってしまった」

 シェリアは知らず息を呑んだ。

「子供を産むのが嫁の仕事と言われる町で育ってきました。だから私、夫やそのご両親に申し訳なくて申し訳なくて。でもみんなはとても優しかった。それが逆につらくもあったんですけどね。耐えきれなくて、私は夫に離縁を申し込んだんです」

「ええっ」

「夫は本当に優しい人だったから、離縁を受け入れようとしませんでした。この家庭で子供を授かりたかったんだ、君が隣にいないなら子供もいらない、って」

「……めちゃくちゃいい旦那じゃねえか」

「でしょう? その言葉に私もどれだけ救われたことか。でも私も譲れませんでした。私と別れて新しい奥さんとの間に子供ができる可能性があるのなら、絶対にその方がいいと思ったんです。私は頑なでした。もちろん夫のことはその時点でも愛していましたし、本当に本当につらかった。自分がなんのために夫の想いを拒んでいるのか、だんだん訳が分からなくなってきて」

 女心は複雑なものですよね、とミズレーはシェリアに微笑んだ。

「すぐ側に自分を支えようと手を差し伸べてくれる人がいても、自分の心に負けちゃいけないと頑張ってしまう。それがきっと相手のためにもなるはずだからって言い聞かせて。でも、完全に切り捨てることはできなくて苦しいの」

「……それで、結局旦那さんとは?」

 シェリアは恐る恐る先を促した。

「ええ、離縁しました」

「そんな!」

「その時の夫の言葉がずっと忘れられませんでしたよ。『君は間違ってる。世界中のみんなが君の決断は正しかったと言っても、僕は絶対君が間違っていると断言できる』って」

「……」

 シェリアは 二の句を告げることができなかった。

「それで話は終わっちまうのか?」

 代わって尋ねたジークレストに、ミズレーはゆっくり首を横に振る。

「ご想像通り、まだ続きがあるんです。夫と離縁してから、私はずっと独り身を貫いてきました。貫いたというか、子供ができず離縁した女が再婚できるような土地柄ではなかったんですが。一方で、私の夫……別れた元夫ですけど、彼も新しい伴侶を見つけなかった。きっと私に気を使っているんだろうと、住み慣れた町を出て離れて暮らしてみたりもしましたが、それでもやっぱり彼も独り。気がつけばお互い独り身のまま、また十年過ぎてしまったんです」

 ミズレーは時々くすりと笑いながら言葉を繋いだ。その穏やかな彼女の様子に、自然とシェリアの緊張も解けていく。

「十年目の春、どこで聞きつけたのか、私の独り暮らしの家まで彼がやって来て、もう一度プロポーズしてくれたんですよ。結婚しよう、って、なんだかそれを聞いたら身体中の力が抜けてしまって。十年経ってやっと私自身納得することができたんです」

「じゃあ、今は」

「第二の結婚生活、八年目。幸せですよ」

「――素敵!」

 ミズレーにそんな過去があっただなんて。いつも穏やかに見える彼女だが、深く傷つき、悩み、苦しんだ時期を過ごしてきたのだ――ちょうど今のシェリア自身のように。

「なんだよ、結局ただのノロケかよ」

 ジークレストはやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

「おいシェリア、アシュートのやつも十年なら絶対待つぜぇ。分かり切ってんだから、ホントに待たせてないでさっさと受け入れてやれって」

「それは……」

「また別問題なんですよ、ジークレスト様」

 シェリアのあとを引き継いでミズレーがぴしゃりとはねつけた。それからシェリアの方に向き直り、にっこりと笑ってみせる。

「でも、こんなこともあるんだってくらいに思っていただければ嬉しいです。ねえ、なにがどうなるのか分からない世の中ですもの」

 なにがどうなるか分からない――きっと、自分の気持ち一つで続く未来はがらりと変わる。しかしシェリアには、どうするのが一番いいのかまだ見えてはこないのだった。



 シェーラ、シェーラ、どうしたの?

 幼いシェーラが一人膝を抱えて泣いている。流れる金の髪が、今はその表情を隠してしまっていた。

 鼻をすする音が頼りなげに響く。すん、すん、すん。

 ああ、シェーラ。今もたった一人きりで泣いているんだね。

 どんなにあなたの側に近づいたと思っても、どうしても触れることが叶わない。

 その小さな肩を抱いて、もう大丈夫と囁いてあげることもできない。

 たった一人で、かわいそうなシェーラ。



 まどろんでいたシェリアは、唐突に意識が現実に引き戻され、はっと顔を上げた。

 自室のソファに沈んでいた身体がとても重く感じられる。膝元に読みかけの本が広げられたままになっていた。本を閉じ視線を窓の外へ向けると、夕暮れの近い日差しが真っ直ぐシェリアを照りつけていた。

 医療室でミズレーやジークレストとお茶をしたあとは、そのまま自室に戻ってきた。とりとめもなく考え事をしながら本をめくっているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。


(……シェーラの夢を見るなんて)


 ミズレーたちに励まされたのもつかの間、すっかり気分は落ち込んでしまった。救いを求めているシェリアスティーナをそのままに、自分だけが前へ進もうとするなんて許されるはずがない――。


(また堂々めぐりになっちゃう。もう、どうすればいいのか本当に分からないよ)

 そのままソファに腰かけていると「なにか」に呑み込まれてしまいそうで、シェリアはその「なにか」を振り払うように立ち上がった。風を求めてバルコニーの扉を開ける。目の前には冬を前にずいぶん色の少なくなった花畑が、それでも変わらず広がっていた。


(ロノさんだ……)

 無意識に求めていた人の背中が、シェリアの目に飛び込んでくる。いつもあの花畑で草いじりをしているロノ。シェリアの話を聞き、欲しい言葉をくれる人。

 今日は遠目で見ても、いつもより小奇麗な格好をしているのが分かった。園芸の道具も側には見当たらない。彼はただ真っ直ぐ立って、花畑を眺めていた。一人きり、背筋をぴんと伸ばして。


 彼に会いに行かなくては。

 唐突にシェリアはそう思った。

 聞いてほしい言葉がある。授けてほしい言葉がある。でもそれ以上に、今彼と話をしなければならないと思う。そんな不思議な使命感が、シェリアの背中を突き動かした。



「そんなに急がれなくてもいいのでは?」

 護衛に呼んだイーニアスが、慌てた様子でシェリアのあとを追いかけてくる。

 突然花畑に行きたいとシェリアが告げたとき、イーニアスは一瞬虚を突かれたように言葉を詰まらせた。が、シェリアの気分転換になるのならと割り切ったのだろう、すぐに頷き護衛を引き受けてくれたのだ。

 シェリアは了承を得てそのまま部屋を出ると、足早に花畑へ向かった。足早に――いや、ほとんど走っていたと言ってもいい。どうやらシェリアがただ散り際の花々を見納めたいわけではないらしいと気づいたイーニアスが驚くのも無理のない話だ。


「シェリアスティーナ様、一体どうされたんですか?」

 廊下を急ぐシェリアの背中に、たまらずというように問いが投げかけられる。

「ちょっと、会いたい人がいて」

 振り向きもせず曖昧に答えると、イーニアスからは一瞬の沈黙が返された。

「……それは、以前も花畑で会っていた、あの?」

「ああ、うん、そうだね」

 またしても沈黙。さすがにその意味が気になって振り返ったシェリアに、イーニアスは鋭い視線を投げかけた。

「……でしたら、俺にもちょうどいい機会になりそうです。以前遠目で見たときから気になっていたので――あの男性が何者なのか」

「怪しい人じゃない、と、思うけど」

「ええ。そうではなく、もし見間違いではなかったのなら」

 イーニアスはそこで言葉を止めた。ちょうど建物を出て、花畑が視界に入るところまで来ていたからだ。

 目当ての人影はすぐに見つかった。シェリアが会いに来たとき、ロノは必ずここにいてくれる。


 ゆっくりと振り返ったロノは、深い微笑みをたたえていた。

 いつもと同じ――そのはずなのに、どこかいつもとは違うそれ。思わずシェリアの足が止まる。

 立ち止まったシェリアを迎えるように、代わってロノがこちらへ歩み寄ってきた。同じく隣で立ちつくしていたイーニアスが、はっと小さく息を呑む。その音につられてシェリアが顔を上げると、イーニアスは驚愕の表情を浮かべながら、ロノに視線を強く縫い止めていた。

「イーニアス……?」

 恐る恐る声を掛けてみるが、返事はない。


「まさかとは思いましたが」

 代わりにイーニアスは呆然と呟く。


「なぜ貴方様がこのようなところに――ロンバルノ国王」


 その言葉を受けたロノは、浮かべていた笑みを一層深いものにした。

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