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第68話

 祝福の間に辿り着くと、そこは完全な沈黙に包まれていた。


 点在するろうそくの炎が部屋をか細く照らし出す。その炎が小さく揺れる様を見つめていると、ふわりと自分の意識が飛んで行くような心地になった。

 ――ああそうか、自分は疲れているのだ、とシェリアは思う。このまま横たわって眠ってしまいたいような気分だ。


「こちらに侍女のナシャが用意した服がありますので、すぐに着替えてください。間もなくアシュート様が迎えに見えるはずですので」

「うん、分かった」

 ネイサンから衣装を受け取ったシェリアは、肌触りのいい布地に思わず顔をうずめた。ほう、と深く息をつく。

「それでは私は失礼します。今日はお疲れ様でした」

「あ、本当に、色々とどうもありがとう。すごく助かったよ」

 慌てて顔を上げて礼を述べたシェリアに、ネイサンは小さく頷き返しただけだった。暗がりの中では彼の表情がよく見えなかったが、見えていたとしても、彼の考えていることはやはりよく分からなかったかもしれない。



 一人きりになったシェリアは、言われたとおり渡された衣装に袖を通した。着替えはすぐに済んで、なんとなく手持無沙汰になる。まだアシュートがやってくる気配は感じられないので、シェリアはその場に腰をおろして膝を抱えた。目を閉じると、静かだと思っていた部屋の中にもかすかに虫の音が聞こえてくるのに気づく。


 ――今日は、本当に色々なことが起こった一日だった。


 人目を盗んで王宮を抜け出し、シェリアスティーナの過去を知り、育ての親たちに対面し。色々なことが起こり過ぎて、全てをうまく受け止めきれない。考えることも感じることも諦めたのか、今のシェリアの心の中は場違いなほどに凪いで落ち着いていた。


(早く、戻ってこなくちゃね)

 シェリアスティーナにそっと語りかけてみる。

 彼女にしか向き合うことのできない人々がいる。過去がある。そして、未来がある。

 もし彼女が戻ってくることを望んでいなかったとしても、もう逃げたりしないでほしい。私では代わりになることができないから――。


 その時ふと、自分の頬になにかが伝うのを微かに感じた。驚いて右手を添えると、頬が涙に濡れているのに気づく。自分が泣いているのだと分かって、シェリアはひどくうろたえた。どうして、どうして私は。

 しかし自問する時間はほとんどなかった。すぐに扉をノックする音が続いたからだ。きっとアシュートが来たのだろうと思い、シェリアは慌てて涙をぬぐった。


「はい、どうぞ」

 立ち上がりながら声をかけると、間もなく扉は開かれた。扉の向こうには、思ったとおりアシュートがいる。彼の後ろには侍女が数名続いていた。

「シェリアスティーナ様、お疲れ様でした」

 アシュートの穏やかな声に、再び涙腺が緩んでしまうのを感じる。しかし涙はどうにかこらえ、シェリアは唇を噛んで小さく頷いた。この暗がりだ、頬に残る涙の痕にはきっと気づかれないだろう。気づかれないと、そう願いたい。


 差し出された手に自分の手を重ねると、アシュートの温もりがじんわりと伝わってきた。促されるままに歩きだしたシェリアは、突如湧き起こった感情の波を抑えるのに精一杯だった。今少しでも口を開けば、どんな言葉が飛びだしてしまうか分からない。

 建物を後にすると、自然と繋がれた手は離れていった。じっとアシュートの手を見つめ、大きな手だなと、シェリアはぼんやり思ったのだった。



 自室に戻る前に、ライナスの部屋へ寄らせてもらった。

 身体は真っ直ぐ部屋に戻ってベッドへ沈み込むことを望んでいたが、やはりライナスには今日のうちに会っておきたい。彼もきっとシェリアが戻るのを待っていることだろう。

 部屋の前に立ち、ノックをする直前、不意にためらいが生まれる。――今日のことを報告したら、ライナスはどんな言葉を返すだろうか。


「ライナス、まだ起きてる?」

 考えても仕方がない。ためらいを振り切るようにシェリアは声をかけた。

「ああ、どうぞ」

 いつものように落ち着き払った返事を受けて、シェリアはゆっくり扉を開けた。ライナスは掛けていたソファから立ち上がり、シェリアを迎え入れてくれる。

「お帰り、随分遅くなったんだね」

「ごめんなさい。本当に色々なことがあったから……」

 ライナスこそ遅くまで起きていて平気なのか、そんな問いが喉元まで出かかったが、病人扱いをするのも失礼だろうと口を閉ざした。

「どうだった? 望む答えは見つかったのかい」

「……そうだね、うん。シェリアスティーナのこと、色々知ることができたよ」

 シェリアは促されてソファに腰かける。

「孤児院の院長をやってるカズロさんっていう人がね、昔シェリアスティーナと一緒に生活してたらしいんだ。それでたくさん話を聞かせてくれた。すごく、素敵な人だったよ」

 シェリアは自らの右手を広げ、白い手のひらに視線を落とした。カズロと握手を交わした時の、彼女の手の温かさがよみがえる。

「ちゃんとシェリアスティーナと再会してほしいと思った。シェリアスティーナ自身の声を、カズロさんに届けてほしい。カズロさんもきちんと受け止めてくれるって約束してくれたし」

 カズロのことだけではない。シェリアスティーナが向き合うべきものはたくさんあった。変わらぬ孤児院の佇まい、子供たちの笑い声、裏庭に今も咲くティカスラの花――。

 なによりも、元院長のダンキスと本当の意味で向き合えるのは彼女だけだ。


「本当に色んなことがありすぎて、話しきれないよ。だから、ねえライナス。シェリアスティーナが戻ってきたら、ライナスにもちゃんと受け止めてあげてほしいんだ。私が今ここでどれだけ時間をかけて説明しても、きっと意味がないんだよ」

「やっぱり君はシェリアの代わりになれないと言うんだな」

「……そうだね」

 ライナスは口をつぐむと、部屋の窓へと歩み寄り、目を細めて夜空を見上げた。

「君がシェリアスティーナに代わって先の人生を歩む道もあると、私が言ったのは」

 ライナスの横顔はどこまでも穏やかだった。

「シェリアスティーナを見捨ててしまおうと思ったからではないのだよ。私はきっと、なにがあってもあの子を見捨てはしないだろう」

 月の光を反射しているからだろうか、彼の瞳が強く輝いているように見える。

「孤児院にいた『過去』になにがあったのか、私は知らない。それでもこの王宮で過ごした間、私たちはたくさんのものを共有してきたからね。あの子がもうこの世に戻りたくないと本気で思うのなら、眠らせてあげたいと思う。でも、もしもう一度やり直したいと思うのなら、周りがどれだけ辛く当たろうとあの子を支えてやるつもりだ。――そのために君という存在が邪魔になるのなら、私は無慈悲に君を排除するだろう」

 シェリアは瞬きをするのも忘れてライナスの横顔を見つめ続けた。


「私はね、最後に君を試したんだ」

 そこでやっとライナスはシェリアに向き直り、にこりと微笑んでみせた。


「シェリアスティーナに代わって生きていけばいいと提案した時、君がどんな反応を見せるのか――試したんだよ。初めからなり代わるつもりだったのか、それとも今まさに迷っているのか、はたまた絶対にそのつもりがないのか」

「私は」

「うん、分かっているよ。――分かってる。君は、本当に不思議な子だね」

 くすり、とライナスが笑う。毒気のまるでない笑顔だった。

「君は自分の思う通りに進めばいい。私は君を止めるつもりはないし、邪魔をするつもりもない。ただここでこうして、シェリアスティーナの帰りを待ち続けよう。あの子を見捨てたりはしないよ、絶対に。この先にどんな未来が続いているのかは、分からないけれどね」

 シェリアは黙って頷いた。シェリアスティーナを待っていてくれる人がいる、それだけでシェリア自身が勇気づけられる気がした。これまで何度もライナスのところを訪れたけれど、やっとこの言葉を聞くことができた。そう、自分はこの言葉が欲しかったのだ。シェリアは目を閉じてしっかりとライナスの言葉を胸に刻みつけた。



「もうお話はいいのですか?」

 ライナスの部屋を出ると、外の廊下ではアシュートが一人で待ってくれていた。壁に寄り掛かっていた背中を起こし、シェリアの方へ歩み寄ってくる。

「うん、ありがとう」

「随分早かったですね」

「ただいま、っていう挨拶くらいだったしね。それに、一番聞きたかった言葉を聞けたから」

「一番聞きたかった言葉?」

「うん」

 アシュートは具体的にどんな言葉か知りたがっている様子だったが、シェリアはあえて口にしなかった。

「それに夜も遅くなっちゃったし、私たちももう帰ってゆっくり休もうか」

「……そうですね。でも、一つだけ」

「ん?」

「王宮までの帰り道、イーニアスとなにがあったのですか」

 ぴく、とシェリアの肩が動いてしまった。それを見逃すアシュートではない。

「えーと、別に大したことは、なにも……。そういえば予定外だったんだよね、イーニアスが迎えに来てくれたのって。でも王宮に着いたらすぐネイサンが来てくれて、その後はちゃんと」

「今夜だけは、とイーニアスは言っていましたね。そうまで言うならば、なにもないはずがないでしょう」

 はぐらかそうとするシェリアの言葉を遮って、アシュートは強い調子で断言した。

「それは……」

「それは?」

「本当に、ちょっと話をしたくらいで」

「私には関係がないですか?」

「いや……」

 もちろん無関係だなんて思っていない。しかし、アシュートのことも合わせて、きちんとシェリアなりにイーニアスと話ができたと感じている。ここでイーニアスとのやり取りを、本人不在のままぺらぺらと話してしまうのは少し気が引けた。

「あなたが言いたくなくても、私は聞きたい」

 アシュートはシェリアの行く手を遮るように立ちはだかる。

「こんな風に聞き出そうとするなど愚かだと分かっています。でも、私には余裕がない。あなたがなにを考えているのか分からないから」

 こうしましょう、とアシュートは言った。

「私が勝手に想像したことを口にしてみます。間違っていたのなら、違うと言ってください。それだけでいい。あなたはなにも語らなくても結構ですから」

「えっと」

「イーニアスは、あなたにはっきり想いを告げたのでしょう」

 シェリアが止める間もなく、いきなり核心を突いてきた。

「……」

「あなたのことが、好きだと」

「……」

 シェリアは居心地の悪さに思わず目を逸らした。それでもアシュートは見逃してはくれない。

「あなたはきっと礼などを言ったでしょうね」

「……」

「そして、礼を言いながらも想いは受け入れられないと答えた」

 もしかしてどこからか見ていたのでは、と問いかけたくなる。

「イーニアスはそれでも引かなかったのではないですか。あなたのことは諦めないと、そう宣言したのでは?」

「……」

「先ほどから一言も否定の言葉が入りませんが、間違っていないということでいいのでしょうか」

「……うん」

 それだけ言うのがやっとだった。こうまで全てを見透かされていては、誤魔化すにも誤魔化しようがない。それに、たとえ誤魔化してみたところでまるで無意味に違いなかった。


「もし、その場にいたのがイーニアスではなく私だったら」

「え?」

「あなたはどんな言葉を返してくれたのでしょうね」

 アシュートはふいと顔を逸らして廊下を歩きだした。慌ててシェリアも後を追う。

「イーニアスには、互いの立場を理由に断ることができたでしょう。しかし私は? 立場だけで言うのなら、あなたを手に入れられるところに私はいます。しかし……」


「アシュート」

 思わずシェリアは声を上げていた。


「私、自分の立場を理由にしてイーニアスのこと断ったりなんかしてないよ。ちゃんと自分の気持ちを伝えたよ」

 アシュートは再び足を止めて振り返った。シェリアも足を止めたが、アシュートの顔をきちんと見ることができなかった。

「あなたの、気持ち、とは?」

「ごめん、やっぱりなんでもない。もう部屋に戻ろう」

 馬鹿なことを口走ってしまった、と思った。ユーナとしてアシュートに向き合うことなど許されないのだから、初めからなにも言うべきではなかったのだ。感情のままに告げた言葉を後悔しながら、シェリアはアシュートの横を通り過ぎようとした――が、その拍子に右腕を取られてしまう。


「あなたはいつもそうしてうやむやにしようとする。どうすればあなたの気持ちを聞かせてもらえますか? 私の気持ちをはっきり告げることすら許されないんだ、私はそれをどう受け止めれば――」

「アシュート、お願い、それ以上は」

「嫌です。もうこれ以上うやむやにしていたくない」

「お願いだから!」

 つい声を荒げると、アシュートは掴んでいた手を離して立ちつくした。


「ごめん、本当にごめん。でも駄目なんだ、まだ考えなくちゃいけないことがたくさんあって」

「考えなければならないこと? なんですか、それは」

「例えば、ミリファーレさんのこととか。……知ってるよ、また反聖女派と大きな衝突があったんでしょう? このままじゃミリファーレさんのこと、手遅れになっちゃうよ。そんなの絶対にだめ。手遅れになる前に、どうにかしなくちゃ」

「その件と私たちのことと、どんな関係があるんですか。全く別の問題でしょう」

「別じゃない!」

「ミリファーレが反聖女派に取り込まれたのは自分のせいだから、片がつくまでは、と言いたいのですか? ……違うでしょう、それは単なる誤魔化しだ。あなたはもっと別な問題を抱えている。そして、それを私に打ち明けてくれるつもりはない」

「――っ」

 シェリアは身体を強張らせた。アシュートの暗い瞳はユーナのその様子を一瞥したが、すぐに逸らしてしまう。

 なにか言わなくては、と焦る気持ちがシェリアを急き立てた。しかし言葉は見つからない。


「……もう夜も遅い、あなたの言うとおり、部屋に戻って休みましょう」


 アシュートの声は明らかに苛立ちを含んでいた。

 彼は今、本気で怒っているのだろう。考えてみれば、こんな風に怒りをぶつけられるのは初めてのことだった。聖女や騎士、過去のしがらみなどは関係なく、ただ“アシュートとして”シェリアに怒っている。

 それでもシェリアにはどうすればいいのか分からなかった。この想いを伝える資格があるとはどうしても思えない。アシュートを傷つけてしまったことが辛かったが、今のシェリアには黙って背の高い彼の背中を追いかけることしかできなかった。

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