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第62話

 待っている時間は、そう長いものではなかった。

 シェリアたちを残して閉じた館の扉が沈黙を保っていたのはわずかな間で、いかにも腰の重そうなその扉は、いくらもしないうちに再び鈍い音を立てて開かれた。


 その隙間から顔を覗かせたのは、どこかやつれた風貌の、白髪交じりの女性である。

 恐々とこちらの様子を伺っていた女性は、シェリアの姿を認めると、眼鏡の奥の瞳を目一杯見開いて息を呑んだ。彼女の周りだけ時が止まってしまったかのように凍り付いたが、次の瞬間、弾かれたようにシェリアの方へと駆け寄ってくる。


「ああ、ああ……、シェーラ! 本当にあなたなのね!」


 涙交じりの声でシェリアをそう呼ぶと、彼女は崩れるようにして縋りついてきた。思いもよらない出迎えに、シェリアもアシュートもたじろいでしまう。シェリアの白い両腕を取って嗚咽を漏らす小さな姿を見下ろして、二人はかける言葉もなく立ちつくした。


「本当に、立派になって。ごめんなさい、ごめんなさいね、シェーラ。なにもしてあげられなくて」

 堰を切ったように溢れ出る謝罪の言葉。それがなにに対する謝罪なのか、ユーナである自分には分かるはずもない。その答えこそを求めてここまでやって来たのだ。


 ――やはりこの場所で、かつてなにかが起こっていた。その時この女性は、孤児院にいたに違いない。


「お久しぶりです。と、言っていいのか分からないんですけど」

 遠慮がちに口を開いたシェリアを見上げ、女性は不思議そうに眉をひそめた。他意の見当たらない他人行儀な物言いに違和感を覚えたのだろう。

 しかし、残念ながら今のシェリアには、この「再会」が喜ぶべきものなのか悲しむべきものなのかも分からないのだった。


「……突然押しかけて申し訳ない。私は第一神聖騎士のアシュートだ。込み入った事情があってシェリアスティーナ様と二人こちらを訪れた。少し、話をする時間を貰いたいのだが」

 一旦状況を落ち着かせるべきと判断したらしいアシュートが、割って声をかけた。

「第一神聖騎士の、アシュート様」

 女性はまじまじとアシュートを見つめながらその名を繰り返す。思いもよらぬことが一度に起こりすぎて、頭がついていかないようだ。言葉をなくしてアシュートとシェリアを交互に見やり、突然降りかかった混乱の原因を探ろうと懸命になっている。シェリアたちが辛抱強く次の言葉を待ち続けていると、女性はやっと平常心を取り戻し始めた。


「まあ、こんなところで、大変失礼いたしました。部屋はどこも散らかっていて申し訳ないのですが、よろしければどうぞお入りください」

「では、そうさせてもらおう。……ちなみに、あなたは?」

 アシュートが問いかけると、女性は期待を込めた瞳でシェリアを見上げた。まさか本当に他人のように振る舞ったりはしないでしょうと、そう縋られている心地がする。しかしシェリアは答えを持っていなかった。だから、ただ黙って目を伏せることしかできない。

「私は、カズロと申します。この孤児院の院長を務めております」

 どこか落胆を含んだ声で、カズロは答えた。

「本当は、そんな資格などありはしないのですけど」

 悲しげな微笑みは、背を向けられたためすぐに見えなくなってしまった。



 孤児院は大きかったが、作りはそれほど豪奢ごうしゃではない。

 質素でありながら人の温かみを感じさせる長い廊下が続いており、カズロの後を追うシェリアはつい視線をあちこちに飛ばした。子供たちが描いたのであろう無邪気な絵がいくつも飾られており、その合間には乾燥させた花々が無造作に留められている。時たま字の書かれた張り紙もあり、読んでみれば、「廊下を走らない」「あいさつをしよう」そんな他愛もない、そしてどこか懐かしさを覚える内容ばかりだった。


 通された応接間は、外の廊下と比べればいくらか立派な作りになっている。それでもやはり王宮と同じというわけにはいかなかった。手作り感溢れる織物の壁掛けは、もしかしたら院長と子供たちの力作なのだろうか。シェリアにはかつてユーナだった頃の日々を思い起こさせる愛しい雰囲気だったが、隣で腰かけているアシュートには随分と新鮮に映っていることだろう。


「この場所で、シェリアスティーナ様は育ったのですね」

「そうみたい」

 院長のカズロはお茶を用意すると言って席を外してしまった。待つ間にただ無言でいるのもくすぐったくて、シェリアとアシュートはいくつか言葉を交わした。

「馬を少し走らせるだけで、王都とはまるで違う雰囲気になるものですね」

「そうだよね。王宮がよくないっていうわけじゃないけど、田舎の方はのんびりできる雰囲気があると思う。流れてる時間自体が違うっていうのかな」

「ここはとてもゆったりと、時間が流れています」

 そう、穏やかで緩やかで、とても優しい時間が流れている。

 窓の外から再び子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。鬱屈したところのまるでない、健康的な声ばかりだ。


「――本当になにかあったのかな、こんなに温かい場所で」

 アシュートはちらりとシェリアに目を向けた。

「最初にカズロ殿と顔を合わせたときの様子を思うと、やはりなにかしらあったのだと思います。しかし確かに、この孤児院からは後ろめたい過去があるなど想像できませんね。……流れる時間は緩やかでも、確実に時は過ぎ、変化は訪れているのでしょう」

 ああそうか、とシェリアはすんなり納得した。かつてシェリアスティーナが過ごしていたときとは色々なものが異なっているのに違いない。もしかしたら、もはや過去の面影などないほどに。それほど様変わりしているのなら、今この風景から答えを見出そうとすることは無意味だった。だがそれならそれでいい。きっとよい方向に、孤児院に変化が訪れたのだ。


「お待たせしました」

 慌てた声と共に再びカズロが姿を現す。

「どうにも、人がいないもので。ばたばたとしてごめんなさい」

 お茶を差し出しながらカズロはそう侘びたが、手つきは落ち着いたもので、見ていても安心感があった。お茶の用意をする間にカズロの気持ちも随分落ち着いたのかもしれない。突然現れたかつての育て子、そして今の聖女と向き合い話し合う覚悟ができた――そう言いかえてもいいだろう。

「カズロ殿、今日私たちがここへ来たこと、そしてこれから話すことは内密に願いたい」

「はい」

 シェリアたちの向かいに腰かけたカズロは、厳かに頷いた。

「二人きりでこの場を訪れたことからも分かるように、あまり公にしたくはない話があるんだ」

「分かっております」

 カズロのはっきりとした答えを受けて、アシュートはシェリアに続きを促した。


「カズロさん。実は私、ここで暮らしていたときの記憶が、ないんです」

 迷った挙句、シェリアはそう切り出した。自分がシェリアスティーナとは全くの他人であることを告白できれば一番だが、それだけはやはりできなかった。カズロを余計な混乱に陥らせてしまうだろうし、隣でアシュートが聞いている。もはや暗黙の了解となっている事実としても、自ら率先して口に出す勇気はまだ持てなかった。


「ここで暮らしていたときだけじゃない。つい最近までの記憶をなくしてしまったの」

「記憶、喪失……?」

 シェリアはゆっくりと頷いた。カズロの瞳が驚愕で開かれる。

「一体また、なぜ」

「王宮での事故で、意識を失ったんです。それから目が覚めたときには一切のことを覚えていなくて」

「今もなにも思い出せずにいるの?」

「はい」

 カズロが臆したように身を引いた。大きな惑いのようなものが垣間見えた気がしたが、カズロはそのまま口を閉ざしてしまう。

「それで私、昔のことを知りたいんです。この孤児院で過ごした日々も、私にとってはとても重要なものだと思います。だから話を聞かせてもらえたらと、今日ここへお邪魔しました」

「……」

 重い沈黙が広がる。

「でも」

 次にカズロが口を開いたとき、その声はいくらか低いものになっていた。

「孤児院にいたときのことは、記憶を取り戻すにはあまりに古い話ではないかしら?」

「いいえ、きっと大切なことです」

 シェリアは食い下がったが、カズロは乗り気でないようだ。

「カズロさん、私はここでどんな暮らしをしていましたか? 少しずつでいいので話してもらえませんか」

「……」

 カズロの沈んだ表情は、外から聞こえてくる子供たちの明るい声とはあまりに不釣合いなものだった。その二つがこの場に同時に存在していることに違和感を覚えてしまうほどだ。できれば語りたくないのだと、はっきりこの沈黙が語っている。

 だがシェリアも退くことはできなかった。

「カズロさん、お願いします」

「……記憶を失ってしまったのは、本当に大変なことでしょう。でも、思い出さなくてもいい過去もあると、私は思うわ。ここでの暮らしはその一つなのよ」

「あまり明るい日々ではなかった、ということですね」

「……ええ、そうよ。だからあなたには、王宮で過ごし始めてからの華やかで楽しい記憶だけを持っていてもらいたいの」

「それはできません」

 シェリアはきっぱり否定した。

「王宮で過ごした毎日は、決して華やかでも楽しいものでもなかった。私は王宮でも傷ついていたし、なにより私自身がとても多くの人を傷つけたんです。私は、過去から目をそらして先へ進むことはできない。知りたいんです、どうしても。全ての始まりを」

「……シェーラ……」

 シェリアの強い言葉に心を動かされたのか、カズロは戸惑いがちにシェリアと目を合わせた。その目は真っ赤で、今にも泣き出しそうに揺らめいている。

「明るい日々どころか、孤児院での生活は、あなたにとってひどく厳しく辛いものだった。それでもあなたは知りたいの?」

「はい、教えてください」

 シェリアは迷いを一切見せなかった。軽い気持ちで故郷を訪れたわけではないとカズロに示したかった。覚悟はもはやできている。

「……そうよね、あなたの過去だものね。私がそれをどうするのか、決めるべきではないのでしょうね」

 カズロは俯いてため息を一つ落とした。


「わかりました。では、お話しましょう。どこから話せばいいのか迷うけれど、そうね、私について来てもらえるかしら。二人にお見せしたいものがあるんです」


 迷いを振り払うように立ち上がったカズロに倣って、シェリアとアシュートも席を立った。

 カズロの横顔には深い皺が刻まれている。年齢のためというよりも、積み重なった苦悩の日々のために表れた皺のように見えた。ここでの過去が辛いものであるのは、シェリアスティーナにとって、というだけではない。きっとこのカズロ自身にとっても、それは同じなのだろう。


 カズロが応接間の扉を開けると、はっと驚いたように身を引いた。何事かとシェリアが扉の向こうを覗き見ると、そこには数人の子供たちが立ち尽くしていて、気まずそうに互いの顔を見合わせている。


「あら、あら。あなたたちどうしたの」

「院長せんせい」

 子供の一人が縋るようにカズロを見上げた。

「せんせい、なにかあったの?」

「なにかって、なあに?」

「だってせんせい、昔ここにいたお姉さんが来たよって言ったら、すごくびっくりして走ってむかえに行っちゃったから」

「まあ、ごめんなさい。それは驚かせてしまったわね」

 カズロはゆっくりとしゃがみこんで、子供の頭をそっと撫でた。シェリアからはその背中しか見えなかったが、きっとカズロは優しく微笑みかけたのだろう、子供たちの強張った表情が少しずつほどけ始めた。


「なにかあったわけじゃないのよ。とても嬉しい再会なの。久しぶりだから、もう少しお姉さんたちとお話したいと思っているわ。みんなは自分たちだけで遊べるわね」

「う、うん……」

 本当に大丈夫なの、と小さな目がちらちらとシェリアたちを捉えては逃げていく。

「――ほらほらお前たち、院長とお客様をあんまり困らせちゃだめだぞ。もう行こう」

 最初にシェリアたちの応対をしてくれた少年が廊下の角から姿を現し、子供たちの背中を押した。まだまだ大人には遠くても、この孤児院では子供たちのまとめ役なのだろう。

「なによぉルース、だってルースが様子を見て来いって言ったんじゃない」

 ませた様子の幼い少女が口を尖らせ抗議した。ルースと呼ばれた少年は顔を赤くして声をあげる。

「ばっか、お前、余計なこと言うなよ!」

「余計なことじゃないもん」

「うるさい」

 ルースは赤い顔のままシェリアたちに向かって頭を下げると、子供たちを抱えるようにしてその場を後にした。その様子を見守っていたシェリアたちは、互いに顔を見合わせて微笑みを交わす。張り詰めていた気持ちが少しだけ楽になった気がした。

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