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第54話

 イーニアスは一人廊下に佇んでいた。

 人通りはほとんどなく、ぼんやりと立ち尽くしている自分にひどく違和感を覚える。


 いつもならばシェリアスティーナを待っているこの時間。儀式などで忙しい彼女を護衛し、その帰りを待つのはイーニアスにとってはもはや日課だった。

 待ち時間を苦痛と感じたことはない。それよりも、その役目を誰か他の者に奪われることの方がずっとずっと苦しかった。

 シェリアスティーナのもう一人の護衛が親友のネイサンだからまだ我慢もできる。だが、そうでない者が命を受け、シェリアスティーナの側に付きっきりとなれば、きっと心穏やかではいられなかっただろう。そんなことを考えて、そこまでシェリアスティーナに傾倒していることを自分でも恐ろしいと思う。


 今だってそうだ。今現在はシェリアスティーナの戻りを待っているわけではない。この時間、彼女は自室で休んでいる。イーニアスが待っているのは――彼女の婚約者、第一神聖騎士のアシュートだった。


 シェリアスティーナの一番の心労になっているであろうアシュート。彼に一言告げねば気が治まらなかった。そのために会議中の彼をこうして待っているのだ。待ちながら、自分でも愚かなことをしていると分かっている。二人のことは二人の問題だ。それに、国が定めた婚約者同志に割って入ろうなど身の程知らずもいいところ。なにを考えているのだと呆れられても仕方がない。


(それでも、動かずにはいられないんだ)

 自分が動いたところで事態が好転するはずもない。それでも、ただ黙って傷つくシェリアスティーナの背中を見ているなど耐えられなかった。

 当たって砕けるとはまさにこういうことを言うんだな、イーニアスは自嘲気味に笑みを浮かべる。だがそれも本望だった。



 不意に部屋の扉が開いて、張り詰めていた空気がわずかに揺らいだ。

 ざわざわと男たちの低い話し声が漏れ聞こえてくる。一人、また一人と部屋から姿を現し、佇むイーニアスを怪訝そうに眺めて去って行った。会議が終わったのだ。

 目当ての人物はなかなか部屋から出てこなかった。だがその方が都合がいい。さすがに大勢の前でシェリアスティーナの話を持ち出すのも気が引ける。場所を移すか、さもなくばアシュートが一人になるのを待っていたいところだ。

 ほとんどの出席者が部屋を出たころ、そのうちの一人がイーニアスに声をかけてきた。どうやらイーニアスがシェリアスティーナの護衛であることを知っているようだ。聖女になにかあったのかと問われ、少し戸惑った。だが結局、アシュートに相談したいことがあるとぼかして答えると、それ以上は追求されず、部屋に入ればいいと顎で促された。


 遠慮がちに部屋の中を覗くと、立ったまま数人で話し込んでいるアシュートの姿はすぐに見つけることができた。そもそも部屋にはその数名しか残っていない。アシュートの方でもイーニアスに気がつき、そこで彼らの話は中断された。


「どうした、シェリアスティーナ様になにかあったのか?」

 アシュートのその問いに、イーニアスはわずかに苛立つ。先ほど同じ質問を受けたばかりだというのに、アシュートの口からそれを聞かされるとどうにも面白くないのだ。


「少し、聞いていただきたいことが」

 言葉少なに答えると、話し込んでいた男たちは心得たように頷き合い、また後ほどと去っていった。

 残されたのはアシュートとイーニアスの二人だけだ。

 やけに広い部屋に二人きりというのは気まずいものだとイーニアスは思った。いや、部屋の広さなど関係ないのかもしれない。アシュートといるとどうにも息苦しい。彼に対する僻みが大きく膨らんで己にのしかかってくるからかもしれなかった。


「なんの話だろう」

「……シェリアスティーナ様のことです」

 ごくり、と唾を飲み込んだ。相手が平然とした様子だからますます緊張してしまう。

「ここのところ、シェリアスティーナ様のご様子がいつもと違うのです。なにか深く悩んでいらっしゃるように見受けられて」

「……」

 アシュートは手元に視線を落とし、しばし考えるような様子を見せた。きっと彼は知っているのだ。シェリアスティーナが思い悩んでいる、その理由を。

 ――そこに、あなたが絡んでいるのではないですか? シェリアスティーナ様が追い詰められているのはあなたのせいではないですか? あなたが、あなたが彼女を責めているのではないですか? これまでもそうしてきたように。


「それで、なぜ私のところへ来た?」

 黙りこんだ挙句、引っ張り出してきた台詞がそれか。イーニアスはふつふつと沸き起こる苛立ちをいよいよ抑えられなくなってきた。

「そうですね、私はアシュート様に理由を伺いに来たわけではありません」

 もはや緊張などはどこかに吹き飛んでいた。

「申し上げたいことはただ一つ。これ以上、シェリアスティーナ様を傷つけるようなことはなさらないでいただきたい」

 アシュートがわずかに眉根を寄せた。イーニアスは構わずなおも畳み掛ける。

「お側にいて、見ていても非常につらいのです。シェリアスティーナ様はこれまでずっと大きな苦しみを背負っていらっしゃった。その重荷を引き受け楽にして差し上げたいと思っても、あの方はやんわりと断ってしまわれる。お一人で全てを抱え込もうとするのです。それでいて、人から与えられる苦痛は甘んじて受け入るんだ。ならば私は、シェリアスティーナ様に降りかかる苦しみを、ほんの少しでも減らして差し上げようと。それで、身の程もわきまえずこうしてやって参りました」

「……つまり、私がよき婚約者になって、いつもシェリアスティーナ様の側で彼女を大切にし、形だけでなく心から彼女を愛するようになれば、君は満足だということか?」

 さらりと言葉を返されて、イーニアスは逆に言葉を失った。

「それは」

 心がぐらりと揺れる。その通りだと力強く頷く自分はどこにも見当たらなくて、そんなはずはないのにと激しくうろたえてしまう。


「満足じゃないんだろう。今頃私がどれほど理想的な婚約者になろうと、君はきっと満足できまい。君は、他の誰でもなく自分自身がシェリアスティーナ様の側にいたいと思っているんだ。誰よりも彼女の近くに。そして彼女を守りたいんだ」

 分かったようなことを言わないでくれ。そう喚きたかった。自分がどれほど悩み、己の無力さを歯痒く思っているか。アシュートにそこまで分かるはずがない。

「好きなんだろう、シェリアスティーナ様のことが」

 かっと頬が熱くなるのを、イーニアスは感じた。

「そんな話をしに来たのではありません!」

「なら、話は終わりだ。もう二度とシェリアスティーナ様のことを傷つけるようなことはしない。彼女を守るために全力を尽くすと約束しよう。――これでいいんだな?」

「違います、そんないい加減な言葉なんて欲しくない。私はもっと……」

「いい加減などではない。私は本気で言っている。君に確認されなくとも、私は私自身の意思で決めたんだ。これまで彼女に辛く当たってきたことも、今では後悔している。同じ過ちを繰り返すつもりはない」

「なにを……」

 適当なことを、と口走ろうとした。しかしアシュートが適当なことを言っているわけではないことは、その真っ直ぐな瞳を見れば一目瞭然だった。それが分かると、途端に別の不安がイーニアスの心をかき乱す。


「本気で、言っているんですか?」

「本気だ」

 アシュートは強く頷いた。


「でも、シェリアスティーナ様はひどく弱っていらっしゃって……」

「様々な要因がある。私としてもどうにかシェリアスティーナ様の心労を和らげたいが、そう簡単にうまくいかないんだ。それに私自身に限っては、これまでのシェリアスティーナ様に対する態度が仇となっている。きっとシェリアスティーナ様はなかなか私に心を開いてくれないだろう。私はどうしようもなく、無力だ」


 イーニアスは目の前に立つアシュートをじっと見つめた。自分よりもずっと多くのものを持った青年。そして、イーニアスがどんなものをかなぐり捨てても手に入れたいと思った唯一の存在ですら――彼はその手に収めている。だが、今こうして向き合っているアシュートは、まるで鏡に映る自分自身を見ているようだった。

 イーニアスは、自らに語りかけるように口を開いた。

「……私は、確かに満足なんてできないと思います。あなたがどれ程シェリアスティーナ様を大切になさろうと」

 逆にそうなれば胸に灯った嫉妬の蝋燭は更に大きく揺らめくことだろう。

「でも、私はそれでもいい。自分の幸せが大事なんじゃない。シェリアスティーナ様が幸せなら、私はそれを見ているだけで十分なんです。だから私の満足のためではなく、シェリアスティーナ様のためだけに、アシュート様に変わっていただきたいと思った」

 アシュートがすでに変わったというのなら、でしゃばるような真似はもはやするべきではないのかもしれない。だが、まだだ。

「あなたに、シェリアスティーナ様の本当の笑顔を引き出して差し上げることができますか? そうでなければ、私はあなたを認められません。私は――アシュート様の仰るとおり、シェリアスティーナ様をお慕いしています。だから私はいつでもシェリアスティーナ様の笑顔を見ていたいのです。今の私自身にその力がないのも承知しています。ですが私は自分の無力さを盾に全てを諦めるようなことはしたくない」


 アシュートに無理だというのなら、その時は自分が――。

 皆までは告げなかった。だがアシュートは、言葉にはならなかったところまではっきりと汲み取ったのだろう。不意に眼光が鋭くなり、強くイーニアスを睨み据えた。


「きっと、果たしてみせよう。だから、君に彼女は譲らない」

 その言葉は、イーニアスの耳の奥にじんわりと響き渡った。



 その後、イーニアスはほとんど無意識に訓練場へと歩いていった。

 一周するだけで体力を持っていかれそうなだだっ広い訓練場で、騎士たちが思い思いの場所に散らばっている。ある者は汗を拭き、ある者は仲間と談笑し、場に緊張感はない。どうやら今はちょうど休憩中であるらしい。

 その中に、近頃は顔を合わせる機会のめっきり減った親友の姿を見つけ、イーニアスは迷わず足をそちらに向けた。

「ネイサン」

 一人石壁の段差に腰掛け水を飲んでいたネイサンは、そのまま視線だけをちらりとイーニアスに寄こす。

「隣、いいかな」

「ああ」

 相変わらず無表情なネイサンだが、突然イーニアスが現れたことを不思議に思っているのが伝わってきた。しかしイーニアスにも、そんなネイサンを納得させることのできる言葉が見つからない。イーニアス自身、どうして焦るようにここまで来たのか分からないのだ。


「ネイサン、俺、今アシュート様のところに行ってきた」

 考えのまとまらないまま、口だけが勝手に開いていた。

「シェリアスティーナ様のことが好きだって、はっきり言った」

 正確には言わされたようなものだが、どちらにせよ大差はあるまい。

「……ごめん」

「どうして俺に謝る?」

 静かに問われて、イーニアスは言葉に詰まった。とにかくネイサンに会わなくてはならない気がしてここまで来たのだ。そして今、気づけば謝罪の言葉を口にしていた。それはなぜなのか。

 ――焦りにかき乱された気持ちが少しずつ落ち着いてくる。


「……俺、お前のことをずっと裏切ってる、よな」

「え?」

「シェリアスティーナ様のことで。俺、最低だ」

「どうしたんだ、急に」

「ネイサンが牢に繋がれたのは、俺のせいだった。俺がシェリアスティーナ様の命に背いたことで、お前は俺をかばい、そのためにシェリアスティーナ様の不興を買って、ホリジェイルに入れられ、拷問され、死にかけた。それなのに」

 誰より憎むべきシェリアスティーナを、憎めなかった。それどころか彼女に惹かれていって――。

「ネイサンがなんのために、あの時俺をかばってくれたのかって話だよな。俺、ずっとその事実から目を逸らして、シェリアスティーナ様のことばかり追いかけてた。終いにはアシュート様にはっきりと気持ちまで告げてしまって。俺を助けてくれたお前のこと、置き去りにしたままだ。今の今まで」


 じん、と目の奥が熱くなってくるのをイーニアスは感じた。

 涙が零れ落ちそうだった。こんなに身勝手な自分が疎ましくて汚らわしくて、喚き出したい気持ちだった。親

 友と自負しておきながら、恩を仇で返すような真似を平気でしている。分かっているのに――止められない。それでも、シェリアスティーナを憎み、遠ざけることができないのだ。


 だが、だからといって、それをネイサンに告げてどうなるというのだろう。自分はネイサンにどんな言葉を返してもらいたくて、今ここへやって来たのだろう。思いきり責めてもらいたいのか、それとも許してもらいたいのか。混乱の極みにある自分のことをなだめてもらいたいのか。……どの道自分勝手な目的には相違ない、とイーニアスはぼんやりと考えた。


「お前はお前の思ったとおりに動けばいい」

 ネイサンはぼそりと呟いた。

「別に、置き去りにされたとか裏切られたとか、思ってない」

「思うだろ、普通。絶対思うよ」

「じゃあ、シェリアスティーナ様の護衛を務めている俺自身は、自分で自分を裏切っているということになるのか?」

「それは。ネイサンは別にシェリアスティーナ様を慕って護衛をやってるわけじゃないだろ」

「慕っているわけではないが、機会を窺って復讐をしようと思っているわけでもない」

 そう言われて、イーニアスにふと疑問が沸き起こった。

「そういえば、ネイサンはどうしてシェリアスティーナ様の護衛を引き受けたんだ?」

「……気になったから、だな」

「気になった?」

「――あの人が一体何者なのか」

 しん、と二人の間に沈黙が降り立った。


 シェリアスティーナと接したときに、きっと誰もが抱く疑問。以前の彼女を知っている程その疑問は大きく膨らむはずだ。そしておそらく、誰もその答えを持っていない。

「あのシェリアスティーナ様は、以前の彼女とはまるで別人だ」

 ネイサンは沈黙を破るというより、その沈黙をそのまま引き継ぐような静かな声で口を開いた。

「別人なのだから、そのシェリアスティーナ様にお前が惹かれたとしてもなんらおかしなことはないし、謝るべきこともない」

「別人……」

 その言葉にイーニアスは強い違和感を覚えた。それを単なる比喩と捉えるには、あまりに迫って聞こえる言葉だ。

「それに、お前は命の危険を顧みずにシェリアスティーナ様へ直訴してくれたんだろう、俺をホリジェイルから解放するようにと。それで十分じゃないか。……自分の気持ちに不安を抱く必要なんてない。周りの目を気にして自分を押し殺すのはもう止めるんだろう」

 ぴくりと肩を揺らして、イーニアスは足元に落としていた視線を改めてネイサンに向けた。――そうだ、俺はもう二度と都合よく扱われる傀儡かいらいにはなりたくない。平兵士に格下げされ、多くのものを失ったその時から、自分の信じる道を自分の意思で行くと決めたのだ。


「……ネイサン」

「なんだ」

「ごめん、あと、ありがとう」

 やれやれ、と言わんばかりにネイサンは軽く肩をすくめた。

「今度はなにに対する謝罪と謝礼なんだ」

「色々だよ。……俺、本当にずるいな」

 イーニアスは自嘲するように笑みを浮かべた。

「欲しい言葉、全部ネイサンに貰った。情けないけど、俺、ネイサンにすごく助けられてる。いつも」

 そしてそのまま、恥じるようにして項垂うなだれる。今の自分の顔は見られたくないな、とイーニアスは唇を噛んだ。

 ネイサンはなにも答えない。ただ黙って、その手のひらをイーニアスの頭に乗せた。

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