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第52話

 イーニアスを護衛に向かったのは、広場を見下ろせるバルコニーだった。

 ここで姿見せの儀が行われる。数ある聖女の儀式の中で唯一民衆の参加が許されているため、当然ながら民の関心は非常に大きい。


「今日は朝からなんだね。いつも姿見せの儀は夕方にやるのに」

 バルコニーに立つとちょうど夕日の沈む姿を正面に見ることができるので、シェリアはいつもこの儀式を楽しみにしていた。だから少し、残念だ。

「近頃は本当に多くの民が広場に集まるようになりましたから。夕方ですと、仕事帰りの男性や買い物帰りの主婦などが殺到してしまうのです。ですから、試験的に儀式を朝のうちに行うことにしたようですよ。皆が忙しい時間帯に行えば、混雑も少し緩和されるのではということらしいです」

「そんなことまで考えてるんだ」

 シェリアは素直に驚いた。確かに儀式にはたくさんの人が集まってくれるが、そうした対策をとる必要があるほど規模が大きくなっているとは。

「皆の気持ちも分かる気がします。俺も一般人だったら、きっと毎回欠かさず通っていますよ。シェリアスティーナ様はいつも、心からの笑顔で皆に手を振ってくださいますから。何度でも拝見したいと、皆は思うのでしょう」

 そう言ってイーニアスは微笑んだ。この裏のない爽やかな微笑みこそ、人々を魅了する模範的な笑顔だと思うのだが。シェリアは心の中でそんなことを考えたが、実際口にするには恥ずかしい台詞だったので黙っておいた。

「ただ、彼らには残念なことになるかもしれません。小耳に挟んだのですが、姿見せの儀はしばらく中止になるかもしれないそうです。不特定多数の人間をシェリアスティーナ様の御前に招き入れるのは危険だからということで」

「そうなの?」

 それはシェリアにとってもショックな知らせだった。この姿見せの儀だけが、一般の――かつての自分が属していた側の――人たちと触れ合える唯一の時間なのだ。それすら奪われてしまったら、シェリアは本当に外界との接点を失ってしまう。

「時期が時期だけに仕方のないことかもしれませんね。いくら広場の入り口で身体検査をしていると言っても、危険を完全に排除できるわけではありませんから」

 イーニアスは真面目な顔でそう結論づけた。


 ほんの少しずつ、シェリアを取りまく状況が変わっていく。

 「反聖女派との対立」、それが実際に起こっていることだと頭では分かっていても実感が追いつかない。だが、確実にシェリアを取り巻く環境は緊迫したものに変わりつつあるらしい。


「シェリアスティーナ様、どうぞこちらへ」

 バルコニーに到着すると、すでに準備を整えた神官たちが恭しく頭を下げた。いつもの光景なのでもうすっかり見慣れてしまったが、イーニアスの言うことが本当ならば、こんな日常風景もまもなく失われてしまうのかもしれない。


 促されてバルコニーへ降り立つ。大きな歓声が湧き起こった。まるで地面が唸り声をあげているかのようだ。

 この儀式に出るたびに、シェリアは目を凝らして民衆を見渡している。

 彼らの想いに応えたいという気持ちも、もちろんある。だが同時に、無意識にもかつての知人の姿を探そうとしてしまうのだった。そしてそのたびに、探してはいけないと胸のうちで警鐘が鳴り響く。だから、顔を上げて遠くの夕日と向き合うことで心を静めるのだ。

 しかし今日ばかりは、広場から顔を上げても夕日はどこにも見当たらなかった。代わりにもっと高いところから降り注ぐ太陽の光が、人々の表情をますますくっきりと照らし出している。

 シェリアは少し怖かった。もし本当に知り合いを見つけてしまったら? その人が、まるで神を崇めるかのような視線でこちらを熱心に見つめていたら?


 これは嬉しい儀式であると同時に、恐ろしい儀式でもある。

 シェリアは不安な気持ちを振り払うように、思い切り手を振った。するとますます広場の歓声は大きくなる。心から笑わなくては。そして、皆に希望を配らなくては。それが今の自分にできる一番の役目だとシェリアは自らに言い聞かせた。


 その時だ。

 民衆の歓声は、もはや悲鳴か怒号かと勘違いしてしまうほど異様なものにすり替わった。シェリアは足元が揺れるような錯覚を憶えて、思わずよろめく。一体なにが起こったのか? 答えを求めて後ろを振り返ると、なんとアシュートがバルコニーに降り立ったところだった。


「えっ?」

 シェリアの驚きの声は、瞬く間に民衆の歓声に飲み込まれていく。

 一方のアシュートは、落ち着き払った様子でシェリアの隣まで歩み寄り、広場を見渡した。


「すごい人数ですね」

 恐らく、そう言った。すぐ隣にいるはずのアシュートの声も、かろうじて聞き取れるかどうかという状況だ。


 シェリアはぽかんと口を開けたままアシュートの横顔を見つめた。

 なぜアシュートが姿見せの儀にやってきたのだろう。

 これまで共にバルコニーへ降り立ったことはない。一度シェリアが体調を崩したときに付き添いとしてバルコニーの側まで来たことはあったが、その時も民衆から見える場所へは立ち入らなかった。

 アシュートが片手を上げると、それに応えて民の歓声が波打った。

 アシュートはよほど大きな祭典のときでもなければ民の前に姿を見せることはない。ごく稀にしか現れないこの身分ある青年が、こうして思いがけない場所で自分たちに手を振っている。それだけで広場に集まった民たち――特にうら若い女性たちにとっては夢のような出来事であろう。

 しばらく広場を眺めていたアシュートだったが、不意にシェリアの方へ向き直ると、柔らかい動作でその右手を取って、自らの口元に寄せた。


 そっと、優しい口づけが落とされる。


 その全てが流れるように行われた。そのためシェリアはまるで反応できなかった。そもそも目の前でなにが起こっているのか、それすら把握できていない。


 わああ、と耳をつんざく人々の声。それが一気に遠い世界の音に変わった。向かい合うアシュートが、近いようで遠い。そして、遠いようでひどく近い。

「なるほど、確かにライナス殿が言うとおり、皆喜んでくれているようですね」

 今度はアシュートの声がはっきりと聞こえてきた。シェリアの全感覚が、目の前にいるアシュートの一挙手一投足を捉えようと懸命に動いている。もう、周りの歓声も耳に入ってこなかった。今のシェリアにとって、同じ世界に存在するのはアシュートただ一人。


「アシュート……」

 囁いた。恐らく声は届かなかったが、口の動きでシェリアが自分の名を呼んだとアシュートには分かっただろう。穏やかな瞳が、シェリアに先を促した。

「どうして?」

 それ以上の言葉が出てこない。それ以上にシェリアの気持ちを表せる言葉が見当たらないのだ。たくさんの「どうして」がシェリアの心からあふれ出しそうだった。

 シェリアは未だ取られたままの右手を引こうとしたが、強く握られ叶わない。

「戻りましょうか」

 アシュートはシェリアの手を引いて、ゆっくりと部屋へ導いた。民衆の歓声が一際響いたが、シェリアはほとんどそちらに気を配ることができなかった。

 部屋に戻りバルコニーへの扉を閉めると、場は一気に静まった。

「シェリアスティーナ様と少し話をと思いまして、参りました。せっかくですので民の姿を見たいとバルコニーに出たのですが、民だけではなくあなたのことも随分驚かせてしまったようですね。申し訳ありません」

 アシュートの手の力が緩んだ拍子を見計らって、シェリアはやっと手を引いた。大丈夫と首を振ったが、本当に聞きたい「どうして」の理由はそんなことではない。


「ここで話すのもなんですから」

 アシュートはぐるりと部屋を見渡した。控えていた神官たち、それに護衛として側にいた見張り兵たちが引き上げる準備を始めている。

「散歩がてらに、部屋までお送りいたします。話はそのときに。よろしいでしょうか?」

「う、うん」

 断れるはずもなくシェリアは頷いたが、渦巻いていた不安はますます勢いを増した。話とはなんなのか、それは聞かずとも分かっている。彼の妹ミリファーレの件以外に、一体なんの話があるというのだろう。

 聞くのが、怖い。


「あの、アシュート様」

 バルコニーの側で控えていたイーニアスが、緊張した面持ちで一歩前へ出た。

「シェリアスティーナ様は私がお送りいたします。それが、私の役目ですから」

 きっとイーニアスは、シェリアが不安げな様子を見せたのに気がついたのだろう。だからそんな進言をする。

「いや、いい」

「ですが」

「私はシェリアスティーナ様に話があると言った。君もそれを聞いていただろう」

「……はい、ただ」

「下がってくれ」

 アシュートはきっぱりとイーニアスの言葉を跳ねのけた。命令とまではいかない物言いだったが、語気が強く逆らい難い圧迫感がある。

 イーニアスは返事をしなかった。黙り込み、しかしかろうじて頭だけは下げて一歩退いた。明らかに納得をしていないイーニアスの行動に、シェリアの方がひやりとしてしまう。一触即発とはまさにこのことだ。


「行きましょうか、シェリアスティーナ様」

「うん」

 歩き出したアシュートに続いて、シェリアもその背中を追った。通り過ぎざまイーニアスに視線を送り、大丈夫だと頷いてみせる。

 イーニアスは沈痛な面持ちでそんなシェリアを見送った。いつもイーニアスには我慢ばかりさせているな、とシェリアは思う。もっとのびのびと過ごしてほしいのに、聖女の護衛という立場が、結局は彼をがんじがらめにしているのだ。


「イーニアスは、本当にあなたを大切にしているのですね」

 廊下に出て、アシュートの第一声は意外にもイーニアスのことだった。

「そうだね、すごくよくしてもらってる」

 さっそくミリファーレの話題を振られるかと思っていたシェリアは、密かにほっとした。どことなく気まずい思いでアシュートのやや後ろを歩いていたが、アシュートに並んで歩こうと考えられる程度には肩の力が抜けた。アシュートはそんなシェリアを気遣ってか、歩くペースを少し落としてくれる。


「私などは目の敵にされているようです」

「そ、そんなことないよ。ただ私のことを心配してくれてるだけで……」

 そこまで言って、シェリアははっと口をつぐんだ。この言い方では、アシュートがシェリアを誘ったことが、人に心配されるようなことだったと言っているようなものだ。

「彼の方が第一神聖騎士には向いていたかもしれませんね。民にとっても王宮の人間にとっても、……あなたにとっても」

「私はそんな風に思ったことはないよ」

 これは本当のことだった。

 イーニアスでは駄目だというのでも、アシュートでは嫌だというのでもない。望む権利も、ましてや選ぶ権利も自分にはないのだ。本当に未来を持っているのは今ここにいる自分ではない。

「……先ほど私がバルコニーに出たのは、あなたに逃げられないようにと思ってのことでした」

「え?」

 突然話が切り替わったので、シェリアは面食らってアシュートを見上げた。

「最近あなたは私を避けていらっしゃったでしょう。今回、私の妹の件があって、ますますあなたと疎遠になってしまうのではないかと思ったのです。突然押しかけでもしなければ、あなたは会ってくださらなかいかもしれない。それが、……怖かったのかもしれません」

「避ける、つもりは」

 ない、とは言い切れないシェリアだった。申し訳なさも手伝って、この上なく気まずい思いだったのは確かである。しかし、避けるとすれば自分よりもむしろアシュートの方だと思っていた。

「妹さんのこと、聞いたんだね」

「はい」

「……あの、その、私」

 なんと言えばいいのか。なにを言っても言い訳になるし、卑屈になる。

 言葉を探しあぐねていると、アシュートがやんわり話題を変えた。

「ジークレストがあなたのことを心配していましたよ。この世の終わりが来たというような顔をしていた、と。今のシェリアスティーナ様もそんなお顔をしています」

 そういうアシュートは、苦笑にも似た笑みを浮かべていた。

「だって、いくら私でも事の重大さは分かってるつもりだから。アシュート、もっと私に怒っていいよ。怒って当たり前だよ。妹さんの人生をこんな形で狂わせてしまたのは、私。私のこと、憎んでいるなら面と向かって言ってくれていいんだよ。自分の中に溜め込んでしまわないで」


「もう、憎む時は過ぎました」


 ゆっくりと歩んでいた足は、動きを止めた。二人は長い吹き抜けの廊下に佇んだ。風が吹く。さわさわと草葉の揺れる音だけが、静かに二人を包んでいる。


「私は十分あなたを憎みました。そしてその憎しみをあなたにぶつけました。あなたはずっとそれを受け止め、耐えていた」

 もう十分ですよ、アシュートの声が風に乗って優しく響いた。


「妹が見つかった件で、思うところは色々あります。ですがそこにあなたへの憎しみはもはやありません。内に溜め込んでいるのではないのです。私はもう、あなたを憎まない。前に言ったはずです、私はあなたと向かい合いたいのだと」

 アシュートは、腰に差していた剣をすらりと鞘から抜いた。刃が日の光を反射して鋭い輝きを放つ。シェリアはその眩しさに目を細めた。

「以前の私は、こうしてシェリアスティーナ様の前で剣を抜くことにためらいを感じていました。それほどあなたを憎く思っていたのです。けれど、今は違う。――この剣で、きっとあなたをお護りします」

 アシュートは剣を胸に抱くような仕草を見せ、そしてシェリアに向かって一礼した。騎士の誓い――シェリアにはそれが正式なものかどうかも分からなかったが、アシュートが真剣なのだということだけは痛いほどに伝わってきた。


 声が出ない。息ができない。

 あまりにも真っ直ぐなアシュートの言葉がシェリアを打ち砕く。

 アシュートは聖女としてのシェリアスティーナに誓いを掲げているのではない。きっと彼は、もっと別なものを見ている。そう、それは、聖女シェリアスティーナの衣をまとった、全く別の存在。


 ユーナ、と、アシュートが自分に呼びかける。そんな錯覚を覚えた。


 その瞬間、ぞくりと全身に鳥肌が走った。

 ――いけない。アシュートの誓いを受ける資格は、自分にはない。それを絶対に、忘れてはいけない!


 嬉しいのに、同時にやるせないほど悲しい。

 この残酷な運命を改めて呪いたい気持ちになった。かつて自分は、アシュートと歩み寄りたいなどと簡単に考えていたけれど。それがなにをもたらすのか、その時の自分は全く分かっていなかった。こんなにも、身が裂かれるほど苦しいなんて。


「アシュート、ありがとう。でも……、私に、そんな資格はないから」

「資格? 私は資格の有り無しで、剣を捧げる人を選んでいるわけではありません」

「分かってる。分かってる、だけど」

「今更虫がよすぎると思いますか」

「思うわけない! 嬉しいよ、だけど、だからこそ怖い……」

 アシュートは静かに剣をしまった。うつむくシェリアに近づき、風に揺れる髪に手を差し入れる。丁寧に髪をいて、それからその手がそっと頬に添えられた。

「思えばいつも、私はあなたのことを追いかけてばかりいました。……きっとこれからもそうなのでしょう」

 シェリアが顔を上げると、淋しく微笑むアシュートが真っ直ぐ目に入った。その表情に捕えられたまま、シェリアは動くことができなかった。

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