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第49話

 まもなく日が傾き始める。

 先ほどよりも幾分か冷たさを含んだ風が、それをシェリアに伝えていた。 


 外の空気を吸い込んでも、シェリアは突き落とされた混乱の渦からなかなか抜け出すことができなかった。


 何度もサラの言葉が頭を巡る。しかしそれはまるで禍々しい異国の呪文を聞かされたようで――それが恐ろしい言葉であると感じるのに、その意味するところがわからない――ただ漠然とした不安のみが膨らむばかりだ。


「大丈夫ですか」

 ネイサンに声をかけられ、やっと自分たちが人通りのある表道へ戻ってきたことに気がついた。無意識に動いていた足が歩みを止める。

「ご、ごめん」

「とにかく王宮に戻りましょう」

 ネイサンにそう促されたが、それでもシェリアは動けなかった。先を歩き出したネイサンの背中を見つめ、かけるべき言葉を探す。

「……シェリアスティーナ様」

 振り返りながら、ネイサンは諭すような声音でシェリアの名前を呼んだ。きっとネイサンは、シェリアの言いたいことをもう分かっている。

「今回のことは、随分な大事おおごとになってしまいました。もう、俺たちだけの手に負える話ではありません」

「報告を、するの?」

「はい」

「そうしたら、アシュートの耳にも入るよね?」

「そう思います」

 シェリアは激しく首を振った。

「お願い、それは……!」

「シェリアスティーナ様、ここで事実を俺たちの胸に秘めていても、いずれは露見することです」

「だけど、こんなのってないよ。ただアシュートと妹さんを再会させたいだけなのに。このままじゃ二人が対立することになっちゃう」

 私の、せいで。シェリアは今にも泣き出しそうだった。

「もはや、仕方のないことでしょう」

「反聖女派のメンバーとして妹さんが本格的に動き出す前に、どうにか見つけて説得すれば」

「俺たち二人にできることではありません。これは国を挙げて取り組むべき問題です」

「お願い、それは待って。ネイサン、お願いだから!」

 これ以上負の連鎖を続けたくない。断ち切りたい、そのためにできることならなんでもするつもりだったのに。どうして上手くいかないのだろう。

 ――それになにより、もうこれ以上アシュートを傷つけたくない。


 しかしネイサンはどこまでも冷静だった。シェリアの訴えに心を動かされた様子は見せなかった。そう、これは感情に流されてうやむやにしていい問題ではないのだ。

 シェリアにもそれは分かっていた。ここで事実を秘めていても、いずれは露見する。いや、きっともっと酷い。なにも知らせないまま「時」が来れば、事態は更にやっかいなことになるに違いない。

 それでも胸にこみ上げてくるこの激情は、どう抑えればいい?


「……」

 ネイサンはしばらくシェリアを見つめていたが、不意に視線を逸らし周囲をうかがう様子を見せた。シェリアもそれに気づき同じように視線を巡らす。買い物帰りの主婦や店じまいを始めた出店の店主らが、シェリアたちのやりとりに注目し始めている。

「少し、お茶でも飲んで帰りましょうか」

「え?」

 突拍子もないネイサンの提案に、シェリアはぽかんと口を開けた。

「この近くに、美味しい茶を飲ませると同僚に評判の店があるのです。ここで話すのもなんですから、宜しければそちらへ」

 一瞬ネイサンの意図が分からず答えに窮したが、すぐに悟って頷いた。王宮へ続く往来の真ん中で言い争いをする男女ほど人目を引くものもない。一度場所を変えたほうがいいだろう。それでは、と歩き出したネイサンの背中を追って、シェリアは俯きがちについて行った。


 案内された喫茶店は、なんとシェリアも知っている所だった。

 昔、まだ町娘だったころに噂でよく聞いたお茶の専門店だ。見た目も美しいハーブティーが色々あるというので、若者の間でちょっとした話題になっていた。しかし、気軽に毎日立ち寄れるほど安い店でもなかったので、結局シェリアは入る機会を逃したままだったのだ。


(まさかこんな形でここに来ることになるなんて思わなかったな)

 窓際の席に通されて、シェリアはネイサンと向かい合う形で腰を下ろした。

 店内を見渡すと、それほど混雑はしていない。ネイサンの同僚に評判というから知り合いと鉢合わせてしまうのではと思ったが、どうやらそれらしい客はいないようだ。考えてみれば、平日の夕暮れ時に喫茶店へやって来る兵士などいるわけがないか。


 間もなく出されたハーブティーを一口飲んで、シェリアはほっと息をついた。高ぶっていた感情が少し落ち着く。ネイサンがシェリアをここに連れてきたのは、なによりもシェリアを落ち着かせるためだったのだと今更ながら気がついた。


「ネイサン……、ごめんね」

 ぽつり、とシェリアは呟いた。

「ネイサンの判断、間違ってないよ」

「あなたにもアシュート様にも辛いことなのは、分かります。ですが俺は職務を全うしなければ」

 シェリアは頷いた。

「アシュート様はお強い方です。きっと今度のことも受け止め、然るべき対応を取られるでしょう」

 それも分かっている。アシュートはどんな事実からも逃げたりしないはずだ。それだけの強さを持っている。……でも。

(どんなに強い人だって、支えもなく頑張り続けていたら、きっと折れてしまう)

 シェリアはお茶のカップを両手で強く握り締めた。その拍子に、ゆらり、とカップの表面が小波さざなみを立てる。

 アシュートの支えになれる人、きっとそれが彼の妹ミリファーレだったのに。彼女がシェリアスティーナと戦う道を選んだというのなら、自分はどうすればいいのだろう。アシュートたちを対立させたくない。そのために自分はなにができる?

(この身さえなければ……、でも)

 聖女の地位を退くことなど、できはしない。この身体があるかぎり新たな聖女は誕生しないのだから。しかし、かといって自ら命を絶つことも許されていない。――神が、それを許さない。

(私にできることってなんだろう)

 これからどんな顔をしてアシュートに会えばいいのか。シェリアと向き合いたいとアシュートは言ってくれた。だが、そんな彼の思いに応えるどころか、それを踏みにじることしかできないではないか。


「ネイサン……、私、どうすればいい?」

 縋るように顔を上げた。なにかに、誰かに縋らずにはいられなかった。ネイサンは逡巡するようにシェリアの手元を見つめている。

「難しい質問です。俺たちの力だけでミリファーレ様を止めることはきっとできないでしょう。ただ」

「ただ?」

「シェリアスティーナ様には、アシュート様を支えて差し上げることができるのではないですか」

「私が? まさか!」

 むしろこの身こそが全ての元凶だ。きっとミリファーレのことを知ったら、今度こそアシュートは自分から離れていくだろう。

 そう思うと、胸が激しく痛んだ。


「アシュートは絶対に私を許してくれないよ」

「それを決めるのは、アシュート様なのでは」

「でもどう考えたって」

「今までもそうだったのではないのですか。あなたはアシュート様に負い目を感じていらっしゃるようだ。ですが、アシュート様はずっとあなたのことを気にかけていらっしゃった。許せないというのなら、そのようなことはなさらないのではないですか。分かりませんが」

「……」

 そうだろうか。確かにアシュートには何度も助けられてきた。だがそれが彼の本意であったとはとても思えない。仕事だから、仕方なく。そういうことだったのではないかと思ってしまう。

「申し訳ありません、俺はこういったことを考えるのが苦手なので」

 シェリアは慌てて首を振った。言われてみれば、アシュートとの関係についてまでネイサンに頼ろうとするのはお門違いだった。こうしてミリファーレ探しに付き合ってもらっているだけでも、すでに護衛役の仕事からは大きくかけ離れているのだ。


「私こそごめんなさい。でも、お陰で気持ちは落ち着いたよ。妹さんのことを報告するの、やっぱり当然だって納得できた。もう大丈夫だから……帰ろっか」

 ネイサンは気遣うようにシェリアの瞳を覗き込み、それから黙って頷いた。シェリアは少し微笑みを浮かべ、見納めにともう一度店内に視線を走らせる。次にこうして街の喫茶店に入ることができるのは、いつになるだろうか。


「シェリアスティーナ様」

 ネイサンがそっとシェリアに呼びかけた。

「今回のことは上に報告しますが、俺も独自で調査を続けましょう。またなにか新しく分かることがあればお伝えします」

 シェリアは驚きに目を見開いた。きっとそれは、ネイサンの精一杯の歩み寄り。

「――ありがとう、お願いします」

 これから事態はますます厳しさを増していくだろう。だが、その現実から逃れることはできない。ならばせめて自分にできることはないのだろうか。考えれば考えるほどに、答えが遠ざかっていく気がした。



 王宮へ戻ると、辺りは嫌なざわめきに包まれていた。

 目立たぬように部屋まで戻らねばと気負っていたシェリアだったが、門をくぐった所でいつもと違う空気が流れていたのに気がついた。見張りの兵士たちも使用人たちも、王宮を出入りする者など興味はないというように、他の「なにか」に気を取られている様子なのだ。

 眉をひそめながら言葉を交わす人々を見て、シェリアとネイサンは顔を見合わせた。ネイサンにも心当たりはないようで、静かに首を横に振っている。一体なにが起こったのか? 分からないが、とにかくこの密やかな混乱に乗じて部屋へ戻るのが先決だと思い直した。今ここで事情を尋ね歩いて自ら目立っていては世話がない。


「シェリアスティーナ様!」

 私室近くの廊下までやって来たところで、イーニアスが険しい表情を浮かべ駆け寄ってきた。

「よかった、姿が見えないので心配しました。――今までどこへいらしてたんです?」

 すがりつかんばかりの勢いで詰め寄るイーニアスに、シェリアは思わず一歩退く。イーニアスは納得がいかぬ様子で、側のネイサンにちらりと視線をやった。

「あのね、ちょっと、散歩に」

 こんな答えではイーニアスの神経を逆撫でするだけだろうと思ったが、それ以上なんと言えばいいかシェリアには分からなかった。案の定イーニアスが悲痛な色で顔を染める。

「侍女たちからもそのように伺っています。ですが、王宮中お探ししてもどこにもいらっしゃらなかったようですから」

 そこまで心配をかけていたのか。申し訳なさが手伝って、シェリアは素直に白状した。

「ごめん。実は街まで出てたの」

「街へ?」

「ん……。どうしても王宮を出たくって。ネイサンは平民の出身だから街中にも詳しいと思って、一緒に来てもらったんだ」

「……そうですか」

 シェリアがあまり多くを語りたがらないのを察したのだろう、イーニアスは瞳を伏せてそれ以上の追及はしなかった。

「だが、どうかしたのか? 散歩だと聞いてもなおシェリアスティーナ様を探していたというのは」

 ネイサンがイーニアスに問いかけた。気を取り直したようにイーニアスは顔をあげ、鋭く頷く。

「先ほど王宮に連絡が入ったんだが、どうやら地方で軍と反聖女派の衝突があったようなんだ」

「軍と反聖女派の、衝突?」

 思いもかけない出来事に、シェリアの声が上ずった。

「これまでも小競り合いのようなものなら何度かありました。ですが、今回はかなり大々的な戦闘もあった様子です。無事地方軍が反聖女派を鎮圧したようですが、その報せが入ってきたので、王宮内に潜む反聖女派がシェリアスティーナ様に危害を加えようと動き出すのではないかと心配になって」

「……」

 そうか、王宮の空気がおかしいと思ったのは、この一報があったからなのか。――事態は既に動き出している。ならば、もう止められない?

「鎮圧したっていうことは、反聖女派は力が弱くなるのかな」

「おそらくそうはいかないでしょう。反聖女派の中心勢力はこの王都に根付いていますから。むしろ地方にも王宮の軍と戦えるほどの勢力があったことに驚きが走っています」


 やはり、これからが戦いの本番か。今回の衝突があったのなら、確かに反聖女派は却って勢いづくかもしれない。今まで身を潜めていたアシュートの妹、ミリファーレもこれを機に動き出すということも十分考えられるのではないか。

 シェリアはちらりと隣のネイサンを見上げた。シェリアなどより余程こうした状況に詳しいネイサンなら、これからどのような動きがあるのかよく分かっているだろう。そのネイサンは、しばらくむっと黙り込んでいたが、唐突に踵を返し歩き出した。

「俺は、今日の報告も兼ねてもう少し詳しい話を聞いてきます。――イーニアス、シェリアスティーナ様のことは頼む」

 いつもと変わらぬように聞こえる硬質な声に、わずかに逼迫ひっぱくした音が含まれている。どうやらシェリアの考えも見当はずれではないようだ。


(……アシュートにも、妹さんのことが知られてしまう。やっぱり避けられない)


「ここまで話が大きくなって、驚かれたでしょう」

 黙りこくってネイサンの背中を見送るシェリアに、イーニアスが優しく声をかけた。自分のもたらした情報がシェリアを怯えさせてしまったと思い、気遣っているのだろう。

「王宮でも本腰を入れて反聖女派を排除するべく動き出しているようです。ですがきっと、この王宮内で衝突が起こることはありませんよ。……と言いながら、俺もあなたが心配で走り回っていたんですけどね」

 自分の言葉と行動が一致していないと気づいたらしいイーニアスは、照れたように頬をかいた。大丈夫だと自分に言い聞かせながらも王宮内を探し続ける、そのイーニアスの姿を思い浮かべ、シェリアは感謝の気持ちでいっぱいになった。

「ありがとね、イーニアス」

「あっ、いえ! すみません、恩着せがましい言い方でした」

「ううん、本当にありがとう。あと、黙って出て行ってごめんなさい」


 イーニアスの他にも、こんな時期に出かけたシェリアを心配してくれた人はいただろう。ナシャにカーリン、ジークレスト。――それにきっと、アシュートも。

 そうまでしてやっと持ち帰った情報は、ますます彼らの心を傷つける。それを思うとやりきれない気持ちになるシェリアだった。

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