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第46話

 空から降り落ちる雫が、水面に波紋を広げていく。

 シェリアはぼんやりと頬杖をつきながらその光景を眺めていた。

 深く茂った木々は雨を優しく遮って、唯一ぽっかりと穴の開いた泉の真上からは、雫だけでなく時折漏れる陽の光も差し込んでくる。


 静かだ。

 王宮の外れにこんな場所もあることを知らなかった。


 泉を囲むように小さな白い花が咲き乱れている。その合間に横たわる岩は腰をかけるのにちょうどよい。雨音は地面に吸い込まれてほとんど聞こえてこない。細い細い雫は、まるで糸のように降り注いでくる。


「シェリアスティーナ様、雨が強くなってきたようです。そろそろ戻られませんか」

 後ろからネイサンに声をかけられて、シェリアは振り返った。

 ネイサンは本当に気配なく人の背後に控えるのが上手い。いないものとして振舞ってもそれに後ろめたさを感じることもないから、一人になりたい気分の時はつい彼を護衛に選んでしまう。今回王宮周りの散歩に行くということで彼を連れたのにも、そうした理由が無いわけではなかった。


 しかしもちろんそれだけではない。

 今こうしてネイサンを連れて散歩している主な目的は、彼と二人きりになることだ。誰にも邪魔されず、また迷惑をかけず彼に個人的な頼みごとをしたい。本当ならネイサンも巻き込みたくはないのだが、事は一人でどうにかなるような問題ではない。協力を仰ぐとすれば、彼以上の適任者を思いつくことができなかったのだ。


「実はね、ネイサン。あなたに頼みたいことがあるの」

「……なんでしょう」

 さして動揺も見せずネイサンは先を促した。シェリアがただ散歩に来ているだけではないと察していたのだろうか。

「ネイサンって、アシュートの妹さんが王宮を追放される事件があったこと、知ってる?」

「存じています」

「それ以来妹さんが行方不明だっていうことも?」

「はい」

「その原因……、私にあったでしょう。私のせいで妹さんがここを追い出されることになって、きっとアシュートのこともすごく傷つけたと思う。本当に今更だけど、妹さんを見つけ出して王宮に呼び戻したいと思ってるんだ。それで、あなたの力を借りたいの。街に出て、どんなものでもいいから妹さんの情報を探してきてくれないかな?」

 ネイサンが押し黙っているのを見て、シェリアは慌てて言い繕う。

「自分でも勝手だって分かってる。でもどうにかしたいんだ。ただ、私が妹さんを探し始めたって周りに知れたら、またなにか企んでるんじゃないかって皆を不安にさせるかもしれないから、なるだけ内密にお願いしたいの。突然呼び出してこんなこと頼むの、卑怯だとも思うんだけど。ネイサン、お願い! 力を貸して」


 シェリアは思い切り頭を下げた。

 卑怯でもなんでも、ネイサンの協力を得られなければ自分一人ではどうしようもない。

 アシュートの妹の事件を知ったとき、どうにかして彼女を見つけ出そうと心に誓った。事件のあらまししか知らない身ではあるが、それでも彼女に非がないのは明白である。今更見つけて王宮に迎え入れようなど、アシュートにも妹自身にも不愉快な話でしかないかもしれないが、それを判断するのはシェリアではない。それに、彼らを再会させることが間違っているとは思えない――さすがに手放しに喜んでもらえるとも思っていないが。


 密偵の仕事を得意としていたというネイサンならば、今回のような人探しも勝手が分かっているのではないか。それにあまり大事おおごとにせず進めたいシェリアにとって、彼の影となって動く能力はありがたい。頼むならネイサンしかいない、そう決めて彼をこんな王宮のはずれまで呼び出したのだ。


「……以前も、同じ仕事をしたことがあります」

 引き受けるか否か、そのどちらかの返事を思い浮かべていたシェリアは、思いがけないネイサンの返答に顔を上げた。

「同じ仕事? アシュートの妹を探す仕事っていうこと?」

 そうです、とネイサンは頷いた。

「アシュート様もただ黙って妹君を見送ったわけではありません。アシュート様ご自身で密かに捜索隊を結成し、妹君の行方を捜させたのです。俺はその時、捜索隊の末端として実際に街へ出て情報収集をしていました」

 そういえば、カーリンもアシュートが秘密裏に妹を探していると言っていた。それもごく自然な話である。大切な妹が理不尽に追い出されたのだ、どうにか彼女を保護しようとして当然だ。

「でも、見つからなかったんだ?」

「はい。目ぼしい情報屋たちには前もってシェリアスティーナ様の緘口令が敷かれていましたので。妹君に関する情報を少しでも漏らせば即刻処刑する、と。シェリアスティーナ様のその言葉が単なる脅しではないことは情報屋ともなれば十分に分かっていましたので、いくら金を積んでも妹君の情報を回す者はいませんでした。一般人にも聞き込みをしましたが、大した情報は得られず現在まで至っています」

「私が、緘口令を」

 その徹底ぶりに彼女の怒りの深さが垣間見える気がする。一体なにが彼女をそうまでさせたのか――いや、とにかく今はアシュートの妹の件だ。


「それじゃきっと、今聞きに行っても同じだよね。誰もなにも喋ってくれないってことになる」

「そうですね。今でも口を開く者はいないでしょう。緘口令を撤回するとなると、大掛かりな通告が必要になります」

 それは駄目だ。目立った動きは街のどこかにいる妹自身に警戒を抱かせてしまうかもしれない。それなら――それならば。

 シェリアは俯いていた顔を上げ、まっすぐネイサンの目を見つめた。

「じゃあ私が直接情報が欲しいって言えば……平気かな?」

「は?」

「私が直接、街に出る。それで情報屋に会う」

 ネイサンは言葉を失い、唖然としてシェリアを見下ろした。



 その日の午後、儀式を終えた後シェリアを迎えに来たのは、イーニアスでもネイサンでもなくジークレストだった。派手な大男がいかにも気楽そうな様子で片手を上げ、シェリアに気の抜けた視線を向けている。

「よっ、シェリア。お疲れさん」

「ジークさん? どうしたんですか、ジークさんが私を迎えに来るなんて」

「別にー、ただなんとなく。たまにはいいだろ、こういうことがあっても」

 とは言うものの、神聖騎士団副長その人がなんでもない日にわざわざお出迎えなど、「ただなんとなく」取るような行動ではない。ジークレストの気まぐれな性格からすれば全くないとは言い切れないかもしれないが、それにしても不自然である。一体なにを企んでいるのかと距離を取ったシェリアに、ジークレストはややむっとした様子で両腕を組んだ。


「なんだよ、失礼な奴だな。せっかくわざわざ迎えに来てやったのによ」

「だから、どうして」

「だから、なんとなくだっつってんだろっ」

 言いながら腕組みを解いて突進してくる。ひっとシェリアが息を呑んだ瞬間には、その太い両腕で軽々と抱えられてしまった。

「な、なんですかいきなり!」

「どーせお前、この後ヒマだろ? だったら少し騎士団の訓練に顔出せよ。あいつらうるせーんだ、またシェリア連れて来いって」

「えええ? 訓練って、あれですか? 何十回も剣の素振りをやらされた」

「剣がイヤなら他のでもいいぜ。寝技とかみっちり教えてやろうか」

「結構です! 降ろしてくださいっ、今すぐ!」

「さー行こうぜー。お前連れて行くこと、イーニアスには言ってあるから安心しな」

 なにをどう安心しろと言うのか。だが、人の意見を聞き入れるような男でないことはもはや分かっていたので、シェリアはこうべを垂れて観念するしかないのだった。



 ジークレストの左腕に座らされるような形で抱えられていたシェリアは、通り過ぎる人々のぎょっとしたような視線をいくつも受け止め、消え入りたいほどの気持ちになった。

 もともと図体のでかいジークレストが人を抱えて廊下を歩けば、それは目立つに決まっている。しかも抱えられているのがかのシェリアスティーナとなれば、誰だって驚かずにはいられないだろう。

 しかし人々の視線は瞬時の驚きののち「ああ、またか」というやや納得気味のものに変わる。ジークレストとシェリアがセットになると、どうにもくだらぬことをやらかすらしいというのは、もはや周知の事実なのだろうか。そのままの格好で訓練場に乗り込んだときも、騎士達の表情にそれほど深刻な驚きは見られなかった。


「お前ら! 約束通りシェリアを連れてきてやったぞ」

 戦利品とでも言わんばかりに高々と抱え上げられ、シェリアはますます赤面した。

「ジークさん、降ろしてくださいってば!」

 もちろんシェリアの懇願はジークレストの耳に届かない。騎士達も抱えられたシェリアを見上げ、この状況を面白がっているようである。それぞれ思い思いに掲げていた剣やらなにやらを降ろし、ジークレストの周りに集まってきた。


「シェリアが言うには、今日は寝技を教えてほしいと」

「言ってません!」

「そうか、すまん間違えた。こいつらが寝技を教えたいと」

「言ってませんよ!」

 騎士達もそろって非難の声を上げる。上司が破天荒でも部下達はまともらしい。ちなみに神聖騎士団トップである「団長」にはまだ会ったことがないが、もしジークレストに輪をかけたようなとんでもない人物だったらこの国の将来が心配だ。


 やっとジークレストに降ろしてもらい、シェリアはほっと息をついた。少しざらつきながらも固く平らな地面の感触に安堵する。

「ちなみにアシュートは来てないよな?」

 ちらちらと視線を彷徨わせながらジークレストが部下達に小さく尋ねた。

「いらっしゃっていません」

 よし、とジークレストは重々しげに頷く。

「んじゃ今日は、お前らの訓練の様子をシェリアと見守っていてやろう。グダグダやってたらシェリアが帰っちまうぞ。頑張っていいとこ見せろよー」


 一つ大きく手を叩くと、それを合図に騎士達はそれぞれ元の位置へと戻っていく。少し名残惜しそうにシェリアを眺める者もいるが、それなりに気合は入ったようである。すぐに活気ある掛け声や鍔迫り合いの音が訓練場に響き始めた。この辺りの切り替えの速さは、さすがにプロというところだ。


「……ジークさんって」

 壁沿いに備えられた長椅子に腰かけたジークレストに倣い、シェリアもその隣へちょこんと座った。

「あんまり皆さんに、しっかりとした訓練つけてあげないんですね」

「言ってくれんじゃねえか」

 髪の毛を軽く引っ張られた。

「痛いです、痛いっ」

「うおー、シェリアの髪すげえサラッサラだな。気持ちいいな」

「止めてくださいよ、もうっ。ジークさんの隣には座りません!」

「まあ待てよ」

 逃げるように立ち上がったシェリアの左手を掴んで、ジークレストはぐいと引っ張った。お陰で再びジークレストの隣に腰を下ろす羽目になる。

「なんですかっ」

「……お前、街に出ようとしてるんだって?」


 思わぬ話が顔を出して、シェリアはびくりと身体を強張らせた。

 ――なぜジークレストが、それを。シェリアは目で尋ねたが、ジークレストは苦笑を浮かべて軽く肩をすくめるばかりである。とはいえ、尋ねるまでもない。ネイサンが喋ったのだ。

 少し恨めしい思いもあるが、彼の立場からすればその行動はごく当然のことと言えた。いくら聖女の頼みごととはいえ、単純に引き受けるにはあまりに危険な話である。直接アシュートに報告されなかっただけ有り難いかもしれない。

 ……ただ、ジークレストを選んだ辺り、いい人選だと頷くにはやや抵抗があるが。


「実は俺はな、『あの事件』についても詳しい話はほとんど知らねえんだ。多分上の奴らもアシュートも、意図的に俺には伏せてたんだろうなぁ。長い間お前と顔合わせないように仕向けてきたのと同じでよ。あんま人の噂話も気にしねーから、お前が実際事件にどれくらい関わってたのかも知らねえし。だから言えることかもしんねえけど、アシュートの妹を探してやりたいってのは間違ってないと思うぜ。そのために街へ出たいってんなら、行ってみりゃいいと思う。お前はもっと、自分がやりたいことをやりたいようにやっていいはずだ。俺がこの目で見た限り、お前は自分の信念貫いていい女だよ。完璧お前が正しいってワケじゃねえけど、お前の行動で救われる奴は確実にいるんだしな」

「……」

「けど」

 ジークレストは真面目な表情でしっかりと前を見据えている。その視線の先では部下達が懸命に剣を振るっているが、今彼の目に映っているのは別のものなのかもしれない。

「今はヤバいんだよ。時期的にな」

「時期的に……?」

「最近、王宮内で不穏な動きが広がってる。反聖女派の奴らが組織を作って活動し始めたんだ」


 ジークレストの横顔を見つめていたシェリアは、思わず目を伏せた。以前ネイサンが教えてくれたことだ。実際、反聖女派と見られる暗殺者に襲われていもいる。シェリアスティーナを快く思わない者は相変わらず存在するのだ。分かってはいるけれど、その事実を思うとどうしても胸が痛んだ。


「前からそういう小さなグループはあったんだけどな。対処のしようがないほど小さなグループだったってのもあって、ほったらかしにされてた。それがここんところ、一気に組織らしくなってきやがったんだ。もはや放っておけない程にな。――近々、内戦になるかもしれない」

「な、内戦……」


 思った以上に深刻な事態になっていると知って、シェリアは息を呑んだ。

 内戦、などという物騒な言葉がジークレストの口から漏れると一気に緊張度が高まる。ここ数十年で実際に「内戦」と呼ばれるような大きないさかいは起こっていなかったはずだ。シェリアにとってはそれこそまるで縁のなかった単語である。それなのに、まさか他ならぬシェリアスティーナ――この自分が原因でそんな大それた事態が引き起こされようとしているとは。


「分かるだろ? そういう時期にお前が外を出歩くことがどれだけ危険かってのは」

「……分かります」

 シェリアは俯いた顔を上げることができなかった。

 庭師のロノが言っていたっけ。シェリアの「想い」は、本人の手を離れても一人で歩き始めているのだと。しかしそれと同じように、また反対に、かつてシェリアスティーナが放った悪意もどんどん人々を侵食して留まるところを知らないのではないだろうか。誰にも止めることができない。必死になってかき集めようとしても、どんどん手から零れて広がっていく――そうしていつか、それは大きな黒い塊となっていくのだ。


 と、そこへ突然、シェリアの頭に優しい衝撃が落ちてきた。

 ジークレストの大きな手のひらがシェリアの頭を包んだのである。反射的に顔を上げようとすると、そのまま髪をぐしゃぐしゃにかき乱された。


「落ち込むなって。もうお前の周りは敵だらけじゃないんだぜ。味方ばっかりじゃないからって、それがなんだよ。俺だって色んな奴に嫌われてるけどな、俺を信じてついて来てくれる奴を俺も信じて、ここまで来たんだ。シェリアにも今なら、信じられる奴、たくさんいるだろ? ……例えば、目の前の色男とかよ」

 シェリアは微かに微笑んで頷いて見せた。

「あ、なんだよ。異議のある顔だな。まさかと思うが、色男のくだりじゃないだろな?」

「そんなことないですよ。すごく、分かります」

「ホントかぁ? ――とにかくな、シェリア。お前を憎んで剣を掲げる奴らは確かにいるかもしれない。けどな、忘れてほしくないのは、逆にお前を守るために剣を掲げる奴らもいるってことだよ。反聖女派からお前を護るのは誰だと思ってんだ? ――シベリウス王国随一の神聖騎士団、俺達だぞ! ――なあ、みんな!」

 大きな声でジークレストが叫んだ。するとどこから聞いていたのか、その場の騎士達が手に持っていた剣をしっかりと空に掲げて雄叫びのような返事を寄こした。


「――おおっ!」

 迷いのない強い声が、シェリアの心に直接響いてくる。


「ま、こういうこった」

 ジークレストは満足げに騎士達を見渡した。

「は、はい……」

「分かったか?」

「はい」

「ほんっとーに分かったのか?」

「はっ、はい」

「ほんっとうの本当だな!?」

「はい!」

 シェリアの返事が、騎士達に負けないほどはっきりと室内に響き渡る。ジークレストは不敵に笑って頷いた。

「なら、よし。――街に行ってきな」

「えっ?」

 突然の言葉に、呆けたその頬をつねられた。


「だからお前、街に行きたいんだろう? 今お前の周りは危ない。けど、俺達がついてる。それをお前はよーく理解した。それなら行ってもいいだろ。ネイサンの奴にもしっかり確認しといたしな、必ずシェリアの身を守るって。確かにリスクは結構デカいけど、それでも動かなきゃならない時は動くしかない。アシュートの奴には黙っててやるよ。だが、あんまりあいつに心配かけんなよ」

 つねられた頬がじんじんと痛い。しかし、その痛みがシェリアの思考回路を刺激してくれた。ジークレストはなにを言わんとしているのか。ジークレストはなぜシェリアをここへ連れて来たのか。霧がかった景色が晴れていくように、少しずつシェリアにもそれが分かってきた。


「ありがとう……、ありがとう、ジークさん。それに皆も!」

 今度こそ満面の笑顔で、シェリアは皆を見渡した。その笑顔を受け止めてくれる人達がたくさんいることが、とても嬉しい。そしてそれがどんなに有り難いことなのか、今ならよく分かった。

 動かなくてはならない。その先になにが待っていても、決めたからこそ動くのだ。そんな自分を後押ししてくれる皆の一言がなによりも心強かった。

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