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第36話

 翌朝、シェリアは目覚めてすぐに清めの間へと足を運んだ。

 まだ朝の早い清涼な空気の中、一人静かに水浴びをする。

 清められるのは身体だけではない。長い間どんよりと淀んでいた心までもが澄んでいくようで、それがシェリアには心地よかった。


(さあ、もう一度顔を上げてみよう)

 自分を取り巻く環境は相変わらず複雑で先が見えず、不安で満ち満ちている。


(それでも諦めない、それが大切――そうだよね、ロノさん)

 透き通った水が、優しくシェリアの身体を撫でてゆく。シェリアはしばらくそのままじっとしていたが、やがて小さく頷いて清めの泉を後にした。



 用意されていた白いワンピースを身にまとい離れを後にするとちょうど侍女が控えていた。シェリアが部屋に閉じこもっていた間、度々様子を見に訪れてくれたうちの一人だ。

「シェリアスティーナ様、この後はどうなさいますか?」

「うん、礼拝の儀に出席するよ」

 答えると、侍女はぱっと顔を赤らめ微笑んだ。

「左様でございますか。ご気分は……」

「大丈夫。とてもいいよ」

「それはようございました」

 嬉しそうに頷いてくれる。それがシェリアにも嬉しくて、つい色々と話しかけたくなってしまった。けれどあまり馴れ馴れしくすると相手を怖がらせてしまいそうだ。シェリアはどうにか気持ちを抑えつつ、侍女の後ろについてそっと歩くに留めておいた。


 ああ、これがナシャだったらもっと色々なことを話して笑いあえるのに。――そう思って、不意に彼女の泣き顔を思い出す。


(私、ナシャを泣かせたままだった。カーリンさんも……ああ、今頃どうしてるんだろう)

 二人は自分を許してくれるだろうか? 長く支えてくれた彼女たちを、自分の勝手で突き放すようなことをしてしまったのだ。カーリンに至っては、知らなかったとはいえ彼女の意思に反して自分の世話をさせていた事実がある。だからなおさら後ろめたい。本当は、ずっと自分のことを恐れていたのだから……。


 そう考えると、とてもとても悲しいけれど、それも仕方の無いことだと納得しなくてはならない。まだ笑顔でカーリンと言葉を交わせる自信はないが、いつか必ず分かり合えると信じたい。いつか、そんな日がくれば……。


(――いいのになあ。うん、そうなったら、いいな)

 カーリンの屈託の無い笑顔を頭の中に思い浮かべて、シェリアは胸の内を小さく震わせた。



 礼拝の間にやってくるのも随分と久しぶりだ。

 久しぶりと言ってもたかだか数週間振りのこと、もちろん何ら変わったところは見受けられない。以前と同じように白い壁の清潔で質素な教会が建っているだけだ。しかし毎朝のこの儀式では国の重役達が一堂に会するので、シェリアにとってはいささか緊張する時間である。久々の出席ともなれば尚更身体が固まってしまうのだった。

(皆は今日私が儀式に出席することを知ってるのかな。もし何も知らないのなら、騒ぎになるかもしれない……)


 それに緊張の種は他にもある。ライナスのことだ。

 確か彼もこの儀式には参加していると言っていたはず。のうのうと儀式に顔を出したシェリアを見て、彼は何を思うだろうか。きっといい顔はしないに違いない。それを思うと、彼とはとても顔を合わせる勇気を持てなかった。


(――ああ、そんな風に考えちゃダメ! 例えライナスにどう思われていたって、私は私。いつかライナスとも理解しあえるように、今はしっかりと自分を持っていなくちゃ)

 ふるふる、と頭を振って逃げ出したくなる気持ちをどうにか追い払う。そうこうするうちに儀式は始まった。


 祭壇の目の前にある指定席へ足を運ぶ。反対側からはアシュートが同じように歩み寄ってきた。それ程驚いた様子ではないから、おそらく朝の侍女が前もってシェリアの出席を伝えておいてくれたのだろう。同様に、シェリアの姿を見た重臣達にも戸惑いの様子は見られない。しかしほっとしたのも束の間、席へつくと途端に背後から多数の視線を感じてシェリアはうろたえた。

 ――この視線のどこかに、ライナスのものもきっと含まれている。

 そう思うと背中を冷たい汗が滑り落ちた。手が細かく震え始める。


(大丈夫だと思ったのに)

 己の意思とは裏腹に、身体は明確に拒絶の反応を見せ始める。


 シェリアの様子がおかしいことに気づいたらしく、すぐ隣に座っていたアシュートが小声で話しかけてきた。

「……大丈夫ですか?」

 シェリアは微かに頷いた。

 あまり大丈夫ではないのだが、だからとてどうにもならない状況である。


 室内には前奏の音楽が流れ始めた。儀式が始まったのだ。

「顔色が」

「うん、ごめん……大丈夫」

 せめて手の震えだけでもどうにかしたいと、シェリアはぎゅっと拳を握った。手の中の嫌な汗が指に絡みつく。

 アシュートは少しためらったようだったが、不意に手を伸ばすとその大きなてのひらでシェリアの右手を包み込んだ。目を瞑ってどうにか気を静めていたシェリアも、これには驚き顔を上げる。困ったようなアシュートの顔がすぐ側にあった。


「落ち着かれるまで」

 言葉少なに、アシュートが呟いた。

「……ありがとう」

 シェリアも多くは口にせず、少し微笑んでみせた。

 急速に手の震えが治まっていく。

 人の温もりというのはなんて優しいものなのだろう。このまま完全に落ち着いたなら、すぐに手を放されてしまうだろうか。そう思うと寂しくさえあった。ずっとこうしていて欲しいだなんて、とても口には出せそうに無い。そう思っている自分自身にさえ戸惑っているのだから。

 後ろで控えている人たちは繋がれた手に気づいているだろうか? だとしたらよほど驚いているに違いない。自分にとっても、まるで現実感のないこの状況。

 しかし、儀式の間、アシュートの手が離れていくことは無かった。


 無事に儀式が終わり、まだふらつきがちな足取りでシェリアは祭壇の袖へ戻っていった。すると思いもよらず、そこに彼女を待ち構える人影がある。


 ナシャである。


 緊張した面持ちでじっとシェリアを見つめ、息を呑むようにして立ちすくんでいる。

「あ……」

 シェリアも途端に身を強張らせた。早く会って謝らなければと思ってはいたものの、まだ心の準備が何もできていないのだ。

 何を言おう? どうやって気持ちを伝えよう?

 けれどナシャはシェリアの言葉を待たなかった。思いつめたような表情がぐっと歪むと、大粒の涙がぽろぽろとその目から零れ落ちた。そのままシェリアに駆け寄り、抱きついてくる。


「――シェリアスティーナ様!」


 ぎょっとしたのは周りの者たちだった。一介の侍女が、かの聖女に突然縋りつくなど――。それでもナシャを引き剥がす者がいなかったのは、いつの間にか側に控えていたアシュートが周りを制したからだった。


 シェリアも一瞬驚いたものの、すぐに胸にこみ上げてくるものがあった。

 ナシャの気持ちが痛いほど伝わってくる。そして、ずっと封じ込めていた自身の気持ちも、言葉や理屈を越えて心の底から溢れ出してきた。


「――っ、ナシャっ……!」


 ぎゅっ、と固く抱きしめ合う。そして声を上げて二人で大泣きした。

 ごめんなさい、も、ありがとう、もなかった。ただわあわあと泣いて泣いて、ひたすら泣いて。辺りに泉ができてしまうのではないかという程、激しく泣き続けた。

 そうして、泣き疲れるまで。



 お互い真っ赤に泣きはらした顔を並べて、シェリアとナシャは教会の長椅子に腰かけた。シェリアはただ虚空を見つめ黙りこくっている。余りの勢いで大泣きしたせいか、呆然としてしまって指一本動かす気にならないのだ。それは隣にいるナシャも同じであるようだった。


「……」

「……」


 心地の良い沈黙。

 礼拝の間には二人しかいない。シェリアの全く気づかぬうちに、皆退出してしまったのだ。それもやはりアシュートの気遣いであろうことは何となく想像がついた。 


「あの……」

 久々に口を開いたのは、ナシャだ。あの豪快な泣きっぷりからすれば、一転、蚊の鳴くような声だった。

「私、シェリアスティーナ様をお連れしたいところがあって……、それでこちらに、来たのですけど」

 身を縮め、恥じ入るように呟く。

「私を?」

「申し訳ありません、それなのに、思わず我を忘れて」

「ううん……それはいいんだけど」

 ナシャが自分を連れて行きたいところとは? 一瞬胸がざわついた。他の誰でもない彼女が迎えに来たからには、それなりの理由がある場所なのではないか。例えば、今までに二人で出向いたことのあるような場所……。


「ホリジェイルの、医療室へ」

 頭に浮かんだとおりの言葉を聞いて、シェリアはさっと顔色を変えた。


 あの場所こそ、自分の偽善に満ちた自己満足の結晶ではないのか。

 聖女シェリアスティーナがいたずらに作ったであろう拷問所ホリジェイルを取り壊し、傷ついた人々を治癒する場所を設けたこと自体は間違っていないはず。それだけは自信を持って言える。

 けれど、ではその医療室で成された己の行いが本当に被害者達のためになったのかと、そう問われたら? ――真っ直ぐうなずくことなどできない。彼らは怯えていた。自分を陥れた張本人の姿を目にして、あれほど恐怖に身を染めていたではないか。それでも居座り続けたのは何のためだったのか。彼らを癒すためではなかった、自分を納得させたいだけだった、きっと――。


(また同じ間違いを犯してはいけない)

 シェリアの強張った表情に気づき、ナシャもひどく戸惑った。


「だ、だめでしょうか……?」

「ナシャ、ごめん、私」

「皆、ずっとシェリアスティーナ様を待っていたんです。ですから、ほんの少しだけでもお顔を見せていただけたら……」

「――え?」

 思いも寄らぬ言葉にシェリアは目を見開いた。何かを聞き間違ったかとさえ思った。

「シェリアスティーナ様がいらっしゃらなくなってから、皆本当に寂しそうで。それに、心配もしていたんです」

「うそ」

 ナシャを否定したいというのではなかった。ただ純粋に、そんなはずが無いと思う。


「嘘ではありません! 医療室の管理をしているミズレーさんも言っていましたでしょう。皆、姿は見せなくてもシェリアスティーナ様のことを気にしているんだって」

「それは、怯えていたんでしょう。今度は一体何をするつもりなんだって。皆の安眠の邪魔をしてたんだよ、私」

「……最初は、確かに怯えている者もいたかもしれません。でも、今は違いますよ」

 そんなはずがない、とシェリアは力なく首を振った。それでもナシャは引こうとしない。

「シェリアスティーナ様、ほんの少しでいいのです。お時間いただきたいのです」

「ナシャ……」

「そろそろ医療室も解散になります。皆ずいぶん回復しましたから、それぞれの家に戻ることになるでしょう。せめて最後にお顔を見せてさしあげて下さいませんか。もちろん、本当なら皆の方からシェリアスティーナ様の所へ参上するべきなのですが」

「そっ、そんな訳にはいかないよ! それだったら私が行く、けど……」

「お願いします。このまま皆バラバラになるなんて、きっと駄目なんです」

 ナシャが力強く言い募った。こんなにはっきりと意見を伝える娘だっただろうか? 自分があれこれと悩んでいる間に、彼女も思うところがあったのかもしれない。


「うん……分かった」

 今更どんな顔をして会えばいいのか分からない、けれどこれほどまでに望まれたなら行くべきなのだろう。シェリアが曖昧に頷くと、ナシャはすぐにその手を取って立ち上がった。

「行きましょう」

 引かれるままに教会の扉をくぐり抜ける。

 するとその扉の向こうには、ずっと待っていてくれたらしいアシュート、そして――随分久しぶりに見るジークレストの姿があった。


「おっ、ナシャ、説得成功だな!」

 挑戦的に笑うジークレストは相変わらずだ。シェリアは懐かしさにほっとする傍ら、やはり同じく懐かしさのために緊張を覚えた。


「お、お久しぶり……です」

 どう声をかけていいか分からないシェリアを見るなり、ジークレストはその華奢な身体を抱え上げた。


「わっ」

「ほんっとに久しぶりじゃねーか! つーか久しぶりすぎるぞ! ったく、しばらく見ない間に棒みたいになっちまって。俺の剣より軽くなってどうすんだ」

「さっさすがにそんなワケないじゃないですか! 下ろしてくださいよっ」

「ほらほら、聖女サマの気が変わっちまわねーうちに医療所行こうぜ」

「自分で歩いて行きますってば!」

 暴れてみてもジークレストは全く意に介さない。助けを求めるようにアシュートに目を遣ると、彼はやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。

「ジーク、すぐに調子に乗るのはお前の悪い癖だ。ほどほどにしておけよ」

 それだけ! とシェリアは喚きそうになった。シェリアに縋られた手前、一応一声かけてはみたが、本気で止めさせる気にはなっていないのは明らかである。


「私は仕事に戻ります。何かありましたら、すぐに仰ってください」

 淡白な台詞を残し、アシュートは去って行った。

「薄情者……」

 ぼそり、とシェリアは呟いてみる。

「あれであいつなりに色々気ィ使ってんだよ」

 聞こえていたらしいジークレストが笑って言った。

 分かっている、と今度は声に出さず、シェリアは心の中で呟いた。アシュートの優しさは、いつもずうっと遠くを回ってくるから、やっと手元に届いた時にはそうとはなかなか気づけないのだ。だけどもう、分かっているから。


 そして、今自分を抱え上げているジークレストの優しさも。

 まるでほんの一日ぶりに顔を合わせたような気軽な態度で接してくれるが、シェリアの姿を認めた最初の一瞬、彼の瞳に強い力がさっと宿った。シェリアの無事な姿を、しっかり確認しようとしてくれたのに違いない。


 分かっている――そう、やっと分かったのだ。

 諦めない強い想い、必ず受け止めてくれる誰かがいる。

 九十九人が素通りしても、たった一人でも、受け止めようと手を差し伸べてくれる人がいる。そして代わって育んでくれる。そうして世界は流れていくのだ。


 自分はシェリアスティーナじゃない。すぐに消えてなくなる存在。

 でも、この想いを誰かが受け止めてくれるならば――きっとこの想いだけは、消えたりしない。


 だから諦めずに、もう一度頑張れる。

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