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第32話

 雨はもう一週間降り続いていた。


 ほんの時折、ふと思い出したように雨音が止まる。

 それでも空に立ち込める暗雲は一向に退く気配を見せなかった。

 分厚い雲の切れ目から、さあっと光の筋が線を描く――というようなこともなく、ひたすら鬱々とした毎日が続くのみであった。


 この空模様を、シェリアの具合と結びつけて考える者は少なくない。


 ここ二ヶ月弱、人が変わったようにあれこれと動き回っていた聖女が、突然死人のように消沈してしまった。部屋に閉じこもったきり、そこから一歩も出ようとしない。となれば、この雨雲もきっと申し合わせてやってきたに違いないと皆が考えるのも無理はなかった。


 こう雨続きでは、いかに聖女が大人しかろうと爽やかな気持ちにはとてもなれない。

 シェリアの心をそのまま写したかのような灰色の空に、使用人たちも思うところがあったのだろう。世話を焼きに部屋を訪れる面々はいつもより多く、また掛けられる言葉も普段以上に気遣わしげではあった。しかしシェリアには、その優しさに応えることができない。


 恐ろしいのだ。

 それが、本物の優しさだと信じることが、最早できないのだ。


 人に縋ることの恐ろしさを知ってしまった。

 心を預けた者に裏切られる痛みを。その絶望を、知ってしまった。


(ずっとずっと知らずにいたのに――。どんな時にも、どんな場所にも光があったから。私を護ってくれる温かい光が。でも今は、もう)


 優しくされるほど戸惑ってしまう。何と言葉を返せばいい? 一体どうすれば、あなた達は私を受け入れてくれる? ――いや。受け入れてくれなくてもいい。ただ、そっとしておいてくれさえすれば。放っておいてくれればいいのだ。


 そのためは無関心でいることがいいとシェリアは悟った。

 こちらが外の世界に無関心でいれば、向こうも自分に無関心でいてくれる。投げかけられた言葉に返事を投じなければ、その後に続く会話など存在し得ないのだ。そうして世界を閉ざしてしまえば、喜びを得ることがない代わりに、悲しみを与えられることもない。ずっとずっと、平静でいられる。


 そのうち、今まで一度も見たこともないような侍女までがシェリアの部屋を訪れるようになった。

 出された時とほとんど様子の変わっていない食事の皿に目を落とし、どうか召し上がってくださいと懇願する。ゆるゆると首を振るだけで答えると、泣きそうな表情で、何かほんの一言でも仰ってくださいと声を震わせるのだった。


 もちろん馴染みと言える侍女も世話を焼きにやって来る。以前はシェリアが熱心に話しかけても一礼を返すだけといった態度だった侍女達も、今ではどうにかシェリアから言葉を引き出そうと必死になっていた。

 鮮やかに咲き誇る花の束を抱えてきては、美しいですねと優しく笑いかけてきたり、ほうと溜息の出るほど繊細なドレスを運んできては、きっとお似合いになりますよと明るく試着を薦めてみせたり。

 それにもシェリアは一切答えなかった。

 その度に悲しげな表情を見せる侍女たちをぼんやりと眺めながら、一体彼女らは何が悲しいのだろうと思わずにはいられなかった。上司に聖女の態度をどうにかしてこいと命じられているだけなのだということは、分かっているつもりだ。だから、悲しそうな素振りなど見せないでほしい。


 ナシャは、シェリアが部屋に閉じこもった初日からやって来た。

 しかしシェリアは入室を強く拒んだ。入らないで、ごめんなさい、そのたった二言をひたすら繰り返し、ナシャが部屋の前から去って行くまでずっとドアを押さえ続けた。それでもナシャは毎日部屋を訪れる。その度に入れろ入れないで押し問答を繰り返し、

 ――今日で二週間になった。



 その間ナシャは毎日シェリアを訪れ続けた。流石にシェリアも抵抗するのに疲れ切って、ついに折れた。入りたいなら入ればいいと半ばやけくそな気持ちで椅子に腰掛けていた。ぼうっと窓の外を眺めながら、興奮気味に部屋へ入ってくるナシャの気配をただ脇に感じる。


「――シェリアスティーナ様」

 その一言が、既に泣き声になっている。

 ぐ、っとシェリアは唇を噛んだ。もう壊れてしまったに違いないと思っていた自分の心が、ナシャのたった一言のために鈍く軋んだ。

「ああ――ああ、そんなに、おやつれになって」

 それだけ言うと、ナシャはわっと本当に泣き崩れた。それにはシェリアも仰天して、自分の足元に倒れこんで大泣きしているナシャを思わず見下ろした。

「シェリアスティーナ様、申し訳ありません。本当に、申し訳ありません」

「ナ……」

 久しぶりに声を出そうとした。が、上手く言葉にならない。目の前で許しを請う彼女の名前を呼ぶことすらできなかった。

「あの時、私達の話を、聞いてらっしゃったこと……、存じております。お茶の用意をしていた他の侍女から、話を、聞きました。あの時――シェリアスティーナ様は、お部屋の側に、いらっしゃったのですよね」

 嗚咽に声を詰まらせながらも、ナシャはどうにか言葉を続けた。

「カーリンさんも、とても後悔しています。いいえ、後悔、なんて、そんな言葉、じゃ。――カーリンさん、退職願を、出しました」

「――」

「今、シェリアスティーナ様と同じように、部屋に、閉じこもって、出てこないんです。全然、食事も摂らないんです。――っ、本当に、お二人とも、そんなボロボロになって……。嫌です、そんなの。辛いです……っ」


 よくよく見れば、ナシャ自身も随分やつれた様子だった。

 ナシャは何も悪くない。なのに、どうして彼女がこんなに辛い思いをしなければならないのだろう。大元を辿れば、カーリンだって悪くはないのだ。それなのに……。


 しかしシェリアは、何も言葉にできなかった。

 いいの、もう気にしないから。私こそいつまでも小さなことで拗ねていてごめんなさい。その言葉が、出てこなかった。そして、そう口にできるような気持ちにもとてもなれなかった。


 シェリアにとっては最早それ以上に深い深いところに潜んでいた、触れてはならないか細い一本の線に、とうとう触れてしまったのだ。カーリンの言葉のせいでも、本当のところはライナスの言葉のせいでもない。それ以上の何か大きな渦の中に――シェリアの心は呑み込まれてしまったのだった。


「ナシャ……」

 どうにか、その名前を呼ぶことができた。

 ナシャははっと顔を上げた。

「お願い、どうか、一人にして……」

 震える声で祈るように囁くと、ナシャは一層深い嗚咽を漏らし、部屋を飛び出していったのだった。


 まだ雲は晴れない。

 窓辺にもたれかかるようにして、シェリアは灰色に塗りたくられたような空を眺めていた。――あれから五日、相変わらずだ。


 自分は一体、何のためにここにこうしているのだろう?


 本物のシェリアスティーナの身体を維持するため、それは分かっている。しかしその役割をこなすのは自分でなくても良かった。シェリアスティーナが死んだ瞬間、やはり同じく死んだ娘でなくてはならない――そういう意味では、確かに自分でなくてはならなかったのだろう。しかし、その条件を満たしている娘でさえあれば、何も自分でなくても良かったのだ。神が選んだのは自分ではなく、その稀有な偶然だったのである。


(それなら……)

 心は、死んでしまえば、良かったのに。


 ――コンコン、と、静かに部屋の扉が鳴った。

その瞬間心臓が一層激しく波打ち、シェリアは無意識に背筋を伸ばした。ノックの音に驚いたのか。それとも、いよいよ深みにはまった自分の考えにわなないたのか。


「入ります」

 その声はアシュートのものだった。随分久しぶりに聞く声だ。シェリアは怯えと安堵の入り混じった奇妙な気持ちに包まれた――そして、若干の焦りにも。

 扉が開かれ目が合った瞬間、アシュートはぐっと眉根を寄せた。顔をしかめてしまうほどにみすぼらしい姿をしているのだろうか。シェリアはここのところ気にもかけなかった自らの姿を思い浮かべて、恥ずかしさに身を縮めた。


「お久しぶりです」

 アシュートの声はいつもと変わらず落ち着いていた。その存在に心乱されているのはシェリアの方だ。何と答えればいいものか皆目検討がつかない。そう戸惑って、シェリアは自分の気持ちに驚いた。何か言葉を返さなければと、自分は今そう思っているのか。


「しばらくお目にかかれず申し訳ありませんでした。少し地方を回らねばならなかったのです。ここのところ、あちこちで色々と不穏な動きが見られるもので――いえ、シェリアスティーナ様のお耳に入れるべきことではないのですが」

 軽く首を振って、アシュートは扉を閉めた。どことなく疲れたような様子である。そのままゆっくりとこちらに近づいて来たが、シェリアがびくりと身体を強張らせると、その緊張を悟ってかアシュートは足を止めた。


「……どうされたのです?」

 いぶかしげな表情。答えられずにいると、アシュートは気にせず先を続けた。

「お話は伺っています。例の侍女……カーリンと、問題があったようですね。普段から上手くは行っていなかったのですか? 以前も、やはりその者絡みで問題が」

「ちがう」

 咄嗟に、否定していた。

「前も言ったでしょ……、カーリンさんは、悪く、ないの」

 やっとそう口にできた。

 ――けれど、今はもう遅い。カーリンは今頃、どうしているのだろう。

「では、何故?」

「え……」

「何故あなたはここまで憔悴されているのです?一体何があったのですか」

「――」


 何があったのだろう……。

 シェリアは言われるままに、ぼんやりと思いを巡らせてみた。しかし膜がかかったように自分の気持ちはぼやけていて、何とも答えは出てこなかった。


「ほとんど何も召し上がらず、ずっとこちらに篭ったままだそうですね。誰が様子を伺っても何も答えてはくださらないとか。よろしければ、思われるところを全て打ち明けてくださいませんか」

「……」

「会いたい者はいらっしゃいますか? ジークレストや、イーニアスをお呼びしましょうか」

 言われて、シェリアは二人の顔を思い浮かべてみた。

 ――いや、二人には会いたくない。ジークレストの底抜けの明るさや、イーニアスの濁りない実直さは、今のシェリアには辛すぎる。二人が今までこの部屋に現れなかったことを、シェリアは改めて感謝した。


「二人は……呼ばないで」

 思えば、こうして静かに自分と対面してくれる相手としてアシュートほど有り難い人物は他にいないのではないか。

 彼は初めからシェリアに好意的ではなかった。だから、奥に潜む悪意に気を揉んだり、掌を返される心配に耽ったり、そんなことをする必要がないのである。


 皮肉なものだ――でも、アシュートなら。


 遅れてその背中を追う自分を気遣ってくれたこと。悪夢にうなされた額をそっとぬぐってくれたこと。シェリアはその優しさを覚えている。あなたのことが嫌いだと、はっきり述べた、その人が与えてくれた優しさ。これだけは、信じられるのではないか。縋ってもいいのではないか。この期に及んでそんな思いに駆られてしまう自分は本当に情けないとシェリアは思う。でも、でも。


「アシュート……、ごめんなさい」

 気がつけば、勝手に口走っていた。

「私、いい聖女になれなくて、ごめんなさい。アシュートのことも、傷つけてばっかりで、何の役にも立てなくてごめんなさい」

「シェリアスティーナ様……」

「ずっと自分を正当化する口実を作っていただけなのかもしれない。皆に好かれたいとか、立派な聖女を務めたいとか、あなたと仲良くしたいとか、そのために自分は頑張っているんだって――それって全部、私がここにいてもいいって自分を思い込ませるための、口実だったのかも。私、なりたくもない聖女にならされて、被害者なんだけど、でもこんなに頑張ってるんだって……自分で自分を納得させようとしていたんだ」

 わけも分からず自分はここにいる、ならばせめてその意義を作りたかった。

「そんなだから、皆に思いが伝わらなくって当然だよね。ずっと私は、自分のために動いてたんだ。それで皆に、何を分かってもらおうとしてたんだろう? ホントに自分勝手だ、私って……」

「シェリアスティーナ様、」

「でもあなたは私とは違う。自分を押し殺してまで、あるべき『第一神聖騎士』でいようとしてるの見て、最初はね、おかしいって思ったの。もっと自分を大切にして欲しいって思ったよ。でも、姿見せの儀式の時に気づいたんだ。私やあなたを心の拠り所にしている人が本当にいるんだって。アシュートは、そういう人たちのために本当の意味で頑張れてるんだって、気づいた」


 ああ、少しずつ分かってきた。自分が『何に』絶望を感じているのか。


「ごめんね――、あなたには迷惑ばかりかけてる。多分、これからも。私、あなたみたいに強くなれなかったから――またアシュートに頼るしか、ないみたい。皆のこととか、……聖女のこととか……、ごめんなさい、でも、お願い。助けてあげてほしい……」


「あなたは?」


 不意にアシュートが口を挟んだ。シェリアは一瞬目を見開いてその言葉の意味を探っていたが、やがてゆっくりとかぶりを振った。


「あなたは一体、どうするつもりなんです」

「私は――時が来るのを、静かに待ちます」

 それきりシェリアは口を閉ざした。

 アシュートが何か言いたげに口を開きかけたが、シェリアはそっと目を伏せ暗に言葉を遮った。

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