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第29話

「いたたた……」

 右腕を庇いながらシェリアは廊下を歩いていた。


 あの訓練の後、いくつか儀式をこなし、今は休憩のため部屋へと戻るところである。

(ちょっと剣を振り回しただけでもう腕が痛いなんて。運動不足みたい)


 本当は儀式の間中腕に痛みを感じていたのだが、人の目もあることだからと至って平静を装っていた。しかし今は一人きり、遠慮なく腕をさすって明日の筋肉痛を少しでも和らげようと試みている。


(少しお茶を飲んでゆっくりしよう。情けないけど、疲れたもんなぁ)

 儀式のあと、何か飲みたいと遠慮がちに呟いたシェリアに、侍女はすぐさま「ティータイムの準備をいたします」と一礼を返した。本当はコップ一杯の水でも貰えればそれで良かったのだが、颯爽と立ち去る侍女を引き止めることがシェリアにはできなかった。先に部屋へ戻るよう彼女に促され、今はしおしおと部屋への帰路を辿っているところなのである。


(早く戻ろう。もし一人でいるところをアシュートに見つかったら、また怒られちゃいそうだし)

 心持ち足を速め、シェリアはさっさと廊下を歩いた。


 部屋の入り口は開いていた。

 側に掃除道具のつまったカートが置いてある。どうやら部屋の清掃中らしかった。

 今部屋に入ればきっと邪魔になる、シェリアはそう思ったが、だからといって他に身を寄せる場所は思いあたらない。それに、どのみち先ほどの侍女がお茶の準備をしてやってくるのだ。ここを離れるわけにもいかなかった。


(どうしようかな……)

 戸惑いながらそっと扉に手を添える。中の様子を窺うと、掃除をしているのはすっかり馴染みとなったカーリンとナシャの二人であった。それを見て、シェリアはほっと息をつく。彼女たちならそれほど気構えなくても大丈夫。部屋の隅で掃除が終わるのを待っていたいと申し出ても、もはや二人はそう恐縮することもないだろう。


 しかし声をかけようとした矢先、他ならぬ二人の声がシェリアを遮った。

「ねえ、ナシャ」

「はい、なんでしょう、カーリンさん」

 シェリアが口を開いたちょうどそのタイミングで、二人の会話が始まってしまったのである。


「……近頃、シェリアスティーナ様と親しくしているようだけど」

「あ、はい。医療室の方にもご一緒させていただいていますし……」

「変わったことはないの?」

「変わったこと、ですか?」

「お前も話には聞いているでしょう、シェリアスティーナ様のこと……」

 シェリアスティーナ様のこと。たったのその一言で、相手に伝わる含意のどれほど深いことか。この時も、ナシャがはっと身構えたのが、扉越しにしっかりシェリアに伝わった。当のシェリアもその言葉の意味するところを即座に悟り、身を強張らせる。


「色々と悪い噂の絶えぬ方です。そして――、お前は知らないでしょうけどね、そうした噂のほとんどが本当に起こった話――紛れもない真実なのよ」

「カーリンさん、でも……」

「分かっています、見たところ、お前とシェリアスティーナ様は上手くやっているようね」

「ええ。シェリアスティーナ様は本当にお優しい方です。ですから私にはとても信じられません、あの方が、そんな……」

 重々しい沈黙が部屋を包んだ。シェリアもその場を動けない。

「信じねばなりませんよ、ナシャ」

「……」

「シェリアスティーナ様は本当に恐ろしい方。今までに一体どれほどの人間が破滅に追いやられたことか。今は確かにお優しいかもしれない、けれどいつか必ず、再び以前のような恐ろしいお心を取り戻されることでしょう。あのお方に心を許してはなりません。いいこと、ナシャ。あのお方の前では、いつも気を引き締めていなさい。あまり親しくすることのないように」

 シェリアは一本の棒のようにその場にただ突っ立っている。

 いつか必ず、再び――恐ろしい――許してはならない――。聞こえてくるはずの言葉が上手く頭の中に入ってこない。それでいて、その一言一言がシェリアの胸を強く撃って呼吸を阻んだ。

「そんな――、だって、私も、シェリアスティーナ様も、カーリンさんも……三人で、色々談笑したじゃないですか。私は楽しかった。カーリンさんは楽しくなかったんですか? あの時間のすべてが、カーリンさんには苦痛だったって言うんですか?」

 必死にカーリンに縋るナシャの声も、今は遠い。まるで違う世界から響いてくる鐘の音のようだ。

 しかし、その次に放たれた言葉だけは、まっすぐシェリアの心の中へ流れ込んで留まった。

「私は……、ずっとあのお方が恐ろしかったのよ」


 こんなにも身体が重く、邪魔に感じられたことはない。

 指を一本、つと上にかざすことさえ厭わしい。伏せた瞳を動かすことも、小さく開いた唇を閉じることも、――固まった心をほんの少し揺らすことでさえも。

 本当に、もう何もしたくない――。

 それでもシェリアは黙々と足を動かし続けていた。


 馬鹿なものだ。


 心底何もしたくないのなら、あの場で身を投げ出してしまえばよかったのに。

 しかしシェリアは場を離れることを選択した。

 カーリンには会えない。あの言葉を聞いていたと、知られてはならない。こうして打ちひしがれている自分を見せてはいけない。きっと彼女は傷つくだろうから――。その一心で、シェリアは部屋を後にし、当てもなく廊下を歩き続けている。だが。

 さて、果たして本当にそうだっただろうか。

 ――やっと気付いていただけましたか、これが私の本心です――悪魔のごときあなたにも苦しむ心があって安堵しました――。もしあの時二人の前に姿を現していれば、カーリンは冷たい瞳でそう告げたのではないか?


(ううん、そんなはずない)


 シェリアは疲れた心でなんとか自分を否定した。

 頭のがぐるぐると回っている。自分で自分が分からない、一体何を考えているのだろうか。


(ごめんなさいカーリンさん……。私、逃げたくないっていつも思っていたけど、どうしてもあなたの前に立って、面と向かって非難を受け止めることができなかった。逃げてしまった……)


 結局はそういうことなのだ。

 あの場にいるのが怖くて。なじられるのが、つめられるのが恐ろしくて。尻尾を巻いて逃げ出してしまった。


(どうすればいいんだろう、私)

 行く当てなど無い。泣いてすがれる人も無い。本気で「自分自身」を案じてくれる者など、ここには一人もいないのだから。

(全てが遠い……)

 天窓から覗く空も。目の前の廊下も。今自分を形作る、この手のひらも。

 全ての現実感が急速に失われていくことをシェリアは感じていた。


 目の前に広がる景色が、まるで作り物のようだ。確かに自分はこの景色の一員であるはずなのに、どこか遠いところにぽつんと佇んでいる、そんな心もとない感覚。


 シェリアは少しでも何かの温もりを感じたくて、ふらりと中庭に彷徨い出た。倒れるように屈みこみ、地面に両手をついてうなだれる。……柔らかい土の感触。ぐっと土を握り締めると、太陽から分け与えられた確かな熱をその手に感じることができた。


(落ち着こう、大丈夫。大丈夫)

 こんなにも心をかき乱されるほどの仕打ちは、誰からも何も受けていない。だから落ち着くことができるはずだ。そう、大したことじゃない、大丈夫。シェリアはひたすら「大丈夫」と心の中で唱え続けた。いつものことじゃないか。他の侍女達の自分に対する評価と、何ら変わらないじゃないか――。

 だがしかし、それでも押さえきれない悲しみが津波のように胸の奥から溢れ、嗚咽となって漏れ出てくる。

(何ら変わらないから、これほどつらいんだ……)

 他ならぬカーリンの、あの冷たい声を聞いてしまったから。

 シェリアは一人、声を押し殺して泣き続けた。


 そして少しの時間が流れた。

 シェリアがどれほど絶望に苛まされようと、当たり前のように世界はそのままだった。変わらず太陽が庭を照らし、そよ風に木々は揺れ、土は柔らかく、温かい。

 シェリアが泣いている間、ただの一人も姿を現さなかった。中庭を時折訪れるのは小さな鳥と蝶ばかり。すぐ側の廊下にも誰かが通った気配はない。

 世界に一人きりになってしまったんじゃないかしら。

 半ば本気でそんな不安を胸に抱き、シェリアはのそりと立ち上がった。――もういい加減、戻らねば。

 まだ多少混乱している頭で、どうにか廊下へ上がり込む。しかしそこは全く見覚えのない廊下だった。

(あれ?私、どこを歩いていたんだろう……)


 ゆるりと辺りを見廻すが、自分がここまで歩いてきた記憶すらまるでない。夢遊病者のようにただふらふらと歩き回ってやって来たのだと気がついて、シェリアは小さく息を吐いた。

 ――ああ、しまった。侍女がお茶の準備をして私の部屋に向かってくれていたんだった。そんなことにも今になってふと気づく。部屋に向かったはずの私がいないとなったら、カーリンたちはどう思うだろう?


(何か言い訳を考えておかなくちゃ)

 部屋に戻る途中、いつもと違う道を通ってみたら迷ってしまった、とか。天気がずいぶん良かったから、王宮内を少し散歩していた、とか。どういう言い方なら余計な心配をかけることなく納得してもらえるだろうか。

 ああそうだ、部屋に戻る前に泣きはらした赤ら顔もどうにかしなければ。清めの間なら誰にも見つかることなく顔を洗うことができるかもしれない。シェリアはまとまりもなく様々なことを思い巡らせながら、再び歩き始めた。ここがどこだか分からないが、ただぼうっと突っ立っているわけにもいくまい。


 廊下の突き当りまでたどり着くと、通路は二手に分かれていた。右か左。どちらへ行こうかと逡巡して――はた、とシェリアは目を見開いた。

 この廊下、見覚えがある。

 忘れもしない。あの漆黒の闇に包まれた地下牢へ足を運んだ晩のこと。自分に対する怒りを外へ向けてほとばしらせながら、シェリアはぐんぐんと歩いていた。この回廊を。そして、その勢いで押しかけたのだ。ライナスの、あの部屋へ。


(そうだ、ライナスのところへ行こう)


 ほっと胸をなで下ろし、シェリアは自分に言い聞かせるよう頷いた。ライナスならば呆れながらも迎え入れてくれるだろう。そして、少しだけでも話を聞いてもらえたら、それでいい。

 誰かに縋りたい、その思いに突き動かされるように、シェリアはそっと足を踏み出した。

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