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第22話

 果てしなく広がる星空は、この世界を平等に包み込んでくれる。


 もはや会うことも叶わぬ両親や友人たちも、同じ月を見上げているのだろう。そんなことを考えながら、シェリアは満月に近い月を一人眺めていた。


 夜独特の匂いが好きだ。

 少し湿った空気が混じって、何故だか懐かしさを思い起こさせる。それは嫌でなかった。むしろ心地よささえ覚えて、シェリアはそっと瞳を閉じる。近くに水の流れがあるのだろうか、サアアという優しい水音が微かに耳元を通り過ぎて行ったので、そちらに意識を傾けてみた。

 ――昼間も同じ静けさだったはずなのに。夜になるとまるで世界が変わったかのようで、太陽の下では気がつかなかった様々なことに気づかされる。


(いつまででもこうしていたい)


 先日初めてバルコニーに足を踏み入れてから、ここがすっかり気に入りの場所となっていた。暇さえあれば――実際非常に多くの時間を持て余していたのだが――バルコニーに身を寄せ、ひたすら景色を眺めている。もうすぐ見ることができなくなる風景、そう思えば尚更、目を離しがたく思われた。もともと一所にじっとしていることが苦痛ではない性質なのだ。この夜も随分長い間星月を見上げていた。


(でも、そろそろ寝ようかな。風邪引いちゃいそうだしね)

 夜風は少し肌に冷たい。

心地よい、と思われる程度ではあるが、それでもこうして長時間身を晒しているのは良くなさそうだ。シェリアは後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、そっとバルコニーから身を引いた。ふと部屋に目線を戻せば、その殺風景な空間が否応なく孤独を誘う。


(あの一角にお花でも置いてもらえたら……。でも、花瓶に生けた花はすぐに枯れてしまうから、余計な気遣いをさせてしまいそうだし)


 頭の中でだけ、理想の部屋を作り上げてみる。

 そう、もっと狭い部屋がいい。木でできた素朴な丸いテーブルを置いて、白のレースで編んだ繊細なクロスをその上に敷きたい。

 ベッドもシンプルで、でもとってもふわふわしているものを。その足の部分にはクイの葉を結んで、家を護る妖精を呼び寄せてもらおう。

 ああ、クラヴィディアはこのまま部屋においておきたい、とんでもなく贅沢な願いだというのは分かっているけれど。

 あの衣装ダンスはいらないだろう、大きくて立派過ぎるから。もっと背が低くて可愛らしい感じのものがいい。

 そういえばこの絨毯も、いかにも高そうな雰囲気を醸し出していていただけない。多少ギシギシ言うような木張りの床の方が好きだ。そして他には――。


(……やめよう。きりがないや)

 ふう、と息を一つついて、シェリアはベッドに身を沈めた。


 この生活を始めてから、随分と想像力が豊かになった気がする。いいことなのか、悪いことなのか。

(やっぱり私には、貴族みたいな暮らしが向いてないんだろうなぁ)

 心の芯まで染みついた己の庶民根性に苦笑しながら、それも案外悪くないとシェリアは瞳を閉じた。



 ――夜は静かに更けて行く。

 ゆっくりゆっくりと、誰にも語らず、誰にも示さず。しかし確かに、夜は暗く暗くトーンを落とし深まって行く。その果てを知るのは、夜空に身を寄せる月と星々のみ。

 しかしこの晩、夜果てを知る者がもう一人――。


 心地よい眠りに揺られていたシェリアは不意に目を覚まし、この夜が底に触れた瞬間を感じ取った。

 身体は眠ったままのようで、身じろぎするのも億劫だ。しかし意識だけは敏感に辺りの様子を探って回り、常ならぬ空気がゆっくりと部屋に運び込まれてくるのを感じていた。


「……」

 眠りにつけないことはこれまでも度々あった。しかし、一度眠ってしまった後で夜更けに再び目を覚ますことなど滅多にない。相変わらず心地のよい夜の波の中で、それでもシェリアは今宵「何かが違う」のをひしひしと実感した。しかし動けない。動きたいとも思わない。それ程、夜果てのもたらす甘い露は誘惑的だった。


 カタン


 音がした。それは、あるいは太陽の輝く昼間であったら気づかなかったかもしれない。しかし何もかもが眠りについた静寂の空間で響くには、余りに大それた物音に感じられた。

 明らかな人の気配がする。足音はない。だが確実に、「何者か」がバルコニーから進入し、シェリアの横たわるベッドへ近づいてくる。相変わらず身体は全く動かなかったが、シェリアの意識だけは異様に鋭く研ぎ澄まされ、今何が起こっているのかを感覚だけで捉えようとしていた。


 ついに「何者か」がベッドのすぐ側までやって来た。

 しかしそれから動こうとはせず、ただ押し黙ってベッドの中のシェリアを見下ろしている。完全なる沈黙。ここへ来てもシェリアは恐怖や不安といった感情に襲われることはなかった。自分でも不思議なくらいに気分が落ち着いている。瞳を閉じたまま、己に注がれる視線を受け止めただじっとしていた。

 何故、自分は起き上がらないのだろう。悲鳴を上げて、助けを呼ばないのだろう。この部屋から、この侵入者から逃げ出そうとしないのだろう。自問して、それからすぐに、答えを導き出すのを止めた。

 今こうして静かにベッドに横たわっているのが至極自然なことのように思われたのだ。理由など分からない。


「……」

 どれくらいの間、そうした時間が続いただろうか。不意に「何者か」が動き出した。

 のそり、と緩慢な動作でベッドの上に這い上がってくる。そしてシェリアの身の上に跨った。声を上げねば、という焦りは未だ生まれない。暴行されるのではないかという懸念もまるで感じなかった。瞳を閉じていても相手の動きが手に取るように感じられる。相手はシェリアの上に跨ったまま、何かをその手に構えたのだ。


 シェリアはそこで、そっと瞳を開いた。

 月明かりが侵入者の姿をか細く照らす。


 闇に溶け込んでしまいそうな、黒の塊。頭からマントを被っているために、男であるか女であるかも判別できない。細い短剣のようなものを手にして、刃の切っ先を迷うことなくシェリアの喉元に突きつけている――。


「……すの」

 掠れるような声で、シェリアは呟いた。そこに恐怖の色は微塵もにじんでいない。

 黒の侵入者は、その声を聞いてはっと体を強張らせたようだった。かろうじて外気に触れている琥珀の瞳が、わずかに見開かれる。


「私を、殺すの?」


 小さく、しかしはっきりと告げた。相手は短剣を突きつけたまま微動だにしない。シェリアも動かず、ただ視線だけで侵入者を促した。不可思議な沈黙が辺りを包む。


 長い長い時間、お互い瞳を合わせたまま無言でいた。


 どう見ても暗殺者としか思えぬ相手ではあるが――何故だろう、その瞳から殺気は感じられない。シェリアが不思議と落ち着き払っているのと同様、相手も随分落ち着き払ってこの状況を捉えているようだった。無感動な瞳。一体何を考えているのか――。


 それから更に時が流れ、ようやく侵入者は動きを見せた。構えていた短剣をシェリアの喉元から遠ざけ、さっとマントの奥へしまったのだ。そしてゆっくりとした動作でベッドから降りると、そのままバルコニーへ足を向けた。

(――あ……)

 するり、と、音も立てず手すりを乗り越え姿を消す。ぶらぶらと散歩でもするような動きであったのに、同時に全く隙が無いようにも見えた。――消えてしまった。いとも簡単に、何の躊躇いも無く。

 再び一人きりになったシェリアはやっと身を起こし、今しがた姿を消した侵入者の影を求めてバルコニーに瞳を向けた。先ほどまでの余韻はあっという間に掻き消えて、何者かが部屋にやってきたという出来事も全て夢まぼろしだったのではないかとさえ思われた。

 開いたままの扉から、冷たい夜風が部屋を吹きぬけて行く。


(――私を……)

 何故だろう。

(殺さなかった)



 次の日の朝、シェリアはいつものように顔を洗い、いつものように身支度を整えた。

 やってきた侍女たちが朝食の準備をしている間も、いつものように手伝いを申し出ては断られ、話しかければ無下にされた。いつもと違う点があるとすれば、ライナスが久方ぶりに姿を現したことであろうか。飄々とした態度はいつもどおり、そこにはシェリアも別段違和感を感じるところはない。


 ただ。

「おはようシェリア。相変わらず元気そうでなによりだよ」

「……ライナス、あなたは、その……あんまり元気そうじゃないようだけど」

 シェリアは怪訝な表情でライナスを見上げた。どことなく、普段より顔色が悪いような気がしたのだ。

「おや、良く分かったね」

「どうしたの?具合悪いの?」

「いや。まあ、この数日少し臥せっていたけれどね。今はもう大丈夫だよ。聖女様にご心配頂き、光栄の至りでございます」

 どうしてこの男は、こんな時にもふざけた態度しか取れないのか。

「無理はしないで、まだ休んでたらどう?」

「もう十分休んだよ。休みすぎて、却って身体に悪い気がするね。少しはこうして動いた方がいいんだよ」

「そう……」


 本人がそう言うのなら無理強いはできない。それにしても、ここ一週間少々の間一度も姿を見せなかったのは、体調を崩していたせいだったのか。全く様子を見に来ないライナスに対して拗ねていた自分を、シェリアは少し恥ずかしく思った。


「何か変わったことは無いかい?」

「――うん、大丈夫だよ」


 とっさに昨晩の出来事が思い起こされる。しかし、思い起こした次の瞬間には迷い無くそう答えていた。

 ……あのことについては、まだ誰にも相談していない。自分でもよく分からない不思議な感情が胸を占めているのだ。あの時、なぜ自分は殺されなかったのか。純粋に疑問に思う。けれど同時に、初めから殺されなどしなかっただろう、という謎めいた確信もあった。――この感情、他人にうまく説明することは出来そうもない。


「……そうか。どうも、おかしな空気を感じたんだがね」

 ぎくり。

「まあ、君にも変わったところが無いようだし……それならいいかな」

「う、うん。わざわざ様子見に来てくれたんだね。ありがとう」

「他に何か、不便に感じていることや困っていることはないかい?」

 少し考え、大丈夫、と小さく呟く。

「でも……、あの、お願いがあるんだけど」

「なに?」

「もうすぐ三週間経って、部屋から出ることになるでしょう。そしたらね、私――やっぱりホリジェイルで被害にあった人たちと直接会いたいんだ」

「……やれやれ」

 ふう、と深い溜息。

「まだそんなこと言ってるのか」

 駄々をこねる子供を諌めるように、ライナスは苦笑を浮かべた。しかしシェリアも引く気はない。


「アシュートから聞いたよ。まだほとんどの人が、療養室で看護を受けてる状態なんだってね。でも、それぞれの身の振り方が決まったら、皆ばらばらになっちゃうでしょ?その前に、きちんと会って謝りたい」

「でもねえ、シェリア」

「私が三週間軟禁されるきっかけになった、トマトの件……あの時からずっと考えてたの。確かに私が姿を現せば、被害者の皆に刺激を与えることになる。あの事件でよく分かったよ、ライナスが言いたかったこと。でも、それを理由に身を隠すのはずるいんじゃないかな。もしあの時、あの使用人に会っていなければ――あの人の憎しみは、もっともっと深まっていたかもしれない。それがあの件で、少しは発散できたかもしれないよね?そりゃあ、トマトを当てたくらいじゃとても私を許す気になんかなれないだろうけど。でも、あれは必要な出会いだったと思ってる」

 そう。あの使用人にとっても、自分にとっても。シェリアだって、あの件のお陰で見えていなかった真実を一つ見ることができた。

「私には、ああいう出会いがもっともっと必要なの。それに、自分の罪を認めて謝ることすらできないなんて、やっぱり情けないよ。謝るだけで何になる、謝るだけなら誰でもできる――そう言われれば、確かにそうかも。だけど、誰でもできることだからこそやらなくちゃ。まずはそこからだよ。ね、ね?」

「うーん……」


 必死の訴えにもかかわらず、ライナスはどうしても快諾する気になれないらしかった。お願い、と両手を組んで、その気難しい顔を見上げてみる。しかし、稀代の美女の潤んだ眼差しも、ライナスの心を打つにはいまいち物足りないらしかった。

「君ねぇ、もう少しスマートに過ごしたらどう?」

「それ、どういう意味?」

「どうしてそう、何事にも真正面からぶつからないと気が済まないのかな。ご立派過ぎて、私からすれば冷や汗ものだよ」

「ひどい!」

「できればもっと大人しくしていて欲しいな。君に何かあったらと思うとぞっとする。心配なんだよ」

「そう?ただ面倒が増えるっていうだけじゃないの?」

「ひどい!」

 ライナスはわざとシェリアの口調を真似て、口をすぼめた。

「……気持ち悪いよ、ライナス」

「とにかくね、君にはまだ親の気持ちなど分からないだろう。親は子供のひた向きさを愛しく思うと同時に、恐ろしくも思うものだ」

「――私だって、本当はこんなに真っ直ぐな人間じゃないと思う。でも今だけは、真っ直ぐに生きてみたいって思うんだ」

 あと少しの生命。その尊さが、今までのどの瞬間より胸に迫って、この身を駆り立てる。

「――ふむ。仕方が無い、君がそうまで言うならもう反対はしないよ」

「ほんと――」

「ただし。君一人で被害者たちに会わせるわけにはいかない。護衛を連れて行くこと」

「護衛?」

「うん、君はまだ知らないかもしれないけど、アシュート君が面白いのを用意してくれた」

「それってもしかして、イーニアス……」

 いや、とライナスは短く否定する。

「でもまあ、そっちはそっちで面白いことになりそうだけどね」

「お、面白いこと?」

「そう、面白いこと」

 謎めいた笑みを浮かべて、それきりライナスは口を閉ざした。この微笑みには、世界中の秘密がつまっているのではないか――シェリアはそんな気がして天を仰いだ。

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