死に顔ノート
僕の学校である事件が起きた。
飛び降り自殺だ。
亡くなったのは僕の友達だ。気が弱いけど真面目で絵を描くのが好きな奴だった。いつも絵を描くためのノートを手放さないで持っていた。何の絵を描いていたのかはわからない。ただ一人の友達の僕にさえ一度も見せてはくれなかった。
友達ではあるけど、絵を描いているときはあまり近づきたいとは思わなかった。絵を描いているときの彼は周りが見えていないようでいつも一心不乱に描いている。絵を描いているときは基本的に無表情だけど、たまに笑う時がある。そのときの顔が印象的で、なんというか、……そう、とても、不気味だった。あれだけはとても苦手だった。
亡くなる前に一度聞いたことがある。
「君ってさ、絵ェ描くのホント好きだよね」
ちょっとした雑談程度に振った話しだったけど、その返しに、その表情にゾッとした。
「僕は絵を描いているときが一番幸せなんだ。絵の中の世界は僕の自由だからね」
目と口が三日月のように歪んで、奥に忍ばせていた何かが一瞬漏れ出たかのように見えた。
彼は自由を求めていたんだ。
理由は多分わかる。
彼はいじめられていた。それが原因だと思う。
気が弱い。真面目。時々不気味。その時々不気味というのが癇に障るのだろう。そして気が弱いというところが、いじめていた奴には恰好の獲物に見えたのだろう。
基本的には物を隠したり、少し小突いたりする程度だ。大きな怪我をするわけでもなく、貴重品がなくなるわけでもなかったから公にはならないでいた。
でも彼が亡くなる前日、ある一人が彼の絵が描かれているノートに落書きをしたのだ。今まで物を隠されたり小突かれたり程度では適当にやり過ごしていた彼が、そのときだけは今までに見たこともないほど激怒した。
彼は犯人を捜そうとしたけど誰も名乗り出なかったため見つからなかった。彼の怒りは収まらなかった。だけど先生が現れて、暴れる彼をどうにか帰らせた。
そして次の日、彼は学校の屋上から飛び降りた。
朝早く、まだ誰もいない学校の玄関の前で彼は亡くなっていた。彼の手には落書きされたノートが握りしめられていたそうだ。
その日は学校が休みになった。だけど次の日にはいつも通り学校があった。
彼が亡くなっても僕たちの日常は変わらなかった。
数日後、ひっそりと彼の葬儀が執り行われた。
参加したのは親族と僕と先生くらいだった。
彼の親は、話を聞く限り彼が自殺した理由を知らないようだ。先生から亡くなるその日に手に持っていたノートのことも聞いているはずなのだけど、それが原因だとは思っていないようで、まったく的外れなことばかり話していた。彼の親は彼に興味がなかったのだと思う。その場だけ親らしく子が亡くなって悲しむ演技をしているように見えた。
とても気持ち悪かったけど、納得がいった。僕自身このときにやっとわかったけど、彼の居場所は絵の中にしかなかったのだ。
そして一週間後、彼に関する話題はなくなった。
学校がそのように働きかけたのが効果的だったからではない。
葬儀の後から彼のノートに落書きをした子が学校に来なくなったことがきっかけだ。
初めは噂話が広まった、彼に呪われたのだと。
先生からは風邪で休んでいるだけだという話だった。みんなもそう思っていたから噂を面白がって流していたんだと思う。だけどそうじゃなかった。数日後、先生からノートに落書きをした子が亡くなったということを知らされた。
その日から彼についての話題がピタリと止んだ。みんな彼の呪いの話が頭から離れなかった。
次の日、彼をいじめていた別の子が学校を休んだ。それを聞いたみんなは騒然するでもなく、押し黙って聞いていた。
みんな怖がっていた。彼をいじめていた子は特にだ。でもそれは自業自得というやつだ。僕は彼の友達で、彼の葬儀にも参列した。彼に呪われる心配はない。
周りが通夜状態であっても僕は変わらない。いつものように学校に行き、いつものように授業を受け、いつものように帰る。
そして一週間後、彼をいじめていた子が亡くなった。
次の日から休む人が増えた。三十人いたクラスがたったの八人しかいない。その日はいつものように授業が行われたが、次の日には学級閉鎖になった。
クラスの半数以上が病気になったからだそうだ。学級閉鎖になるのは去年の一月にあったインフルエンザのとき以来だ。今回は謎の病気であるため伝染病であるかはわからないけど一度に大勢が病気にかかったため学級閉鎖になったみたいだ。
学校が休みになってとても退屈だ。
三日後、学校から連絡があった。ようやく学校に行けるのかと思ったら、病気で休んでいた数名が亡くなったそうだ。電話に出ていた母さんはとても困惑していた。
それから次の日にも学校から連絡があり、また数名亡くなったそうだ。母さんはとても不気味がっていた。
ふと、学級閉鎖になる前日に来ていた人に電話してみた。するとみんなこぞって病気らしい。きっとみんな彼に呪われてしまったのだ。
これから学校はどうなってしまうのだろう。きっと僕以外みんな亡くなってしまう。でもそれは止めることは僕にはできない。終わるのを待つしかないのだ。
母さんが心配そうに話しかけてきた。
「あんたは大丈夫なの?」
「僕は大丈夫だよ」
安心させてあげようと笑って見せた。僕だけが彼の友達だったからね、呪われる心配はない。
なぜか母さんは一瞬困った顔になったが、すぐに安心してくれた。
「それならいいのよ」
そう言って母さんは台所へ晩御飯を作りに行った。その後ろ姿は何かそそくさしていた。
その時、視界の端に違和感があった。辺りを見渡し、そして玄関を見た。だけど何もない。気のせいみたいだ。昨日から時々ある違和感。なんだか変な感じがする。
一瞬、彼のことが頭をよぎったが、そんなはずはない。そんなはずはないんだ。
「あ、そうそう――」
その声に反射的に体がビクッとはねた。
「な、何!?」
「何って、あんたどうしたのよ」
台所に行ったはずの母さんがそこにいた。
「本当に大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ。病気にもなってないし元気だから」
「それもそうね」
母さんはあっさり納得してまた台所に戻った。先ほどとは違ってそそくさした感じはない。
はぁー、なんだったのだろうか。晩御飯を作りに台所に行ったはずの母さんがなぜか近くにいたし、特に用もなかったようだし。
するとまた何か違和感。先ほどよりもはっきりと感じる。玄関からだ。
ガチャガチャガチャガチャ。
玄関のドアノブがすごい勢いで回された。
ごくりと、自分の喉が鳴るのがわかった。
「ただいま」
そういって現れたのは父さんだった。父さんが帰ってきただけだった。
なんだ、父さんか。
考え事を中断し、父を出迎える。
「おかえり」
「なんだ学校はまだ休みだったのか?」
父さんはこちらを見ずにカバンを置いて言う。
「あぁ、うん」
「学校の休み、ちょっと長くないか? 勉強は大丈夫なのか?」
「わからないけど、勉強はしてるよ」
「そうか、それならいい」
三日ぶりに出張から帰ってきた父さんはまだ学校の状況をよく知らないみたいだ。僕からは学校の話しはしないし、母さんも放していないのかもしれない。
「それに多分、もうすぐ学校も始まるんじゃないかな」
もう僕以外クラスのみんながいない。始まるにしても他の学校に移ることになるかもしれないけどね。
それに対して父さんは靴を脱ぐ動作をピタリと止め、グルリとこちらに顔を向けて言った。
「始まらないよ」
「え?」
父さんの口から父さんの声じゃない声で発せられた。
なんでそんなこと言うんだ? 始まらないって、学校が始まらないってなんで。
「ん? どうした突然呆けて」
近くに父さんの顔があった。いつもの父さんの顔だった。
「え? あ、いや、なんでもない」
聞き間違いかな。
「そうか。それより飯だ! 三日ぶりに母さんの飯が食べられるからな」
父さんはすれ違い様に僕の頭をポンポンと叩き、スーツ姿のままダイニングに向かった。
やっぱり聞き間違いだったんだ。いつもの父さんだ。
後ろを振り返って父さんの後を追おうとした。だけどそこで見たものに思わず声を上げてしまった。
「うわあああああああああ!」
「なんだ大声上げて」
父さんが後ろを振り返ると先ほどまで見えていたものが消えていた。
気の……せい……?
いや、でも、僕は見た。気のせいなんかじゃない。はっきりと見えていた。
はっきりと、彼が父さんの背後にいたんだ。
「ひっ!」
「どうした!?」
喉の奥から引き攣った声が漏れた。
それに対して父さんが驚いて反応する。
あれから何度も、違和感――彼の気配がする。でも姿は見えない。隠れて僕を見張っているのかもしれない。
……どうして?
どうして彼が僕の家に……。僕が呪われるなんてこと……あるはずが……。
食事中、ドアの向こうやテーブルの下、母さんと父さんの背後から、位置を変えて色んなところから気配がした。
怖さのあまりこんな歳で父さんにトイレに付き添ってもらった。だけどトイレ中も天井や背後から気配がした。手が震え、出るモノも出ない。
母さんと父さんは僕の不審な行動に怪訝な表情をしていた。
「あんた今日はおかしいわよ?」
「そ、そうかな?」
母さんの会話中にも彼の気配がする。
「そんなにキョロキョロしてどうしたのよ」
「え? キョロキョロなんてしてないよ」
彼がいる。僕は呪われてしまったんだ。そんなこと言ったって母さんも父さんもわからないだろう。
僕の言葉に母さんは優しく笑う。僕はその笑顔に落ち着くことができた。そして父さんのように僕の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
「うわぁっ!」
だけど僕は思わずその手を弾いてしまった。
母さんの驚いた顔。
僕はその場を逃げるように自分の部屋に走った。
荒い心臓の音が響く。呼吸の音が部屋を満たす。
いつまで経っても鳴りやまない。
先ほどの母さんの顔が頭から離れない。母さんが僕の頭に手を伸ばしたとき、笑顔が一瞬、彼のあの不気味な笑顔になったんだ。
母さんも父さんもなんだかおかしい。
やはり僕は呪われてしまったんだ。
クラスのみんなはもう死んでしまったのだろうか。……きっとそうだ。だから僕の番なのか。なんで僕の番なんだ。彼の友達だったのになんで彼に呪われなきゃいけないんだ。
ありあえないありあえないありえない。
こんなの絶対おかしいよ。
僕は彼の友達だった。学校では唯一の話し相手だった。いじめだってしていない。彼に呪われる理由なんてない。むしろ感謝してほしいくらいだ。
先ほどまでの怯えが沸々と怒りに変わってくるのを感じた。そのおかげか、少しだけ心臓の音は落ち着いた。
明かりのついた自分の部屋を見渡す。何もいない。何の気配もしない。
深いため息にも似た息が漏れた。
コンコン。
ドアがノックされた。その音に僕の身体がこわばり、心臓の音が大きくなる。
「話しがある。開けてくれないか?」
父さんの声だ。
彼の気配はしない。
大丈夫。僕は自分に言い聞かせてドアをゆっくりと開けた。でもそこには誰もいなかった。
開けてしまった。
そんな考えが浮かんだ瞬間、ぞわぞわと身体中の毛が逆立った。
……後ろに、何かいる。
ひたひたと何かが近づいてくる。ぽたり、ぽたりと音が近づいてくる。
振り返れない。金縛りにあったかのように体が動かない。
首だけでも動かそうと必死になるけど叶わない。
肩に何かが触れた。冷たい人の手のような物だ。
身体中から熱を奪われるような気がした。吐く息が白い。
もうダメだと思い、思わず目を閉じた。
だけど、いつまで経っても何も起きない。気がつくと肩に先ほどの冷たい感触がなくなっていた。
ギギギギギと錆びた鉄のように首を回して振り返る。
彼は、いない。
バン! と一際大きな音を立ててドアが閉まった。
僕は腰が抜けたかのようにその場にへたり込んだ。
着いた手の下には一冊のノートがあった。真っ赤な斑点がある。それは見覚えのあるノート……彼のノートだ。
思わず手を持ち上げる。すると表紙が張り付いたようにめくれた。
そこに描かれていたのは彼のノートに落書きをした子の顔だ。苦悶にゆがめた顔。
パラパラとページが勝手にめくれる。彼をいじめていた子が続く。みんな苦しそうに顔をゆがめている。
彼をいじめていなかった子のページになった。もがき苦しんだ表情をしている。先ほどまでの顔よりも一層苦しそうな顔。
それはまるでちょうどこと切れるかのような……。
頭の中に浮かぶ言葉。
死に顔。
ページがめくれる。
声にならない声が漏れた。
真っ白なページ。先ほどまでのページで二八人。僕と彼を除いたクラス全員。
僕はこの後自分がどうなるのかわかった。
目の前に彼がいた。