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サクセス! 毛穴を洗ええええぇぇ!

改めて見直すとサブタイトルがカオス(笑)

評価、感想いただけると嬉しいです!

 ちょっと俺の昔話を挟ませてほしい。

 一、二ヶ月前。俺は野球関係者なら名前を出しただけでピンとくるような名門野球部にいた。俺がチーム内で与えられた役割はリリーフ、救援ピッチャーだった。先発の調子が悪い時やバッターとの相性が良くない時に、すぐにマウンドにあがって流れを変えるという役割。そこでリリーフをしていたのを誇りに思っていたし、実際、チームの信頼も篤かったと思う。甲子園に出て世間の注目を浴びたいという夢をひたすら追いかけ続けてきた。

 そして高校最後の夏予選。危なげなく順調に決勝まで進んだ俺たちだったが、予想外のアクシデントが起きた。一番手ピッチャーが決勝の一回に接触プレーで怪我をし、負傷退場したのだ。誰もこんな早くからリリーフが必要になるなんて思ってもいなかったから、俺以外に誰も投げる準備はできていない。いつもよりずっと早くマウンドにあがることになった。

 すぐにリードが広がるだろうという気持ちと裏腹に、試合はなかなか動かない。お互いに得点できないまま延長、そして気がついたら十四回裏終了まで投げ続けていた。投球数は二百を超えていたと思う。そして十五回の表も無得点のまま、俺はまたマウンドへ。

 この時の精神状態を語らせてもらうと、俺はいらついていた。今まで経験したことのない投球数に、容赦ない夏の日差し。そんな極限状態に加えて「なんでみんな点を取ってくれないんだ!」という不満もあって、ツーアウトを取ったあたりから集中が乱れてしまった。

 そんなマイナスの感情をまとって減速した打ちごろの半速球は……

 快音。

 随分長く感じられた一瞬の後に、バックスクリーンを直撃。

 現実を受け入れるための間が少しあってから、俺は膝から崩れ落ちた。

 誰かが耳の後ろで囁いてきた。サヨナラ、と。

 その一球を投げた感触は、一ヶ月経った今でも俺の手を離れてくれない。



「ぶはっ!寝てた!」

 クーラーの心地よさに眠ってしまった。よだれを拭いながら時計を確認する。八月五日、桜庭さんといつも会う時間の十分前。

 危ない危ない、桜庭さんに会う目的を果たせなくなるところだった。

 寝起きの癖で俺の右手はストレートの握りをしていた。甲子園予選の決勝で最後に投げたボールの感触が残っている。まだ吹っ切れていないのかと苦笑して、天井を見上げた。

 ちなみにここは俺の部屋ではない。図書館である。

 ……こんなところ見られたら杉山に、真面目な利用者に謝れと言われてしまいそうだ。

「今日が、勝負の時だな……」

 天井を眺めたままぽつりとツイッター。

 桜庭さんが亡くなってしまうのは明日。ただ明日の「いつ」なのかはわかっていない。四年前の新聞には書いていなかったし、事件に詳しい司書さんはみんな異動になったか辞めたということだった。病院に問い合わせよう思ったが「病院は個人情報にシビアだからやめておけ」と杉山に言われて断念。

 というわけで、前日にやれることをすべてやっておくという結論に至った。

「そろそろ準備するか、やるぞー!」

 言葉で自分をやる気にさせて、メモを書く。「桜庭さん、昨日はゴメン」と。

 スキマに置いた。後は桜庭さんが反応してくれるのを待つだけである。

 不安な気持ちは、決して小さくはない。

 桜庭さんは今日ここに来ないかもしれないし、昨日の気まずい雰囲気を引きずってまともに会話できないかもしれない。もし順調に話せたとしても、俺たちの思ったとおり桜庭さんの心が動かない可能性だってある。

 何もかもが思い通り、うまくいくわけではない。

「……けど、ヤケになったら余計に状況は悪くなる」

 野球が教えてくれたことだ。だったら俺は最初から全力を貫く。

 神頼みだって全力。天井と床を交互に眺めて時間の経過を待つ。ボールを打たれた一瞬だって長く感じたのだから、今の俺にとって十分は永遠とほぼ同じだ。

 時間はゆったりと過ぎていく。焦らすように、心を騒がせるように。

 そしてやっと、長かった永遠が明けた……

 ひらり、と。スキマから落ちたメモが舞う。


 わたしこそ、ごめん。


 来た! 慌てて駆け寄りスキマを覗き込む。

 言葉の通り申し訳なさそうな顔をした桜庭さんがこちら側をじっと見ていた。不安な気持ちが大きかった分、喜びが爆発する。

 今日は外から急いで来たのかもしれない。よく見ると桜庭さんの首筋には汗が流れ、顔はほてり、息は切れている。あまり顔色がよくなかった。

 桜庭さんの息が整うのを待って、俺たちはまた筆談を始める。


 桜庭さん悪くないよ。俺が変な態度をとったから。


 わたしも、嫌な言い方した。わたしも悪いの。


 しばらくお互いに謝り合っていた。「俺が」「いやわたしが」「俺だって」という感じ。やがてかばい合うのも不毛なことだと気づき「じゃあお互い様ということで」と両成敗的にまとまった。

 良かった、と心から思って息をつく。

 とにかく、最初の関門はクリア。

 昨日杉山と話し合ったこれからの流れを思い出す。

 ここにいる最大の理由。それは、杉山の言葉を借りるなら「桜庭さんの生きたいという執着を補う」ということ。俺はそれを勝手に「桜庭さんの生きる意味を作る」と解釈している。

 俺が桜庭さんの生きる意味になれるなんて、自意識過剰っぽいしうぬぼれているみたいだけれど……。

 どっちだっていい。俺は、後悔しないように、前に、進みたい。


 俺さ、桜庭さんに言いたいことがあるんだ。


「うん?」と反応が返ってきた。もう後には引けない。

 好意はストレートに示すのだ。元野球部だけに。


 俺、桜庭さんのことが好きだ。


 渡して返事を待つ。どんな反応が返ってくるのかと思うと落ち着いていられない。

 考えれば考えるほど嫌な想像が膨らんでどつぼにはまる。良い反応だった時のことを考えよう、でもそうしたら断られた時にダメージが大きくなるんじゃ……。

 そんな独り相撲を続ける俺の元に返事が届いた。こう書いてある。


 …………それって?


 想像していたより大きな反応ではなかった。

 ……いや、違うな。反応していないというよりも、どう反応すればいいのかわからない、と言った方が正しいと思う。その証拠に、桜庭さんの手は小刻みに震えているし、前髪から覗いた目は右へ左へ上下へ忙しく泳いでいる。真剣な表情で俺をじっと見据えたり、恥ずかしそうに目を逸らしたり。「あわわわわ……」なんて小声で言ったりしている。

 楽観的な予想かもしれないけれど、桜庭さんは嫌がってはいない……と思う。それがなんとなくわかったから、俺は続きを渡した。


 文字通りの意味だよ。俺は桜庭さんが好きだ。大好きなんだ。


 メモを読むや否や、かわいそうなくらいに顔を真っ赤に染める桜庭さん。ようやく告白された実感が湧いてきた、というところか。冷静を装う俺だって人のことは言えないけれど。

 手で顔を扇いで熱を放出させていると、桜庭さん側で少し動きがあった。メモを書き始めたのだ。やがてそれがスキマを通じて俺に渡る。

 これまで見たことのないくらい恥ずかしそうな筆跡でこう書いてあった。


 でもわたし、楠原くんからしたら、四年前の人!


 関係ない。年上好きだし。


 そういう、意味じゃない!


 そういう意味だよ。……それとも逆に桜庭さんが俺の立場だったら、諦める?


 ムキになったような表情をはっと変化させた桜庭さん。考える様に眉を寄せてから、ゆっくり首を横に振った。

 揺れる前髪から覗いた真剣な瞳を、俺は見逃さない。


 でも、わたしたち、直接会えない。


 俺がそっちに行くのは無理だけど、桜庭さんがこっちに来ることは可能だと思うんだ。


 時間の流れに任せて四年間待ち、お互いに健康でいられたら、それはきっと可能なのだ。少なくとも、俺が過去に行くよりもずっと現実的だと思う。

 桜庭さんも少し納得したのか口の形で「確かに」と言った。しかしその思いを振り払うかのようにして首をぶんぶん振る。


 でも、わたし……。隠していたけれど、体が弱い。体調が不安定だし、元気なくなるし、外で運動もできない……。そんなわたしがいると、楠原くんには迷惑。


 知っていたよ、とは言わない。

 これ以上ないくらいネガティブアピールを続ける桜庭さんだったけれど、勇気を出して打ち明けてくれたことが嬉しかった。たとえ俺がそのことを知っていたとしても、その喜びは少しも薄れない。

 桜庭さんがありのままを見せてくれたからこそ、俺も心の中にあるままに語る。


 迷惑じゃない。むしろ俺の方こそ桜庭さんの趣味に合わせて、読書を頑張ろうと思い始めたとこ。


 でも、読書より野球の方が、好きなんだよね?


 両方なんとかするよ。桜庭さんが好きなことを俺も好きになりたい。


 メモを見て二、三秒固まる桜庭さん。

 決まった! と自己満足に浸る俺に桜庭さんは


 …………キメ(キリッ)


 割と容赦なかった。

 少しくらいカッコつけさせてくれてもいいじゃないか……。

 折れかけた心を奮い立たせて「とにかく」と会話を立て直す。


 俺、桜庭さんと一緒にコレが読みたい。


 カバンの中から一冊の小説を取り出して桜庭さんに見せる。今は読みたいくないという桜庭さんに代わって、俺が預かっている本。「十年ぶりに家族写真」だ。突然の登場に桜庭さんも目を丸くしている。


 実は昨日、読んでみたんだ。でもやっぱり眠くなった。桜庭さんが解説してくれたらもっとやる気になると思うんだけれど。


「桜庭さんは一人読書の方が好きだとは知っているけど」と付け加えると、桜庭さんはくすりと笑みを見せてくれる。

 返事はすぐ返ってきた。


 わたしがいても、楠原くんがやる気を出すのかは、疑問。


 言ったな、このやろー。


 こんなやりとりがなんだか妙におかしくて笑い合う。少し前までのぎこちない感じはもうどこかに行ってしまった。俺も桜庭さんも、ずっと自然な感じで笑えている。

 緩んだ雰囲気に紛れて俺はまとめに入った。


 もし嫌じゃなかったらなんだけれど……。俺は桜庭さんの許可が欲しいんだ。


 何の許可?


 俺がこっちで桜庭さんのことを待っていてもいいかなって。どう?


 軽い感じで尋ねているようだが、内心は緊張が抑えられなかった。直接好きだとは言ったし、桜庭さんに興味があるということも伝わったと思う。だからこの返事は告白の返事もほぼ同じ。

 頼む「イエス」と言ってくれ。「はい」でも「OK」でもいいから。俺のためにも、桜庭さん自身の命のためにもっ!


 許可、ダメ。


 ばっさり切り捨てられてしまった。さよなら、俺の青春。

 ……と思っているといたずらっぽく笑う桜庭さんの姿が目に入った。何か変だなと思うや否や、すぐ次のメモが。


 許可はダメ。でも、約束はする。……楠原くんと会う、って。


 それを見た瞬間、俺は固まってしまって。

 …………う。

 …………うう。

 図書館ではお静かに。

 うおおおおおっ! 告白成功だ、成功だよ! 成功でいいよな? いいんだってやったぁ! 英語で言うとサクセス! 毛穴を洗ええええぇぇ!

 ていうかなんだよ、今の遠回しな「イエス」は! かわいすぎて俺、おかしくなっちまうよ! おじさん変になっちまうよ! 好きだ、桜庭さん、大好きだあああぁぁぁっ!

 ……絵にも描けない悶絶を続けること、一分半。


 ありがとう、俺も約束する。ここで待ってるって。


 ……うん。


 俺はもちろんのこと、桜庭さんも冷静さを取り戻していた。桜庭さんは俺の狂喜乱舞ぶりがツボにハマって今の今まで爆笑していたのだ。恥ずかしいから、お互いこの一分半の間に起きたことには触れないようにしている。

 まあ、なんだ。最後の最後ですごく見苦しいところを見せたかもしれないけれど、今日は大成功だった。個人的な想いを伝えることもできたし、桜庭さんの生きる意味に少しでも作ることができた。これであとは明日の発作を乗り切るだけ。

 ちなみに明日のプランはこうなっている。俺は開館と同時に図書館に行って一日中そこで待つ。桜庭さんをスキマの前に釘付けにし、倒れたとわかった瞬間、大きな音がする目覚まし時計をスキマから投げ込む。その音で桜庭さんが倒れていることに気づいてもらって、誰かに救急車を呼んでもらうのだ。早く気づいてもらえればその分、桜庭さんが助かる可能性も高くなるだろう。

 そうと決まれば、今日の内に大音量目覚まし時計を入手しておかないと。

 ……と明日のことを思い巡らしていると、桜庭さんが俺の顔を覗き込んでいることに気づいた。視線で何かを訴えている。なんだろうと思っていると、桜庭さんの手のひらが俺の方に伸びてきた。

「あの、桜庭さん?」

「…………(ひらひら)」

 期待のこもった視線と、ひらひら揺れる手のひらが、何かをアピールしている。その「何か」に心当たりがあり過ぎて一瞬だけ動揺してしまった。

 いや、別に緊張してないし。……なーんて自分に嘘をついてみて。

 俺は桜庭さんの手を握った。

 初めてじゃないとはいえドキドキが止まらないのは、俺と桜庭さんとの関係がステップアップしたからなのか。

 目は合わせられなかった。ここで合わせたら二度と視線を外せなくなりそうだったから。

 それでもやっぱり俺たちは繋がっていて、四年の壁なんてほんの小さなものなのだと、この感触が俺に伝えてくれたような気がする。

「ねえ、桜庭さん」

「うん……?」

 恥ずかしそうに笑って答えてくれた。スキマを隔てて目が合う。赤くなった桜庭さんの顔が俺を見つめていた。

 そして次に俺が笑いながら声をかけようとした瞬間に……


 桜庭さんの顔が急に真っ青になった。


 と同時に、桜庭さんの手から急激に力が抜けていく。まるで突然気を失ったかのように。桜庭さんの膝がかくっと折れて体が傾いた……。

「危ないっ」

 突然のことで体が先に反応した。腕を伸ばして肩を抱え、倒れそうになる桜庭さんを支える。なんとか桜庭さんを倒さずに済んだ。

 済んだ、と言ってもイコール無事ということではない。桜庭さんの顔色は今まで見たことがないくらい悪いし、支えられて立っているのがやっとという感じだ。胸のあたりを左手で押さえ、激しい運動でもしたかのように息を切らしている。

「桜庭さん、大丈夫?」

 大丈夫なわけないだろう。わかっていても、とっさに出る声なんてこんなものだ。

 支えている腕で背中をさする。だが気休め程度の効果もない。

 医者じゃなくてもわかる。桜庭さんは発作を起こしたのだ。

 でもどうして?

 発作が起きるのは明日のはず。日付だってこっち側と向こう側と両方調べたのだから、それだけは確実だ。今日はその日ではないと断言できる。

 じゃあここから体調が持ち直すのか? いや、そんな兆候もない。桜庭さんの顔色はどんどん悪くなっている。俺の腕にかかる桜庭さんの重みも増えてきた。これが回復するとは到底思えない。

 パニックに陥る俺に、桜庭さんは顔を近づけて何かを囁いてきた。

「だい、……じょぶ……、だよ……。……すぐ、よく……なる……」

「いいよ、何も言わなくて!」

 大丈夫に見えないし、大丈夫じゃないから言っているのだ。

 すぐに行動しないと! と思うが突然のこと俺は情けなく動揺するだけだった。絵に描いたようなパニック状態で、何からすればいいのかわからない。それが動揺を加速させ、余計に考えを混乱させる。悪循環に陥っていた。

 このままじゃ過去が変えられなくなってしまう! そんな危機感だけが俺の中に募って……

「あっ」

 その時、俺はようやく気付いた。

 確かに俺は、過去は変えたのだと。

 そしてその変化が常に状況を好転させるわけではないと。

 桜庭さんの発作を食い止めることができるのなら……逆も同じだ。

「桜庭さんの発作を早めることだってできる……」

 他人事のように、俺はつぶやく。

 俺が桜庭さんと気まずくならなければ、桜庭さんが向こう側の炎天下で走って図書館に来る必要はなかった。外気温との温度差で体に負担をかけることも、今日突発的に発作を起こしてしまうことだってなかっただろう。

 明日に起こる予定の発作を、俺が早めたのだ。

 すーっと、血の気が引いていく。

「俺が……俺が桜庭さんを……」

 動揺は、一瞬で腕に伝わる。

 するり。

 桜庭さんの手が滑るように離れていく。気付いて力を入れ直した時には、俺の手は空を切っていた。

 ぱたり。

 桜庭さんの体が、静かに図書館の床に倒れた。

「あ……ああっ……」

 その声が俺の口から出たものと気づくまでに十秒を要した。

 助けられるはずの、助けられるはずだった大好きな女の子が、俺のせいで発作を起こして図書館の床に倒れこんでいる。そして桜庭さんはもう一度、四年前と同じ道をたどって同じ結果に行き着こうとしていた。

 俺は四年後からの傍観者で、何もできない。ただそこに立ち尽くすだけ。

 そんな無力感からか、俺の足は自然と後ずさりを始めた。

 もう、何も考えられない。俺はここに居られない、いる資格なんてないっ!

 足にアクセルをかけて図書館から出て行こうとした瞬間……

「……す……、て………」

 囁くような声に俺は足を止めた。苦しそうに途切れた儚げな声。誰が言ったのかなんて考える必要ない。桜庭さんだ。

 しかし声は途切れ途切れで中々耳に入ってこない。スキマから覗くようにすると、床に仰向けになっていた桜庭さんの顔が見えた。痛々しい表情と虚ろな目。しかし俺の顔をその目で捉えると、桜庭さんは確かにはっきりと言ったのだった。

「た……す……け……て……」

 その響きはなぜか、俺と桜庭さんが初めて会った時のことを思い出させた。


 わたし、桜庭理沙。


 図書館の本、全部読みたいの。


 約束は、する。……楠原くんと会う、って。


 俺は。

「待ってて! 絶対になんとかするから!」

 俺の口は無意識の内に動いていた。

 さっきまでの弱気な俺はもういない。

 たすけて、って声を聞いて燃えないヤツなんてリリーフピッチャーじゃない!

 頭がすっきり冴え始めた。「楠原、投げられるか?」と監督に言われた時の感覚に似ている。

 俺は自分のカバンを漁り使えそうなもの探し始めた。野球ボールがあれば一番よかったのだが、あいにく練習以外で持ち歩いてはいない。ボールに代わるものもなかった。

 唯一、無理すれば使えそうなものといえば……この小説。

「十年ぶりに家族写真」だった。できる限りボール形に近づけようと丸める。結局完全な球形にはならないのだが、うまく指が引っかかる形にはなった。

 スキマの向こう側をキャッチャーミットに見たてて、俺はマウンドに立つ時の仕草を再現する。俺が見つめる先にあるのは向こう側にある図書館の窓ガラス。

 そう、アレを割るつもりである。

 いくら人が少ない図書館とはいえ、窓ガラスが割れて誰も気づかないってことはないだろう。必ず誰かが気付いて見に来てくれるはずだ。高校球児として最悪の選択肢だと思ったが、手段を選んでいる場合ではない。

 ターゲットを見つめて距離感を測る。距離はそう遠くないし、俺のコントロールなら文庫本でもまっすぐ飛ばせるだろう。スキマの位置もちょうどボールのリリースポイントに近い。当てることに集中すればそう難しくはないだろう。

 ただ、問題は当たって割れるかどうか。ボールはもちろんだが、文庫本で割るためには少しでも速度を上げる必要がある。そうなると握りは当然……

「またお前か……」

 ストレートになる。サヨナラホームランを打たれた時とまるきり同じ握り。なんでこうもお前は嫌な思い出ばかりを飾りたがるのか。

 ただ、この投げ方以外、窓ガラスを文庫本で割る方法がない。

 俺は腹を決めた。ストレートと心中するつもりで想像上のマウンドへ。

 目を閉じてみれば、ここは夏の日差し感じるグラウンド。ストライクゾーンは狙った位置にある窓ガラスだ。

 意識を集中してマウンドにセット。

 あの悔いの残る一球はここで挽回するのだと、自分で背中を押して。

 第一球、振りかぶって投げる!

 足から腰、肩、腕、指の順で力を込めて「弾丸」と恐れられた一球を放つ。

 過去最高に、気持ちの込もった球。

 ここからはスローモーション映像を見ているみたいだった。

 指を離れたボールはスキマを通過し、 狙い通り窓ガラスの真ん中に一直線。

 割れてくれよと願いながら、また桜庭さんにガラスの破片が刺さらないでくれよと祈りながら……

 ガラスとの接触。本の背表紙がガラスに食い込むのを確かに見た。


 パリーン!


 高い音が事の成功を告げる。

「よっしゃ!」

 景色がグラウンドから図書館に戻った。

 俺はすぐスキマに駆け寄って向こう側の様子を覗く。桜庭さんの苦しそうな表情は変わっていなかったが、幸いガラスによる怪我はない。

 やがて、ガラスが割れたことに対して反応が。

「何か割れた?」

「あっちの方から聞こえたけど」

 と誰かの声が聞こえる。やがて倒れている桜庭さんに気付いたのか、声の主の一人は悲鳴をあげて、もう一人は「大丈夫か? おい、しっかりしろ!」と叫んでいた。騒ぎはだんだんと大きくなっていく。見えない位置に人だかりができているからだろう、ざわざわした声も聞こえてきた。

 これだけの大騒ぎになればすぐに救急車がやって来るだろう。

「ふぅーっ、焦ったー……」

 本棚に体重を預けて息をつくと、体から一気に力が抜けていくのを感じた。張り詰めていた神経がダルダルに緩んでいく。

 俺にできることはすべてやった。……後は桜庭さんのことを信じるだけ。

 守ってあげたくなる系女子だが芯は強いのだ。心配はしていない。

 そうやって自分を安心させていると、疲れが一気に押し寄せて来た。ずっと気を張っていた反動が来たのだろう。すぐにでも休みたいと思ったが、桜庭さんが救急車で搬送されるところまではしっかり見送ろうと思う。再びスキマに向き直って向こうの様子を眺めると……

「うわ、なんだ……?」

 目がチカチカし始めた。

 向こう側の景色が灰色に点滅している。灰色、景色、灰色、景色と交互に入れ替わっているみたいに。試合中も疲れている時はよくこうなったなと思い出す。今日一日で色々あったから目も疲れているのだろう。ゴシゴシこする。

 しかし目の違和感は全く良くならない。むしろ、灰色に点滅するスピードはだんだん早くなっていくようで、さすがの俺もおかしいと思い始めた。

 じっと目を凝らして向こう側の景色を見る。すると点滅している灰色にどこか見覚えがあった。

 柔らかいイメージなどどこにも感じられない、硬さを追求したかのような灰色。うすくひび割れたように見えるのは模様なのか、それとも本当に亀裂が入っているのか、とにかく点滅するその灰色はまるで……

「コンクリート? ……っておい!」

 口に出して初めて、何が起こっているのか気付いた。

 いつもやっていたように、腕を伸ばして向こう側に手を出す。しかし腕はスキマのこちら側と向こう側の境目でゴン! と硬い衝撃に阻まれた。

 間違いない。スキマが……消えようとしている。

「おい、ふざけんな! なんで今なんだよ!」

 ゴン、ゴンッ、ゴンゴンゴンッ!

 感情に任せて点滅する壁に拳をぶつけ続けるが、その度に手に衝撃が返ってくるだけ。結構強く叩いているのだが、向こう側の人は全く気付いてくれない。

 俺だって、いつまでもこのスキマが残っているとは思っていなかった。いずれ消えるだろうと、なくなってしまうのだろうとある程度覚悟していた。でも……よりによってこの場面でなんて、タイミングが悪すぎる。

 スキマの点滅がどんどん早くなっていく。その合間から見える向こう側では、ようやく救急車が到着したようだった。「道をあけてくださーい」という声がかすかに聞こえる。担架を持った救急隊の姿がスキマの前を横切った。

 壁を叩く手を止めないでいると、痛いを通り越して痺れてきた。もう無駄だって薄々気づいている。俺が食い止められることではないと頭で理解はしている。それでも、諦めるわけにはいかなかった。

 やがて点滅は止まり、スキマは灰色に染まり始める。おぼろげに景色を映し出すだけになった。

 スキマを見つめる俺の目に、担架に乗せられた桜庭さんの姿が映る。声をかけずにはいられなかった。

「桜庭さん、頑張れ! 約束、忘れないでくれ!」

 桜庭さんは少しだけ笑ったように見えた。「任せて」とか「だいじょぶ」とか心の中で言ったのかもしれない。

「待っているよ、ずっとここで待ってる! だから必ず……」

 ガツンッ! 最後に拳を叩きつける音が虚しく響く。

 俺の言葉を強引に遮るようにして、スキマはただのコンクリートに戻った。

 急に力が抜けて、壁を叩きつづけていた拳がダラリと垂れ下がる。

 本と本の隙間から見えるのは灰色のコンクリート。当たり前の光景なのかもしれない。むしろこれまでの方が異常だったのだ。それでも「当然のこと」として割り切ることなんかできなくて……

「最後まで見届けさせてくれたって、いいじゃんよ……」

 悔し紛れに、もう一度コンクリートの壁を殴らずにいられなかった。

 こうして。

 スキマごと、桜庭さんはいなくなってしまった。

 心には空虚感。ため息をつく力さえ湧かず、本棚を背に黙ってうなだれた。サヨナラホームランを打たれた時もこんな気持ちだったなと思い出す。

「ちょっと、君」

 そして今の俺を一番憂鬱にさせるのは……

「君だよ、君。ちょっと来なさい」

 図書館職員さんからの容赦ない視線だった。体格のいい男性司書が三人、俺に向かって手招きしている。内一人は防犯用の三又を如意棒のように振り回していた。女の子を一人助けたかもしれないのに、危険人物扱いか。

 かなりシャクだったが、少し考えて「無理もない」という結論に至った。うるさくしたプラス、コンクリートの壁を叩きまくったの罪で現行犯逮捕。言い訳のしようもない。

 きっと出入り禁止は……免れないだろうなぁ。

『待っているよ、ずっとここで待ってる!』


 ここで = 図書館で


 桜庭さんごめん。早速、約束が果たせなくなりました。

 本棚の向こうに謝罪して、俺は大人しく自分の身柄を引き渡した。


次はエピローグ風になります。

本当のラストは今日の深夜投稿します。

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