好意はストレートに示す。 元野球部だけに。
図書館が舞台の小説を無性に書きたくなって書きました。
主人公は図書館をdisってますが、わたしは図書館の雰囲気、大好きです。
そんな気持ちが伝わったら嬉しいです。
小さい頃、俺は図書館が好きではなかった。
夏休み、読書感想文の対象図書を借りに行ったのが初めてだったと思う。壁紙や床にまで染み込んでいそうなインクの匂いと、建物全体を覆う妙なカビ臭さ。インドアな趣味と無縁だった俺はそのインパクトに圧倒されてしまい、根拠もないのに「不思議なことが起こりそう」と幼心に思ったのだ。子供の頃だったから、俺にとって「不思議なこと=恐いこと」で、それがいつのまにか「図書館では必ず恐いことが起きる」に進化したのだ。
さすがに高校三年生になった今ではそういう偏見を持たなくなったが、少しは苦手意識が残っている部分もある。学校の図書館にも数えるほどしか入ったことはないし、本屋に入る時は漫画しか買わない。国語の教科書は置き勉。これまで俺は、徹底して文章を避けてきた。
……やりすぎとか言わないでほしい。誰にだって苦手なものはあるだろう?
さて、いきなり俺の昔話をしたのにはきちんとした理由がある。
十何年ぶりに行った図書館で、俺は出会ったのだ。
ちょっと不思議な、本棚の向こうの彼女に。
体育会系の俺にとって、町の大きな図書館に入って行くのは初めての経験だった。
季節は夏だが、冷房が効いていて図書館の中は快適。ずっと昔に行ったことのある図書館よりずっと規模が大きい。さすがに「図書」の「館」というだけあって、あっちを見てもこっちを見ても本、本、本の山。涼しくてお金がなくても時間が潰せるスポットとしては最高なのだろうが、夏イコール練習! な俺がいるのは少し場違いな気がした。
「なあ、俺ってここにいてもいいのかな……」
「なに弱気になってるんだよ」
俺のつぶやきに冷静に返してきたのは、親友の杉山だ。キョロキョロと挙動不審気味に中を見回す俺をたしなめるようにして、ふうと溜息。
杉山は俺と正反対のインテリ系ヒト科メガネ目霊長類で、図書館通いに慣れている。甲子園出場という夢を叶えられなかった俺を、「気晴らしにでも」とこの図書館に連れてきてくれたとてもいい奴でもあった。
「グラウンドでは暴れん坊のエースで四番でも、こんなところでは縮こまるのな。あ、ごめん。もうお前の夏は終わっちゃったから元エースで四番な」
ただちょっと人をいじるのが趣味なだけで、本当は悪気はない、はず。夢破れた俺にも気を遣わず、いつもどおりに接してくれる、俺としてはありがたい存在だ。
「ああ、九回裏ツーアウト満塁くらいドキドキしてるよ」
「ふーん、意外と豆腐メンタルなのな、君」
周囲の空気感に馴染めない俺をよそに、杉山は慣れた様子で二階の自習室を予約した。勉強するなら喫茶店や家よりもここの方が落ち着くらしい。
「じゃ、僕は受験勉強するから。二時間くらいしたら降りてくる」
「おう、頑張れよ。夢は医学部だっけ? くぅーお堅いことで!」
「……一応言っておくけれど、君も受験生なんだからな。受験、するんだろ?」
「……へい」
気のない返事をして、俺は杉山と別れた。図書館の中をぶらつきながら考える。
受験。照りつける暑さよりも鬼コーチからの指導よりも何よりも、高校球児にストレスを与える魔法の言葉。野球で培えるのが気力と根性と筋肉だけということを教えてくれる試練。
それが、目の前に、迫って、いる。
「とにかく、文章を読むと眠くなる癖をどうにかしなきゃな……」
このレベルからスタートしないといけないのが悔やまれる。宿題くらいはちゃんとしておけばよかったのに。
気分は乗らないが、このまま何もしないわけにはいかない。
入試では文学作品から出題されることが多いと聞く。自分を文学に慣らしておくのも立派な勉強になるはずだ。
目の前に大きな本棚がある。昔はこの本棚も恐怖の対象だったのだ。無数の文字を抱えて動かざること山の如く、どんと立ちふさがるそのフォルム。子供の頃、俺の方に倒れて来たらどうなるのだろうと想像しては気分を悪くしたものだった。
といってもそれはずっと昔のことであって、今では本棚が倒れて来たところで「危ねえー、よっこいしょ」と押し返すのだろうけれど。野球部なめんな。
本棚に喧嘩を売りつつ、作者順に並べられた本の背表紙を眺める。初心者の俺にも読みやすい易しい文学はないだろうか。
……と。一冊の本が目に留まった。
題名が興味深いとか、作者の名前が有名だったとか、そういう理由で気になったわけではない。
「この本……ぶ、分厚い……」
ちょうど俺の胸の高さに置いてあるその本は、他の本と存在感が違った。横の本の三倍くらいの厚みがある。本に慣れない俺はもちろんのこと、読書のエキスパート杉山も読むのをためらいそうな本だった。タイトルは……復楽園の憂鬱。読めない。
「最近の文庫本って『文庫』ってサイズじゃないなー」
過去の文庫本サイズを知らないけれど。
確かめたくなって手にとってみた。ペラペラめくる。
五百ページ。閉じた。
初心者が手を出すような本でないことはよくわかった。君にはもっとふさわしい読者がいる。俺みたいな男のことは忘れて、大事にしてくれる人に読んでもらってくれ。
復楽園の憂鬱を元あった場所に戻そうとすると……。
「あっ」
鈴のなるような高い、か細い声が聞こえた。
声の聞こえた方を向くと本棚の中に顔があった。こちらを見て驚いたように目を丸くしている。
本のおばけ! 恐いこと起きた!幼い時の印象は間違っていなかった!
……と思ったのだが、単純に俺の手にとった本の隙間から本棚の向こう側が見えているだけのようだった。本棚のこちらと向こう側で同時に本を取るとこうなるのか。
向こうの方と目が合う。きまずい。ライバル校のエースに睨まれた時よりも緊張する。とにかく挨拶してみた。
「こんにちは」
「あ、ああ、ど、どうも……」
向こう側の女の子は恥ずかしそうに目を伏せながら返してくれた。見た目からすると同世代かもしれない。図書館が似合う、いかにも文学少女っぽい女の子だった。髪はつやのあるロングヘアーで長さは背中くらいまで。長めの前髪がやや目元を隠している。人によっては少し地味で野暮ったい印象を持つかもしれないが、そんな素朴さがなんとなく嫌じゃない、魅力的な娘だと思った。
挙動を見ていると、わかりやすく動揺しているようだった。どうしたらいいのか戸惑っています、と言わんばかりに体をゆらゆらさせている。
「驚かせてごめん。別にビックリさせる気はなくて……」
本棚の一つ隔てた状態のまま声をかけた。普通なら本棚を回り込んで会話するのが普通なのだろうけど、俺も慣れない状況に戸惑っている。緊張すると試合中でもこのくらいのポカはよくやっていた。
俺の声に反応して、女の子は首を小さく横に振った。それに連動して前髪も揺れる。恥ずかしがり屋なのかもしれない。ちょっとした仕草の中にも「あまり見ないで」というメッセージを発信しているような気がした。
個人的な話をさせていただくと、こういう守ってあげたくなるような娘はすごくタイプなのだ。
「俺、楠原。楠原大器っていうんだ。よかったら君の名前教えてくれない?」
俺はバカだ。野球バカ。脳みその中は、三振を奪うための戦略を蓄える領域以外、筋肉で覆われている。だから駆け引きなんて面倒なことはしない。好意はストレートに示す。元野球部だけに。
「図書館ではお静かに」
「図書館ではお静かにさん、か。いい名前だね……っと?」
不意に横から声をかけられて、慌ててスキマに本を戻した。声のした方を向くと、司書のお姉さんが不審そうな顔をして俺を見ていた。周りに誰もいないから独り言だと思われたのだろうか。できれば俺が向こう側の娘と仲良くなろうとしているところは、聞かなかったことにしてほしい。
「す、すみません!」
その言葉に「気をつけてね」と一言残してお姉さんは戻って行った。
本棚の向こうの彼女に気を取られすぎてここが図書館だとすっかり忘れていた。そうだ、私語は慎み、黙々と本に集中する。これが図書館利用者のあるべき姿。図書館は出会いの場ではない。不謹慎だな、俺は。
気を取り直して復楽園の憂鬱をゆっくり取り出すと、向こう側でくすくす笑っている女の子が見えた。前髪が揺れて整った目元がちらりとのぞく。やっぱり、笑うとかなりかわいい感じの娘だ。
俺がまたスキマから見ているのに気づいたのだろう。女の子はポケットから手帳のページを取り出して何かを書き、それをスキマから俺に手渡した。
わたし、桜庭理沙。
声を出さなくていいように筆談で答えてくれた。周りを気遣えるなんといい娘だろう。きれいな上に気配り上手ときたもんだ。桜庭さんというのか。
俺もカバンからペンを取り出して、その下に「俺、図書館来たの初めてなんだ」と書いた。スキマに差し入れて桜庭さんに渡した。返事が来るまで長くはかからなかった。
だから声、大きかったんだ。びっくり。
マナーがよくわかってないんだ。初心者丸出しだな。
本、好き?
体育会系だからあんまり好きじゃない。桜庭さんは?
大好き。
すごいな、俺は難しい文章読むだけで眠くなるんだ。
でもそっち、純文学の棚。
受験対策で文学に慣らしておこうと思って。
こんな感じで、意外と会話は続いた。取り留めもないような話ばかりだったけれど、俺にとっては野球やっている時間と同じくらい有意義に思えた。
まさに会話のキャッチボール。俺が質問して桜庭さんが答えて、興味のある話題には桜庭さんが食いついてくる。普段なにげなくやっていることだけれど、伝える方法が変わるだけでこんなに味わい深いものになるとは思っていなかった。
俺が何か書いたメモを読む時、桜庭さんはほんの少し表情を変える。話を聞くとやはり恥ずかしがり屋だそうで、感情を表に出すのが苦手らしい。でもしばらく様子を眺めていると、だんだんとその変化にも気づけるようになってきた。眉が上がったり、目を見開いたり、口角を上げたり。それをぼんやり眺めているのが妙に楽しくて、すっかり時間が経つのを忘れてしまった。
気がつくと、杉山との待ち合わせ時間になっていた。図書館で過ごすのに快適なのは夏か冬か、話し合っていた俺たちだったが、もうお別れしなければならない。
ごめん、友達と待ち合わせしているんだ。もう行かなきゃ。
この返事を見るや否や残念そうな顔をする桜庭さん。
ただ、返事はすぐに返って来た。
またね。明日もここにいるから。
本棚の向こうで桜庭さんは控えめに手を振った。恥ずかしかったが俺も振り返す。部活のリア充後輩が練習中に同じようなことをしていて、それを指咥えて眺めていた頃のことを懐かしく思った。
それと同じ、とってもステキなことを、今、俺が、やっている!
明日も桜庭さんに会いに行こうと決めるまでそう時間はかからなかった。
待ち合わせ場所の貸出所前に急ぐ。杉山は出口で時計を見ながら待っていた。待ち合わせには時間ぴったりに到着するタイプだから、遅れて来た俺にイラついているのだろう。
「ごめんごめん」
「遅い、元四番エース」
参考書の角で頭を叩かれた。本の中で一番殺傷能力が高い部分である。ゴン、ゴン。合計三回叩いたあたりで満足したらしく、参考書をカバンに戻した。
「なあ、何にやにやしてんの?」
「え、俺にやにやしてる?」
痛くてしかめ面していると思ったんだが。
「してるよ。川原でエロ本見つけた中学生みたいな顔だ」
「失礼な例え止めろよ……。まあ、実はさ」
喜びを共有したいと、杉山が自習室にいた間の出来事を話す。復楽園の憂鬱(ふくらくえんのゆううつ、と読むらしい。杉山が教えてくれた)を手に取ったこと、そのスキマの向こうの桜庭さんと知り合ったこと、桜庭さんとたくさん会話できたこと、あらいざらい全て。
「へー、良かったじゃん。いい気晴らしになっただろ」
杉山の反応は意外と好意的だった。
「ああ、ありがとうな、連れて来てくれて」
「別に僕は自習していただけだし」
「それでもだよ。少しすかっとした。感謝だ」
俺は普段あまりお礼を言わないから、杉山は少し気味悪そうだった。「あーいいから」と手をひらひらさせてからしばらく黙り込む。
自転車置き場で鍵を取り出した時になって、「ああ、そういえば」と杉山は思い出したように言った。
「その桜庭さんとやらは、どこの本棚からお前と筆談してたんだ?」
「どこって……。さっきも言ったろ。文学の棚だよ」
「それは君目線だろ。桜庭さん目線だとどこになる?」
「さあ? わからないけど」
そう答えた俺に杉山はA4サイズの紙を差し出した。図書館の開架一覧、と書いてある。要するに図書館の地図だ。文学の棚は一番左上隅。棚の向こう側は……倉庫と書いてある。
あれ、おかしくないか? あのスキマの向こうは図書館の一風景として違和感なかった。じっくり眺めていたわけではないけれど、俺はその先にも開架スペースが広がっていると思っていたのに。
倉庫なんて……どこにもなかったぞ?
「文学の棚を挟んで向こう側は、倉庫の壁にひっついているんだよ。誰もそこに入れないし、ましてスキマを通して筆談することも無理だ」
嫌な予感がした。暑さとは別の汗が背中ににじむ。
混乱する俺をよそに、杉山は「なあ、楠原」と俺の肩を叩く。
「桜庭さんって、何者なんだろうな」
俺は、何も答えることができなかった。
8月17日に続きを投稿します。