のり弁と女
ペダルを踏み締め、鳴り始めた踏切を強行突破する。
まだ人通りのない夜明けの商店街を立ち漕ぎで疾走するのは実に気持ちが良い。自分が何か尊い価値のある生き物にでもなったような気がする。いや、もちろん錯覚である。
残念ながら不良貧乏男子学生である私ははこの街はおろか地球上においても下から数えた方が早い最低辺の生き物であり、よってこんな気分を堪能している余裕はない。
絶妙かつ計算し尽くされたコーナーリングを駆使して角を曲がると、そこに目当ての店がある。
“弁当屋仁左衛門”
満洲引き揚げ組と噂される店主が奥さんと二人で営む弁当屋である。旨い、安い、量が多いと大学生のニーズにぴったり合致した素晴らしい弁当を提供する素晴らしい弁当屋だ。鄙びた佇まいの店内では、仕込みの包丁が小気味のいい音を立てている。
携帯を確認すると、七時を回ったところだ。開店は八時半からなので、まだ一時間の余裕がある。私はナップサックから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り出して読み始めた。読書は良い。人の心を豊かにしてくれる。
と、そこに至福の時間を邪魔する奴が現れた。
「アンタ、また来てたの?」
下連雀舞奈。経済学部の一年生で学籍番号はL12047。第二外国語はフランス語で所属サークルはジャズ研。栗色のショートボブのこの女は、私のことがどうにも気に食わないらしい。
「昨日、阪神が勝ったからな。それとお前さんにアンタ呼ばわりされる筋合いはない」
阪神。そう、阪神だ。
私が弁当屋に開店一時間前からやってくるのには、意味がある。昨日阪神が勝ったからだ。
この店の店主、尼崎出身の太田垣仁左衛門翁は大のトラキチで、阪神タイガースの応援に人生の全てを捧げている。どれくらいタイガースへの愛が深いかと言えば、阪神が勝った次の日には先着10名に限り、のり弁を190円にて販売する、というほどであるから見事というほかない。190円なのは、もちろん川尻哲郎の背番号19にあやかってのことだそうだ。
とにもかくにも万年金欠の私にとってはこの上なく有難いサービスであり、よって阪神勝利の翌日には雨の日も風の日も“仁左衛門”の開店一時間前にはここに並ぶのが習慣となっている。
が、この女だ。
私がのり弁を買いに来ると、必ず下連雀舞奈がここにいる。これまでの経験上、一回とて欠かしたことはない。ではこの女が私と同じく赤貧洗うが如き経済状況であるかと言えばそんなことはない。この時間から並ぶにも拘わらず、彼女はのり弁ではなくヘルシー弁どうだとかデミグラスバーグ弁当だとか、そういう弁当を買っていくのである。
これを許し難い暴挙でないとするならば、世の中の暴挙という暴挙は雲散霧消するであろう。彼女は私のことを嗤う為だけにこの列に並んでいるのではあるまいか、という被害妄想にも似た妄念が鎌首をもたげるのを私は容易に阻止することが出来ない。
つまるところのこの下連雀舞奈は私の敵であり、倒すべき相手なのではあるまいか。
「ところでその本、何読んでるの?」
下連雀が声を掛けてくる。いつもそうだ。興味も関心もない癖に、私の読む本を詮索してくるのだ。これも何かの迂遠な嫌がらせに違いない。
「マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。俗称プロ倫。社会科学を志す文系学生の必読書だな」
「へぇ、名前だけは聞いたことあるかも」
「素晴らしい本だぞ。私もこれを通読するのは五度目だ」
「そっか、そんなに面白いのか」
そう言いながら、小さい革の鞄から下連雀は手帳を取り出す。意外に可愛らしい手帳だ。
「えっと、マックス・ウェーバーの……プロテスタンティズムの何だっけ?」
「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、だ」
「なるほどなるほど」
「……そんな物、メモしてどうするんだ?」
「読むに決まってるじゃない」
「読んでどうする」
「目的がないと本が読めないなんて、人生を詰まらなくする考え方だね」
やはりこの女は苦手だ。どうしてこんな女がこんな時間から弁当屋に並ぶのか。
「あ、そう言えば。この間アンタが読んでたアレ、面白かった」
「アレ? この間読んでだというと……『ニューロマンサー』?」
「そうそう、『ニューロマンサー』! 難しかったけど、最後まで読んだよ」
意外だ。『ニューロマンサー』と言えば、サイバーパンクの嚆矢ともいうべき傑作だが、下連雀のイメージとはちょっと合わない。
「へぇ。普段、SFとか読むのか?」
「うぅん、いつも読んでるのは『Popteen』とか『SEDA』とか」
「……聞いたことないな」
「ファッション誌だからね」
いつも通りだ。
何故か私と下連雀はいつもこうして一時間、弁当屋の前で話し込むことになる。謎だ。
ただ、最近、少しだけ阪神を応援している自分がいることに、私は気付き始めていた。