第七章 朱祜と鄧禹
「幼馴染、ですか?」
修が呟いた。
「ああ、そうだ」
来歙はそう言って、二人の少女の方を、微笑ましげに眺めた。
「二人とも、小さい頃から仲良しで、いつも一緒に遊んでおったわ。一緒に追いかけっこしたり、時には何かと張り合ったりな」
「へえ~」
感心する修。今や彼の眼は、正面にいる秀児たちの方に、釘づけになっていた。
(仲いいんだな)
見れば見るほど、微笑ましげに見えてくる光景である。
「ところで……」
見とれている修たちを余所に、秀児が例の朱祜という女の子に話しかけた。
「茶柳。どうして君は、こんな所で泣いていたのかな?」
女の子であるにもかかわらず、いかにも頼れるお兄さん、みたいな口調で秀児が言った。
「うん、実はね……」
ついさっきまで寄りかかっていた枝垂れ柳の幹を背にしながら、朱祜こと、茶柳が打ち明けた。
「私の実家で、役人たちが『租賦を払っていない』とかなんとか言って、私の家や、親戚の人たちに、いつも迷惑なことばかりしてくるの。だから私、南陽の皆の代わりに、荘大司馬の所に、訴えに来たの」
「なるほど……」
秀児は幾度となく頷いた。茶柳が故郷・南陽の地を遠く離れた、この都まで一人で来ていたのは、秀児たちの本家、舂陵侯家と同様の問題があったがためだった。だから、秀児には茶柳の気持ちが、すぐに理解できたのである。
「そういうことか。しかし今、君が泣いているってことは、つまり……」
秀児はそう言って、どうして茶柳が泣いているのかの答えを当てようとした。
「つまり、荘公は、君を相手にしてくれなかったってことかな?」
「うん……」
図星だったらしく、落ち込む茶柳。そして彼女は語った。
「私ね、ちゃんと荘公に言ったんだよ。『これを、皇帝陛下にお取り次ぎください』って。それなのに、荘公は、『検討しておくから、今日は帰られよ』って、言うんだよ? なんだか、冷たくあしらわれたみたいで。それに、せっかくここまで来たのに、わたし、何の役にも立てなくて、それが悔しくて……」
思い出すだけで悔しかったらしく、再び涙を目にためる茶柳。そんな彼女に対し、安心させてあげるかの如く、秀児は優しげに、相手の両方の肩の上に手を置いた。そして、慰めようと声をかけた。
「茶柳。そんなことはないと思うよ」
「え?」
泣きべそをかいている茶柳と向きあい、秀児は彼女なりの自論を述べた。
「僕もついさっき、舂陵侯家の、同じような問題のことを、荘公の所に訴えに行ったんだ。荘公は言ってたよ。『同じような訴えが、たくさん来てる』って。だから、茶柳が訴えに行った時、虫の居所が悪くて、『またか』って思って、うんざりしたんじゃないかな? 仮に僕が荘公なら、そう思うよ」
「そう、なの?」
「うん。それに荘公は言ってたよ。『必ず、皇帝陛下に上奏する』って。だから大丈夫だよ。茶柳の訴えは、絶対にムダじゃないよ」
そう言ったとき、茶柳の表情は、ぱあっと、明るく輝いた。
「よかった……」
嬉しさのあまり、再び泣きそうになる茶柳。そして、そんな茶柳を見て微笑む秀児。
「それにしても……」
不意に、秀児が口を開いた。
「君は僕に宿題も教えてくれないほどの勉強家で、僕よりも先に進学するほどの『秀才』だし、しかも僕なんかよりずっと可愛く、おまけに武芸にも優れている。それなのに……」
なにやら昔話を持ちだして、いろいろと並べ立てる秀児。そして彼女はわざとらしく勝ち誇ったかのような態度をとりながら、最後にこう言い放った。
「どうして荘公は、君のことを相手にしないのかな?」
それを聞いた茶柳は、一瞬ポカンとなったが、間もなくからかわれたことに気付き、カアッと赤くなって、そのまま膨れた。そして、秀児の上半身を、ポカポカと力なく殴り始めた。
「もう、秀ちゃんったら!」
そう言って嬉し泣きをしながら、茶柳はからかわれたことへのお返しを続ける。
「こんなに人が悩んでいるのに、からかうなんて!」
「あははは、ゴメン、ゴメン」
得意げに笑う秀児。この二人は、本当に仲良しであった。
*
「あはは。仲いいですね、二人とも」
一連のやり取りを見ていた修が言った。
「そうだろう。あいつらは昔からああいう関係だ」
来歙はそう言うと、今度は幾つかの昔話をした。
「この間まで、二人ともここの太学で学んでいたんだがな、俺が知り合いからきいた話だと、その土産話がまた傑作でな」
「どんな話なんです?」
好奇心旺盛だと言わんばかりに、修が聞いた。
「ああ。例えば、ある時は蜜(砂糖黍のしぼり汁)を、二人で割り勘したとか。他にも、学費を稼ぐために、二人で露店を開いてなぁ、そこで、『薬草と蜂蜜で作った薬』を売ろうとしたそうだ」
「へえ~。あの秀児がそんなことを……」
修は感心した。
「で、その『蜂蜜入りの薬』は売れたんですか?」
「いや、全然ダメだったらしい」
それを聞いて、修はガクッときた。思わず、ずっこけそうになったほどである。
「まあ、ほかにも、秀児のヤツは、『運送業』をやるために驢馬を割り勘で買ったり……」
来歙が言いかけた時であった。
「あ、そうだ!」
不意に秀児の声が届いた。
「せっかくだから、茶柳に新しい友達を紹介するよ!」
言うやいなや、秀児は修たちの方を向いた。そして、大きく手を振った。
「しゃーねー、行くか」
修は来歙と共に、初めて話すであろう、茶髪の少女の方へと歩みを進めた。
「あ、来歙さん!」
以前からの顔見知りなのか、来歙に向かって明るく挨拶する少女・朱祜。
「よう、茶柳。こんな所で会えるとは、奇遇だな」
来歙が愛想よく挨拶を返す。すると、朱祜こと茶柳は、今度は修の方を見て言った。
「秀ちゃん。もしかして、この人が『新しい友達』なの?」
「うん。そうだよ、茶柳」
秀児は笑顔でそう言って頷くと、今度は修の方に向き直って、
「ほら、修くん。挨拶しなよ」
と、彼に挨拶を促した。
「ああ」
修は一度頷くと、自己紹介を兼ねて挨拶をした。
「俺は、柳修。字は伯昇。よろしくな」
「初めまして、伯昇さん、でいいかな? 私は朱祜。字は仲先といいます。よろしくお願いします」
そう言って互いに頭を下げる二人。すると、秀児がさわやかな笑みを浮かべて言った。
「茶柳。おもしろい名前だろ? 姓名の発音がこの僕と同じで、字が縯兄様のと同じなんだよ?」
「あ、言われてみればそうだね」
茶柳が秀児の言わんとすることに気付いて言った。
「秀ちゃんの名前と発音が同じだし、伯升さんの字とも読みが一緒だよね。凄いよ!」
そう言って、素直に関心する茶柳。秀児はなんだか照れくさくなってきた。
(伯升さん……)
今更ながら、自分と全く読み方が同じ字を名付けた伯升に、一言言いたい気持になる。
すると、茶柳は何かを思い出したかのように言った。
「そう言えば秀ちゃん、伯升さんは元気にしているの?」
「ああ、もちろん!」
自信満々の表情で、秀児が答えた。
「昼は何もせずにゴロゴロしていて、夜になると、劉稷さんたちと飲んだくれる毎日だよ。元気すぎて、本当に腹が立つくらいね」
一瞬、秀児の笑顔の裏に、どす黒い何かが見えた気がしたが、修も来歙も、黙っておくことにした。
「あはは、伯升さんらしいね」
茶柳が苦笑いした。
「あ、ところで」
今度は秀児が言った。
「茶柳。君は露々を見かけなかったかな? 露々はまだここの太学で頑張っているはずだし……」
「ううん。私、まだ会ってないよ? できたら会いたいんだけど」
首を傾げる二人。どうやら、この長安には、もう一人、彼女たちの友人がいるらしい。
「おかしいな。あの露々が太学を退学になんてなるはずないし、どこにいるんだろうね?」
秀児がそう言った直後であった。
「誰が、退学ですって!?」
明らかに苛立ちを含んだ、少女の声が、修たちの耳に入った。
「え?」
後ろから聞こえた声に、修はさっと振り返った。しかし、声の主を見つけることはできない。
「あれ、今の声、いったいどこから?」
不思議に思って、辺りをキョロキョロと見回した時だった。
「ここよ!」
自分はここにいると言わんばかりの大声が響いた。慌てて修は、自分の足元の方を見た。
そこにいたのは、秀児や茶柳と同じ服装をした、黒髪ツインテールの少女だった。もっとも、秀児や茶柳と比べて、遥かにチビだったが。
「ち、小さい?」
修がうっかり漏らしてしまった。それが、どれだけ相手を傷つけるかさえも考えずに。
「だ、誰が……」
チビ少女が、怒りに震えた。
「誰がチビですってええぇ!!?」
そう言って、小さい体には似合わないほどの高さまで飛びあがると、見とれていた修の顔面に、飛びひざ蹴りを喰らわしたのである。
「ぐはぁ!?」
回避する間もなく、修はそれを喰らって倒れた。それはもう、盛大なものである。
「なによ、コイツ! 露々のことを、まったく知らないくせに! ホンット失礼なヤツね!」
地面に着地するやいなや、両腕に腰をあて、言いたい放題のチビ少女。秀児たち三人は、苦笑するしかなかった。なにしろ、非は明らかに修の方にあるのだ。
「露々。もうその辺で」
苦笑いの表情を浮かべた秀児が、優しげに言った。
「ああ、もう。本当に腹立つわね」
苛立ちを隠せないまま、「露々」と呼ばれたチビ少女が言った。本当に腹が立っているようだ。
「あいてて……」
しばらくして、修が起き上がったので、秀児がさりげなく、一言言い渡した。
「修くん。ほら、謝らないと」
「あ、ああ」
流石に自分の言ったことのひどさに気付いた修は、すぐに謝った。
「ご、ごめん」
「ふーんだ!」
チビ少女は、そう言って、脹れっ面でそっぽを向いた。エラそうに、腕まで組んでいる。
「いったい、この子、誰なんだ? 秀児」
わけがわからないまま、修は聞いた。
「ああ、紹介するよ」
そう言って、秀児が紹介する。
「彼女は鄧禹。字は仲華。僕や茶柳の、太学時代からの友達だよ」
「フーンだ」
どうやら、修はこのチビッ娘こと、鄧禹からは、目の敵にされてしまったようだ。とりあえず、聞いてもらえないこと前提で、修も挨拶した。
「えっと、初めまして、鄧仲華さん、かな? 俺は、柳修。字は伯昇。まあ、片隅にでも置いといてくれないか?」
そう言った時だ。突然、鄧禹が険しい表情を崩さずに、修の方を見てきたのだ。一瞬何事かと思い、修はギョッと目を見開いたが、鄧禹は構うことなく、修の顔を、じっと見つめた。そして、しばらくして言った。
「うん。嫌なヤツだけど、将来、何かの役に立つかもね」
「え?」
訝しがる修。
「それってどういう……」
「言葉どおりの意味よ。認めたくないけど」
そう言ったきり、鄧禹はまたそっぽを向いてしまった。わけのわからない話とは、このことであろうか。
「あはは」
チンプンカンプンになる修を見て、秀児が笑いながら声をかけた。
「露々はね、昔から人を見るのが好きなんだよ。意外なことに、彼女の評は、けっこう当たるんだ?」
「なんだそれ?」
いったいどこの占い師だ、と修は思った。
「ところで、秀児も茶柳も、こんなところでなにしてるの? 二人とも、先に南陽に帰っていたはずでしょう? まあ、久しぶりに会えたのは嬉しいけど」
思い出したかのように、秀児たちに語りかける鄧禹。
「ああ、それはね……」
今までのいきさつを、秀児と茶柳とが説明した。
「なるほどね……」
話を聞いて、鄧禹は何回か頷いた後、今度は彼女自身の近況について語った。
「最近、本当におかしくなっているわ。秀児や茶柳が南陽に帰ってから、この都でも、物の値段が鰻登りよ」
「そうなの?」
茶柳が聞いた。
「この露々さまが言ってるんだから、その通りよ。特に、粟の値段が十倍に上がっているのよ! どうしてかわかる?」
「もしかして、河のことかな」
秀児が答えた。
「そうよ。以前、魏郡で河水(黄河)が決壊したでしょう。あの大河の河の流れそのものが変わってしまうほどに。それなのに、皇帝陛下は堤防の修復さえしていないのよ」
「ええ!?」
茶柳が驚いた。
「なんで!?」
「聞いた話だと陛下はね……」
声を潜めながら、鄧禹が説明した。
「『天子が天に徳と威光を見せつければ、洪水は起きない』と思っているらしいのよ。もともとその言葉は、『河を治めるものが天子たる資格を持つ者なり』という意味なのに、はき違えているわ」
なんだそれ、と修は思った。洪水を防ぐには、堤防が必要なことくらい、誰にでもわかることなのに、皇帝・王莽は何もしていないのだ。おかしい話である。
「それともう一つ」
鄧禹が続けた。
「陛下はまた、匈奴に遠征軍を送るつもりらしいわ」
『ええ!?』
全員が驚いた。国内で飢饉が発生しているというのに、どうして匈奴などという、草原の異民族の討伐などしようとするのか。誰がどう見ても、しなくてもよい戦争である。
「おかげで、全国各地から壮丁が集められているし、兵糧も牛馬も、大量に北へと運ばれているみたいよ。どこから集めてきたのかしら、本当」
修たちには思い当る節があった。最近、役人たちによる徴発がやけにひどいのは、こういう流れだったのではないかと、思い至ったのである。
「まあ、こんな世間話しても仕方ないわね」
鄧禹が手を横に広げながら、首を傾げた。
「今日はせっかく三人そろったんだし、いっぱい楽しみましょう!」
「うん、そうだね!」
「楽しまなくちゃ!」
こうして、世間話は幕を閉じ、長安観光へと、事は運ぶのであった。
*
都・長安は、本当に壮大な都市である。
現在、修たち一行は、東市にいた。そこで様々な店を見物していたのである。
「本当にすごいなぁ」
修は息を呑んだ。ある店では蜂蜜が売られ、ある店では牛や豚の解体が生で見れるようになっていた。
またある店では、きれいな絹織物が売られていて、また別の店では、当時としては極めて珍しい、西域から来た瑠璃色の盃、すなわちガラスの容器が売られていたのである。
国が飢饉やら盗賊やらで苦しんでいるとは思えないほど、長安の街は賑やかであった。
「ここは本当にすごいなぁ」
そう言って、修は隣にいる秀児に話しかけようとした。だが、そこで異変に気付いた。
「おい、秀児?」
話しかけても、秀児は向こうの方に夢中になっていて、気付いていないのである。
「おい、秀児!」
「え、わぁ!?」
声を張り上げたとたん、驚いてビクつく秀児。
「何やってるんだ?」
「あ、ああ。ごめんね!」
そう言って、何かをごまかすかのように、慌てだす秀児。
「お前、何余所見してたんだ?」
お前らしくないぞと、修は言った。
「いや、なんでもないよ、うん!」
秀児はそう言って、何かを隠そうとしているかのように慌てた。それにしても、バレバレである。
「なんか、怪しいな」
そう言って、問い詰めようとする修。その時であった。
「秀ちゃん! それから伯昇さん! 大通りを、執金吾の行列が通るって!」
茶柳がそう言って、大通りの方へと一行を急かした。
『執金吾!?』
聞くやいなや、一行は大通りの方へと向かった。おかげで、修は、先ほど秀児が見ていたモノが何かということを聞きそびれた。実は、先ほど秀児が眺めていたのは、近くの店前に並べられていた、可愛い女の子が描かれている屏風絵だったのだが、彼女にとっては幸いなことに、修にばれることなく済んだのである。
なにはともあれ、一行は大通りにたどり着いた。
「どれだよ、執金吾って?」
人ごみにもまれながらも、修が懸命になって背伸びしようとしたときだった。
「来た!」
秀児が腕を掲げながら、声を上げた。
それを聞いた修は、秀児が掲げる腕の先の方を凝視した。
やがて、それは姿を現した。人ごみの向こうの大通りを、ゆっくりと闊歩する騎兵集団。もう、間違いない。兵士たちの体格といい、恰好と言い、あれは近衛兵たち以外の何者でもなかった。
それらはゆっくりと、しかし、それゆえに威厳のある存在として、人びとの見守る中を通過していくのである。
そして、ついにお目当ての人間が姿を現した。
「あれが……」
修は思った。彼の眼に入ったのは、きらびやかな衣装に身を包んだ、眉目秀麗で、威厳のありそうな人物だった。なるほど、秀児の言っていたとおりである。これに目を奪われるなという方が、無理というものだ。
「あれが、執金吾か……」
修は誰に言うでもなく、一人呟いた。
そんな彼を余所に、執金吾の行列は、ゆっくりと通り過ぎていく。それは河の流れのように、永遠に続くかに思われた。しかし、しばらくすると、最後尾の近衛兵が通り過ぎ、やがて、行列の姿は消えた。そして、大通りはいつも通りの喧騒にまみれるのである。
修は、行列が通過した後も、しばらくぼうっとなっていた。
「どう?」
突然、横から秀児が声をかけてきたので、我に帰る。
「あ、ああ。凄いな……」
だが、我に帰っても、それだけしか言えなかった。それ以外に、言い表す言葉がなかったのである。
「でしょう?」
満面の笑顔で秀児が言った。
「僕があれになりたい理由、少しはわかってくれたかな?」
「ああ」
修は未だに表情が戻らないまま、なんとか言葉を続けようとした。
「わかりすぎて、言葉が出ないなぁ……」
「あはは、修くん、本当におもしろいよ、君!」
そんな修の姿がつぼにはまったのか、大爆笑する秀児であった。なお、このやり取りを眺めていた、来歙、茶柳、そして、鄧禹こと露々が笑いを隠せずにいたことは、言うまでもなかった。
その後、秀児たち一行は、都長安で一泊した後、再び南陽へと帰る運びになった。
露々は長安に残って勉強を続けるため、長安城北東にある宣平門で別れることになったが、こんどは朱祜こと、茶柳が一行に加わり、一緒に帰ることになったのである。
一行を乗せた馬車は、来た道を引き返し、南陽の新野へと向かうのであった。
しかし、この時の修たちは気付いていなかった。
あの執金吾のきらびやかさの裏で、すでにどす黒い影が渦巻きつつあったことに……。