第五章 官になるなら執金吾
「申し訳ございませんでした!!」
旅籠の一室において、修は土下座していた。布団の上に跪き、深く、そのまま頭を床にまで着けていた。
そんな修のすぐ前には、一人の蒼い髪の少女と、その横で、必死に笑いをこらえている来歙とがいた。
蒼い髪の少女は、まだ乾ききっていない髪の毛を下ろしたまま、かつてない以上に顔を真っ赤にして、うつむいていた。
この少女こそ、修が今までずっと男の子だと思っていた友人、劉秀こと、秀児だと言われれば、はたして何人の人間が信じてくれるであろうか。
いずれにせよ、風呂場での騒動の一件については、修の方に非があるのは明らかである。
だから、修はひたすら頭を下げているのだ。
「まったく」
しばらくして、来歙が口を開いた。
「いくら秀児の正体に気付いていなかったとはいえ、普通、確認するだろ。置いてある着替えとか」
そう言う来歙は、今にも笑いだしそうだった。
「すみません。ごめんなさい。からかってやろうと夢中だったので、気付かなかったんです」
頭を床に着けたまま、修が言った。
「ごめん、秀児!」
とにかく謝ることしかできない修。だが、しばらくして、ようやく秀児本人が、固く閉ざしていた口を開いた。
「ううん。こっちこそ、ごめんね。修くん」
修は咄嗟に顔を上げた。秀児からの一言が、彼にとっては意外だったからである。
「え、なんでお前が謝るんだよ?」
「だって……」
恥ずかしそうにうつむいたまま、秀児が続けた。
「修くん。僕が女の子だってこと、気付いてなかったのだよね? 僕、てっきり修くんが気付いてくれているとばかり思っていたの。聞いてこなかったし。それに……」
何かを言い含めているのか、少し間を置いた上で、彼女は言った。
それにしても、正体が女の子であることがわかったせいか、風呂上がりの彼女の肌は、いつもより火照っているように見えた。
「その……、この間のこともあったし……、これでお互い様だよね……?」
この間のこと、と言われて、修はギクッときた。修が初めて秀児と会った時、気が付いたら、すっぽんぽんにひん剥かれていたことを言われたからだ。
「い、いや。別にあの時のことはいいんだ」
思い出すだけで恥ずかしい修は、慌てて話を遮った。
「まあ、要するにだ」
傍らで話を聞いていた来歙が口を挟んだ。
「今回のことは、どっちもどっちだ。修。お前は相手の了解も得ないのに、勝手に人の風呂に入るようなことはするな」
「はい。反省してます」
「それから秀児。お前もお前で、聞かれなくても、一つ下の屋根で暮らす人間には、あらかじめ言わなきゃダメだぞ」
「はい。すみません」
しょぼんとする修と秀児。
それにしても、この件を喧嘩両成敗で裁いて見せた来歙は、なかなかお手の物である。だが、そんな彼も、とうとう冷静さを保つことができなくなった。
「しかし、思い出すだけで、これはもう……、ククッ……だ、ダメだ……だーっはっはっは!!」
風呂場での光景がつぼにはまったのか、とうとう笑い始める来歙。こうなったら、もうだれにも止められないものである。
彼はその場で腹を抱えて、あごが外れるほど爆笑し、右手の拳で布団を叩きまくったのである。
「あれは、もう、傑作だぜ! 伯升が見たら、なんと言うか!!」
結局、来歙は一晩中笑い続けたのである。
そんな彼の姿を見て、修と秀児は苦笑しながら、お互いの顔を合わせた。
だが、恥ずかしさのあまり、すぐに互いの目をそらした。
こうして、その日の夜は更けていった。
*
次の日の朝。
武関の城門が開くと同時に、一行を乗せた馬車は、城門をくぐった。いよいよ関中である。
都・常安(長安)に向けて進む馬車の中では、修と秀児の二人が、いつも以上によそよそしい態度で座っていた。
とにかく落ち着かないらしく、特に女の子である秀児の方が、ソワソワしているのである。
今の彼女は、いつもと同様に、自分の髪を後頭部で一括りに纏めていたが、いつものような「男の子らしさ」は、あまり感じられない。
そんな秀児を見て、修はなんとかしようと思い、思い切って話しかけた。
「あのさ、秀児」
「ひゃ、ひゃい!?」
返事をしようとして、舌を噛んでしまう秀児。もはや、威厳も何も、あったものではない。
「落ち着けよ。こっちが驚くじゃないか」
見かねた修が、そう言って、落ち着かせようとした。
「う、うん。そだね。ごめん」
相変わらず両手をモジモジさせながら頷く秀児。かわいいとは、こういうものをいうのであろうか。それはともかく、修は気になった事を質問するため、再度話しかけた。
「いや、謝る必要はねえ。俺は聞きたいことがあるだけだ。まあ、秀児が話したくないなら別にいいが。お前、どうして、その辺の男みてえに、髪を後ろで纏めてるんだ? 下ろした方が、可愛いと思うぞ」
何気なく、そう言った。すると、秀児はますます顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。が、やがて勇気を振り絞って、言った。
「あのね……」
恥ずかしそうに口を開いた秀児は、言い出したからにはと言わんばかりに、その先を言い切った。
「あのね、僕……。カッコよくなりたいんだ……」
「は?」
どういう意味か、修にはわからなかった。
「なんだって?」
「だから、カッコよくなりたいんだよ……。変かな?」
恥ずかしがりながら、目をウルウルさせながら聞いてくる秀児。さすがの修も、これを「可愛い」と思わずにはいられなかった。
「いや。カッコよくなりたい、と言うこと自体は変なことじゃないだろ」
そう言って安心させてやると同時に、修はその理由を聞くことにした。
「しかし、なんでお前は、カッコよくなりたいんだ? 演劇の役者にでもなるのか?」
「ち、違うよ!」
突然、秀児が大声を出した。それに思わず、修は飛びあがってしまった。
「あ……、ごめん」
驚かしたことに謝罪した後、秀児は理由について語った。
「あのね、僕。将来、執金吾になりたいんだ」
「え?」
修は聞き返した。
「ごめん。何になりたいって?」
「執金吾だよ」
秀児が再び言いなおした。しかし、耳慣れない職業名に、修はかえって戸惑うばかりだった。
「えっと、その、シツキンゴって?」
「都の治安維持を担当する役職だよ」
秀児が説明した。
「執金吾はね、きらびやかな服を着て、街を巡回するときには、大勢の騎馬の近衛兵を引きつれて歩くんだ。物凄く、カッコいいんだよ」
熱心に語る秀児。どうやら、彼女は本当に、それに憧れているようだった。純粋な夢の持ち主である。
「な、なるほど」
修はピンときた。秀児が自分の可愛らしさを捨ててまで、カッコよくなりたい、というのは、その執金吾になるための選考基準かなにかが、そうでなければならないというわけであろう。それくらいのことは、修にも、容易に想像はついた。
だが、念には念をと思い、修はもう一度尋ねた。
「つまり、お前はそれになりたいがために、カッコよくなりたい、と?」
「うん」
秀児が頷いた。
「執金吾になろうと思ったら、威厳が必要なんだよ。まず、長身で引き締まった体じゃないといけないし、それから、眉目秀麗じゃないとダメなんだ。それから、都の治安を守らないといけないから、やっぱり強くなくっちゃね」
「そういうことか」
修は一度頷いた後、じっと、秀児の頭の上からつま先に至るまでを観察した。
なるほど、眉目秀麗というならば、彼女は合格かもしれない。先ほどのように取り乱さなければ、それなりに威厳を保てるかもしれない。体つきも、女性である彼女には失礼であるが、すらりと引き締まっているので、問題にはならない。
しかし、長身かと言われたら、そうでもない。見たところ、その辺にいる同年代の少女より少し高いくらいで、そんなに特別高いというわけではないようである。
また、強さに関しても、本当に強いかはわからない。毎日、訓練は欠かさずに行っているので、女の子にしては強いのであろう。しかし、修の知る限りだが、秀児が実戦で戦っている姿を見たことは一度もない。
修はそのような事を考えたが、流石に口にはしない。なにしろ、秀児は大きな夢と目標を持っているのだ。それを壊すような男は、最低であると言わねばならない。
「よし、わかった」
修は応援してやろうという気になった。
「秀児。いい夢じゃないか。お前は、本当に純粋なヤツだな。本当に今どき、珍しいくらいだよ。ま、俺は応援させてもらうぜ」
そう言って、彼は秀児の頭の上に、ポンと手を置いたのである。
「え?」
頭に手を置かれた秀児は、またしても赤くなった。
「ん? あ、ああ。ごめん」
秀児の表情を見て、修は慌てて手をひっこめた。つい、猫かなんかを撫でるような感じでやってしまったのである。
「ううん。それより」
秀児が頬を赤らめつつも、微笑みながら言葉を紡いだ。
「お話聞いてくれて、ありがとう。修くん」
「よせやい」
修は急に照れくさくなってしまった。
「礼を言われるようなことなんか、した覚えねえよ」
「あ、そうだ!」
不意に、秀児が言った。
「都に着いて用事を済ましたら、一緒に執金吾の行列を見よう。すっごくカッコいいからね!」
どうやら、秀児はどうしても見せてやりたいようだった。
「あ、ああ。その時は案内、頼むぞ」
そこまで言われると、修も見たくなったのであった。
「任せといて!」
得意げに、貧相な胸を張る秀児であった。
それから後の二人の会話は、主に馬車から見える三輔、すなわち、関中一帯の景色のことに費やされたのであった。
*
(やれやれ。盗み聞きは、俺の趣味じゃねえんだけどな)
馬車の御者席の隣に座っている来歙は、後ろの少年少女の会話を聞いて、そう考えていた。
(それにしても)
彼は思った。
(秀児のやつ、なんだかんだで、きちんと女の子やってるじゃねえか。やっぱ、逆らえねえもんかな)
秀児の従兄にあたる彼は、幼いときからの彼女のことをよく知っているだけに、そう思わずにはいられなかった。
(まあ、あんなことがあったら、誰でもそうなるか)
ふと、昨日のことを思い出す来歙。何度思い返しても、あれは傑作であった。なにしろ、何事かと見に行ったら、一糸まとわぬ少年と少女。しかも、少年に至っては鼻血を噴き出して倒れている有り様である。本当に、舂陵郷にいる伯升への土産話にしたいくらいだ。
(しかし、秀児のヤツ。結局言わなかったな)
後ろの二人の会話が、周辺の景色のことに移ったところで、彼はふと、口にしそうになった。
(あいつがカッコつけてるのは、執金吾になりたいことと、もう一つあるってのに。まあ、そのことは置いておくか。アイツの方から話したければ話すだろう)
そう思った来歙は、前に秀児が教えてくれた、もう一つの夢。秀児がまだ修には話していないことを、一人、心の中で、そっと呟いた。
(『官になるなら執金吾。妻を娶らば……』)
*
―――ここは荊州江夏郡当陽県にある緑林山。
数年前より、この山に食い詰めた人々たちが寄り集まって、盗賊集団を形造っていた。
盗賊といっても、もともとは素朴な農民たちである。飢饉によって飢えに苦しみ、さらには役人たちからの容赦のない取り立てに我慢できず、土地を捨てて逃亡した人びとなのだ。
土地を捨て、食い詰めた彼らを拾い上げたのは、江夏郡新市県で顔役を務めていた、王匡、王鳳という男たちであった。
王匡、王鳳たちは、逃亡農民たちに巧みに声をかけ、散り散り立った彼らを一纏めにした。
そして、緑林山を隠れ家に、周辺の集落を襲い、特に食料の多そうな倉庫のある富豪・地主の家や、役所などを中心に略奪を働いていた。そのため、人びとはこの盗賊集団のことを、「緑林軍」と呼んで恐れていた。
相手が仮に、五十人の衆で蔵を守っているならば、その倍の百人の人数で襲いかかるといった具合である。
そういう風にして大暴れしているうちに、噂を聞きつけた逃亡農民や、任侠の輩などが、新しく参加するようになり、さらには南陽の馬武、潁川の王常、成丹といった連中が、彼ら自身の徒党を引きつれてきたこともあり、「緑林軍」の数は、たちまち数千人にまで膨れ上がったのである。
これに対する皇帝・王莽の造反対策は、彼らしく聖人ぶって、「赦免してつかわす」といった程度のものであった。
あまりのことに、荊州牧の費興という人物が、
「租賦を軽くするべきであります」
と、まっとうな進言をしたのだが、王莽は自分で決めた税率にいちゃもんをつけられたことに怒り、その場で彼を解任してしまった。
そして、皇帝・王莽は、費興の後任の荊州牧に、二万の兵を授けて緑林軍の討伐に向かわせたのである。
「二万の官兵来る!」
斥候からの報告に、緑林軍内部は騒然となった。なにしろ今までの彼らは、その辺の集落や役所を突然襲っては、食料・金品をまきあげて、素早く山に帰るという、略奪目的の奇襲を繰り返していただけで、戦争らしい戦争をしたことは、ほとんどないのである。
しかも、元々が逃亡農民であることもあって、彼らの「お上恐怖症」は、かなりのものであった。
しかし、緑林軍の首領である、王匡や王鳳たちは、大笑いして言った。
「なにが、お上の軍隊だ。お上の軍隊って言ったって、元々は、お百姓さんじゃねえか。つまり、元々は、俺たちの仲間だ!」
「そうだそうだ。それより、二万もの官軍が来るんだ。さぞかし、おびただしい量の、兵糧・輜重を持ってくることだろう。それを俺達でいただこうじゃねえか!」
この一言で、緑林軍の士気はかなり高まったのである。
そして、緑林軍は雲杜という場所まで出向くと、そこで二万の官軍と刃を交えた。
このとき襲いかかった緑林軍の数は、わずか八千にも満たなかった。
ところが二万の官軍は、自分たちの半分にも及ばない緑林軍のために、呆気なく大敗してしまった。数千人もの戦死者を出し、携えてきた兵糧、輜重車から武器に至るまで、ことごとくが緑林軍のものとなったのである。官軍を率いていた荊州牧は、軍を棄てて逃げ帰った。
官軍さえも打ち破ったことによって、緑林軍は、もう何も怖くないと言わんばかりの勢いとなった。
さらなる参加者が相次ぎ、さらには集落を襲うたびに、婦女の略奪が行われた。彼らはどうやら、軍中で家庭を作ろうとしたようである。
その結果、数か月後には、緑林山の人口は五万人を超えた。
「いつの間にか、凄い人数になったもんだな」
山中の隠れ家を見て回りながら、とある幹部が独り言を言った。
「しかし、素直に喜べないな。どうも、嫌な予感がする」
果たして、その幹部の予想は、後に的中してしまうのだが、そのことに気付ける人間は皆無であった。
まして、その出来事が、世の中を大きく変える引き金になるなど……。