第一章 舂陵郷の劉兄弟
「僕の姓は劉。名は秀。字は文叔。よろしくね!」
「……劉……秀……?」
蒼い髪の少年の名前を聞いて、柳修は、それを自分の頭の中で何度も反芻した。
(名前の雰囲気からすると、なんだか中国っぽい感じがするな。しかし……)
何度も考えた。しかし、余計に分からなくなるばかりだった。
無理もない。ただでさえここがどこなのかわからない上に、目の前の少年は、麻製の服を着ているし、髪型も今どきの若い男のそれとは随分と違うのだ。少年のような髪型や服装の人間を、かつて見たことがあるであろうか。いや、強いて言えば、修には見たことが何度かあった。ただし、現実で見たことはない。そう、昔読んだマンガの「三国志」とか、それをモチーフにしたアクションゲームとかに登場するキャラクターとかの恰好だ。
修は知る由もないが、日本のとある電気街のイベントなどにおいては、わざとそう言う恰好をする人は大勢いる。
しかし、未だにそう言う恰好で毎日生活する人はいるであろうか。もしいたとしたら、その人はよっぽどの変わり者と言わねばならない。
考えれば考えるほど、頭がこんがらがってくる。
(ああ、もう! 考えてもキリがない!)
そう思った時だった。
「あ、そうそう!」
先ほど「劉秀」と名乗った少年が、何かを思い出したように言った。
「シュウ君、でいいかな。君はこの荘園近くの林の中で倒れてたんだけどね。いやー、ビックリしたよ。僕が薪採りに行ったときにたまたま見つけたからよかったけど……」
「はっ、林の中?」
残念ながら、劉秀少年の言葉は、修を余計に混乱させただけだった。
「それ、本当!?」
「そうだよ? 僕が見つけて、家の皆に急いで知らせて、そしてここに運んだんだからね」
どうやら本当のようだった。
(なんでだー!?)
修は正直、泣きたかった。いったい、どこの国に、自分で調理したカツ丼があたって倒れて、目が覚めたら、わけのわからない、全然違うところに来ているという経験をしたことのある人間がいるのであろうか。
「なあ、劉秀……」
修は低い声で呼びかけた。
「はい?」
「いや、文叔の方がいいかな……?」
「ううん。『秀』で大丈夫だよ」
「ああ、わかった……って、そうじゃない!」
突然、修は布団を押しのけて立ち上がった。
「わっ!?」
思わず劉秀少年は尻もちをつく。
「あのよ、劉秀さん」
「はい?」
「さっき、ここはどこだって言ったかな?」
「え。だからここは、荊州南陽郡蔡陽県の舂陵郷だよ?」
「ああ、そうだったな」
そうして一息つくと、修は再び聞きたいことを聞く。
「で、ここはなんという国だ? 首都は、都はどこだ? いったい、誰が治めている?」
彼はそう言ったのである。彼にしてみれば、賢明な判断であったであろう。
「国……? ああ、もしかして国号のこと?」
劉秀少年は、ポンと両手を打つと、一つ一つ丁寧に答えてくれた。
「国号は『大新』だよ。そして都は長安……、いや今は『常安』、の方が正しいのかな。あと、皇帝陛下の事を言っているんだったら、王巨君さまのことだけど。もしかして知らないの?」
心配する劉秀。だが、修は本当にわからないようだった。
「ああ、全然、知らないんだ。それじゃ、聞くが……」
今にも泣きそうな表情で、今度は修の方から言った。
「劉秀。君は、『日本』って知っているか? あと、『東京』は? それから……!」
「わ、ちょっと待ってよ! そんなにいっぱい言われても!」
修の迫るような剣幕に押されて、劉秀が「待った」をかけた。それに思わず、修は我を取り戻した。
「あ、ああスマン……」
そしてもう一回、聞いた。
「で、知っているか?」
はたして劉秀からは、一番返ってきてほしくない返答が届いたのであった。
「ううん、全然知らないよ?」
キョトンとした表情である。それを聞いた瞬間、修はその場に崩れた。目からは涙が流れだし、口元は全然楽しくもないのに、笑っている。
「は、ははは……」
誰がどっから見ても、普通の状態ではない。劉秀は心配になった。
「ね、ねえ。だいじょうぶ?」
気になったので、一声かけようとした瞬間だった。修が狂ったように笑い出したのは。
「はーはっはっはっは!!」
「わあ!?」
本日二度目の尻もちをつく劉秀。そんな彼を余所に、修は狂ったように声をあげて笑い続けた。
「はーはっはっはっは! なんだよ、チキショー!!」
もう、やけっぱちだった。すべてがどうでもよかった。
「なんだよ、コレ!? 昨日の夜、俺はカツ丼食っただけだってのに、なんでこんなわけのわからない所に行かねばならないんだ!! 荊州? 舂陵郷? 知るか! 『三国志』だろうが、『水滸伝』だろうが、知らないが、俺の日常を返せ!!」
発狂もいいところである。目からは涙を垂れ流し、口からはかつて叫んだことがないほどの大声を発し、手足をバタつかせ、もはや駄々っ子よりも厄介な存在である。
「わ、わー!?」
劉秀少年には、この赤ん坊よりも厄介な存在を静止させることはできない。それでもなんとかしようと、必死になって呼び掛けた。
「落ち着いて、落ち着いてってばー!!」
「うるしゃい!!」
残念ながら、修の耳には一言も入らなかった。それどころか、火に油を注いだかのようだった。
「落ち着いていられるか!! そりゃ僕だって、ガキの時に考えたことはあるさ! テレビゲームの世界に住みたいって。だけどよお、そんなの叶わないって知っているからこそ言えたんだな! まさか実際に、「○国無双」の世界に行くなんて!! どうすりゃいいんだよ!! お父さーん、お母さーん!! あのね、僕ね、僕……!!」
もはや精神崩壊寸前の修。手のつけられないとは、こういうことであろうか。
だが、修は思わぬところで、助けられることになるのである。
「じゃああぁかましいぃわあああぁ!!」
突然、修の大声をも遥かに上回る怒声が鳴り響いた。それはもう、雷なんか怖くないくらいにである。
「ぐわあ!?」
ついさっきまで発狂状態に等しかった修は、この一撃で我に返った。と、同時に、頭が何かに撃たれたがごとく、ガーンとなって、そのまま敷いてある布団の上に倒れ伏した。それだけ、凄まじい怒鳴り声だったのである。
「朝っぱらから、なーにを騒いでいるかあぁ!?」
第二撃が来た。それと同時に、先ほど劉秀少年が入って来た戸の方から、一人の男が入って来た。どうやら、その男が先ほどの声の主だったようだ。修の目の前にいる、華奢な少年とは正反対の、見るからに筋肉質な、その三十代前後くらいの、やくざの親分みたいな男は、のっしのっしと、まるで獲物を見つけた虎のごとく風貌で、二人のいる部屋の中に入って来た。
「縯兄様!?」
「ひ、ひい!?」
先ほどとは打って変わって、修は脅えてしまった。そして、次の行動は早かった。
「申し訳ございませんでした!」
そう言うやいなや、彼は布団の上で、そのまま土下座したのである。
それを見たとたん、劉秀から「縯兄様」とよばれた男は、不意をつかれたのか、呆けた表情で、子猫のようにうずまっている修を見下ろした。しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。
だが、それも束の間だった。
「だーはっはっはっは!! なんだ、コイツぁ!?」
修の姿を見て、男は豪快に笑い始めたのである。
「まったく、どこの馬の骨だ。ヒョロヒョロした腕をしおって。おまけに朝っぱらから泣きわめきやがって! おまけに……」
そこまで修のことを言いたてた後、突然、苦笑しながら黙りこむ。
「え? なに……?」
思わず身構える修。だが、次に男が口にしたのは、まったく予想もしていなかった一言であった。
「腕はヒョロヒョロのくせに、『そっち』には、たいそうご立派なものをぶら下げ寄ってよォ。たいしたモンじゃねえか!」
「は?」
意味がわからずに、戸惑う修。ふと、劉秀少年の方を見ると、彼は何故か、頬を赤くして、自分の右手で口元を押さえながら、苦笑していたのである。
「ん?」
その時修は、ふと違和感に気付いた。
「なんだか、体がスースーする……?」
そうである。やけに体全体が、肌寒く感じたのだ。
と、その時、苦笑いの表情を浮かべていた男が、口を開いた。
「秀児。お前……」
「あっ」
劉秀が、何かを思い出したかのように、両手を撃った。そして、顔を真っ赤にしながら、申し訳なさそうに謝り始めた
「ごめんね、修くん。実は昨日、君の体にケガがないか診ようとしたんだよ。ホント。幸い、どこにもケガは無かったからね。だけど、そのまま安心して、つい忘れちゃった」
テヘっと、わざとらしく開き直る劉秀。少年ながら、可愛いものだったが、今はそれどころではない。
「ま、まさか……」
嫌な気分になった修は、恐る恐る、自分の体、胸より下に目を向けようとした。と、同時に、劉秀が、近くの何かを指差した。
「あ、安心して。修くんが着ていた、その……、変わった服は、そこに全部畳んで置いてあるからね」
言われた方を見てみると、その通りだった。全部、見事きれいに折り畳まれて、新品同然に置かれている。学校の制服の上着に、ズボン。そして下着のシャツに……、パン○まで。それはもう、きれいに。
それを確かめた修は、すぐに自分の体を見た。
そして、彼の眼に映ったのは。
「ノオオオオォォォ!!」
むき出しになった、はるか南の暑い土地に生息する、とある巨大な草食動物のお鼻であった……。
*
「だーはっはっはっは!!」
その日二度目の、豪快な笑い声が、屋敷周辺に響き渡った。
「うう、お終いだオレ……」
急いで服を着直したものの、落ち込む修。
「ごめんね。あまりに心配だったもので……」
そんな修に向かって、劉秀少年がぺこぺこと謝った。なぜか、未だに頬がほんのりと赤かったが。
「いや、いいんだ。俺のことが心配だったのなら、仕方ないだろ……」
無理やり作り笑いをする修。すると、先ほどから豪快に笑っている男が、口を挟んだ。
「まあ、この『秀児』は、すっごく真面目で、馬鹿なほど他人想いな奴だからな。時々抜けているときもあるが!」
そう言ってまたまた大笑いすると、男は自己紹介に移った。
「そう言えば、言い忘れておったわ。俺の姓は劉。名は縯。字は伯升。この屋敷の主だ!」
「僕のお兄様なんだ」
さりげなく、劉秀が補足する。
「まあ、気軽に伯升とでも呼べ!」
「は、はい!」
修は思わず声が上ずってしまう。だが、そんなことはおかまいなしと言わんばかりに、劉縯こと、劉伯升は続けた。
「それで、貴様の名は?」
「はい! 姓は柳。名は修です!」
「ヤナギシュウ?」
「あ、はい」
「どんな風に書く?」
そう言われて、修は困った。書くものがないからである。
「ああ、それなら、僕が筆と硯を持ってくるよ」
そう言うと、劉秀が奥の方の部屋へと入って行った。実に機転のきく子である。やがて彼は、筆と硯とを持って来たのである。だが、肝心の紙を持ってきていない。一瞬、修はそう思った。だが、間もなく違うことに気がついた。
「はい、これに書いてね」
言われて渡されたのは、木の皮だった。それを見て、修はまた溜め息をついだ。
(本当に、俺の知らない世界に来てしまったんだな……)
なにはともあれ、渡された筆で、自分の名前を書いたのである。もちろん漢字で。
「これは……」
劉伯升はしばらく、修の名前の字を見つめていた。そして言った。
「字の形は異なるが、姓の方は『柳』の字のようだな。そして、名の方は、『修』の字に似ている」
それにつられて、まじまじと修の名前を見つめる劉秀。興味深そうに眺めていたが、その時、ふと口を開いた。
「なるほど。『柳修』か。僕と同じだね」
「は?」
一瞬、呆気にとられる修と伯升。だが、そんなことはお構いなしと言わんばかりに、劉秀は続けた。
「だって、『柳修』でしょ? そして僕が『劉秀』。ほとんど同じじゃない」
しばらく沈黙が流れた。要は、ダジャレだったのである。
だが、そんな沈黙も、伯升によって撃ち破られた。
「だーはっはっはっは!! お前、何を言い出すかと思いきや、うまい事を言いやがって!!」
そう言って笑いながら、二回、三回と、劉秀の背中を叩いたのである。言った張本人である、劉秀自身も、自分で笑っていた。もっとも、修はついていけてなかったが。
「さて、洒落で笑うのはこの辺までだ」
やがて落ち着きを取り戻した伯升が、そう言った。そして今度は真剣な表情になって尋ねたのである。
「さて、『ヤナギシュウ』とやら。いろいろと質問に答えて貰おうか」
「は、はい」
たじろぎながらも、しっかり返事はする修。こうして彼は、伯升たちの質問に答える運びになったのである。
むろん彼が、どこから来たかから、好きな食べ物のことに至るまで、全てを正直に話したことは、言うまでもない。
*
「なるほど……」
全てを聞いた伯升は何度か頷いた。隣では劉秀が同じように目をつぶって頷いている。
正直、修には信じて貰える自身がなかった。当たり前である。いきなり全然知らない国の名前とかを言われたら、信じて貰えるわけがない。普通はそうである。
だが、そんな不安は、いい形で裏切られることになった。
「はっはっは!!」
またしても伯升が大声で笑い始めた。だが、今度の笑い声は、何かか違う。さっきのような、よく言えば豪快。悪く言えば人を見下したような笑い方ではなかった。それは、なんとなく、暖かい笑い声であった。
「貴様は本当に、おもしろいことをいうわ!」
伯升はそう言ったのである。修はまだ不安を隠せないながらも、恐る恐る聞いた。
「あの、俺の話、信じてくれるんですか?」
「ああ? 信じる? 信じられるか、そんな話」
尊大な態度で、それなのにそれを思わせない口調で、伯升は言い続けた。
「信じるも何も、おもしろすぎるわ! この劉伯升を、ここまでおもしろがらせるヤツは、初めてじゃ! それにな」
一呼吸置いてから、伯升は修の眼を見て話した。
「貴様の目を見れば、とうてい嘘をついているようには見えんわ。ま、不安はあるようだがな」
それを聞いた修は、びくびくして冷や汗をかきながらも、なんとか安心した。
(まさか、俺の話を信じてもらえるなんて……)
だが、今度は劉秀が口を開いた。
「ところで、縯兄様」
「なんだ、秀児?」
「修くんが嘘をついていないとしまして、彼はこの後、どうするのですか?」
「あ!?」
修は悲鳴をあげそうになった。なにしろ、彼は拾われの身である。この見知らぬ世界で、どう生きればいいかなど、わかるわけがないのだ。
「どうするかだって? 決まっているだろ」
そう言うと、劉伯升はわざとらしく、一度咳をした後、修に向かって言った。
「『ヤナギシュウ』。貴様、今日からここで働け」
「はい……、はい?」
咄嗟に聞き返す修。彼は慌てた。
「あの、伯升さま。ど、どういうことでしょう?」
「ああ? 言葉の通りだろうが。俺はお前の事が気に入った。そんなお前を、野に放して、むざむざ盗賊どもの餌食にさせるのはもったいねえだろうが」
「そうだよ」
劉秀が言葉を繋いだ。
「最近、この辺りでは、盗賊が頻繁に出没していて危ないんだ。ついこの間には、討伐に来た二万人の官軍が、呆気なく蹴散らされたほどだよ」
修は絶句した。この世界は、彼の予想以上に危険だったのである。
「だから、この荘園にいる方が安全だよ」
「秀児の言うとおりだ! それに、働いた分、しっかり飯も食わしてやる! その代り、しっかりと働いてもらうぞ! ああ、それと……」
伯升は最後に一言付け加えた。
「そのヒョロヒョロした腕が気に入らねえ。よし、この劉伯升が直々に、貴様を鍛え直してやろう! 有りがたく思え! あと、貴様はそのわけのわからない国から来たということは、他人には言うな! それから、今日からお前の名前は、『柳修』だ! 字はまた今度、直々につけてやろう!」
「わあ、『柳修』か! 改めてよろしくね」
もはや、修には拒否権はなかった。
「そんなああああぁ!!」
その日、またしても舂陵郷に、少年の叫び声が響き渡ったのであった。
*
―――都・常安(長安)のとある屋敷
「おい、鄧仲華。聞いたか?」
「なに?」
「陛下が西南夷の句町国討伐に送り込んだ二十万の軍が、壊滅したらしいぞ」
「ああ、俺も聞いた。なんでも、十に八、九人が餓死。そうでなければ、病に倒れたって話だ」
「うわー、まったく、イヤな話ね」
「それと、匈奴の奴ら、また国境を犯したらしいぞ。大勢殺されたらしい」
「また?『匈奴単于璽』から『新匈奴単于章』に変えられてから、ずっとじゃない」
「ああ。連中が野蛮なのは認めるが、あれでは『攻めてくれ』と言ってるようなものだよ」
「まあ、私でも怒るわね。『降奴服于』だとか、『下句麗』だとか言われたら」
「そのことだが、群臣たちは慌てて、『恭奴善于』に改名するように進言しているそうだ」
「なにそれ? 他にやることあるでしょうに。何年か前に河が氾濫したでしょう? それを先に、早くなんとかするべきじゃない」
「まったくだな」
皇帝・王莽の治世。広大な中原には、徐々に怪しい暗雲が立ち込めつつあった。




