序章 二人のシュウ
人間という名の生物には、不可能はないと、どこかの誰かさんが言っていたと思う。
確かにその通りだ。どんなに苦手なことでも、何度も練習をすればできるはずだ。
失敗を恐れずに挑戦すればいい。物事をやらなくて後悔するくらいなら、やってから後悔した方がいい。たいていはそれでいいのだ。
だが、さすがに自分の命に関わることとなれば、話は別だ。
そういうことに関して、あまりやりなれていないことには手を出さない方がいい。
俺はずっとそう思ってたし、これまでずっとそうしてきた。今日の夜までは。
もし、この俺……。柳修がもっと自炊が得意だったら。
もし、今晩、手元の小遣いが、あと百円でも残っていたら。
もし、俺が「今晩はカツ丼が食いたい」と考えなければ。
もし、冷蔵庫の中の材料の消費期限をきちんと確かめていたら。
もし、あと十分くらい、具をしっかりと煮込んでおけば。
おそらく結果はもっと違ったものになったことだろう。
慣れない料理に手を出し、しかもそれを自分ひとりで全部食った結果がこのザマだ。
端的に言おう。俺は現在、自分の通う私立高校の寮の狭い一人部屋の中で、椅子ごと床に倒れている。
たぶん、卵が、いやあるいは豚肉かなんかがあたったんだろう。宝くじや福引ではハズレばかりなのに、なんでこういうのは当たるのか……。
まあ、いいか。考えても無駄だ。腹は死ぬほど痛いし、頭は熱い。そして、まぶたがだんだん、重くなっていく。俺、死んじゃうのかな……。この世にはやり残したことがいっぱいあるのに……。
赤壁はまだ見ていないし、友人から数日前に借りたばかりのPCゲーム「なんとか無双」は未プレイだ。実は俺はまだ十六歳だけど……。おもしろそうだったのに……。
ああ、もう眠い……。せめて来世で生まれ変わるなら、メシの旨いところがいいな……。
最後に一言……。もう……、二度と……、自分で料理は……。
*
「……う……うう……」
明るい日差しを感じて、少年、柳修は目を覚ました。
「もう……、朝か……」
そう思った彼は、ゆっくりと身を起こすと、ぐっと背伸びをした。
「ああ、眠い……。ん?」
ふとあくびをしながら周囲を見回した時、彼は異変に気付いた。
「ここ、どこだ?」
あわてて周囲を、きょろきょろと見回す。彼の眼に映ったのは、木でできた扉に、独特の模様の入った壁や柱。少なくとも、修の住んでいる周辺の建物には見られないものだった。異変に気付いた彼は、咄嗟に昨日の事を思い出した。
「えっと、たしかだな。俺は昨日の夜に食ったカツ丼を食って、それがあたって、そして倒れたんだ。だとしたら……」
そうだとしたら、彼の行き着く場所は二つしかない。病院のベッド。そうでなければ天国―――。その時の彼には、そうとしか考えられなかった。
「や、やっぱり俺は死んだのか!?」
そう思った彼は、慌てて自分の頬をつねった。それも思い切り。めちゃくちゃ痛かった。
「いだだだ!?」
自分でやって、自分で痛がる。相当な間抜けである。だが、そのおかげで一つだけわかったことがある。ここは天国ではないということだ。
「ああよかった。俺、生きてる……」
そう言って安心した時だった。彼の寝ていた部屋の、昔漫画で見たような、まるで古代中国の雰囲気を匂わせる模様のついた戸が開いたのは。
「ん?」
修は思わず、開いた戸の方に目を向けた。
「あ、目が覚めたんだね。おはよう」
何気ない声が聞こえた。修は咄嗟に声の主の方へと目を向けた。
そこに立っていたのは、自身の蒼い髪を、頭の後ろで一括りに結んでいる、同年齢くらいの少女……、じゃなくて、少年だった……。
「あ、ああ……、えっと……」
わけのわからないまま、修はコク、コクと頷いた。
「ああ、まだ起きたばかりでしょ? 無理しなくていいよ」
一括りに結んだお団子髪を、白い絹で纏めた少年は、優しげな表情で、修に言った。声変わりはしていないのか、なんとなく中性的な感じのする声だった。
「う、うん。ところで、その、ここは?」
混乱しながらも、修はなんとか質問しようとした。ここはどこかと。
「ここ? ああ、ここはね、僕の兄様のお屋敷なんだ。一応ね」
ニコリと笑いながら、少年は修のすぐ隣まで来た。そして修の寝ている布団の横に座る。
「うーん、お屋敷だって? どこの?」
修はわからないという表情で、再度質問する。
「ここは、荊州南陽郡蔡陽県舂陵郷だよ? 君、どこから来たのかな?」
めちゃくちゃ長ったらしい地名をいう少年。彼は極めて親切であった。だが、悲しいことに、修は余計に混乱するだけだった。
「荊州? 舂陵郷? なんか、『三国志』に出てきた地名に似ているような……」
「サンゴクシ?」
「あ、いや。悪い。こっちのお話だ」
慌てて修正する修。ちなみに、一応彼は、「三国志」のファンである。ただし、歴史が得意なわけではないが……。
「あ、それより先に、君の名前教えてくれないか? 俺は、柳修っていうんだ」
何を思ったのか、修は咄嗟に話をすり替えた。
「ヤナギシュウ? 変わった名前だね」
「あ、ちなみに『柳』が姓で、『修』が名前な」
一言付け加える修。すると、少年は何故かパアッと、顔を輝かせた。
「へー、シュウ君っていうんだ。僕と同じ名前だね」
そう言うと、少年は自分の名前を口にした。
「僕の姓は劉。名は秀。字は文叔。よろしくね!」
*
―――世祖光武皇帝、諱は秀、字は文叔、南陽蔡陽の人、高祖の九世の孫なり。景帝の生みし長沙定王発に出自す。発は舂陵節侯の買を生み、買は鬱林太守の外を生み、外は鉅鹿都尉の回を生み、回は南頓令の欽を生み、欽は光武を生む―――。(「後漢書本紀一上 光武帝紀第一上 冒頭より」)
*
―――三国志の物語を遡ること二百年前。
荊州南陽郡舂陵郷において、一つの物語が始まろうとしていた―――。