間章其の三 姉妹さまざま
―――南陽郡某所
舂陵郷から言うほど離れていない所にある、小さな木こり小屋の中にて、一人の男が大の字になって眠りこけていた。
その男の身なりは、お世辞にも立派とは言えない。頭髪は乱れていて、顎には無精髭を生やし、着ている服も、泥と汗で汚れ、異臭さえ漂わせていた。
だが当の男、劉伯升は、そんなことも気にする様子はなく、大いびきをかいて寝ていた。すでに日は高く昇っており、小屋の窓からは木漏れ日が差し込んでいたのだが、まったく気にしている様子はない。今の彼は、誰が見ても、ただのだらしのない男にしか見えない。
この男こそ、まさに現在、「国家転覆」の企てと、「漢王朝再興」の大志とを胸の内に描いている「夢想家」であると言われて、誰が信じることができようか。
それはさておき、そんなだらしのない姿を隠そうともせずに爆睡している劉伯升であったが、そんな彼の「睡眠時間」は、間もなく終焉が訪れた。
「この! 人さまの苦労も知らないで、幸せそうに眠りこけやがって! とっとと起きやがれ、なのです!!」
小屋の中に入ってきた、一人の少女によって、何の前触れもなく、顔面に足を乗せられたからである。
「いてぇ!?」
寝耳に水と言わんばかりの不意討ちに、伯升は跳び起きると、すぐに自分を無理やり起こした相手の顔を見た。
「やっと、お目覚めなのですか? 縯兄様」
伯升の視線の先にいたのは、妹の劉秀こと秀児と同じ蒼い髪の、十三、四歳くらいの少女だった。まだ幼さを残した童顔で、彼女自身の長い髪の毛を、一本の三つ編みにしたその少女は、ちょっと見ただけならば、伯升の親戚にあたる劉嘉こと春萌を小さくしたようにも見える。
だが、その少女の口調は、春萌のような優しい感じではなく、明らかに「上から目線」な雰囲気が漂っていた。
もっとも、目の前のだらしのない男相手なら、まったく問題にはならないであろうが。
「さんざん人に迷惑をかけておいて、自分は夜が明けても、ぐーすか眠りやがるのですか? いい加減にしやがれ、なのです!」
「まあ、待て。そうカッカするな、絲児華」
頭から火が噴き出すがごとく、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす少女を嗜めようと、伯升は少女の名を呼んだ。だが、それは火に油を注ぐ行為に等しかった。
「お前みたいな、『親不孝者』に、『真名』で呼ばれる筋合いなどない、なのです!」
どうやら、「絲児華」というのは「真名」だったらしく、呼ばれた瞬間に、少女はますます怒ったのだった。それでも、劉伯升自身は反省する兆しさえ見せず、あたかも気の抜けたような声で返した。
「へいへい、わかった、わかった。なら、伯姫と呼べばいいんだろ、伯姫と呼べば」
「返事は一回でいいのです!」
「へいへい……」
こんな有り様なので、少女・絲児華こと、劉伯姫はますます苛立ちを覚えたが、彼女自身、すでに伯升に遊ばれていることに気が付いたのか、このままではキリがないと思い、いったん口をつぐんだ。そして、こんどは嫌味を乗せた声で、伯升に向かって言った。
「まったく、お前の『可愛い妹』さまが、せっかく心配して、面倒見に来てやったというのに、縯兄様は、いつも私のことをいじめやがるのです。お前なんか、とっととくたばってしまえ、なのです!」
「『可愛い妹』だあ? お前みたいなガキが、冗談もほどほどにしろってんだ、まったく……」
伯升は嫌味に対して嫌味で返した。この男は、本当に人で遊ぶのが好きなようである。
そんな「兄」を前に、「妹」である伯姫こと絲児華は、積もりに積もった苛立ちをぶつけるがごとく、両手に持っていた包みを、どんと床に置いた。それはそれは、威勢のいい音だった。
「黙りやがれ、なのです!」
兄である伯升に向かって出せる限りの大声を浴びせ、一息ついた後、絲児華は打って変って、やや小さめの声で語りかけた。もっとも、上から目線な口調は、全く変わっていなかったが。
「まったく、縯兄様を相手にしていたら、本当に命がいくつあっても足りないのです。だから、私は用を済ませたら、さっさと帰るのです」
「おう。終わったらさっさと帰れ。で、その用とはなんだ?」
「まったく、こいつは……。まあ、いいのです。用は三つ。一つは、お前みたいな『親不孝者』の薄汚いゴロツキでも、私の実の兄なのです。だから、ここに食事を置いて行くのです」
そう言って絲児華は、先程床に置いた包みを、兄のすぐ目の前に置いた。些細な事件が原因で、官憲から追われている兄を気遣って、彼女はわざわざ差し入れに来たのである。だが、彼女は兄から感謝の言葉を言われることなど、期待していなかった。
「おう。ありがとよ。そこに置いて行ってくれ」
実際、そっけない返事だった。だが、いつものことなので、絲児華は無視して話を進めた。
「二つ目は、秀姉様のことなのです」
「おう、秀児か。あいつは無事か?」
「はい。つい先日、新野の鄧家から、秀姉様直筆の書簡が送られて来たのです。『僕も修くんも、雪(劉元)姉様たちと一緒に、元気にやっているよ』とか言ってやがりましたが」
「ああ、なんだ。二人とも無事に姉上の所に辿り着けたんか。まったく、心配掛けさせやがって……」
(そんな状況に秀姉様を追い込みやがったのは、どこのどいつなのですか!?)
絲児華はそう思ったが、あえて言わない。時と場合によっては、「沈黙は金」である。そういうわけで彼女は、そんなくだらない突っ込みよりも、用件の方を優先することにした。
「それから、三つ目。秀姉様からの書簡には、『あのことについて、どうすればいいか、聞いてきてくれないかな』、と書かれていたのです。『あのこと』って、なんなのですか? また、何か変なことを考えていやがるようなのですが」
「お前は知らなくていいことだ。そうだな……」
そう言って伯升は珍しく口をつぐんだ。秀児の言う、「あのこと」とは、「打倒王莽」「漢王朝再興」の反乱計画以外のなにものでもない。そして、伯升は秀児と姉の劉元以外の家族には、そのことは話していなかった。同じ妹でも、口の固い秀児と違い、目の前の絲児華に向かって、そんな恐ろしいことを話せば、取り乱して、たちまち家族の人間に言いふらしてしまうことくらい、目に見えたことである。そうなると、秀児への伝言は、絲児華にその意味を悟られないようにしなければならない。
幸いなことに、絲児華は秀児と違い、歴史の話などには詳しくない。
それを思いついた伯升は、「過去の故事」を引用して、簡単な「暗号」を作ることにした。
「よし。秀児には、こう返事を送っとけ。『俺も近いうちに、晨の家に飲みに行く。それまで、陳勝・呉広(*)の昔話でもして待ってろ』とな」
「どういう意味なのですか?」
「なんでもいい。俺の言った通りに、送り返せ。それから、このことは、母上や叔父上、それから仲のヤツには言うなよ。ほら、忘れないうちに、さっさと行けや」
そう言うと、伯升はごろんと床に寝転がると、もう興味が失せたと言わんばかりに、絲児華に向かって後手に手を振った。
「はい、さっさと帰らせていただくのです。ご飯は残さずに、きちんと食べやがれ、なのです」
彼女はそのまま小屋の外へと出て行こうとしたが、何を思い出したのか、ふと立ち止まると、だらしのない兄の方を見もせずに、そのまま口を開いた。
「いい忘れるところでしたが、玉と芙の二人は、先日、茶柳さんと一緒に雪姉様の所に行きやがったなのです。これで伝えたいことは全部、言わせてもらったのです」
そう言うと絲児華は、今度こそ小屋を後にした。
(まったく、縯兄様は、いっつもああなのですから。私や母様、仲兄様や良叔父様の苦労も、ちょっとは考えやがれ、なのです)
道中、絲児華はそんなことを考えていた。たしかに彼女の言うとおりである。ろくに働きもせず、ゴロツキ連中を囲い、家も顧みない。果てにはいらん騒動まで起こす。そんな親不孝者が、この世のいったいどこにいるのか。悩みの種は尽きないものである。
(まあ、いいのです。あの野郎は、今日は私の『最高な料理』を、しっかり食いやがるのですから。それにしても……)
なにやら、不敵な笑みを浮かべつつも、ふと、疑問に思ったことを、頭に描く。
(『陳勝・呉広の昔話』って、なんなのですか? 私には、さっぱりなのです。縯兄様も、秀姉様も、いったい、何を考えてやがるのですか?)
そう疑問に思ったのだが、悲しいかな、尊敬する姉の秀児と違い、彼女は歴史については無学である。
(まあ、今度秀姉様に会ったときに、聞き出してやるのです)
結局、意味のわからないまま、絲児華は叔父の劉良の家へと帰って行った。
「う、うえっ!? な、なんだ、これ!? かっれええええぇー!!? 肉も野菜も、全部塩まみれじゃねえか!? くそ、あの糞餓鬼め、覚えてやがれ!!」
絲児華が帰って間もなく、森中に、このような声が響き渡ったのは、また別の話である。
*
一方、こちらは新野の鄧晨邸。
住み慣れた舂陵の地を後にして、なんとか無事に鄧晨・劉元夫妻の元へと逃れることができた修と秀児の二人は、そこで何気ない日常を満喫していた。
鄧晨・劉元夫妻は、数日間にも及ぶ逃避行の末に辿り着いた二人を労ってくれたばかりか、家族同然に面倒を見てくれるとまで言ってくれたのである。
いくら劉元の実の妹と、その友人であるとはいえ、これは破格の待遇と言わねばならない。「お尋ね者扱い」されている人間など、匿う、匿わないの前に、縁を切るのが普通のはずなのだ。
だが、人のいい姉夫婦は、そんなことなど気にもせず、特に劉元に至っては、
「困った時はお互い様よ、秀ちゃん。むしろ、また一緒に暮らせて、とても嬉しいわ」
と、言って、暖かく出迎えてくれたのだった。
そんな経緯があって、秀児と修の二人は、鄧晨邸で居候生活を始める運びとなった。
それからの数日間は、本当に何気ない日常生活の繰り返しであった。
流石にただ飯を食わせてもらうわけにはいかないので、鄧晨が所有する荘園の一角を借りて、農作業をすることにした二人は、そこで懸命に働いた。
そして時間を見つけては、劉伯升直伝の武術の鍛錬も怠らなかった。
その一方で、修は秀児以外の人間と付き合えるよう、いろいろと行動した。
農作業の合間に、周辺で働いている人たちには元気よく、丁寧に挨拶し、見よう見まねで、近所の悪餓鬼たちの遊び相手にもなってやった。その際、毎度、悪餓鬼の掘った落とし穴にはまって、毎日泥だらけで帰ってくるのは別の話である。
そんな彼の努力が実ったのか、居候生活三日目にして、さっそく同世代の友人ができた。
鄧晨・劉元夫妻の間には鄧汎という少年がいた。秀児にとっては「甥っ子」に当たる少年だが、これがちょうど十五歳で、修や秀児より一歳年下なだけである。
あまり年齢が離れていないことに加え、鄧汎は母親に似て温厚な性格の少年だったので、修がちょっと話すと、すぐに打ち解け合うことができた。
この世界に来て以来、どちらかと言うと、年上の人間ばかり相手にしてきた修にとっては、秀児などの例外を除くと、久しぶりの同世代の友人である。修が小躍りして喜んだことは、言うまでもない。
しかも、鄧家には「癒し要員」ともいえる、三人の小さな女の子たちがいた。
いずれも鄧晨と劉元の間に生まれた女の子たちで、鄧汎の妹たちであり、秀児にとっては「姪っ子」に当たる子どもたちだ。
その幼い三姉妹の全員が、大変人懐っこくて、新参者である修を全く恐れる様子もなく、「遊んで」と言わんばかりにせがんでくるのである。
基本、女の子が苦手な修ではあったが、自分よりもずっと年下の幼女相手に遊ぶことを拒否するほど腐ってはいない。
むしろ、鄧汎や秀児たちと一緒になって、喜んで遊び相手になってあげたものだった。
そんなこんなで、平和な日常は過ぎて行くのであったが、流石の修も、そして秀児や鄧一家の人々も、この後、さらに「家族」が増えることになるなど、まったく予想していなかった。
*
修と秀児が、鄧一家の「家族入り」を果たして十日目の昼過ぎ。居間で一家全員そろって、談笑していたときだった。
「こんにちは、鄧晨様!」
突如として、邸の門の方から、一人の少女の声があがった。
(ん、お客さんかな?)
修には一瞬、誰の声かわからなかったが、なんとなく聞き覚えのある声だった。
(いったい、誰だろう?)
だが、修がそう思うよりも早く、彼の隣に座っていた秀児が、素早く立ち上がった。
「この声、茶柳だ!」
「え、仲先さん?」
呆気にとられる修を他所に、秀児は、よほど親友と会うことが楽しみなのであろう。彼女は邸の門の方に向かって、ぱたぱたと駆けて行った。その日の彼女は、自慢の蒼い髪を、いつものように後頭部で一纏めにはせず、頭の両側で、左右一対ずつのお団子にしていたため、その仕草がいつも以上に女の子らしく見えたことは、別の話である。
「あらあら、秀ちゃんったら」
劉元が微笑みながら、ゆっくりとした足取りで、妹の後に続く。それを見て、修も鄧一家の面々と共に門へと急いだ。
門の所まで行ってみると、果たしてそこにいたのは、秀児の親友の茶柳こと、朱祜その人だった。もっとも、修たちが以前、長安で会った時のような「儒服」姿ではなく、その辺の農民の女性が着ているのと変わらない普段着姿ではあったが。
「やあ、茶柳。しばらくだったね」
「秀ちゃん!」
久しぶりの再会に、互いに面と向き合って、手をつなぎ合う二人。特に、茶柳の方はわずかながらに、涙まで流していた。
「よかった。秀ちゃんが無事で、本当によかった……」
「あはは。茶柳は本当に大げさだなぁ」
「当り前だよ!? だって、秀ちゃんも、伯升さんも、『お尋ね者』になったって、聞いたんだよ? また捕まったんじゃないかって、ずっと、心配だったのだから!」
「大丈夫だって! どうせ捕まっても大した罪じゃないし……」
「もう、またそんなこと言って!!」
「あははは!!」
そのようなやりとりを交わす二人を、修と鄧晨一家は、後ろから暖かく見守った。
(ん? 『また捕まった』って、どういうことだ?)
ふと、修がそのような疑問を思い浮かべたときだった。
「それより茶柳。早く晨義兄様たちに挨拶しなくちゃ」
秀児がそう言って、後ろにいた鄧晨一家の方を示した。
「あ、そうだったね」
忘れていた、と言わんばかりに、茶柳は右手を思わず口前まで持ってくると、すぐに律儀に挨拶した。
「お久しぶりです、鄧晨様に、劉元様。それから、えっと、ああ、この間の伯昇さんに、みんな……」
「いらっしゃい、茶柳ちゃん」
「よお、久しぶりだな」
「久しぶりだね、仲先さん」
『こんにちは!』
あせあせと挨拶する茶柳に、次々と挨拶を返す修と鄧一家たち。ちなみに、最後に声をそろえて挨拶したのは、幼き鄧三姉妹である。(余談だが、鄧汎は用事で外出しており、留守であった)
「ところで、茶柳」
挨拶を終えた所で、秀児が口を開いた。
「今日はどうして、また急に、晨義兄様の邸まで来てくれたのかな?」
「あっ、うん。今からそのことを、皆さんに話したかったの」
茶柳はそう言うと、いましがた、彼女自身がくぐった邸の門の方に目を向けた。そして、優しげな声で呼びかけた。
「玉ちゃん、芙ちゃん。こっちに来ていいよ!」
「了解であります!」
「はいですよー!」
それはそれは、可愛らしい声だった。特に、一人っ子であった修にとっては、
「こんな声の妹が欲しい!」
と、思わず思ってしまうほど、両方とも可愛い声だったのである。
「秀お姉ちゃん!」
「秀姉さま~!」
そんな声の持ち主たちはと言えば、とっくに茶柳の横を素通りして、秀児の薄い胸元へと飛び込んで行った所だった。
「うわっ、誰かと思ったら!」
一瞬驚きつつも、秀児は彼女の背よりずっと低い二人の幼女を、まるで我が子を可愛がるかのように、ギュッと抱きしめてやった。
「玉ちゃんに、芙ちゃんまで! わぁ、よく来たね! 元気だったかい?」
「うん。玉は元気だよ」
「芙も元気ですよ~!」
嘘偽りのない笑みと言葉で答える二人。本当に見ていて微笑ましいものである。
「あらあら、いらっしゃい」
そんな二人に向けて、劉元が微笑みながら歩み寄ると、秀児に代わって、二人を優しく介抱した。それに、彼女の娘たちも続く。
だが、邸の主である鄧晨だけが、微笑みつつも、冷や汗を浮かべていた。その表情は、
「まーた、面倒くさそうなことになった」
とでも言わんばかりだ。
「それで、鄧晨様。話というのは……」
ふと、茶柳が話の続きをしようとしたが、鄧晨が遮った。
「『俺の家で、その子たちの面倒を見ろ』ってことだろ? まったく、伯升のやつ……」
「うっ……」
言わんとしていたことを先に言われて、言葉に詰まる茶柳。どうやら、図星だったらしい。
「そうです、はい。この子たちが、秀ちゃんや劉元様と一緒に過ごしたい、と言ったので……」
もしかしたら、追い出されるのではないかと心配したのか、茶柳が慌てて声を絞り出した。だが、その心配は杞憂だった。
「別にかまわねえよ」
鄧晨は仏頂面で、そう言った。
「この鄧家は、土地だけは無駄に広いんだ。まあ、近くの陰家には及ばないけどよ。それでも、今更、ガキの一人や二人増えたって、どうってことねえよ」
そう言うと、鄧晨は、後は女どもに任せると言わんばかりに、欠伸をしながら邸の中へと戻り始めた。
「ありがとうございます! 伯升さんに代わって、お礼を申し上げます」
そう言って頭を下げる茶柳。だが、鄧晨は、
「別に礼を言われる筋合いはねえよ。ま、伯升のヤツだったら、死んでも礼は言わねえだろうがな」
とだけ言って、そのまま邸の奥へと姿を消したのだった。
そんな二人のやりとりを、修は黙って聞いていたが、ふと、疑問に思った。
(いったい、どういうことだ? それに……)
彼は、秀児や劉元たちと一緒に戯れている、九歳くらいの黒髪の幼女と、七歳くらいの赤紫の髪の幼女の方をじっと見つめながら考えた。
(この子たち、いったいなんだろう?)
気になった修は、茶柳に質問した。
「あの、仲先さん」
「え、ひゃい!? あ、すみません。なんでしょうか、伯昇さん?」
話しかけられると思ってなかったのか、舌を噛んでしまう茶柳。それがつぼにはまってしまったらしく、修は噴き出しそうな笑いをこらえながら、続きを述べた。
「えっと……、俺のことは、『修』でいいよ。それより、あの子たちは……?」
「ああ、玉ちゃんと芙ちゃんのことかな?」
彼女はそう言うと、急いで説明した。
「えーと、まず、お姉さんの『玉ちゃん』というのが、黒い髪の方の子で、本当の名前は、『劉章』ちゃんだよ。そして、妹の『芙ちゃん』は赤紫の髪の方の子の方で、本名は『劉興』ちゃんって言うんだよ。あっ、言い忘れる所だったけど、『玉ちゃん』『芙ちゃん』というのは、二人の真名の頭文字をとって言ってるだけだから、修さんは二人を呼ぶ時は、気を付けてね」
「ふーん……」
修は説明を聞きながら、二人の幼女こと、劉章と劉興の方を、ぼうっと見ていた。
茶柳の説明は、あくまでも名前を述べただけに過ぎない。それ以外のことは、何一つ、わからなかったのだ。
それだけでは、どうしてあの姉妹が、秀児や劉元にすごく懐いているかが、まったく説明がつかない。
(『劉』だって? じゃあ、秀児の妹、いや、たしかあいつ、妹は一人しかいないとか言ってたし。だとすれば、従妹か何かか?)
考えた末に、修は再度、茶柳に聞いてみることにした。
「あの、仲先さん?」
「あ、私のことは別に『茶柳』でかまいませんよ? えっと、修くん、でいいかな? 修くんは、秀ちゃんのお友達だし?」
「あ、ありがとう。それで、茶柳さん?」
「はい?」
「その、あの二人。劉章ちゃんと劉興ちゃんのことなんだけど、あの子たち、秀児の従妹か何か?」
そう聞いた時であった。突然、茶柳が、きょとんとした、なんとなく間の抜けたような表情になったのは。
「あれ、修くん。知らなかったの、かな?」
「え、何を?」
「ええ!?」
訳が分からなくなる修をよそに、茶柳は驚きの表情を見せた。
「えっと、修くん。今までずっと、伯升さんの所でお世話になってたのだよね?」
「え、ああ、うん。そうだけど?」
「もしかして、伯升さんや、秀ちゃんから、何も聞いてない、のかな?」
「え、何も聞いてないけど?」
「ええぇ!? 伯升さん、まさか、そんな大事なことも教えて無かったなんて……」
混乱する修を置いて、一人驚き、果てにはため息までつく茶柳。やがて、意を決したのか、ずいっと修の面前まで顔を近づけると、「修の知らない真相」を語り始めた。
「修くん。これは大事なことだから、しっかり覚えておいてね?」
「は、はい!!」
思わずたじろぐ修。だが彼は、この後、さらなる衝撃に遭うことなど、思ってもいなかった。
「あのね。玉ちゃんと芙ちゃん、つまり、劉章ちゃんと劉興ちゃんは、劉元様や、秀ちゃんにとっては『姪』子さんに当たるの。そして……」
一息さえつがずに、茶柳は一気に衝撃の事実を言い放った。
「あの子たちは、『伯升さんの、実の娘さんたち』なのだよ!」
「……はい……?」
修は、一時的に凍りついた。何を言われたかが、理解できなかったからだ。
だが、どんな貧弱な脳みそでも、その言葉の意味を完全に理解するのには、そんなに長い時間はかからなかった。
「えええぇ!?」
その日、新野一帯を揺るがさんばかりに、一人の少年の、驚愕の声が響き渡った。
なお、その驚愕の声の主である少年、柳修が、その後、「あの父親」とは全く似ても似つかない、二人の幼女に懐かれたことは、また別の話。
*
―――ここは兗州泰山郡式県
泰山の麓に位置する、わずか三百戸の小さな県である。
この小さな県はかつて、高祖・劉邦が長子・斉悼恵王・劉肥、及びその息子の城陽景王・劉章を祖とする、式侯・劉萌の領地であった。
かつてというのは、すでに、かの王莽が国を乗っ取ったため、劉萌は式侯の爵位と領地とを没収されて、庶民に落とされていたからである。
そして、その劉萌はすでに故人となっていたが、彼には三人の娘たちがいた。
上から、恭、茂、盆子という名前である。
そして、その三遺児たちは、父の残した邸と財産を頼りに、この小さな式の村で、健気に生きていた。
「みてみて~、敬姉さま~!」
机に向かって儒教の科目の一つ、「尚書」の勉強していた長女・劉恭の元に、数え歳、十歳くらいの少女が、とことこと走り寄って来た。
「なーに、雫々(なな)ちゃん?」
姉は勉強の手を止めて、妹の方を振り向いた。
「みてみて~!」
そう言って、盆子こと雫々は、彼女自身の、赤みがかった茶髪の頭を指差す。そこには、名前はわからないが、黄色くて小さな、可愛らしい花で作られた、天然の花冠が乗っかっていた。
「わあ、綺麗ね。似合ってるわよ」
劉恭こと、敬恩は、思わず息を呑んだ。花そのものが可愛らしくて美しい上に、その花冠は、子どもが作ったとは思えないほど、綺麗だったからだ。いや、むしろ、汚れ無き子どもが作ったからこそ、綺麗なのかもしれない。
「あのね、これ、お姉様にあげる~」
雫々はそう言うと、自身の頭から花冠を外し、それをそのまま姉の頭に乗せた。
「え、いいの? わぁ、お姉ちゃん、嬉しいよ!」
「えへへ、ありがとう!」
姉への贈り物を済ませると、雫々はぱたぱたとした足取りで、そのまま庭の方へと出て行った。
「本当にいい子……。ねえ、そう思わない? 静ちゃん」
妹を見送った後、敬恩は、後ろの方で、竹簡を読んでいる、眼鏡をかけた少女の方を見て言った。
だが、眼鏡をかけた少女・劉茂こと、静は、よほど書簡に夢中なのか、姉の言うことには答えなかった。
(相変わらずね。ま、いいか……)
ため息をつくと、敬恩は再び勉強に集中した。
(静や雫々のために。そして、この式侯家のために、私がしっかり勉強しなきゃ。勉強して、朝廷にお仕えして、そして、この式侯家の名を、再び取り戻す……)
彼女はそう考えながら、熱心に勉強していた。
お家再興を願う長女・劉恭。
読書にしか興味のない次女・劉茂。
そして、無邪気に遊び続ける三女・劉盆子。
一見、その辺にゴマンといそうな、没落貴族の遺児たちである。
だが、彼女たちは知らなかった。間もなく、彼女たちに、過酷な運命が襲いかかることになることなど―――。
*注釈
・陳勝と呉広
秦末期に起こった、中国お決まりの農民大反乱の一つにして、中国最初の農民反乱・「陳勝・呉広の乱」の首謀者たち。
どちらも貧しい農民の出身。
秦末期、陳勝と呉広は兵士として、土木工事のための人夫を護送していたが、大雨で足止めをくい、期限に間に合わなくなったため、処刑されることを恐れた二人は反乱を決意。
最初は九百人で挙兵したが、各地の官軍を撃破しているうちに、一時は数十万人もの大勢力に膨れ上がっり、ついには、旧「楚」の首城の陳を都とし、陳勝自ら「張楚王」と称した。
だが、このころから陳勝も呉広も傲慢になり、とくに陳勝は些細なことで人を殺したりするなど、疑心暗鬼の塊となっていた。
肝心の反乱は、秦の都・咸陽の守りの要・函谷関を抜くが、その直後、秦の将軍・章邯に大敗し、形勢逆転。
その際の混乱で、呉広は部下に殺され、それ以降は章邯率いる秦軍に反乱軍は連敗。
ついには陳勝の本拠地である陳も陥落し、陳勝は逃走したものの、結局御者に殺され、「張楚国」は消え去った。
しかし、この反乱に乗じて打倒・秦の兵を挙げた者たちの中に、後の「西楚覇王・項羽」と「漢の高祖・劉邦」がおり、ここから「項羽と劉邦の物語(楚漢戦争)」が幕を開ける。
なお、劉邦は天下統一後、陳勝を尊び、彼に「張楚隠王」の諡を送り、陳勝の墓を守るために村を建造させた。
陳勝の名台詞として伝わるのが、以下の二つである。
・「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」」(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして鴻や鵠(白鳥)といった大きな鳥の志がわかろうか)
・「王侯将相寧有種也」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)




