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間章其の二 陸に上がる海賊たち、山を降りる山賊たち


 修たちが舂陵郷に帰りついてから一週間。


 現在、修は劉嘉邸の客間にて、秀児、春萌はるも、来歙たちとともにうな垂れていた。


 空の食器や酒瓶、食べ残しなどで、ひどく散らかった客間にいる全員が、がっかりとした表情で、その場に佇んでいた。


「畜生!」


 不意に来歙が叫んだ。その表情は、普段、温厚な彼には似つかわしくないほど強張っていて、心底から怒っていることを伺わせた。


「俺たちゃ、いったい、何のために、長安まで行ったんだ!?」


 怒り任せに言うやいなや、来歙は近くに落ちていた酒瓶を引っ掴むと、その中に残っていた中身を、一気に飲み干した。それで少しは気を紛らわそうと思ったようだ。


 しかし、怒りに支配された状態で飲んだ酒は、飲んだ人間を、ますます苛立たせる作用があるらしい。


 中身を全部飲み干すと、来歙は静まるどころか、ますます顔を真っ赤にした。そして、その勢いのまま、右手に持った酒瓶を、床に勢いよく叩きつけた。酒瓶は大音響を立てて砕け散り、破片があちらこちらに飛び散る。それでも治まらず、来歙はその場に佇んだまま、肩で息をしていた。


きゅう義兄にい様」


 見るに耐えかねたのか、来歙の義妹である劉嘉こと春萌が注意した。


「お気持ちはわかりますが、これ以上、私の家の物を壊すようでしたら、いくら歙義兄様でも出て行ってもらいますよ」


「あ、ああ。すまねえ、春萌……」


 義妹の言葉で、なんとか正気を保てた来歙は、酒で痛む頭を右手で押さえながら、その場でうな垂れた。


 いったい彼らはどうして、これほどまでに怒り心頭なのであろうか。


 それを語るには、つい先ほど、この邸で行われた酒宴に話を戻さなければならない。


 秀児たちが舂陵侯本家のために、都・長安まで訴えに行ったことが功を奏したのか、先日、皇帝・王莽よりの「お触れ」が出たのである。


 その内容は、「不正役人を取り締まるために、皇帝自らが信任する人間を監察官として各地に派遣する」というものであった。


 そのお触れが出た時、舂陵郷周辺の豪族・士民たちは、


「これで、役人どもに苦しめられることがなくなるぞ」


 と、拍手喝采したものである。


 春萌は、


「秀ちゃんの賜物ね」


 と、秀児のことを褒めてくれたし、来歙も、


「わざわざ長安まで言った甲斐があったってもんだ」


 と、喜んでいたのだ。秀児自身、


「さっすが、荘大司馬さまだ!」


と、嬉しそうに言っていたし、そんな彼女たちを見て、修も我が事のように嬉しく思っていたのである。


 もっとも、劉伯升一人だけは、何故か険しい表情をしていたのだが。


 なにはともあれ、さっそく新任の監察官がやってくるというのである。そのため、劉嘉邸にて歓迎のための宴を開くことにしたのだ。


 舂陵郷の劉氏のみならず、周辺の中小豪族たちや、村の有力者・士民たちもそろっての、歓迎の宴になるはずであった。


 ところが、劉嘉邸に現れた、肥満体の監察官は、宴の席に着くやいなや、信じられない事を口にしたのである。


「不正を行う役人どもは、しっかりと取り締まりましょう。ですから、皆さま。そのための『お礼』は、たっぷりいただきますよ?」


 それを聞いた瞬間、席に就いていた人びとは、皆、言葉を失った。当たり前である。「賄賂を寄こせ」と言われたことにほかならないからだ。


「どういうことですか!? 貴方は、役人が不正を行わないよう、監視するために来られたのでしょう!? 話が違います!」


 春萌が抗議したが、その監察官は、貪欲そうな表情丸出しの、不気味な笑みを浮かべながら、こう言った。


「おやおや、いいのですか? 私を怒らせて。もし、そんなことをすれば、皇帝陛下に、あなた方のあることないことを報告させていただきますよ? そうなれば、どうなるかわかっておいででしょう?」


 言うまでもないことである。そんなことをされれば、最悪、「お家取りつぶし」にもなりかねない。


「それがいやなら、黙って、私に従うのです。ああ、ご心配なく。不正を行う役人は、しっかりと取り締まりますから」


 そう言うと、その監察官は、連れてきた仲間の役人たちとともに、食いたいだけ食い、飲みたいだけ飲むと、下品な笑みを浮かべながら帰って行った。去り際に、


「またお伺い致しますよ」


 と、ねっとりとした、いやらしい声を残して。


 皆、それを呆然と見送った。結局のところ、皆を苛める「役人」が、また一人増えただけだったのである。


 期待しながら劉嘉邸に集っていた人々は、宴が終わるや、皆、カンカンに怒って帰って行った。期待を裏切られたのであるから、当然と言えば、当然であろう。


 もっとも、伯升一人だけが、怒りもせず、笑いもせず、珍しいほど、おとなしく帰ったのだが。


 そんなわけで、最後まで残った四人だけで、愚痴を言い合っていたのであった。


「まったく、俺たちの苦労は、なんだったんだ。これじゃ、何のために秀児が訴えに行ったんだか……」


 溜め息をつきながら、修が言った。それを聞いた秀児が、自身の右手を修の左肩に、ポンと乗せた。そして、苦笑いの表情を浮かべて言った。


「気にしないほうがいいよ。あれは、せっかくの楽しい旅行だったんだし」


(バカ。無理しやがって……)


 もっとも気にするべき秀児が、それを押し殺してまで、自分に優しげに声をかけてくれるのを見て、修は悔しさを覚えるのであった。









―――月日は流れ、一か月後。


 ここは、徐州琅邪国海曲県の海上にある離れ小島。


 海上の無法者たる海賊以外、誰人たりとも住みつかない小島にて、一人の老女のための葬儀が、厳かに行われていた。


お世辞にも立派とは言えない、それでも、石作りの粗末な墓碑だけはなんとか備えることのできた墓の前に、数十人ほどの男たちが集まり、皆、亡き老女のために黙祷を捧げていた。


「あばよ。りょのおっかさん。こんな粗末な墓ですまねえが、しっかり休んでくれよな」


 男たちの先頭に立った、ひょろりとした体格の男が、目を瞑りながら、小さい声でそう言った。


 彼の名は徐次子じょじし。先ほど墓に葬られた老女・呂母の邸に出入りしていた、海曲県の悪少年たちの首領格である。


 そのひょろりとした体つきとは正反対に、相撲や撃剣に強く、「猛虎」のあだ名で呼ばれている彼は、先日に起こった「呂母の乱」に加担し、呂母の右腕として、悪少年たちや海賊たちを集めて、呂母の復讐劇に一役買っていた。


  呂母の息子の仇である県宰の杜先を殺し、仇打ちを果たしてから既に三ヵ月。彼らが「将軍」と仰いでいた老女・呂母は、海賊の隠れ家である離れ小島にて、徐次子以下、海曲の悪少年たちに看取られて、静かに息を引き取った。


 彼女の世話になった悪少年及び、海賊の幹部たちは、粗末ながらも墓を作り、彼女の亡骸を丁重に葬ったのである。


「ありがとよ、おっかさん。今まで本当に、世話になったぜ……」


「あの世で坊ちゃんと楽しくやってくだせえ……」


「俺たちのことは、もう何も気にしなくて、いいんだな……」


 海の男たちは、冷たい土の下の老女に、思い思いに別れを告げ、その後、厳かな葬式は終わりを告げた。


 しかし、悲しんでばかりではいられない。亡き呂母はともかく、葬儀の参列者たる彼らは、明日、どう生きるかを考えなくてはいけないからだ。


 葬儀が終わって間もなく、徐次子以下、「呂母の海賊集団」の幹部たちは、亡き呂母の墓から、そう離れていない場所に集まって、会議を始めた。


「猛虎の兄貴。これからどうしやす?」


 さっそく、幹部の一人が口を開いた。


「呂のおっかさんは、坊っちゃんの仇打ちを果たせたからこれでいいかもしれやせんが、残された俺たちゃ、どうすりゃいいんでやすか?」


 男はそう言ったのである。確かに彼の言う通りであった。呂母が海に出る前、海曲県沿岸の海賊の数は、せいぜい数百人程度に過ぎず、それも日頃は漁師として暮らし、食べ物が不足すると、沿岸部の街や村を襲うという程度のものであった。


 しかし、呂母が悪少年たちを率いて海に出て、人数を集めるために、その辺のゴロツキと化した逃亡農民や漁民を集めているうちに、その人数は、鰻登りに増加したのである。


 そして、三ヵ月前に海曲県の役所を襲った時点で、呂母の海賊集団は、すでに一万人を超えていたのだ。


 ここまでの大集団になってしまえば、海賊稼業で食っていくことは不可能である。その上、海賊が襲うべき「獲物」である、沿岸部の街や村が、ひどく荒れ果てている状態なのだ。「獲物」がないのである。


 しかし、だからと言って、ここで解散するわけにもいかなかった。


 そもそも、県の県宰を襲って殺してしまった以上、朝廷から追われる立場なのである。あるいは恩赦好きの王莽のことだから、仮にこの事に対しても恩赦を出し、その罪を許してくれたとしても、彼らには帰るべき土地も、耕すべき畑もないのである。そもそも、彼らの大半は、役人たちによる執拗な取り立てに耐えられず、土地を棄てて逃げてきた流民なのだ。朝廷が対策らしい対策を、何も施してくれない以上、彼らは元の純朴な農民に戻ることはできないのである。


 こうなった以上、できることは一つである。


「皆、聞いてくれ!」


 呂母の後を継いで、新首領格となったばかりの徐次子が、皆に呼び掛けた。


「俺たちはここまで来てしまった以上、もう引き返せねえ。かと言って、今まで通り、海賊として暮らしていくことも不可能だ。かくなる上は、一つ!」


 皆が息を呑む中、徐次子は声を張り上げて、誰にでもわかる一言を口にした。


おかに上がろう!」


 それを聞いた海賊の幹部たちは、誰もが一瞬、黙りこくった。しかし、それも一瞬であった。


「なるほど!」


「そいつぁ、いい考えだ!」


「俺たちは一万! だから、これからは海賊なんて、せこせこしたことをやらずに、どでかい城を襲って、そこの食料を皆で分けちまえばいいってことか!」


「よーし、俺は乗った!」


「俺も徐の兄貴に賛成だ!」


「皆、俺達ぁ、猛虎の兄貴に着いて行くぜ! 異議のあるモンはいねぇよな!?」


『おう、異議なし!!』


 こうして、呂母が息子の仇打ちのために集めた海賊集団一万人は、亡き呂母の意向とは関係なしに、陸地へと上がり、そこで流賊集団となって、徐州の各地をさまようことになったのであった。









―――それからさらに一ヵ月後。


 徐次子率いる流賊集団は、疲弊していた。


 無理もないことである。なにしろ、ついこの間まで沿岸部で海賊をやっていたのに、いきなり陸に上がり、慣れない城攻めなどを行ったからである。それはまさしく、陸に上がった河童と言ってよいほどであった。


 とある県城を攻めた時には、そこの守りが思いのほか堅く、返り討ちに遭いそうだったので、撤退する羽目に追いやられた。またある県城を攻めた時は、なんとかその城を攻め落としたものの、そこにはろくに食料が残っていなかった。またある時は、これから攻めようと思った県城が、すでに別の流賊によって略奪され尽くされていたということもあった。どうやら、彼らの同業者はいくつもあるようであった。


「猛虎の兄貴。昨夜も数十人ほど逃げやしたぜ」


 部下からの報告に、徐次子は溜め息をついた。流賊集団というものは、食えるとわかっていれば、人が多く集まってくるものである。しかし、ひとたび食えないことがわかれば、脱走者が多くなり、ついには瓦解してしまうものでもあるのだ。かつての呂母海賊集団であるこの軍勢は、なんとか奇跡的に、一万人超の人数を保っているが、このまま食えない日が続けば、ずるずると瓦解してしまうことには違いない。


「上手くいかないものだな」


 徐次子はそう言うと、ただちに幹部たちを招集し、対策を練ることにした。


「皆は知っていると思うが、我が軍は食少なく、疲弊を極めている。よって、瓦解する前になんとかしなければならないが、何か案のある者は?」


 すると、一人の男がこう進言した。


「兄貴! こうなったら、どこか、他の流賊の連中に巻かれましょうぜ! 俺たちゃ、一万人もいるんでやすから、高く買ってもらえると思いやすぜ!」


「なるほど、それはいい考えだ」


「しかし、兄貴!」


 そこに、また別の男が口を挟んだ。


「なんだ?」


「それはいいと思うんですが、どこのどいつの下に身を寄せるおつもりですか? 俺たちみたいな流賊連中なんて、星の数くらいあるみたいですぜ!」


 たしかにその通りである。この陸地には、小さくて数百人。大きくて万単位の流賊集団が、それこそ星の数くらい、存在しているのだ。だが、合流できるのは、一回だけである。


「よし。それなら、情報を集めさせよう。どこのどいつに売り込むかは、それから決める」


 こうして徐次子たちは、各地に諜報員を送り、急いで情報を集めさせたのである。


 数日経って、帰って来た諜報員たちは、各地の模様を報告した。


 長江流域の会稽かいけいでは、瓜田儀かでんぎなる人物(瓜田が姓、名は儀)が率いる流賊集団があるとのことである。しかし、この瓜田儀は凶暴な人物で、締め付けが厳しいとのことであったため、徐次子たちは却下した。


  次に、荊州当陽県の緑林山に、王匡、王鳳を首領とする「緑林軍」が存在することが報告された。南陽の馬武、潁川の王常や成丹といった豪傑を擁し、ついこの間には二万の官軍を撃破し、その勢力は五万を超えたという。


「だが、ダメだ。荊州なんて遠すぎる」


 徐次子はそう言って、却下した。徐州の山東半島近辺から、一万人もの人間を率いて荊州まで行くなど、あまりに無謀すぎるのだ。


「ええい! ほかに、もっといい情報はないのか!?」


 徐次子が怒鳴り散らすと、また別の男が口を開いた。


泰山たいざんの麓で、樊崇なる者が、一万近くの軍を率いて、派手に暴れまわっております」


「なに? 詳しく話せ」


 徐次子は促した。


「はい。なんでも、樊崇なる者が、泰山の麓に立てこもって、辺りを荒らしまわっているようです。最初は百人くらいで旗揚げしたのが、今や一万を超えたとか……」


「しかし、泰山といえば、いにしえの天子が、封禅の儀を行った神聖なる山ではないか」


 呂母の家に屯していた悪少年・徐次子は無学の徒であったが、それでも、泰山が神聖な山であることぐらいは知っていた。


「しかもそれ以前に、あそこは荒れ地ばかりで、ろくに食いものもないはずだ。どうしてわざわざ、そのような所で……」


 馬鹿じゃないか、そいつは。と、徐次子は言いかけたところで、その言葉を呑みこんだ。


(いや、わざわざ、泰山などと言う恐れ多いところで、旗を上げるようなヤツだ。もしかしたら、とんでもない大物かもしれん)


 ふと、そういう考えが、頭をよぎったのである。


(よし。一か八か、賭けてみよう)


 そういう気になった徐次子は、


「いや、待てよ。泰山といえば、ここからあまり遠くないな。よし、ひとまずは、使者を出そう」


 と、もっともなことを言って、幹部たちを納得させたのであった。


 それから間もなく、徐次子率いる、「かつての呂母海賊集団」一行は、泰山の麓にて、樊崇なる人物が率いる流賊集団と合流したのであった。


 もっとも、合流した側も、された側も、この後、自分たちの集団が、徐州はおろか、大陸中を震撼させる存在と化すなど、夢にも思っていなかったが。









―――こちらは荊州江夏郡当陽県にある緑林山。


 徐次子たちが泰山へと向かっていた頃、緑林山では異変が起きていた。


「み……、水ぅ……!」


「熱い! 頭が熱い!」


「苦しい! 誰か、助けてくれー!!」


 緑林山に巣食う盗賊集団「緑林軍」の軍中において、多くの人間が倒れていたのである。


 ある者は吐き、ある者はのたうち回り、またある者は、死ぬまで地べたをはいずり回り、そして、その全員が、やがては息絶えていったのである。


 ついこの間には、二万の官軍を壊滅させ、五万人もの大軍に膨れ上がった、無敵の緑林軍の戦士たちが、こうしてわけのわからない苦しみに苛まれながら、次々と死んでいくのである。どうしてこのような事になったのであろうか。その原因は、疫病であった。


 そもそも、この緑林山は元々、官憲から逃げてきた地元の流民数百人が、こっそりと暮らすための隠れ家だったのである。それなのに、雲杜の戦いで官軍を破った後、参加者が相次ぎ、いつの間にか、緑林山の人口は五万人を超えてしまったのだ。しかし、彼らのねぐらである緑林山は、五万人もの人間が集まって暮らせるような場所ではない。


 当然のことだが、たちまちのうちに緑林山は不衛生となってしまったのである。そして、ついに疫病が発生してしまったのだった。しかも運の悪いことに、この疫病は、かなりの悪疫だった。五万人いた緑林軍は、すでに半数が死んでいたのである。このままでは全滅してしまうことは、誰が見てもわかることであった。


 緑林軍の幹部たちは、急いで会議を開いた。


「知っての通りだが、我が軍は、悪疫が流行り、現に今もなお、倒れる者が続出しているぞ。どうすればよい?」


 緑林軍の創始者の一人、王鳳が言った。


「誰か、いい案を持った者はいねえのか?」


 もう一人の創始者である、王匡が、幹部連中全員を見回した。


「案もなにも、こういう時は、さっさと山を降りるに限るであろう」


 幹部の中にいた、長い銀髪の、妖美な雰囲気のする若い女が、やや低めの声で言った。


「ああ。朱鮪しゅいの言うとおり、俺も同感だ」


 口をはさんだのは、白髪混じりの頭をした、左目の目蓋の上に古傷のある男であった。


「このまま座して、死を待つなど、愚の骨頂というものだ」


「しかし、王顔卿おうがんけいどの。この難攻不落の緑林山を失うのは……」


 あきらめきれなかったのか、幹部の一人が口を挟もうとしたが、途端に青ざめた。古傷男こと、王顔卿が、静かな声で、冷やかな一言を浴びせたためだ。


「ならば、貴様だけ残るか?」


「い、いえ!?」


「まあ、落ち着け。王常」


 王鳳がそうたしなめた。


「なに、冗談だ」


 王顔卿改め、王常が、到底冗談には聞こえないような声色で言った。


「まあ、それはともかくだ。早いところ、山を降りようじゃねえか」


 機転を利かせたのか、王匡が話を戻した。


「おい、馬武ばぶ。お前も異存はないな?」


 彼はそう言って、幹部連中の後ろの方で、愛用の戟を片手に座り込み、空いているもう片方の手で酒瓶を傾けていた、くせのある黒髪の女の方を見た。


「あら? 山を降りるですって? 別に構いませんわよ」


「よし、決まりだ」


 こうして、緑林軍の生き残りたちは、山を降りることにしたのである。


「しかし、全員で降りれば、官軍に目立つし、また悪疫が流行ったら、今度こそ全滅するぞ」


「なら、二手に分かれればよいではないか」


 王鳳の疑問に答えたのは、銀髪の女、朱鮪であった。


「よし、ならば、そうしよう。それなら、どっちかが全滅しても、片方が生き残れるからな」


 いい提案だと言わんばかりに、王鳳、王匡は賛成した。


 そういうわけで、緑林軍の生き残りは、半分ずつに分かれて下山することになったのである。


 官軍に見つからないよう、彼らは闇夜の中、持てるだけの武器や兵糧・輜重を携え、山を降りた。


 二手に分かれた緑林軍のうち、王鳳、王匡、朱鮪、馬武を筆頭とした者たちは、「新市軍」と号し、南陽郡へと向かった。「新市」と称したのは、王鳳、王匡以下、配下の将兵たちに、新市県出身の者が多かったからである。


 一方、王常、成丹せいたん張卬ちょうごうといった者たちを筆頭としたもう片方の軍は、「下江軍」と号し、長江に沿って南郡へと向かった。「下江」とは、名前の通り、長江を下るという意味である。


 緑林山を降りた者たちは、皆、一度は闇夜に浮かぶ、この山の方を振り返った。それに関しては、誰もが同じことであった。


 しかし、何を思ったかについては、一人として共通するものはなかったのである。


(私は、こんな片田舎の山賊ではおさまらないぞ。近いうちになりあがってやる! こんな所とは、おさらばだ!)


 新市軍の銀髪の女、朱鮪はそう思いながら緑林山を見上げると、すぐに踵を返し、王匡たちの後を追った。


(あら、こうして私たちの住んでいた塒ねぐらを見上げるのも、またいいものですわね。せめて、月でも出てれば、もう少しいい味がしたのでしょうけど)


 同じ新市軍の幹部でも、酒飲み女、馬武はそんなことを考えながら、見納めと言わんばかりに、また酒瓶を傾けたのである。


 一方の下江軍では、その首領となったばかりの男、王常が、自身の軍を背に、闇夜に浮かぶ緑林山を、強面の表情のまま、じっと見上げていた。


 愛用の大剣を背負い、左腰に酒瓶を携えたまま、王常は表情一つ変えることなく、緑林山を見ていたが、やがて、踵を返すと、他の誰に言うでもない、小さな、しかし、それゆえに威厳のある声で一言だけ呟き、軍の方へと帰って行った。


「さらばだ、緑林」









 徐州で、そして荊州で、今、まさに世の中が大きく動き出そうとしていた。

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