第十章 新野の美少女、陰麗華
―――修たちが新野にたどり着いた頃。
ここは都・長安の宮殿、寿成室(*)。
つい十数年前まで、未央宮の名で呼ばれていた壮大なる宮殿の中にて、大司馬・荘尤は自らの主と掲見していた。
むろん、秀児をはじめ、各地から持ちこまれた問題について報せるためである。
「なに? それは、いったいどういうことだ?」
掲見の間に、しわがれた声が響き渡った。荘尤はその声の持ち主に向かって、儀礼通りに頭を下げ、両手を前に掲げながら報告を続けた。
「はっ、陛下。恐れながら、臣、尤は申し上げます。各地の豪族たちより、悪質な役人どもの横暴に対しての苦情の声が上がっております。報告によりますれば、役人どもは租賦を取り立てるに当たって、陛下がお定めになられた規定の量以上に取り立て、規定の量を国に納めた後、残りを自らの懐の中に入れているとのことです。そればかりか、先年の匈奴遠征のための物資収集にかこつけ、各地で牛馬をさらい、さらには小作人から壮丁のみならず、女子供を連れ去って我が物とし、あるいは奴婢として売り飛ばしているという蛮行も報告されています。陛下。これらの役人どもの行為は、いずれも陛下の御威光を汚す行為であり、このまま放置するわけにはまいりませぬ。よって、臣、尤は一刻も早く、これら役人どもの不正を取り締まっていただけるよう、陛下に申し上げる次第です」
そう言って荘尤は頭を深々と下げた。
「荘尤、頭を上げい」
再びしわがれた声が辺りに響き渡った。荘尤はその声を聞くと、
「はっ」
と、返事をして、頭を上げた。
「よくぞ、報告をしてくれた。朕はうれしく思うぞ」
「もったいなきお言葉にございます」
「さて、役人どもが不正を起こしているとのことだが……」
しわがれた声の持ち主が、再度口を開いた。どうやら、報告にあった役人たちへの対策の方法が、決まったようである。
「朕の名を傘に着て、横暴を働くとは、言語道断! 今後、そうしたことは一切できないようにする!」
「はっ! しかして、どのように致しますれば……」
「なに。役人どもが不正を働かぬように、今後からは、朕の信任する者に、役人たちの働きぶりを監察させ、逐一報告させるわ! これで、役人どもも、朕のため、この国のために、きちんと仕事をしてくれるであろう」
「はっ……」
主君からの言葉を聞き、荘尤はやや低い声で頭を垂れた。彼女は、己が主君が、根っからの悪人ではないことを再確認することができたと同時に、一抹の不安を抱いたのである。
たしかに、役人どもが不正を働かないかを監察させる必要はある。そのための人間を派遣すること自体は、決して間違いではない。しかし、実際にそれだけで上手くいくのであろうか。第一、監察する人間も、結局は「役人」なのである。
そもそも、役人たちがそのような不正を行うようになったのは、「国の威信」をかけた、別に行わなくてもよい「外征」が何度も行われ、そのための物資収集を役人どもに任せたからである。これでは、付け入るなという方が無理である。
(どうも腑に落ちぬ……)
荘尤はそう思いつつも、
「それでは、仰せのとおりにいたします、陛下。私、臣、尤も、微力ながら全力を尽くさせていただきます」
と、答え、退出するしかなかった。今をときめく大司馬である彼女の言葉を以てしても、この宮殿に居座る「主君」は大変癖が強く、その制御は、歯止めが効かないからだ。
なにはともあれ、翌日、曲がりなりにも不正役人を取り締まる勅令が出ることになったのであった。
*
―――新野の鄧晨邸。
先日の迷子少女「麗」改め、陰麗華との思わぬ再会を果たした後、修たちは再び客間で団欒としていた。
もっとも、先ほどと違い、一人の美少女と、「その叔父さん」が新たに加わっていたが。
だが、麗華と鄧奉が客間に入ってきても、別に、大した変りはない。
どうやら、いつものことらしく、二人とも鄧晨一家の中に、自然に溶け込んでいた。
この突然の来客は、決して一家の団欒を乱すことはなく、むしろ、よりほんわかとした空気を作りだしたようであった。
少なくとも修はそう実感していた。
(それにしても……)
彼はふと、思った。
(宛でも思ったけど、この麗って娘。なんか、見ていると、やけに顔が熱くなってくるような……)
実際、宛城の時と同様、彼の顔は、やや赤みを帯びていた。
無理もない。なにしろ、彼の目の前にいる美少女、陰麗華は、それほどまでに可愛いらしいからだ。
修は決して年下好みなわけではないし、むしろ唐変木な所もあって、女性の善し悪しなどわからない方である。この世界に飛ばされてきて、秀児を始めとする何人かと、やっと話せるようになっただけで、未だに恋心というものを、ほとんど知らないのだ。(先日の旅籠の風呂の件は別にして)
だが、現に目の前の美少女は、そんな修さえも顔を赤くするほどの愛らしさであった。
さらりと流れる、長くて綺麗な黒髪。ふんわりとした絹の服の似合う、傷一つない肌。そして、ぱっちりと開いた、濁りなき黒い瞳。
どこからどう見ても、少女は可愛い人形が生きているかのごとくである。いや、むしろ人形の方がこの美少女に似て可愛いのであろうか?
そんな女の子を見て、おかしくなるなという方が無理というものだ。
そんなわけで、修はついうっかり見とれてしまったのである。
(ダメだ。このままだと、秀児たちに変人扱いされる……)
なんとか正気を保った彼は、他の事で気を紛らわそうと考えた。
そこで、横にいる秀児の方を向いたのである。彼女と話すことで、いくらか気分を転換しようと思ったのだ。
「なあ、秀児……?」
そして、横に振り向いたとき、彼は見た。
隣に座っている「同居人」が、今まで以上に、赤面しているのを。
「あれ?」
修は一瞬、我が目を疑った。なぜなら、彼の隣に座っている、蒼髪の同年代の少女は、これまでに見たことがないほど、真っ赤な形相を呈していたのだ。
見ていておもしろいほどである。なにしろ、修の世界にある、「交差点の信号機」以上に、その色違いがはっきりとわかるからだ。
「おい、秀児……?」
修は心配になった。なにしろ、秀児の頭から湯気が昇るのではないかと思うほど、彼女の顔は真っ赤なのである。放っておけば、噴火するのではないか。そう思っても過言ではないほどだ。とにかく、異常であることには違いない。
心配になって声をかけてみたのだが、どういうわけか、秀児からの返答はない。彼女は、ただ真正面を向いたまま、真っ赤な表情で固まっていたのである。
「おい、秀児!」
見るに耐えかねて、修は少し声を大きくしてみた。だが、それでも秀児は反応しなかった。
おもむろに、彼女の目の前で、手を振ってみたが、まったく無反応だった。いったい、何が彼女をここまでさせたのであろうか?
(ダメだ、こりゃ……)
修がそう思った時だった。
「劉三公子?」
ふと、麗華が話しかけてきたのである。すると、不思議なことが起こった。
「え!? は、はい!?」
なんと、ここにきて、秀児の意識が戻ったのである。もっとも、顔が真っ赤なのは戻っていなかったが。
「な、なにかな、麗ちゃん?」
相変わらずの真っ赤な表情で、秀児が答えた。そんな彼女の顔をまじまじと見ながら、麗華が言葉を紡いだ?
「大丈夫ですの? お顔、凄く真っ赤ですわよ?」
そう言って、秀児の方に近づいたのである。どうやら、本気で心配の様である。
だが、それがさらに、火に油を注ぐことになった。
「え、そ、そうかな? アハハハ!」
麗華がにじり寄ったとたん、秀児は、これ以上赤くなるのかというぐらいになったのである。冗談抜きで、本当に湯気が噴き出しそうである。
「お、おい。秀児。お前、熱が出てるんじゃ……?」
修は本気で心配になって、そう声をかけた。すると、麗華もそれに同調したのか、
「あら、大変ですわ」
と、言うと、さらに秀児に近づいたのである。そして、次の瞬間、
「どれ、私が計って差し上げますわ」
の一言と同時に、麗華は自分のおでこを、秀児のそれに重ね合わせたのである。
修は知る由もなかったが、これがとどめとなった。
次の瞬間、秀児は、ばたりと、後ろに倒れたのであった。
「お、おい、秀児!?」
「劉三公子!?」
どうして秀児が倒れたのかがわからない二人は、大混乱に陥った。そして、二人して、懸命に秀児を揺さぶったのである。
『大丈夫か(ですか)!?』
鄧晨邸周辺に、他人を心配する大声が響き渡った。
もっとも、修と麗華以外の人間は、事情を知っていたため、苦笑していただけだったが。
それはともかく、秀児が意識を取り戻すまでには、次の日の朝を待たなければならなかった。
*
「ふう、やれやれ……」
倒れてしまった秀児を寝かしつけた後、修は溜め息をつきながら客間に戻った。
「秀児のヤツ、風邪なら風邪だって言えばいいのに……」
そう呟きながら、彼は邸の庭の方に足を運んだ。秀児を布団まで運んだあと、皆が庭の方に行ったからである。修が庭先に着くと、ちょうど鄧晨一家が茶柳たちを加えて、団欒といるところであった。
(しかし、本当に明るい家だな)
修は思った。ちょうど目の前では、鄧晨、劉元夫妻が、茶柳も加えて、我が子たちと遊んでいるところだった。見ていて、ほのぼのとする光景である。事実、来歙、鄧奉の二人は、それを微笑ましげに見ていた。
(俺も、いずれ、鄧晨さんみたいなお父さんになるのかな?)
修がふと、そう思った時だった。
「修さん」
すぐ隣から、可愛らしい声が聞こえた。咄嗟に振り向いて見ると、そこには、やはりあの黒髪美少女がいた。
「あ、えっと……、麗ちゃん……、でいいかな?」
修は戸惑いながらも、そう聞いてみた。すると、麗華は、微笑みながら、
「いいですわよ」
と、優しげな声で答えた。
「それにしても、劉三公子、すごい熱でしたわ。大丈夫なんでしょうか?」
麗華はそう言った。本当に心配そうな表情である。無理もない。なにしろ、秀児は彼女の目の前で、突然倒れたのである。もっとも、倒れた原因が、麗華自身にあるということに、彼女はまったく気づいていなかったが。
「多分、大丈夫、と思うよ?」
修が答えた。彼もまた、秀児が倒れた原因など知らないのだが、少なくとも、一晩寝れば回復するだろうくらいに考えていた。もし、秀児の命に関わることならば、この家の人たちが、秀児を放置して遊ぶわけがないのだ。
「そうですね。劉三公子のことですから、すぐに元気になられますわね」
そう言うと、麗華こと麗は、今度は庭で遊んでいる、鄧晨一家の方に目を向けた。余談だが、鄧晨は麗にとって、「大叔父さん」に当たる。
「皆さん、楽しそうですわね」
麗が呟いた。現に、三人の女の子たちははしゃぎまわっており、父親たる鄧晨は、自分の娘たちを順番に、木と同じくらいの高さまで持ち上げてあげるなど、それはそれは、楽しそうである。
「うん、本当だな。みんな、すっごく喜んでるし。鄧晨さん、いいお父さんだな~」
修は微笑ましげにそう言った。そして、話を続けようと、ふと思いついたことを口にした。
「麗ちゃんのお父さんって、どんな人? 鄧晨さんみたいな優しい人? それとも、鄧奉さんみたいな強い人?」
何気なく思ったので、そう聞いたのである。決して悪気はなかった。なにしろ、相手の事を興味本位で、もっと知りたかったのである。少なくとも、修はそう思っていた。
だが、これが思わぬ反応を呼ぶことになった。
「私の、お父様、ですか?」
不意に、麗の声が小さくなった。
修は、「おや?」と思った。
父親がどんな人かを聞いた途端に、麗は声を潜めたのである。
(あれ? 俺、なんか聞いてはいけないこと聞いたかな?)
修が嫌な予感を覚えたときだった。
「私、お父様のことは、よく覚えておりませんの」
「え? どういう……」
言おうとして、修は流石に戦慄した。
(まさか……?)
と、思ったのである。
すると、麗がそのまさかを口にした。
「私のお父様は、私がまだ小さい時に、亡くなられましたの……」
それを聞いて、修の胸の内は、罪悪感に包まれた。思ってもいなかったこととはいえ、タブーに触れたからである。
「ご、ごめん!」
咄嗟に頭を下げた。すると、麗は可愛らしげに、しかし、どこか悲しさを含んだ表情で言葉を返した。
「大丈夫ですわ。私には、お母様や、鄧奉叔父様、それに、識お兄様や、弟の興もいますから……」
だから、ちっともさみしくありませんわ、と、言わんとしていることは、修にもよくわかった。なにしろ、言っているうちに、麗の目が、潤んできたのである。
いまにも堤防が決壊するかのごとくである。いや、もう時間の問題であった。
「お兄様曰く、『真面目でいい人』だったみたいですわ。私は憶えていませんけれど……」
そう言った瞬間、とうとう、その可愛らしげに開いた目から、一筋の涙が流れ落ちたのであった。
「あら、おかしいですわね。やけにしょっぱい水が……?」
それを見た修は、なぜか自分まで泣きたくなった。なにしろ、目の前の美少女を見ていると、自然とそうなってしまうのである。
「もう、いい……よ……」
我慢できず、修は呟いた
「はい?」
「もういいよ!」
呟くどころか、つい、声を荒げてしまった。
「もう、無理してまで話さなくていいから!」
今にも泣きそうな声で、修は麗の話を止めようとした。
「あら、どうしてですの? 私、もっといっぱい、家のこととかお話して差し上げますのに」
首を傾げる麗。もちろん、その目から、流れるものが流れ出たままである。それを見ると、修はますます叫ばずにはいられなかった。
「もういいってば! 麗ちゃん、本当に親孝行な子なんだね! わかるよ! もう、わかったから!」
「あら、そうなんですの? どうして皆さん、いつも私のことを『親孝行』と言うのでしょう? 不思議ですわ」
自分でどれだけ涙を垂れ流しているかを知らないまま、キョトンと首を傾げる少女・陰麗華。恐るべしである。
その後、修はこの黒髪美少女の目から涙が出るのを止めるのに、大変苦労する羽目に陥ったのであった。
その光景を、麗の叔父たる鄧奉と、来歙の二人が見ていた。
来歙は、修が慌てているのを心配して、
「おい、鄧奉。あれ……」
と、手で示しながら言ったが、鄧奉は首を横に振りながら言った。
「放っとけ。ああなったら、俺でも手が付けられねえ」
結局、麗が泣きやんだのは、夕方になってからの話であった。
その後については、特筆すべきことはない。修たち一行は、鄧晨邸にて一晩泊った後、次の日の朝、舂陵郷へと向けて、出発して言った。彼らが舂陵郷へと帰ったのは、出発して以来、実に約半月ぶりである。
こうして、修や秀児は、半月ぶりに劉伯升と再会を果たし、またいつもの畑仕事生活に戻ることになったのであった。
*
修たちが鄧晨邸を発った日の事である。
修たち一行を見送った後、麗は鄧奉、茶柳の二人の付き添いの下、そんなに遠くない所にある実家へと帰ろうとした。
その途中の事であった。
「あら、あれはなんでしょう?」
疑問を浮かべながら、麗は前の方を指差した。
見れば、彼女たちの前方では、人を乗せた四騎の馬が、何かから逃げるようにして走り去っていくところだったのである。
更によく見れば、その四騎の後ろから、役人らしき恰好をした男を乗せた馬が二騎、ぴったりとくっついたまま、後を追っているのが見えたのである。
「ははあ。さては馬泥棒だな?」
鄧奉が口を挟んだ。
「泥棒さん、ですの? いけませんわ」
「鄧奉さん! 捕まえた方がいいのでは!?」
相変わらずおっとりとした麗を余所に、茶柳が詰め寄ったが、鄧奉は笑い飛ばした。
「無茶言うな! ここから徒歩で、馬に追いつけるか!?」
確かにその通りであった。どう考えても、ここから走って追いつけるわけがないのである。
「ま、こういう仕方ねえのはお役人に任せて、俺たちは早く帰った方が、身のためってもんだ」
鄧奉がそう言ったので、一行はやむを得ず、帰路についたのであった。
*
一方の、馬泥棒騒ぎの現場である。
「待て―!」
役人らしき男二人が、自らの馬に鞭をくれて、目の前の四騎を追いかけていた。
「ひいい!?」
「おら、もっと速く走れ!!」
「もっと早くなんだな!」
逃走中の四騎のうち、三騎には、それぞれ体つきの異なる男たちが乗っていたが、三人とも、涙や鼻水をたらし、とにかく無様な醜体をさらしながら、懸命に馬を飛ばしていた。
だが、無理をしすぎたせいか、馬の速度は見る見るうちに落ちていく。このままでは、追いつかれることは明白であった。
「さあ、観念しやがれ!」
あと少しだと思った役人が、声を荒げて言ったときであった。
突然、盗まれた四騎のうちの、一番前を走っていた一騎が、その歩みを止めたのである。そればかりか、その一騎は馬首を翻すと、何を思ったのか、役人たちの方へと向けて駆けだしたのであった。
「なっ、おい!?」
「呉亭長!?」
仲間三人が驚くのを余所に、赤い髪の若き少女を乗せた、その一騎は、来た道を引き返し始めたのであった。
これには、追跡していた役人たちも度肝を抜かれた。
その一瞬が、命取りとなった。
「ぐわ!?」
役人の一人が、突然落馬した。引き返してきた赤髪の少女から、馬鞭の一撃を喰らったのである。頭上から振り下ろされた鞭の一撃をまともに食らい、落馬したのだ。
「お、おのれ!?」
もう一人の役人が、馬上の少女に向かって鞭を振り下ろしたが、その少女は、左手を上げると、その鞭を直接掴んだのである。
「なっ、バカな!?」
役人は己の目を疑った。普通、振り下ろされた鞭の一撃を、片手で受け止めることなどできるわけがない。ましてや、少女なのである。
「ば、化け物め!?」
役人がそう叫んだ直後であった。
「……うるさい……」
赤髪の少女は、誰にも聞き取れない声で、そう呟くと、反撃に移った。
次の瞬間、信じられない光景が繰り広げられた。
「うおわあぁ!?」
役人は悲鳴を上げながら、宙を舞った。少女は左手で相手の鞭を受け止めたまま、その相手の腕を右手で掴むと、そのままぶん投げたのである。
こうなってはなすすべもなく、投げられた役人は、道のど真ん中に叩きつけられ、意識を手放した。
それを見届けると、一度馬を降りた。そして、役人たちが乗っていた二頭の馬を、そのまま自分が乗っていた馬の方へと連れて行ったのである。
赤髪の少女は二頭の馬の頭を一回ずつ撫でてあげると、今度は自分の乗っている馬の横に並べ、三頭ともに、縄で繋いだ。そして、再び馬にまたがると、自分が乗る馬が、他の二頭を引っ張る形で、仲間が待っている方へと引き返したのである。
「す、すげえ……」
「すごいですぜ、ア二キ……」
「さ、さすが呉亭長なんだな……」
仲間でさえ、言葉を失っていたが、少女はそんなことなど、おかまいないのようである。
「いくよ……」
仲間に追いつくやいなや、少女は聞き取りにくい声で、そう言った。
「え!?」
「行くんですかい!?」
「待ってほしいんだな!」
慌てて後を追いかける三人組。そんな彼らを余所に、少女は馬を走らせた。
「ちょっと、呉亭長! 行くって、いったい、どこに行くんでさあ!」
三人組のうち、一番のっぽな男が、慌てて追いかけながら、声を張り上げた。
すると、赤髪の少女は、やや長めの前髪で隠れた、誰にもうかがい知ることのできない表情のまま、相変わらずの小さい声で、目的地を言った。
「北の方……」
本当にそれだけであった。
結局、この「馬泥棒騒動」は、「犯人逃亡・行方不明」として、うやむやになったのであった。
*(注)
・寿成室
都・長安にある宮殿で、かつて、前漢の名宰相、蕭何が高祖・劉邦のために立てた「未央宮」。蕭何曰く、「新たに作る必要がないように」建てられた宮殿は、完成から二百年以上たった当時も健在であった。しかし、改名マニアの王莽は、帝位に就くやいなや、「未央宮」を「寿成室」と改名してしまった。




