第九章 鄧晨一家と昨日の少女
「元姉様!」
邸の門が開くやいなや、秀児はそう叫びながら、勢いよく中へと入って行った。
ここは新野にある、鄧晨の邸。
秀児の義兄一家の住む家に辿り着くやいなや、彼女は大好きな自分の姉の名を叫びながら、邸の奥深くへと駆けて行った。どうやら、彼女は本当に、姉のことが大好きなようだ。
「お、おい。落ち着けよ、秀児」
修がそう言ったが、彼女は聞く耳も持たずに、そのまま行ってしまった。
「ははは。相変わらずだな。秀児のヤツ」
来歙が微笑ましげに言った。むろん、秀児の従兄である彼は、秀児がどれだけ自分の姉のことを慕っているかをよく知っている。
「秀ちゃん、相変わらずだね」
一緒についてきた茶柳もそう言った。
「劉元さんも、皆さんも、元気にしてるかな?」
秀児の幼馴染である彼女も、劉元と会うのを楽しみにしている。
一行はひとまず、鄧家の下僕の案内のもと、客間へと向かうことにした。
(それにしても……)
修は一人思った。
(ここもでけぇ邸だな……)
彼はつい見とれてしまった。なにしろ、この鄧家の邸は、本当に大きいのである。舂陵郷の劉嘉こと春萌の邸もかなりのものであったが、ここはそれをも上回るのだ。いつもどこにでも、上には上がいるものである。もっとも、この新野には、この鄧家の邸よりもさらに大きな邸が存在することを、修は知らないのだが。
(秀児。お前のお姉さん、だいぶいいところに嫁いでいるじゃねえか)
そんなことを考えながらも、客間へと向かう修であった。
*
「みんなー!」
客間に入った修たちが見たものは、三人の小さな女の子と一緒に戯れている秀児の姿であった。
「久しぶりー!」
「あ、秀叔母さ……」
「なにかな~?」
「ううん、秀お姉さまだ!」
「こんにちは!」
途中、何やら、得体のしれない雰囲気がしたのは置いておいて、秀児は三人の女の子と挨拶を交わすと、そのそれぞれを抱っこしたり、頭を撫でてあげたりと、それは、それは楽しそうである。どうやら、この三人の女の子たちこそ、秀児の姪にあたる子たちのようであった。
(楽しそうだな……)
後から入って来た修たちがそれを微笑ましげに見ていたときであった。
「あら?」
客間に、一人の優しそうな雰囲気の女性が入って来た。母性的な感じのするその女性は、秀児と同様の蒼い髪の持ち主だが、彼女とは正反対に、包容力のありそうな人である。
「秀ちゃんじゃない!」
「元姉様!」
女性の姿をみとめるやいなや、秀児は嬉しそうな表情を浮かべながら、その女性の方へと駆け寄った。そして、まるで三歳の子どものように、その女性の胸の中へと飛び込んだのである。
「あらあら。秀ちゃんは相変わらず甘えん坊さんね」
そう言いながらも、優しく秀児の頭を撫でてあげる女性。この女性こそが、秀児の姉、劉元であろうことくらいは、修にも予想することができた。
「だって、本当に元姉様に会いたかったんだよー!」
そう言って、姉との再会を喜ぶ秀児。すでに彼女の表情は、「癒されている」と言わんばかりの、満足そうなものである。今の秀児の姿は、誰がどこから見ても、これ以上の幸せ者はいないと言わんばかりのものだ。少なくとも、修、来歙、茶柳の三人はそう感じた。
「お、誰かと思ったら、秀児じゃないか」
そこへ、また新たな人間が割って入って来た。今度は、一人の男性であった。
「あ、晨義兄様!」
これまた嬉しそうな表情で、秀児が言った。入って来たのは、伯升と比べると、はるかに優しそうな雰囲気の、三十代後半くらいの男性である。どうやら、彼がこの家の当主にして、秀児の姉婿のようであった。
「久しぶりだな。その様子を見ると、『元気か?』って聞く必要はないみたいだな」
「あ、晨義兄様ってばひどーい」
そう言ってむくれ顔になる秀児。それを見た鄧晨は
「ははは」
と、愉快そうに笑った。
「あら。来歙さんと、茶柳ちゃんまで来られてたのですね? お元気?」
後ろにいた来歙たちに気付いた劉元が言った。
「ああ、俺は大丈夫だ」
「お久しぶりです」
本当に久々だと言わんばかりに挨拶を交わす二人。それを微笑ましげに見つめる劉元だったが、そこで、見慣れない少年、修の姿をみとめる。
「あら、初めての子ね」
そう言われて、修ははっとした。彼自身のことを言われたことは、明白だ。
「は、初めまして!」
彼は慌てて挨拶をした。そして、自身を紹介した。この世界に来て以来、もうすっかり慣れた名前で。
「俺は柳修、字は伯昇といいます。秀児や伯升さんの元で、お世話になっています。よろしくお願いします!」
そう言って、律儀に頭を下げる修。柳修として、頭を下げるのは、これで何回目であろうか。
「あら、律儀な子ね」
劉元が微笑みながら言った。
(それにしても、秀ちゃんのことを真名を呼んでるあたり、仲がいいみたいね。やっぱり、秀ちゃんの旦那さんには、こんな男の子がいいかしら?)
その微笑みの裏で、そんなことを考えていたことなど、修も秀児も知る由もない。
「それでは、こちらも名乗らなくてはいけませんね」
劉元はそう言って夫と目配せすると、名乗り返した。
「私は、姓は劉、名は元。弟の縯と妹の秀が、お世話になっています」
「俺は、姓は鄧、名は晨。この元の夫で、ここの家主だ。ま、気楽に話してくれ」
夫婦そろって、律儀な挨拶である。
すると、それを聞いていた三人の女の子たちも、我も我もと、声を上げた。
「私も!」
「あたしも!」
「あたちも!」
「はい、はい」
自身の三人の愛娘たちに、優しく微笑みかける劉元。どうやら、この鄧一家は、夫婦仲、親子中ともに、本当に良さそうであった。
見ているだけで、修も、秀児たちも、微笑ましげになるのであった。
その後、彼らは気の済むまで。とことん語りあった。
とある、新たな客人が現れるまで。
*
「そう言えば、晨兄様。鄧ほ……」
秀児が鄧晨に対し、何かを聞こうとしたときであった。
「おーい、叔父上! 俺だ! 門を開けてくれ!」
邸の門の方から、男の大きな声が響き渡ったのである。
「あれ?」
修は、首を傾げた。
「今の声、なんか聞き覚えがあるような……」
しかし、どうしても思い出すことができない。
すると鄧晨が、
「お、ちょうどよかったな」
と、秀児に向かって言った。どうやら、彼女が聞かんとすることの内容が、全部聞かなくても最初からわかっていたようである。彼は客人を迎えに行くために、立ち上がると門へと向かった。
それに、秀児や茶柳も一緒について行くのである。特に、秀児に至っては、嬉しそうな表情であった。
「あれ? どうして皆……?」
修が彼女たちを慌てて眼で追った。彼には、どうして鄧晨の家に来た客人の出迎えに、部外者であるはずの秀児や茶柳が出迎えに行くのか、わからなかったのである。
「ははあ、なるほど」
来歙が頷いた。
「さては、鄧奉のヤツだな?」
「え、鄧奉さん!?」
修が叫んだ。来歙の口から出てきた名前が、あろうことか、昨日、宛で会ったばかりの、男の名前だったからである。
「なんだ、お前。鄧奉のことを知っているのか?」
修に対し、そのような質問をする来歙。彼にしてみれば、鄧晨と初めて会ったばかりの修が、その「甥」のことを知っているはずはないとばかり思っていたからである。
「知っているも何も、昨日、宛で迷子になっていた俺の事を助けてくれた人ですよ!」
「なに? それは、どういう……!?」
来歙が訳を訪ねるよりも先に、修は勢いよく客間を飛び出し、秀児たちの後を追ったのである。無理もない。まさか、昨日知り合ったばかりの人間が、秀児の身内だったとは、思わなかったのである。
(ちゃんと挨拶しなければ!)
彼はそんなことで、頭がいっぱいだった。
そのため、鄧奉以外にも、まさかの思わぬ再会があるなど、その時の彼には予想することもできなかったのである。
*
「よう、叔父上!」
邸の玄関で待っていた修たちの前に姿を見せたのは、案の定、あの鄧奉であった。彼は邸の中に入るやいなや、真っ先に自分の叔父である鄧晨に声をかけた。
「急に訪ねてスマンな」
「いや、大丈夫だよ。お前も元気そうで何よりじゃないか」
叔父と甥の間で会話ははずむ。そこへ、後からやって来た秀児と茶柳が口を挟んだ!
「鄧奉! 久しぶりだね!」
「お久しぶりです、鄧奉さん!」
「おっ、秀児と茶柳も来ていたのか! 叔父上を訪ねたら、まさかこんな所でお前らにも会えるとはな。はっはっは、これはちょうどいい!」
旧知の二人の姿をみとめて、何故か大笑いする鄧奉。
「え、何がちょうどいいの!?」
秀児が聞こうとしたときだった。
「鄧奉さん!」
不意に、少年の声が響いた。むろん、それは一番最後にやって来た、修の声である。彼は、長い廊下を急いで走ったためか、息を切らしながら駆けつけて来たのだ。
「え、修くん?」
秀児が驚くのを余所に、修は鄧奉の前に駆け寄ると、急いで挨拶をした。
「鄧奉さん。昨日は本当に、ありがとうございました!」
「ん。お前さんは、たしか、昨日の?」
「はい、昨日、宛でお世話になった柳修です!」
「なに!? お前さんが、どうして叔父上の所にいるんだ?」
不思議がる鄧奉。それは秀児も同様であった。
「修くん。どうして、君が鄧奉のことを知っているの?」
「あ、ごめん。言うのを忘れていた」
そう言って修は、秀児たちに、昨日の迷子になったときの一件を話した。
迷子になった際に、道に迷った挙句、ゴロツキにからまれた所を助けてくれた上に、南の門まで案内してくれたのが、ほかならぬこの鄧奉だということを。それを聞いた秀児たちは納得した。
そして、秀児が、わけのわからないという顔をいている鄧奉に向かって、そっと一言を言う。
「鄧奉。修くんはね、僕の友達なんだ」
「なるほど。そう言うことか!」
秀児からの一言を聞いた鄧奉は、それですっかり納得したようだ。途端に、彼は笑いながら、修の背中をばしばしと、大きく叩いた。
「いてて!?」
「なんだ、お前さんは、秀児のヤツのダチだったのか! なんで黙ってたんだ? 水臭えぞ!」
悲鳴を上げる修を余所に、驚きと嬉しさの混じった表情で、修を歓迎する鄧奉。修にとっては、ある意味では、また伯升のような雰囲気の人間が、周りに増えたような気がしてならなかったが、一方では、また新たな知り合いができたことに、嬉しさを隠せないものであった。
「なーんだ!」
再会を喜ぶ修たちを見ながら、秀児が呟いた。
「修くん。鄧奉とは知り合いだったんだね」
「それにしても、凄いね」
茶柳が口を挟んだ。
「まさか昨日、迷子になっているときに知り合った人が、私や秀ちゃんの知り合いで、しかも、今日また会えるなんて。滅多にないことだよ」
本当にその通りである。迷子になった時に道を教えてもらった赤の他人が、まさか友人の知人で、身内だったなど、教えてもらわない限り、誰が想像できようか。
「おお、そうだ」
突然、鄧奉が声を上げた。
「どうしたの、鄧奉?」
「実はな、今日はもう一人、客人が来ているんだ。お前ら、誰かわかるか?」
不意に、鄧奉がなぞなぞでも出すかのように、声を潜めた。
「え、まさか!?」
突然、秀児が満面の笑みを浮かべた。なにやら、本当に嬉しそうである。
「そうだ、秀児」
秀児の考えていることを読み取ったらしく、鄧奉が笑みを浮かべながら言った。
「あ、なるほど」
「わかった!」
鄧晨と茶柳も、誰が来たのかがわかったようである。唯一わかっていないのは、修だけのようであった。
(え、誰だろう)
彼は考えた。彼は、難しく考えすぎて、実は答えに該当する人物と、昨日、宛で出会っていることに、全く思い至らなかったのである。
(ま、いっか。どうせ、すぐに答えもわかるだろうし)
そう思った時だ。
「まさか、本当に『カン』が当たるとは、思わなかったぜ。よーし。それじゃ、呼ぶぞ」
鄧奉がそう言って、後ろを振り向くと、
「おい、入ってきていいぞ!」
と、外にいる誰かに向かって呼び掛けたのである。
すると、扉がガラッと開くと同時に、その人物が姿を現した。
「こんにちは、皆さん」
その人物は、皆の前で、律儀にお辞儀をした。見るからに、高貴な雰囲気を漂わせながら。
それを見た修は、あっと息を呑んだ。
着ているのは、滑らかな絹の、長い袖と長い裾のある、高そうな服。そして、頭から地面に向かって降りているのは、艶やかで美しい、長い黒髪。そして、その顔立ちは、美しく、まるで人形が生きているかのような雰囲気。
見間違えようがなかった。
『麗ちゃん!』
咄嗟に叫ばずにはいられなかった修。だが、そこで誰かと言葉が被ったことに気付いた。
「あれ、修くん?」
そう言ったのは、秀児であった。言葉が被ったのは、ほかならぬ彼女だったのである。
「あら、修さんもいらしたのですか?」
可愛らしげな声で、修が昨日で会ったばかりの女の子、麗が、そう言った。
「え、修くんと知り合いなの? いったい、どういうことかな?」
秀児が慌てて聞いた。
「え、いや、その……」
修が返答に困っていると、鄧奉が助け船を出した。
「ああ。そう言えば、修のヤツは、昨日、麗と会ったばかりだと、言ってなかったな」
そう言うと、鄧奉は昨日の一連の経緯を話してくれた。
「なあんだ。そう言うことか」
話を聞いた秀児は、ホッとした。少なくとも、修にはそう言うように見えたのである。
「劉三公子」
不意に、麗が秀児に向かって話しかけた。なにやら、聞きなれない単語を使いながら。
「え、なに? 麗ちゃん」
そう言って受け答えする秀児。何故か、彼女の顔は、赤く染まっているかのように見えた。しかも、見るからに落ち着きがないのである。
「わたくし、実は、こちらの修さんに、まだ嘘をついたままなんですの。少し、お時間をいただきますわね」
「あ、うん……」
見るからに緊張している秀児。だが、それよりも、「嘘をついたまま」という言葉が引っかかったので、修はどういう意味かと、話を聞くことにした。
「あの、嘘って?」
「実は、わたくし、修さんにきちんと名乗っておりませんの。改めて名乗らせていただきますわ」
そう言うと、麗は、改めて自己紹介をした。
「わたくしの姓は陰。名は麗華と申します。家は、この新野にありますわ。改めまして、よろしくお願いしますね」
*
―――光烈陰皇后、諱は麗華、南陽新野の人なり。初め光武、新野に適き、后の美しきを聞いて心に之を悦ぶ。後に長安に至り、執金吾の車騎の甚だ盛んなるを見て、因って歎じて曰わく、「仕官しては当に執金吾と作るべく、妻を娶っては当に陰麗華を得べし」―――。(「後漢書本紀二 皇后紀第十上より」)
*
異世界に飛ばされた少年・柳修が、南陽・新野の超名門出身の美少女、陰麗華と、正式に知り合った瞬間であった。




