間章其の一 劉秀と予言書
都・長安を出発し、修たち一行は南陽郡の新野県に向かった。
行くときと違って、のんびりと舂陵郷へと帰ることができるので、途中、寄り道するのである。舂陵郷に帰る前に、新野の地にわざわざ立ち寄るのは何ゆえか。それは、秀児からの強い要望によるものだった。
これから一行が向かおうとしている新野の地には、鄧家という、代々二千石の高官を出している豪族が根を張っている。長安で出会った鄧禹こと露々は、その鄧家の遠縁に当たるのだが、今はさておき、現在の鄧家の当主は、鄧晨という名の男だ。
その鄧晨は、舂陵侯分家の劉元という女性と婚姻を結んでいた。
鄧晨の妻、劉元こそ、ほかならぬ劉秀こと秀児の次姉なのである。
つまり、秀児が新野に立ち寄りたいという理由の一つは、彼女の姉と、その夫、つまり義兄に会いたいがためであった。
どうやら、秀児はそれをかなり楽しみにしているらしい。南陽へと戻る馬車の中でも、修や茶柳たちが見ているのも憚らずに、ずっとうずうずしていて、まるで落ち着きがない。
彼女はよっぽど、そのお姉さんのことが好きなようである。
「ああ、早く元姉様に会いたいなぁ」
長安を出てから、彼女がそう独り言を何度も言うのを、修たちはしつこく聞かされた。おかげで、秀児がどれだけお姉さんを尊敬して、大切に思っているのかが、嫌でも伝わってくるものである。
「秀児のお姉さんって、どんな人なんだ?」
秀児の独り言を何度も聞いているうちに、とうとう質問せずにはいられなくなった修が思い切って聞いてみた。
すると秀児は、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの嬉しそうな表情で言った。
「元姉様はね、すっごく優しくて、頼もしい人なんだよ。おまけに、すっごく美人なんだ」
「美人、かぁ」
修はなんとなく、春萌のような女性を想像した。しかし、秀児がここまで言うからには、けっこう凄い人に違いない。
「例えばね」
聞いてほしいと言わんばかりに、秀児が熱く語った。
「僕が小さい頃、縯兄様によく悪戯されたんだ。おもちゃとかを取り上げられたり。そんな時、元姉様はいつも僕のことを庇ってくれたんだ。縯兄様はいっつも、元姉様に怒られてばかりだったよ」
それを聞いた修は、「あの伯升さん」がガミガミ叱られる様子を想像し、つい苦笑してしまった。なにしろ、普通は想像できない話だからである。それにしても、本当に秀児は幼い時からの苦労人のようだ。
それはともかくとして、秀児の「お姉様自慢話」は続いた。
「鄧晨義兄様に嫁いだ後も、元姉様はちっとも変っていないんだ。相変わらず優しいし、ダメなことはダメだって、ちゃんと言ってくれるんだよ。おまけに、可愛い女の子が三人もいるんだ。ああ、早く会いたいなぁ」
そんなことを延々と言い続ける秀児。そんな彼女の姿を見て、修はこう思わずにはいられなかった。
(秀児。お前、ちゃっかり「妹」しやがって。それにしても、この年でもう、「叔母さん」か……)
「修くん。今何か、変なこと考えなかった?」
不意に秀児が顔をのぞかせてきたので、修は慌ててごまかすように口笛を吹くと、
「いや、何も考えてないよ」
と、ごまかすのであった。
その後夕方になって、馬車はその日泊まる予定の旅籠にたどり着き、四人はそこで食を採り、談笑した後、寝る運びとなった。
「僕たちが行ったら、元姉様も、晨義兄様も、驚くだろうなぁ」
寝る前に、秀児は誰人に語るでもなく、そう呟いた。
そして、その日の疲れを癒すべく、ゆっくりと眠りに着いたのであった。
*
「おーい、起きろよ、秀児!」
誰かが秀児のことを呼んでいた。いったい、誰の声なのか。寝ぼけているため、相手の顔をきちんと見るまではわからない。だが、彼女のよく知っている人の声だ。
「うーん、眠いよぅ。もう少し寝かせて……」
秀児は相手をからかってやろうと思い、わざとらしくそう言った。どうしてそんなことをしようかと思ったのかは、彼女自身にもわからない。ただ、それをやれば、おもしろいような気がしたのだ。
「馬鹿を言うなよ」
相手が苦笑しながら言った。
「これから宛の蔡少公の爺さんの家で宴だと言うのに、お前だけここで寝てるのかよ? だったら代わりに、俺と伯升とで、お前の飯も喰ってしまうぞ?」
そう言われたとき、秀児は無性に食欲を覚えた。そして、自分でも恐ろしいほどの勢いで跳ね起きると、
「行く行く行くー!!」
と、大声で相手に迫った。その勢いに、相手の男は腰を抜かしかけた。
「わかったから、大声出すなよ! まったく、お前も伯升も、やっぱり兄妹なんだな。こういう時に声が大きいのだけは、本当にそっくりだ」
やれやれと首を振りながら、そう言って溜め息をつく男。その男を見た秀児は、思わず頭を下げて、挨拶をした。なぜなら、その男は、彼女の尊敬する姉の婿だったからだ。
「あ、おはようございます。鄧晨義兄様」
「なにが、『おはようございます』だよ、まったく」
鄧晨と呼ばれた男が、笑いと呆れの混じった表情のまま、外の方を指差した。
「もう夕方だよ」
言われてみればその通りである。すでに陽は傾き、今にも遥か向こうの山の方へと沈みこもうとしていたのだ。
「急がないと、伯升が、また怒るぞ」
「大変だ!」
鄧晨に急かされる形で、秀児は出発の準備を急いだ。伯升から叱られるだけならまだいい。だが、せっかくのご馳走を食べられてしまうことだけは勘弁してほしい。ただそれだけの気持ちで、秀児は急いで身支度を整え、屋敷の外へと飛び出した。
そのため彼女は、なぜか自分の体が縮んでいることには、まったく気が付かなかったのである。
それはともかく、身支度を終えた秀児は、鄧晨と共に、宛の蔡少公の家へと向かい、そこで伯升たちとの宴に臨んだのであった。
*
すでに夜も更けた頃、荊州最大の街、宛にある蔡少公という物知りなお爺さんの邸では、宴も佳境に入っていた。
座敷に並べられていた見事な料理も、すでに空き皿がほとんどである。また、酒を口にしなかった人間も皆無で、座敷にいる者全員が、真っ赤な顔のまま談笑を続けていた。
だが、たしかに皆、酒を口にして入るものの、飲み過ぎてへべれけになっているわけでもない。普段だったら、浴びるように酒を飲む伯升や劉稷たちでさえ、飲むのを控えていたのである。それでも、まだ子どもである秀児から見れば、かなり飲んでいたのだが。
「ああ、うめえ酒だ! だが、今日は飲み過ぎる前に、爺さんに聞きてぇことがあるんでな!」
盃を下に置きながら、伯升が蔡少公に言った。
「はて? 伯升どのは、この老いぼれに聞きたいことがあるんですかの?」
「ああ、そうだ! 爺さんだからこそ、俺たちゃ聞きてえんだ!」
年寄りらしいふがふがした声で答える少公に対し、正反対までの大声で物を言う伯升。
「大声で言わんでもわかっとりますわい! それで、伯升どの、いったい、この老いぼれに、何をお尋ねになられるのですかの?」
「ふふふ。これは凄いぜ、爺さん。驚いて腰を抜かさんといてくれよ!」
そう言うやいなや、劉伯升は、隣にいた賓客の一人から、一つの竹簡を受け取ると、それを座敷中の人々に見えるよう、高く掲げたのである。そして言った。
「ついこの間、家で見つけたものだ! 詳しいことはわからねえが、どうやらこれは、あの孔子さまが記された、『緯書(予言書)』らしいぜ!」
それを見た少公も、他の人々も、胸の内に興奮を覚えた。そして皆、興味深げにそれを見つめた。「緯書(予言書)」とやらに、何が書かれているのか、皆が知りたかったからである。もちろん、秀児もだ。
「だが、残念ながらこの伯升には、予言だの何だののことは、さっぱりわからねえ。だが、爺さん。あんたは確か、予言とかには詳しいと言っておったな。だから、今この場で、少しでいいから、どんなことが書かれているか、俺たちに教えてくれねえか?」
なるほど、と秀児は思った。今日、このよぼよぼの年寄りの家で宴会を行ったのは、この予言書を解読してもらうためだったのだ。でなければ、あの兄が、こんな年寄りの元を訪ねたりはしないであろう。
そう考えている秀児を余所に、伯升は老人・蔡少公の方へと歩み寄ると、彼の前に予言書の竹簡を置いた。蔡少公は、「ふむ」と言いながらそれを手に取ると、適当に拝見しながら言った。
「なるほど。あの孔子さまの予言とは、素晴らしいものですのぅ。どれ、一つ読んでみるとしますかな」
そう言って、真っ白な髭を生やした顔を、物凄く真剣な表情に変えて、例の予言書を解読し始めたのである。気のせいか、秀児にはこの老人が、まるでおもちゃを与えられた子どもに若返ったかのように見えた。
さすがに予言を解読するのには、しばらくの時間がかかったが、やがて少公はゆっくりと口を開いた。
「これは、これは、非常におもしろいことが書かれておりますのぅ」
少公はそう言って、目を見開いたのである。
「何が書かれてあるんだ、爺さんよぅ!」
待ち切れないと言わんばかりに、伯升が詰め寄ったが、少公は手を上げると、年寄りとは思えない剣幕でこれを制した。
「まあ、待ちなさい! 今からきちんと説明いたしますわい!」
そう言うと、少公は箸を掴むと、それで予言書に書かれた古めかしい文字の列を示しながら解説した。声を潜め、この事は、他言は無用であると前置きをしながら。
「まず、ここの一文じゃが、どうやら、あと十年もしないうちに、王莽さまの天下は終わりを告げ、そして大漢帝国が復興すると、書いてありますのぅ」
「なんと……!?」
皆が息を呑んだ。爺さんがいうには、なんとあの王莽が滅びるのだというのだ。数年前、高祖・劉邦以来、二百十四年続いた漢王朝から、「高祖の霊からの伝言」と称して皇帝の位を奪い、漢の血筋を引く者たちから王侯の爵位を剥奪した、あの王莽が。聖人ぶって、わけのわからない政策ばかりで、数多くの人々を窮地に追いやっている、あの憎き王莽が、滅びるというのだ。
そして、変わって劉家の大漢帝国が復興するというのである。
皆は思わず叫びそうになったが、すぐさま、その言葉を呑みこんだ。こんなことを誰かに聞かれ、役人の耳にでも入れば、全員の首が飛ぶからだ。
皆は恐る恐る、少公の次の言葉を待った。少公は次の一文を箸で示しながら皆に言い続けた。
「さて、次の文じゃが、ここには王莽さま亡き後の、次の天子さまの名前が書かれておりますのぅ」
「な、なるほど。それで、次の天子さまとは、いったいどなたなんでしょう?」
声を潜めながら、賓客の一人が聞いた。少公は「ふむ」と頷いた後、予言書の続きを皆に聞かせた。
「ここにその名前が載っていますのぅ」
それを聞いた皆は、一斉に静まり返った。やがて、少公はそれを読み上げた。
「この予言書によりますと、次の天子さまとなるのは、『劉秀』なる者である、と、記されておりますが、はて、どなたのことですかのぅ」
少公はそう言ったきり、口を紡いだ。皆は不気味なように静まり返ると、予言書に載っていた、「劉秀」なる人物がいったい誰なのかと、考え始めた。
高祖・劉邦が漢王朝を立ち上げてから、すでに二百年以上が経過している。そのため、この中原には「劉姓」を名乗る人間だけで数万人もの数に上るのだ。
さらに現在の皇帝の椅子に踏ん反り返っている王莽が、皇帝の座に着く前に出した法令、「二名の禁」により、中原一帯の人間のほとんどが、自分の諱を一文字ずつしか持っていないのである。
そういうことを考えると、劉姓の人間の中でさえ、「秀」という名の人間の数もありふれていることになるのだ。
「これはもしかすると、国師公のことかもしれませんぞ」
賓客の一人が息を潜めながらも、そう言った。当時、王莽の側近の大臣の一人に、国師公の劉秀なる人物がいた。「劉秀」という名前を持つ人間の中では、今のところ、中原一有名な人物である。
「なるほど……」
その場にいたほとんど全員が、互いに頷きあうと、そのまま口をつぐんだ。たちまち、この座敷の空気は、緊張に包まれたのである。このようなことが外に漏れると、大変なことになる。だから皆、沈黙してしまったのだ。普段騒がしい伯升や劉稷でさえも、静まりかえった。
誰もが、今日はもうこのまま誰一人喋ることなく、この宴はお開きとなるだろう、と思った。だから、一人の子どもが、悪戯っぽい笑みを浮かべていることには、誰も気づかなかったのである。
「あのさ」
突然、その場の空気には全然、似つかわしくない子どもの声が鳴り響いた。
「皆、ひどいよ。僕だって『劉秀』だよ?」
口を開いたのは、ほかならぬ秀児であった。突然のこの声に、その場にいた人たちは、わけがわからないまま、思わず目を見開いた。いったい、誰がこんなことを言っているのかと。だが、秀児は構わずに、こう言った。
「どうして僕じゃないって、言えるのさ?」
それを聞いた人びとは、皆一斉に、秀児の方を見つめた。だれもがきょとんとした、間抜けな表情になっていたのである。一瞬、完全に時が止まったかのように、皆錯覚した。しかし、それも束の間のことであった。
「お、おまえ……」
一番最初に口を開いたのは、秀児の実の兄である伯升であった。彼はぽかんとした表情のまま、口から言葉を紡ぎ出した。
「おまえが……、天子さま……だって……?」
そこまで言うのが限界であった。
「だーはっはっはっは!!」
次の瞬間、伯升は表情を崩したかと思いきや、今までにないほどの大声で大爆笑したのである。それにつられ、その場にいた全員が笑い転げた。なにしろ、今まで緊張の真っ只中にいたのである。それが突き崩された上に、あんな大胆な発言をしたのが、虫一匹殺せそうもない餓鬼だったからだ。もちろん、この場にいる皆が秀児のことを知っている。兄の伯升とは正反対のおとなしい子で、誰かと口論することさえないばかりか、むしろ臆病なところがあるくらいだ。だから余計におかしかったのである。
「おい! 秀児!」
爆笑しながら、伯升が秀児の前に立った。そして、わしゃわしゃと、秀児の頭を、髪の上から撫でた。
「おまえ、可愛いヤツだな!! ああ、たしかに、お前は『劉秀』だとも! しかし、お前が天子さまとは、ああ、こりゃ、おかしい!!」
そう言うやいなや、再び爆笑する伯升。もはや、この座敷にいる人たちの笑いを止めるすべはないようである。
とうとう、言った張本人である秀児までもが、「やったぞ」と言わんばかりに笑い始めた。
だが、そんな中においても、秀児は一人だけ、本心から笑っていない男がいるのに気付いた。
それは、姉婿の鄧晨であった。彼はクスクスと笑ってはいたが、伯升たちのように、秀児をからかって笑っているのではないようだった。秀児はそれに気付いたのである。
その後、皆が気分を良くしたところで宴会はお開きとなった。
その帰り道のことだった。
「秀児」
不意に鄧晨が話しかけてきた。
「なに、晨義兄様?」
訝しがる秀児に対し、鄧晨は自分の右手を上げると、それを秀児の頭の上に、ポンと優しく乗せた。そして、優しげな表情で、こう言った。
「お前、将来は絶対に大物になるぞ。頑張れよ」
ただそれだけ言うと、鄧晨は先に歩いて行った。
「あ、待ってよ。晨義兄様!」
呆気にとられていた秀児は、その小さな体で、慌てて鄧晨の後を追うのであった。
*
「はっ!?」
窓から差し込む朝の光で、秀児は目を覚ました。
咄嗟に、周りを見回してみる。そこは、新野からはまだ遠い場所にある旅籠の部屋であった。
すぐ脇には、親友の茶柳が、まだスヤスヤと寝息を立てている。そして、その一枚扉を隔てた向こう側からは、修と来歙のいびきが聞こえていた。
「夢だったんだ……」
秀児は悟った。今までの懐かしい話は、全部夢だったのである。ただし、彼女にとっては、ただの夢ではなかった。
「まさか、ちっちゃい時の事を、こうして夢に見るなんて」
彼女はそう言って懐かしく思った。隣の部屋で寝ている修には知る由もないことだが、どうやら秀児自身が過去に体験した話を、そのまま夢で見たようであった。なかなか珍しいことだと言わねばならない。
「そうだ!」
ふと、秀児は思った。
「新野に着いたら、晨義兄様とも、いっぱいお話しよっと!」
そう考えると、ますます新野に着くのが楽しみになって来た秀児であった。
その後、一行は馬車で新野へと向けて出発した。
果たして彼ら、彼女らは、新野で誰人と会うことになるのであろうか。
それは、また次のお話である。




