僕の彼女は国民的ニュースキャスター
今回は、国民的ニュースキャスターとして世間から信頼を背負う女性と、普通の書店員として静かに日常を生きる青年の恋愛物語です。
華やかな世界にいる彼女と、穏やかな本屋で働く彼。
本来なら交わることのなかった二人が、雨の日の書店で偶然出会い、少しずつ心を通わせていきます。
けれど、彼女は誰もが知る存在。
恋をすることすら、簡単には許されない立場にいます。
仕事、信頼、世間の目、そして本音。
極秘交際の中で揺れながらも、互いにとって本当の居場所になっていく二人を、静かな恋愛ドラマとして描きました。
派手な展開よりも、言葉の温度や、会えない時間の切なさ、誰にも知られない愛の尊さを感じていただければ嬉しいです。
恋なんて、自分の人生には遠いものだと思っていた。
少なくとも、宮瀬航平はそう思っていた。
二十七歳。都内の駅前にある小さな書店で働く、どこにでもいる青年。
朝は開店前に雑誌を並べ、昼は文庫の棚を整え、夕方には仕事帰りの客にレジで「カバーをお付けしますか」と尋ね、夜は閉店後、売れ残った本の冊数を確認する。
大きな夢があるわけではない。
派手な生活を望んでいるわけでもない。
ただ、本の匂いが好きだった。
ページをめくる音が好きだった。
誰かが一冊の本を手に取って、ほんの少しだけ目を輝かせる瞬間が好きだった。
それだけで、航平の毎日は十分だった。
その日も、いつもと変わらない雨の夕方だった。
駅前の人通りは多く、傘の群れが波のように流れていた。
書店の自動ドアが開くたびに、湿った空気と一緒に雨の匂いが店内へ入り込んでくる。
航平はレジ横で濡れた床を拭きながら、入り口に置かれた傘袋の補充をしていた。
その時だった。
ひとりの女性が、少し息を切らしながら店に入ってきた。
黒いコート。
深くかぶった帽子。
顔の半分を隠すような大きなマスク。
肩にかかった髪は雨で少しだけ濡れていて、傘を持つ手は細く、指先まで整っていた。
芸能人のようだな、と航平は一瞬思った。
けれど、そんな人がこの小さな書店に来るはずがない。
彼女は店内を見回し、少し迷ったように文芸書の棚へ向かった。
航平は特に声をかけなかった。
この店には、ひとりになりたくて来る客も多い。
声をかけすぎないことも、書店員の仕事のひとつだった。
しばらくして、彼女は一冊の本を持ってレジにやってきた。
古い随筆集だった。
派手な新刊でも、話題の小説でもない。
どちらかといえば、静かな夜にひとりで読むような本。
「カバー、お付けしますか?」
航平がいつも通り尋ねると、彼女は少しだけ顔を上げた。
マスク越しでも分かる、柔らかな目元。
「お願いします」
その声を聞いた瞬間、航平の手が止まった。
聞き覚えがある。
毎晩、テレビから流れてくる声。
落ち着いていて、はっきりしていて、それでいて冷たくない。
大きな事件の時も、災害の時も、人の心に寄り添うように言葉を届ける声。
国民的ニュースキャスター。
白石莉央。
航平は、思わず彼女の顔を見そうになった。
けれど、すぐに視線を本へ戻した。
見てはいけない気がした。
彼女がここへ来たのは、白石莉央としてではなく、ひとりの客としてなのだ。
航平は何も言わず、丁寧にカバーをかけた。
「雨、強いですね」
ふと、彼女が言った。
「そうですね。駅前、かなり滑りやすくなっているので、足元お気をつけください」
「ありがとうございます」
会話はそれだけだった。
彼女は会計を済ませ、本を大事そうに抱えて店を出ていった。
自動ドアが閉まり、彼女の背中が雨の中へ消えていく。
その後、航平は何度も自分に言い聞かせた。
たぶん似ていただけだ。
あの声に似た人なんて、きっと世の中にはいる。
国民的ニュースキャスターが、こんな駅前の小さな書店に来るはずがない。
けれど、その夜、帰宅してテレビをつけた瞬間、航平は息を止めた。
画面の中にいたのは、間違いなく彼女だった。
白石莉央。
黒いスーツに身を包み、いつものように真っ直ぐ前を見つめ、ニュースを伝えている。
昼間、書店で随筆集を買っていった女性。
雨に濡れた髪。
少しだけ疲れた目。
そして、あの声。
「本当に……来てたんだ」
誰に言うでもなく、航平は小さく呟いた。
それが、すべての始まりだった。
それから一週間後、彼女はまた店に来た。
今度は閉店の三十分前だった。
客足も少なく、店内には静かな音楽だけが流れている。
彼女は前回と同じように帽子とマスクを身につけ、まるで自分の存在を消すように棚の間を歩いていた。
航平は気づいたが、声はかけなかった。
彼女が一冊の本を手にしてレジへ来るまで、ただいつも通り仕事を続けた。
「こんばんは」
彼女が先に言った。
航平は少し驚きながらも、軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「この前の本、面白かったです」
「それはよかったです」
「あなたが選んだわけではないのに、変な言い方ですね」
「いえ。本を買ってくれた方が、その本を気に入ってくれたと聞けるのは、書店員として嬉しいです」
彼女は少しだけ笑った。
その笑い方は、テレビでは見たことがなかった。
ニュースを読む白石莉央ではなく、ひとりの女性がふっと力を抜いたような笑顔だった。
「ここ、落ち着きますね」
「ありがとうございます。小さい店ですけど」
「小さいからいいんです。大きな書店だと、なんだか探されているような気がして」
その言葉に、航平は何も言えなかった。
彼女がどれほど人の目に晒されているのか、航平には想像することしかできない。
毎晩テレビに映り、言葉の一つひとつを受け止められ、褒められ、批判され、信頼され、疑われる。
彼女は誰よりも多くの人に知られているのに、誰にも簡単には近づけない場所にいるのかもしれなかった。
航平が本にカバーをかけていると、彼女が静かに尋ねた。
「私が誰か、気づいていますよね」
航平の指先が止まる。
否定するのは嘘になる。
けれど、認めるのも失礼な気がした。
少し迷ってから、航平は答えた。
「はい。でも、お客様として来られているので」
彼女は目を瞬かせた。
「騒がないんですね」
「騒いだら、来づらくなってしまうでしょうから」
その瞬間、彼女の目が少しだけ揺れた。
「……ありがとうございます」
航平は袋に本を入れ、彼女へ差し出した。
「また、静かに本を探しに来てください」
彼女はしばらくその袋を見つめていた。
そして、小さな声で言った。
「白石莉央じゃなくても、来ていいですか」
航平は、まっすぐ彼女を見た。
「もちろんです」
その言葉を聞いた彼女は、少しだけ安心したように目を細めた。
それから、彼女は週に一度ほど店に来るようになった。
買う本はいつも静かなものばかりだった。
古い詩集、短い随筆、旅の記録、誰かの手紙をまとめた本。
新刊の棚よりも、奥の目立たない棚に立っていることが多かった。
ある日、航平が閉店作業をしていると、彼女はまだ店内に残っていた。
外はひどい雨で、電車も一部遅れていた。
「白石さん」
航平が初めて彼女の名前を呼ぶと、彼女は少し驚いたように振り向いた。
「閉店時間、過ぎてしまいましたか?」
「いえ、まだ少しあります。ただ、雨が強いので、無理に出ない方がいいかもしれません」
「迷惑じゃなければ、もう少しだけ」
「大丈夫です」
航平はレジを締めながら、彼女が窓の外を見ている横顔を見た。
テレビで見る彼女は、いつも完璧だった。
言葉を間違えず、感情を出しすぎず、どんなニュースにも揺らがない。
けれど、今そこにいる彼女は、ひどく疲れているように見えた。
「毎日、大変ですか」
航平は、思わず聞いてしまった。
聞いた瞬間、失礼だったかもしれないと思った。
けれど、彼女は怒らなかった。
「大変ですね」
短く答えた後、彼女は自分でも意外そうに笑った。
「こんなふうに言ったの、久しぶりかもしれません」
「言えないんですか」
「言えないです。私はニュースを伝える人間なので。私が疲れているとか、悲しいとか、怖いとか、そういうものを画面に乗せてはいけない時があるんです」
「でも、人間ですよね」
航平がそう言うと、彼女は黙った。
雨の音だけが、しばらく店内に響いた。
「……そう言われたかったのかもしれません」
彼女は小さく呟いた。
航平は何も返せなかった。
返す言葉が見つからなかったのではない。
軽い言葉で慰めてはいけない気がしたのだ。
その夜、雨が弱まるまで、二人は店内で少しだけ話した。
好きな本。
苦手な食べ物。
眠れない夜の過ごし方。
仕事で一番嬉しかったこと。
仕事で一番苦しかったこと。
会話はゆっくりだった。
恋に落ちるような劇的な瞬間ではなかった。
雷が鳴ったわけでも、運命の音楽が流れたわけでもない。
ただ、普段なら誰にも言わないような小さな本音を、少しずつ渡し合った。
その帰り際、彼女は店の入り口で振り返った。
「宮瀬さん」
「はい」
「また、話してもいいですか」
航平は頷いた。
「僕でよければ」
その返事を聞いた彼女は、少しだけ笑った。
「あなたがいいんです」
その言葉が、航平の胸に長く残った。
二人が連絡先を交換したのは、それからさらに三週間後だった。
閉店後、店の前で彼女を見送ろうとした時、彼女がスマートフォンを取り出した。
「こういうことを言うのは、私の立場では軽率かもしれません」
彼女の声は、いつものニュースを読む時よりもずっと小さかった。
「でも、ここでしか会えないのは、少し寂しいです」
航平はすぐには答えられなかった。
白石莉央。
国民的ニュースキャスター。
彼女の存在は、航平の毎日とはあまりにも違う場所にあった。
軽い気持ちで近づいてはいけない人だと思った。
けれど、目の前にいる彼女は、ただ不安そうに返事を待っているひとりの女性だった。
「僕でいいんですか」
航平が聞くと、莉央は静かに頷いた。
「宮瀬さんがいいんです」
同じような言葉を、彼女はまた言った。
その言葉には、前よりも少し強い覚悟があった。
航平はスマートフォンを取り出した。
連絡先を交換した後、莉央は画面を見つめながら小さく笑った。
「本当に、交換してしまいましたね」
「後悔してますか」
「していません。ただ、少し怖いです」
「僕もです」
「宮瀬さんも?」
「はい。僕は普通の人間なので、白石さんの世界のことを何も知りません。知らないまま近づいて、傷つけてしまうかもしれない。それが怖いです」
莉央はスマートフォンを胸元に寄せた。
「優しいですね」
「臆病なだけです」
「臆病な人は、相手の怖さに気づける人です」
その夜から、二人の極秘交際のようなものが始まった。
最初は、交際という言葉を使わなかった。
ただ、閉店後に少しメッセージを交わす。
仕事終わりに「お疲れさま」と送り合う。
莉央が深夜のニュースを終えた後、航平がまだ起きていれば、短い通話をする。
会える場所は限られていた。
有名なレストランには行けない。
人の多い映画館にも行けない。
駅前で堂々と待ち合わせることもできない。
だから二人は、早朝の公園を歩いた。
人通りの少ない住宅街の小さな喫茶店で、隅の席に座った。
航平の休みの日に、莉央が変装して書店の近くまで来て、ほんの十分だけ会うこともあった。
恋人らしいことは、ほとんどできなかった。
手を繋ぐことすら、人の目を気にしてしまう。
名前を呼ぶ声も、外では小さくなる。
それでも、航平は幸せだった。
莉央も、きっと同じだった。
ある夜、莉央は航平の部屋に初めて来た。
古いアパートの二階。
六畳の部屋に、小さな本棚と低いテーブル。
テレビの横には観葉植物。
特別なものは何もない。
莉央は部屋に入ると、少しだけ立ち尽くした。
「本当に、普通の部屋ですね」
「すみません」
「違います。嬉しいんです」
「嬉しい?」
「普通の場所に来たかったんです」
莉央はコートを脱ぎ、ゆっくりと部屋を見回した。
本棚の前で立ち止まり、背表紙を眺める。
「宮瀬さんらしいですね」
「どの辺がですか」
「派手な本が少ないところ。静かで、でもちゃんと残る本が多いです」
航平は少し照れた。
「白石さんにそんなふうに言われると、棚を見られるのが恥ずかしいですね」
「私の方が、ずっと恥ずかしいです」
莉央はそう言って、そっとマスクを外した。
テレビで見慣れた顔。
けれど、画面越しよりも近く、ずっと柔らかい。
航平はなぜか胸が苦しくなった。
「どうしました?」
「いえ……本当にいるんだなって」
莉央は少し困ったように笑った。
「テレビの人みたいですか」
「最初は、そうでした」
「今は?」
航平は少し考えた。
「今は、白石莉央さんです」
莉央は目を伏せた。
「それ、同じ名前なのに、全然違って聞こえますね」
「違います。テレビの白石莉央さんは、みんなのためにニュースを伝える人です。でも、ここにいる白石莉央さんは、疲れたら座っていいし、眠かったら寝ていいし、弱音を吐いてもいい人です」
莉央は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくり航平のそばへ来た。
そして、そっと額を航平の肩に預けた。
「少しだけ、このままでいてもいいですか」
「はい」
「今日は、強いニュースが多くて」
「はい」
「何も感じていない顔をするのが、少しだけ苦しかったです」
航平は莉央の背中に手を添えた。
抱き締めるというより、そこにいていいと伝えるように。
莉央は小さく息を吐いた。
「宮瀬さんの部屋、静かですね」
「壁が薄いので、大声は出せませんけど」
「ちょうどいいです。今は、静かな場所がいい」
その夜、二人は遅くまで話した。
莉央はニュース番組の裏側を、守秘義務に触れない範囲で少しだけ話した。
朝から打ち合わせがあり、原稿が変わり、急な速報が入り、表情も言葉も慎重に選ばなければならないこと。
誰かの悲しみに触れるニュースを読む時、自分の感情を消すのではなく、感情に飲まれないように立っていること。
そして、世間から「正しい人」であることを求められ続ける苦しさ。
「私は、間違えられないんです」
莉央はテーブルの湯呑みを見つめながら言った。
「もちろん、誰だって仕事で間違えないようにしていると思います。でも、私の場合は、ひとつの言葉が人を傷つけることがある。ひとつの表情が、偏っていると言われることもある。どこへ行っても、白石莉央として見られる。笑っても、怒っても、疲れても、誰かが意味をつけるんです」
「つらいですね」
「つらいです」
莉央は、はっきりと言った。
その瞬間、航平は彼女が自分の前で初めて本当に弱音を吐いてくれた気がした。
「でも、ニュースを伝える仕事は好きなんです」
「はい」
「だから、やめたいわけじゃない。逃げたいわけでもない。ただ、ときどき、誰かに私の名前を普通に呼んでほしくなるんです」
航平は静かに頷いた。
「莉央さん」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
目が少し潤んでいた。
「もう一回、呼んでください」
「莉央さん」
「……はい」
彼女は小さく返事をした。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
その日を境に、二人は恋人になった。
はっきりと告白したわけではない。
けれど、通話の最後に「またね」と言う声が柔らかくなり、会えた日は帰り際に名残惜しそうに見つめ合うようになった。
航平の部屋で過ごす夜も増えた。
莉央は料理が得意ではなかったが、コンビニで買った惣菜を皿に移すだけで「ちゃんとした夕食みたいですね」と嬉しそうに笑った。
航平が味噌汁を作ると、莉央は両手で椀を持って、ゆっくり飲んだ。
「美味しい」
「普通ですよ」
「普通が美味しいんです」
その言葉を、航平は何度も胸の中で繰り返した。
普通が美味しい。
普通が嬉しい。
普通が欲しかった。
彼女にとって、自分の部屋はきっと、テレビ局でも、スタジオでも、世間でもない場所だった。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
自分は彼女に何をしてあげられるのだろう。
何も持っていない。
大きな肩書きも、財産も、彼女を守れる力もない。
ただ、本を売る仕事をして、狭い部屋で味噌汁を作るだけの男だ。
そんな自分が、国民的ニュースキャスターの彼女の隣にいていいのか。
その不安は、恋が深くなるほど大きくなった。
ある日、莉央が航平の部屋で眠ってしまったことがあった。
深夜の番組終わりで、相当疲れていたのだろう。
ソファに座ったまま、コートも脱がずに目を閉じていた。
航平はそっと毛布をかけた。
その寝顔は、テレビで見る凛とした表情とはまるで違った。
無防備で、少し幼くて、疲れ切っている。
航平は思わず、彼女の手を見た。
原稿を持つ手。
マイクを握る手。
多くの人に言葉を届ける手。
けれど今は、ただ毛布の端を緩く握っている。
その手に触れたくなった。
触れて、ここにいていいと伝えたくなった。
けれど航平は、途中で手を止めた。
自分の存在が、彼女の人生の重荷になるのではないか。
そう思った瞬間、胸が詰まった。
翌朝、莉央は慌てて目を覚ました。
「ごめんなさい、寝ちゃってました」
「疲れてたんですから」
「番組の打ち合わせ、朝からあるのに……」
「まだ間に合います。タクシー呼びますか」
「大丈夫です」
莉央は急いで身支度を整えた。
だが、玄関を出る直前、ふと航平の顔を見た。
「何か、考えていますか」
航平は驚いた。
「どうしてですか」
「宮瀬さん、優しい顔をしている時ほど、何か我慢しているから」
航平は言葉に詰まった。
莉央は靴を履きながら、静かに続けた。
「私が迷惑をかけているなら、言ってください」
「違います」
航平はすぐに言った。
「迷惑なんかじゃありません」
「じゃあ、何ですか」
航平は黙った。
言えば、彼女を困らせる。
けれど、言わなければ、きっと彼女はもっと不安になる。
「僕でいいのかって、思うことがあります」
莉央の表情が少し変わった。
「どういう意味ですか」
「莉央さんは、多くの人に必要とされている人です。僕とは生きている世界が違う。僕は、莉央さんを守れるような力もないし、何かあった時に表に立てる立場でもない。隣にいることで、かえって莉央さんの邪魔になるんじゃないかって」
言い終えると、部屋が静かになった。
莉央はしばらく航平を見つめていた。
そして、少し怒ったように目を細めた。
「それは、私が決めることです」
「莉央さん」
「宮瀬さんが私に何かをしてくれているかどうか、あなたは自分で分かっていないんです」
莉央の声は震えていた。
「私は、ここに来ると息ができます。あなたが普通に名前を呼んでくれるから、私は自分が人間だと思い出せます。テレビの中の私じゃなくて、誰かにとっての私でいられる。それがどれだけ大きいか、分かりますか」
航平は何も言えなかった。
莉央は一歩近づいた。
「守るって、誰かの前に立つことだけじゃないです。私を特別扱いしすぎず、でも雑にも扱わず、疲れた時に温かいお茶を出してくれることも、私にとっては守られていることなんです」
航平の胸が熱くなった。
莉央は少しだけ息を整え、最後に小さく言った。
「だから、勝手に私の隣からいなくならないでください」
航平は、ようやく頷いた。
「すみません」
「謝るなら、もう一度名前を呼んでください」
「莉央さん」
「はい」
彼女はそれだけで、少しだけ笑った。
しかし、二人の秘密が永遠に守られるほど、世の中は優しくなかった。
きっかけは、莉央が航平の書店に立ち寄った日のことだった。
その日は番組の特集で紹介された本が話題になり、店にも問い合わせが殺到していた。
航平は忙しくレジを打ち、棚を補充し、客の質問に答えていた。
閉店間際、莉央が店に来た。
変装はしていたが、いつもより少し急いでいるようだった。
「大丈夫ですか」
航平が小声で尋ねると、莉央は頷いた。
「少しだけ顔が見たくて」
その一言だけで、航平は疲れが消えるような気がした。
だが、その時、店の外から不自然な視線を感じた。
若い男がスマートフォンをこちらへ向けている。
航平はすぐに気づいた。
莉央も気づいたのか、表情が硬くなった。
「白石さん」
「大丈夫です。すぐ出ます」
「裏口から」
航平は店長に事情を告げることもできず、莉央をバックヤードへ案内した。
店の裏口から出れば、人通りの少ない路地へ抜けられる。
莉央は小走りで外へ出た。
航平も後を追いかけたかった。
けれど、自分が一緒に出れば、かえって怪しまれる。
航平は裏口の前で立ち止まった。
莉央は振り返らず、夜の路地へ消えていった。
その夜、航平のスマートフォンに莉央から短いメッセージが届いた。
『ごめんなさい。巻き込みました』
航平はすぐに返した。
『巻き込まれていません。無事ですか』
少しして返事が来た。
『大丈夫。でも、しばらく会わない方がいいかもしれません』
その一文を見た瞬間、航平の胸が冷たくなった。
翌朝、ネット上に小さな記事が出た。
「国民的キャスター白石莉央、深夜の書店で謎の男性店員と親密?」
写真は不鮮明だった。
莉央の顔も、航平の顔もはっきりとは写っていない。
だが、見る人が見れば、莉央だと分かるかもしれない。
記事自体は憶測だらけだった。
店員との交際。
密会。
清廉なイメージとのギャップ。
匿名の関係者。
何一つ確かなことは書かれていないのに、言葉だけが勝手に走っていく。
航平は出勤前、スマートフォンの画面を見つめたまま動けなくなった。
書店に行くと、店長が困った顔で待っていた。
「宮瀬くん、ちょっといいかな」
航平はバックヤードで事情を聞かれた。
相手が白石莉央なのか。
親しいのか。
店として問題になるのか。
店長は責めているわけではなかった。
むしろ心配してくれていた。
だが、航平にはそれがつらかった。
自分だけならまだいい。
けれど、書店に迷惑がかかる。
莉央に迷惑がかかる。
彼女の仕事に、信頼に、傷がつく。
その日の夜、莉央から電話が来た。
航平はすぐに出た。
「莉央さん」
電話の向こうで、彼女は少し黙った。
その沈黙だけで、どれほど追い詰められているか分かった。
「局で、話をしました」
「はい」
「事実確認をされました。交際しているのか、と」
航平は息を止めた。
「何て答えたんですか」
「否定はしませんでした」
「莉央さん」
「嘘をつけば、仕事は守れるかもしれません。でも、あなたとの時間を嘘にすることはできませんでした」
航平は胸が痛くなった。
嬉しいはずなのに、苦しかった。
「でも、今は公にはできません。局としても、私の立場としても、軽率な行動に見える。ニュースを扱う人間が、私生活で注目を集めることは番組にも影響します」
「分かっています」
「しばらく距離を置いた方がいいと言われました」
言葉が刺さった。
けれど、それは当然の判断だった。
航平は普通の男だ。
莉央の世界では、恋愛すら仕事に影響する。
「莉央さんは、どうしたいですか」
航平が尋ねると、莉央はしばらく黙った。
やがて、震える声で言った。
「会いたいです」
その一言で、航平の我慢は崩れそうになった。
「私、会いたいです。でも、会ったらあなたに迷惑がかかる。書店にも迷惑がかかる。番組にも迷惑がかかる。私のせいで、あなたの普通の生活を壊したくない」
「莉央さん」
「だから、今は会えません」
その言葉は、別れのように聞こえた。
けれど、莉央は続けた。
「でも、別れたいわけじゃないんです」
航平は目を閉じた。
「僕もです」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも」
「莉央さんが悪いことをしたわけじゃありません」
「世間は、そう見てくれないかもしれません」
「世間がどう見るかは、僕には変えられません。でも、僕は知っています。莉央さんが仕事をどれだけ大事にしているか。人に伝える言葉をどれだけ大切にしているか。だから、今は会えなくても、僕は待てます」
電話の向こうで、莉央が息を呑むのが分かった。
「本当に?」
「はい」
「いつまでか分からないですよ」
「それでも」
「寂しくなりますよ」
「もう寂しいです」
莉央が少しだけ笑ったような気がした。
その笑いは泣き声に近かった。
「私も、もう寂しいです」
その日から、二人は会わなくなった。
メッセージも減った。
電話もしなくなった。
莉央はテレビの中で、変わらずニュースを読んでいた。
落ち着いた声。
乱れない表情。
世間の騒ぎなどなかったかのように、彼女は画面の前に立ち続けた。
航平は毎晩それを見た。
誇らしかった。
けれど、苦しかった。
画面の中の彼女はあまりにも遠い。
数週間前まで自分の部屋で味噌汁を飲み、毛布にくるまって眠っていた人とは思えないほど遠かった。
書店にも、少しだけ変化があった。
記事を見たらしい客が、航平をちらちら見ることがあった。
「もしかして、あの人?」と小声で言われたこともある。
店長は航平を守ってくれた。
「気にするな」と言ってくれた。
だが、航平は気にせずにはいられなかった。
自分の存在が、誰かの日常を乱している。
それが何よりつらかった。
ある夜、航平は莉央にメッセージを送った。
『無理していませんか』
返事はなかなか来なかった。
深夜になって、ようやく短い返信があった。
『無理はしています。でも、倒れてはいません』
航平は画面を見つめた。
彼女らしい答えだった。
強くて、弱い。
『本当は会いたいです』
送ってから、航平は後悔した。
今言うべきことではなかったかもしれない。
けれど、すぐに既読がついた。
返信は一行だった。
『私もです』
それだけで、航平は泣きそうになった。
そんな日々が一ヶ月ほど続いた頃、莉央の番組で大きな特集が組まれた。
テーマは、報道に携わる人間の責任だった。
視聴者から届く声、誤報を防ぐための努力、言葉の重み、そして、伝える側もまた人間であるということ。
番組の最後、莉央はカメラをまっすぐ見つめて、ゆっくりと話し始めた。
「私たち報道に携わる人間は、常に正確であること、公平であること、冷静であることを求められます。それは当然の責任です。けれど同時に、私たちも生活を持つ一人の人間です。喜びも、迷いも、不安もあります。その人間としての感情を持ったまま、それでも伝えるべきことを伝える。その難しさと向き合い続けることが、私にとっての仕事です」
航平はテレビの前で動けなくなった。
莉央の声は、いつも通り落ち着いていた。
けれど、その奥に確かな覚悟があった。
「私生活を理由に、報道の信頼を損なうことはあってはならないと思っています。だからこそ、私はこれからも、仕事に対して誠実であり続けます。そして同時に、人として大切なものから目を逸らさずに生きていきたいと思います」
それは、交際を認める言葉ではなかった。
誰かの名前を出したわけでもない。
けれど、航平には分かった。
莉央は逃げなかったのだ。
仕事も、恋も、自分自身も、すべてを背負ったまま立っていた。
番組が終わって数分後、莉央から電話が来た。
航平は震える手で出た。
「見ていましたか」
「見ていました」
「怖かったです」
「はい」
「でも、言いたかったんです。私は、仕事を言い訳にして大切な人を捨てる人間にはなりたくなかった」
航平は言葉に詰まった。
「莉央さん」
「会えますか」
「今からですか」
「はい。無茶なのは分かっています。でも、今日だけは、会いたいです」
航平はすぐに立ち上がった。
「どこへ行けばいいですか」
二人が会ったのは、深夜の小さな公園だった。
人通りはほとんどない。
街灯の下、莉央は帽子を深くかぶって立っていた。
航平が駆け寄ると、莉央は顔を上げた。
「来てくれた」
「当たり前です」
「怒っていませんか」
「怒る理由がありません」
「たくさん待たせました」
「待つって言いました」
莉央は少しだけ笑った。
そして次の瞬間、航平の胸に飛び込んできた。
航平は驚きながらも、彼女を抱き締めた。
人目を気にする余裕はなかった。
ただ、久しぶりの温もりが胸に戻ってきた。
莉央の肩は細かく震えていた。
「会いたかったです」
「僕もです」
「毎日、画面の向こうにあなたがいる気がしていました。見てくれていると思うと立てました。でも、同時に、会えないことが苦しかった」
「僕も、毎日見ていました」
「ちゃんと読めていましたか、ニュース」
「はい。少しだけ無理しているなと思う日もありました」
莉央は航平の胸元で小さく笑った。
「分かるんですね」
「恋人なので」
その言葉を聞いた莉央は、ゆっくり顔を上げた。
「今、言いましたね」
「はい」
「もう一回、言ってください」
航平は少し照れながらも、はっきりと言った。
「僕は、莉央さんの恋人です」
莉央の目に涙が浮かんだ。
「私も、宮瀬航平さんの恋人です」
深夜の公園で、二人は初めて何も隠さずに抱き合った。
それは公表でも、宣言でもない。
けれど、二人にとっては確かな約束だった。
それから、二人は少しずつ新しい距離を探し始めた。
完全に自由にはなれなかった。
相変わらず、人目を避ける必要はあった。
会える時間も限られていた。
莉央の仕事は忙しく、航平の書店の仕事も決して楽ではない。
それでも、以前のように不安だけで隠れることはなくなった。
莉央は信頼できる番組スタッフに、航平の存在を一部だけ伝えた。
航平も店長に、莉央との関係を正直に話した。
店長は驚いた後、深いため息をつき、それから笑った。
「宮瀬くん、すごい人と付き合ってるな」
「すみません」
「謝るな。ただし、店内ではお客様として扱え。外では恋人として大事にしろ」
その言葉に、航平は頭を下げた。
「はい」
莉央の周囲にも、少しずつ理解者が増えた。
番組プロデューサーは厳しい顔で言った。
「白石、君の仕事の信頼は君自身が守れ。恋愛をするなとは言わない。ただ、報道の場に私情を持ち込むな」
莉央は深く頭を下げた。
「はい」
「それと」
「はい」
「支えてくれる人がいるなら、倒れる前に頼れ。君は何でも一人で抱えすぎる」
莉央はその言葉に、少しだけ目を潤ませた。
「ありがとうございます」
航平と莉央は、派手な恋人にはなれなかった。
記念日に高級レストランで食事をすることも、手を繋いで大通りを歩くことも、旅行先で写真を撮ってSNSに載せることもできない。
けれど、二人には二人だけの幸せがあった。
航平の部屋で、閉店後に買ってきたパンを半分に分けること。
莉央が原稿の読み練習をして、航平が「今の言い方、優しかったです」と感想を言うこと。
航平が書店で見つけた本を、莉央のために一冊取り置きしておくこと。
莉央が番組終わりに「今日も立てました」とメッセージを送ること。
航平が「おかえりなさい」と返すこと。
ある冬の夜、莉央は航平の部屋で、ふと呟いた。
「私、昔はもっと強い人間だと思っていました」
「今も強いですよ」
「違います。昔は、誰にも頼らなくても平気なことが強さだと思っていました。でも今は、帰りたい場所があるのに仕事へ行くことも、会いたい人に会えない日でもちゃんと立つことも、弱音を吐いた後でも翌朝また前を向くことも、強さなんだと思います」
航平は湯気の立つマグカップを莉央に渡した。
「僕は、莉央さんが弱くても好きです」
莉央はカップを受け取り、少しだけ意地悪く笑った。
「強い私は?」
「もちろん好きです」
「ニュースを読んでいる私は?」
「尊敬しています」
「疲れて寝落ちする私は?」
「毛布をかけます」
莉央は笑った。
その笑顔を見て、航平は思った。
自分は彼女の世界を変えることはできない。
世間の声を消すことも、彼女の仕事の重圧を代わりに背負うこともできない。
けれど、彼女が帰ってきた時に、温かい飲み物を用意することはできる。
名前を呼ぶことはできる。
大丈夫ではない時に、大丈夫じゃなくていいと言うことはできる。
それが自分にできる愛し方なのだと思った。
そして、春が近づく頃。
莉央は番組改編のタイミングで、少しだけ仕事の形を変えることになった。
メインキャスターとしての立場は変わらない。
けれど、週に一度、取材企画の時間を持つことになった。
現場へ行き、人と話し、ただ原稿を読むだけではなく、自分の言葉で伝える。
その最初の企画に、莉央はある小さな書店を選んだ。
もちろん、航平の店ではない。
だが、テーマは「街の本屋が守る、誰かの日常」だった。
番組の中で、莉央はこう語った。
「大きな出来事を伝えることだけがニュースではありません。誰かが今日も店を開け、誰かが一冊の本を選び、誰かが静かな場所で息を整える。そういう日常もまた、私たちが守りたい社会の一部です」
航平は店の閉店後、バックヤードの小さなテレビでその番組を見ていた。
莉央の言葉は、まっすぐ届いた。
まるで、自分たちの出会いを遠くから優しく照らしているようだった。
番組が終わった後、航平のスマートフォンが震えた。
莉央からだった。
『今日の企画、どうでしたか』
航平は少し考えてから返信した。
『本屋として、嬉しかったです。恋人として、誇らしかったです』
すぐに返事が来た。
『今夜、寄ってもいいですか』
航平は笑った。
『味噌汁を作って待っています』
その夜、莉央はいつものように帽子とマスク姿で航平の部屋に来た。
けれど、玄関に入るとすぐにマスクを外し、深く息を吸った。
「ただいま」
初めて、彼女はそう言った。
航平は少し驚いた後、自然に答えた。
「おかえりなさい」
莉央の目が柔らかく細められた。
「言えました」
「はい」
「ずっと言ってみたかったんです」
航平は靴を脱いだ莉央に近づき、そっと手を取った。
「これからは、何度でも言ってください」
莉央は頷いた。
「ただいま、航平さん」
「おかえり、莉央さん」
その夜、二人は小さなテーブルを挟んで向かい合い、湯気の立つ味噌汁を飲んだ。
特別な料理ではない。
豪華な部屋でもない。
誰かに見せるための幸せでもない。
けれど、莉央は何度も「美味しい」と言い、航平はそのたびに少し照れた。
食事の後、莉央は本棚から一冊の随筆集を手に取った。
二人が出会った日に、彼女が買った本と同じ作者の本だった。
「覚えていますか」
「もちろんです」
「あの日、私、本当は泣きそうだったんです」
航平は驚いて彼女を見た。
莉央は本を胸に抱えながら、静かに続けた。
「仕事でうまくいかないことがあって、誰にも言えなくて、でも家に帰るのも怖くて。どこかに逃げ込みたかった。そこで見つけたのが、あの書店でした」
「そうだったんですね」
「あなたは私に気づいたのに、何も言わなかった。騒がなかった。白石莉央としてではなく、ただの客として扱ってくれた。それが、すごく救いでした」
航平は胸が熱くなった。
「僕は、普通に接客しただけです」
「その普通に、私は救われたんです」
莉央は本を棚に戻し、航平の方へ向き直った。
「航平さん」
「はい」
「私の人生は、これからもきっと普通ではありません。仕事柄、自由にできないことも多いです。あなたに寂しい思いをさせることもあると思います。もしかしたら、また世間に騒がれる日が来るかもしれません」
「はい」
「それでも、私はあなたと一緒にいたいです」
航平は莉央の言葉を、まっすぐ受け止めた。
「僕も、一緒にいたいです」
「本当に?」
「本当に」
「普通の書店員と国民的ニュースキャスターですよ」
「普通の書店員と、よく疲れて、味噌汁を美味しいと言ってくれる恋人です」
莉央は涙ぐみながら笑った。
「その言い方、ずるいです」
「本当のことです」
航平は莉央の手を握った。
「僕は、莉央さんのすべてを背負えるなんて言えません。そんな格好いいことは言えないです。でも、莉央さんが帰ってくる場所でいる努力はできます。名前を呼んで、おかえりって言って、疲れた日は黙って隣にいます。それくらいしかできません」
莉央は首を横に振った。
「それがいいんです」
二人はしばらく見つめ合った。
窓の外では、春の前の冷たい風が吹いていた。
けれど部屋の中は、静かに暖かかった。
それからの二人の恋は、相変わらず秘密が多かった。
世間に大きく公表することはなかった。
けれど、嘘で塗り固めた秘密ではなくなった。
信頼できる人には少しずつ話し、守るべき線は守りながら、二人は自分たちの生活を作っていった。
莉央はニュースを読み続けた。
災害の日も、選挙の日も、誰かの人生が変わるような大きな出来事の日も、彼女は画面の前に立った。
航平は書店で本を並べ続けた。
雨の日も、暑い日も、誰かがふらりと立ち寄れる場所を守った。
二人の仕事は違う。
背負うものも違う。
けれど、どちらも誰かの日常に触れる仕事だった。
莉央は言葉で社会を照らし、航平は本で誰かの心を静かに支えた。
ある日、閉店後の書店に莉央がやってきた。
店長は事情を知っているので、何も言わず奥へ引っ込んだ。
店内には航平と莉央だけ。
初めて出会った日と同じように、外は雨だった。
莉央は文芸書の棚の前に立ち、静かに笑った。
「ここから始まったんですね」
「はい」
「私、あの日ここに来てよかった」
「僕も、あの日レジにいてよかったです」
莉央は一冊の本を手に取った。
「カバー、お願いします」
航平はレジに入り、いつものように尋ねた。
「カバー、お付けしますか?」
莉央は目を細めた。
「お願いします」
航平は丁寧にカバーをかけた。
初めての時と同じ動作。
けれど、今は違う。
彼女の正体を知っている。
彼女の強さも、弱さも、寂しさも、笑い方も知っている。
そして、彼女が自分にとってどれほど大切な人かを知っている。
本を差し出すと、莉央は受け取らず、航平の手にそっと触れた。
「航平さん」
「はい」
「これからも、私が白石莉央でいる日も、ただの莉央でいる日も、そばにいてくれますか」
航平は少しだけ笑った。
「もちろんです」
「約束です」
「約束します」
莉央は本を受け取り、大事そうに胸に抱えた。
外では雨が降っている。
けれど、二人はもう、その雨を怖がっていなかった。
傘を差せばいい。
濡れたら拭けばいい。
寒ければ温かい味噌汁を作ればいい。
世間の声が強く降る日もあるだろう。
仕事に追われ、会えない夜もあるだろう。
それでも二人は、きっと何度でも帰ってくる。
小さな書店へ。
古いアパートの六畳の部屋へ。
名前を呼び合える場所へ。
国民的ニュースキャスターとして、今日も彼女は画面の前に立つ。
普通の書店員として、今日も彼は本を棚に並べる。
そして夜になれば、誰にも見せないメッセージが届く。
『今日も、お疲れさま』
『そちらこそ、お疲れさま』
『今夜、帰ってもいいですか』
『もちろん。おかえりを用意して待っています』
その短いやり取りだけで、二人はまた明日を生きていける。
恋は、いつも華やかなものとは限らない。
大勢に祝福されるものとも限らない。
けれど、誰かの孤独をそっとほどき、疲れた心に帰る場所を作るものならば。
それはきっと、世界で一番静かで、確かな愛だった。
そして今日も、白石莉央はニュースを読む。
画面の向こうで、多くの人が彼女の言葉を待っている。
その少し後ろに、誰にも映らない場所で、宮瀬航平の存在がある。
彼女が白石莉央として立ち続けるために。
そして、ただの莉央として帰ってこられるように。
二人の恋は、まだ世間の誰も知らない。
けれど二人だけは知っている。
この秘密は、隠すためだけのものではない。
大切に育てるためのものなのだと。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
『僕の彼女は国民的ニュースキャスター』は、ただ有名人と一般人が恋をする物語ではなく、「誰かにとっての普通が、誰かにとっての救いになる」というテーマを大切に書きました。
白石莉央は、国民的ニュースキャスターとして多くの人に信頼される存在です。
けれどその一方で、常に正しく、冷静で、完璧であることを求められ続ける女性でもあります。
そんな彼女にとって、宮瀬航平の書店や、彼の部屋で飲む味噌汁、何気ない「おかえり」という言葉は、特別なものではなくても、何よりも心を休められる場所になりました。
航平もまた、最初は自分が彼女にふさわしいのか悩みます。
けれど、彼が持っていたのは肩書きや力ではなく、莉央をひとりの人間として見つめ、受け止める優しさでした。
恋は、誰かに見せるためのものではなく、二人だけが知っていればいい温もりなのかもしれません。
秘密の恋だからこそ苦しく、秘密の恋だからこそ守りたいものがある。
そんな二人の静かな愛を、少しでも感じていただけていたら嬉しいです。
お読みいただき、本当にありがとうございました。




