中編
サルカリナ領地―
王都から離れ、隣国との国境付近に位置している辺境の地。冷戦状態である隣国の脅威がいつ襲ってくるのか分からないこの地に漂うのは、張り詰めた空気。そんな緊迫感あるものが、いつも領地全体を覆っていた。
しかし、それはもう過去の話。
数年前に本国は隣国と平和協定を結んだ。無益な戦に終止符が打たれたのをきっかけに、サルカリナ領地は見違えるほどに変化していった。
大地には瓦礫ではなく、色とりどりの草花が豊かな緑と共に地面を覆い尽くす。硝煙まみれだった畑を埋め尽くすのは、太陽の恩恵をたっぷり受けた作物たち。時折吹く風が運ぶのは、死と火薬の臭いではなく、子供たちの笑い声と食欲そそる食べ物の香りだ。
誰かの笑顔が新たな笑顔を生む…そんな暖かさに溢れる場所に、かつての灰色の景色と共鳴するかのような仄暗い瞳を抱く者など、どこにもいなかった。
畑仕事に精を出す者、仕事の合間に笑顔で雑談している者、気持ちよさそうに昼寝をしている者。穏やかな時間を満喫している領民たちを、リナーベルは馬車の中から眺める。
「フフ、今回の報酬で我が領地がまた潤うわ」
先日得た報酬の額面を思い出し、リナーベルは満足気に呟いた。
「各施設の設備は、この前点検したから大丈夫ね。蓄えもできたから、そろそろ領民たちが読み書きを学べる場所を創るべきかしら…」
顎に手を添え、リナーベルは領地の更なる発展のための道筋を検討していく。
サルカリナ領がここまで進化した最大の理由。それは、リナーベルの手腕にあった。
領地を治めるサルカリナ家の当主であるリナーベルの父は、武芸に優れた人物ではある。だが、それだけだ。それ以外のことは、からっきし駄目な人であった。椅子に縛られるよりも外で体を動かすことを得意とする者の典型的なタイプである。
そんな領主一人に、領地を任せっきりではいけない。
その事をいち早く察知したリナーベルは領地経営や整備といった、軍事関係以外の全てを自分に任せて欲しいと父に申し出たのだ。
『隣国との平和協定が結ばれた今、サルカリナ家といえど武力だけに頼るのは危険です』
『それは、そうだが…』
『領地がやせ細ったままでは、その地で暮らす領民は生きながらに死んだも同然…それを見過ごすなどサルカリナ家の誇りにかけてできませんわ』
『ふむ…』
彼女の言っていることはもっともであり、領民の暮らしを良くしたいという気持ちに相違はない。それに、そういったことに自分が向いていない自覚があるリナーベルの父からすれば、娘の提案は有難いものでもある。ただ、危惧すべきはその資金だ。
『…お前も知っているが、協定が結ばれたとしても国境の警戒を解くわけにはいかない。軍事関係の予算を減らすことは難しいぞ』
辺境伯の責務を放棄できない現実を重々しく告げてくる父に、娘は軽やかに微笑む。
『承知しております。領地整備に配分する予算の増額などは一切不要ですので、ご安心ください』
『増額せずにどうやって…』
『私は私の方法で、必ずや領地を潤わせてみせます』
現当主を真っ直ぐに見据え、領地潤沢を誓う次期当主。年若い娘にそんな重責を負わせることを躊躇った父であったが、リナーベルの母親譲りの気迫と強い信念を抱く眼力に押し負け、渋々ながらも首を縦に振ったのであった。
『決して無理はするなよ、リナ』
『えぇ、ありがとうございます』
『何かあれば、私に言いなさい。すぐに騎士団を派遣させよう』
『あら、怖いですわ』
愛称で呼ぶ父の瞳に宿るのは、子の身を案ずる親の暖かな光。朗らかに微笑む彼女の影では、様々な計画がすでに動き出していることを、父は知りもしない。
それからのリナーベルの行動は迅速だった。
まず取り掛かったのは、領民の生活水準の底上げ。痩せた大地を肥えさせ、作物が育つ畑を作った。食が満たされたのなら、次は収入源の確保。領民と話し合い特産品を完成させると、それを知人の商人へ売り渡す。商売が波に乗り、税収が見込めるようになったら次は…と、リナーベルは着々と領地の基盤を武力以外で築いていった。
目を見張るほどの速度で改善されていく領地。だが、それ以上に領主である彼女の父を驚かせるものがあった。財源だ。この一連の動きに必要な費用は、莫大なはず。だが、リナーベルから予算の前借や増額などといった相談は一度たりともされたことがない。つまりは、雀の涙ほどしかないはずの予算を一銭たりとも超えず、領民の生活を向上させたということになる。
どうやって…と問いたそうな父に、リナーベルはただ静かに微笑むだけだ。
領地の開拓に充てられる費用は少額でしかないことに心を痛める父には申し訳ないが、そんな事くらい聡い娘は最初から理解していた。だからリナーベルは別の財源として、個人的財産を前もって用意していたのだ。彼女の個人的財産…つまり、探偵業の報酬である。
リナーベルは探偵業で得た報酬のほとんどを、領地の発展へとつぎ込んでいたのだ。
サルカリナ家から配分された予算を基盤とし、不足分をリナーベルからの寄付金として彼女の個人的財産で補う…サルカリナ領が急速に発展した理由とは、そういうことだ。
リナーベルは流行のドレスや光り輝くアクセサリーなどといった装飾品にあまり興味がなく、茶会や夜会に呼ばれても派手に着飾ろうとはしない娘である。家名に泥を塗らないよう、辺境伯令嬢として恥ずかしくない最低限の装いさえ出来れば、それで満足だった。そんな彼女が領地に多額の寄付金をしている、という話は何の違和感もないことである。寧ろ、自身の領地を大切に想う素晴らしい令嬢だと、貴族たちに好印象を与えた。
そんなことなど知りもしない父は、穏やかさに包まれた領地をただ呆然と見つめていた。
暮らしに余裕が生まれれば、心は自然と豊かになる。
その言葉を再現したかのような光景を目の当たりにした日から、リナーベルの父が鍛錬の後、こっそりと一人勉学に励んでいる姿を見かけた者が数名いたとか…
平民たる自分たちに寄り添うだけでなく、生活までも改善してくれたリナーベルが領民から愛されるのは、必然というもの。今も馬車窓からのぞく彼女の姿に気が付いた者たちが、明るい顔で大きく手を振っている。
「我が領が、今日も平和で何よりだわ」
平和を嚙み締めながら手を振り返すと、揺れが止まった。どうやら目的の場所に到着したようだ。
「リナーベル様、孤児院に到着しました」
「えぇ、ありがとう」
馬車の扉が開かれると、護衛のセロンがリナーベルへ手を差し伸ばす。セロンの筋張った手に支えられながら、少女は馬車から大地へと足を降ろすと、教会を模した建物を見上げる。
「あ! リナーベル様だ!」
「本当だ! リナーベル様、こんにちは!」
「セロンお兄ちゃんもいる!」
リナーベルたちの姿を見るなり、庭で遊んでいた子供たちが集まってきた。騒ぐ子供たちの声を聞きつけて、従業員らしき大人たちも建物の中からぞろぞろと顔を出す。
「こんにちは。お邪魔しても大丈夫かしら?」
「もちろんです。リナーベル様なら、いつでも大歓迎ですよ」
その言葉通り、この場にいる誰一人として嫌な顔などしていない。寧ろ、全員とても嬉しそうな表情でリナーベルを迎えていた。突然の訪問にも関わらず、暖かく自分を出迎えてくれる彼らにリナーベルは軽く頭を下げた。そして、足元で瞳を輝かせる子供たちとの距離を縮めるため、膝を折り曲げる。スカートの裾が地面と接触したが…そんな些細な汚れを気にするほど、リナーベルの器は小さくないようだ。
「相変わらず、元気いっぱいね。顔色もいいし、安心したわ」
「うん! ご飯が美味しいから沢山おかわりするんだ!」
「成長期ですものね。ちゃんと食べて、偉いわ」
「昨日はね、お肉をお腹いっぱい食べたんだよ!」
「野菜もちゃんと食べたよ!」
「そうなの? すごいわね」
リナーベルが感心すると、子供たちは弾けるような笑顔を浮かべた。嬉しさの中にもどこか照れくささが混ざるその顔は可愛らしく、リナーベルの頬の筋肉も自然と緩んでしまう。
「リナーベル様」
名を呼ばれ、リナーベルの顔が反射的に声の方へと向けられる。すると、緊張した面持ちの老人と青年が立っていた。
「あなた方は、確か…新しい従業員さんですね。ご挨拶が遅れました…」
リナーベルは立ち上がると、ふわりとスカートの裾を持ち上げた。
「この孤児院の責任者、リナーベルです」
ニコリと柔らかな微笑みを携えての挨拶に、老人たちは身を固くする。貴族から名乗られることなど、平民である彼らには経験ないことだ。どう対応すべきか分からない老人たちは、戸惑うことしかできない。そんな二人に、リナーベルはゆったりと言葉をかけた。
「仕事には慣れましたか?」
「え、えぇ」
「まぁ、それなりに…」
優しく温かみのある声音。自分たちの態度に不快さを微塵とも感じていない彼女に、老人と青年はしどろもどろになりながらも言葉を返した。やがて二人は顔を見合わせると、何やら口をもごもごとさせる。こちらを伺うような視線に、リナーベルの首がコテリと傾く。
「どうかされましたか?」
リナーベルの不思議そうな顔に促されてか、老人の口がおずおずと開かれた。
「あの…ワシらは本当にこの孤児院でお世話になってもいいのでしょうか?」
震える声で問われた内容に、リナーベルは目を瞬かせる。
「と、言いますと?」
「ワシはこの通り、老いぼれです。孫も体は頑丈ですが、残念ながら学は無く…こんな立派な場所に雇ってもらえる理由が分らんのです」
「俺も。給金だけじゃなくて、飯まで…なんでなんですか?」
普通以下の価値しかない自分たちなど、明日にでも簡単に首を切られてしまうのではないか…
二人の顔には、そんな懸念がはっきりと書いてあった。心細そうな二人。リナーベルはフッ…と小さく笑むと、彼らの不安の種を取り除く。
「理由は簡単です。この孤児院には、あなた方が必要だからです」
リナーベルのその言葉に、二人は目を見開き、周りは笑みを浮かべた。
この孤児院の従業員は年老いている者が多く、そのほとんどが年齢のせいでお払い箱となった者たちだった。若者もいるが、学が無くまともな仕事に就けない人材ばかりである。けれど、全員が共通していることがあった。
それは、心根が優しく、真面目であるということ。
だからこそ、リナーベルは彼らを雇ったのだ。それに、彼らには彼らにしかない武器があることをリナーベルは知っている。
「知識があっても、実戦でしか知り得ないことは沢山あります。お爺さまのような人生経験豊富な方々には、そういったものを子供たちや年若い人に、教えて上げてほしいのです」
深く刻まれた皺が語るのは、豊かな経験で得た知識とその中で身に付けてきた技術力。年齢を重ねることでしか培えないものとは、とても貴重で重宝すべきものだ。
そして、とリナーベルは青年に目を向ける。
「活力が漲っている若い人には、主に力仕事をお任せしたいのです。女子供では限界がありますし、ご老体に無茶はさせたくないので」
幼少期から脳よりも身体を動かしてきた彼らには、野山を駆け回り身についた体力と畑を肥やし鍛えられた筋力がある。それは座学では得られないものであり、長い歳月がなければ身につけることは難しい品物だ。
適材適所。
知識ある者は脳を、力ある者は肉体を。それぞれが得意とする分野で互いを補い合えば、領地は更に発展する。そう思っているからこそ、リナーベルは世間がまだ目を向けていない彼らのその武器に着目することができたのだ。
「そんなことぐらいで…」
「あら、そんなこととは…心強いですわ」
フフッと上品に微笑むと、リナーベルはじっ…と二人の顔を見つめる。
「うん…お二人とも、顔色がよくなりましたね」
「え?」
言葉の意図がいまいち汲み取れない二人は、ポカンとしている。心の中を明かしてくれる彼らの素直さに、リナーベルは小さく肩を揺らすと、その薄い肩に手を置いた。
「でも、身体はまだまだ細いので心配です。どんな仕事でも、体が資本…お二人には、もっとご飯を食べて肉付きを良くしてもらわないといけませんね」
「あ、あの…」
「子供たちを相手にしながらのお仕事は、体力勝負です。もっと元気になって、体力をしっかりつけて下さい。健康でいるのも、立派な仕事の一つですよ」
分かりましたか? と、子供に言い聞かせるような柔らかな口調。彼女の言葉は二人の胸の奥底にまで深く響き渡り、強張っていた心を解していく。
「…はい! 分かりました!」
「ありがとうございます! リナーベル様…!」
大きく頷くと、瞳に浮かぶ水滴を拭う二人。目元を赤くした彼らの顔からは、不安などもうどこにもない。安らぎの場所を得られた彼らを祝福するかのように、リナーベルは優しく暖かな笑みを浮かべた。
と、ここで今までのやり取りを見守っていた一人の女性の声が空気を揺らす。
「あらあら、これは腕がなりますね!」
快活に笑うのは、この孤児院の調理を担当している恰幅の良い女性だった。女性はフンッ! と意気込む勢いのまま、たった今自身の中で決定したであろうことを告げてくる。
「リナーベル様の期待に応えるためにも、今日からあんたらのご飯は大皿にしないとね!」
「え!? そんな量はちょっと…」
「なぁに言ってんだい! 男はそんぐらい食べてなんぼだよ!」
「いや、今のままでも十分お腹いっぱいで…」
「ワシも歳じゃから…」
「文句は私より太くなってから言いな!」
「いっ!?」
バシッ! と、女性からの気合の張り手が、青年の背中に入った。あまりの衝撃に青年の口から、痛みを訴える声が押し出される。青年の細身がよろめいた瞬間、周りから笑いが沸き起こっていく。笑いの中心である青年と老人は戸惑っていたが、やがて皆に溶け込むかのように笑い声をあげていた。
明るい輪の中に混ざっていたリナーベルであったが、本来の目的を果たすため軽く手を打ち皆の意識を自分に集める。
「皆様、いつも本当にご苦労様です。今、何か不足している物はありませんか? お肉とかお魚とか調味料とか…お薬も大丈夫ですか?」
「とんでもございません。食料も薬も、十分すぎるくらいです」
リナーベルの質問に対して瞬時に反応したのは、この孤児院の管理を主に任せている初老の女性だ。かつて教会で献身的に尽くしていた彼女の言葉に、強がりや遠慮した様子はない。
リナーベルは安心したように息を吐くと、ぐるりと全員を再度見渡す。
(不自然な怪我や怯えはありませんね)
チラリッと、護衛のセロンへと深紅の瞳を向けた。リナーベルの視線に気がついたセロンの首が、静かに横に振られる。
(鼠の侵入も、なさそうですわね…)
リナーベルは誰にも気づかれないほどに、小さく肩の力を抜いた。
リナーベルは最低でも月に一回はこの孤児院を訪れる。孤児院だけではない。病院、宿屋、公園、自警団など…彼女自身が関与した施設、全てを必ず自身が出向き監査していた。
運営する中で何か不具合はないか、不足している物資はないかと…そういった確認もあるが、最大の目的は各場所に妙な異常がないかを自分の目で確かめることにあった。
辺境の地が大きく変化したことは、王都でも有名になりつつある。噂は国内だけでなく、隣国にも広まっているだろう。となると、次に警戒すべきは欲深き者たちの侵略だ。
豊かなるものを人は求める。
生存本能としては正しいのだろう。だが、そこに自身の努力を伴わせない者は厄介である。“奪う”という行為に対して、何の躊躇いもないのだ。他者が血や涙を流そうが関係ない。己の欲を満たすためであれば、理性なき行動をする…強欲の神髄というものの恐ろしさを、リナーベルはよく知っている。
(領民は貴族にとって最大の資産…それを害する鼠は、早いうちに処分しないと…)
深紅の瞳に映るのは、記憶の中で吠える薄汚い貴族たち。
『我が領より、そちらの方が裕福なのだ! 分かるだろ!』
『少しくらい助け合おうと思わないのか!』
『仕方がなかった…!』
『この程度のこと、受け流すのが貴族としての嗜みだ!』
『平民の一人や二人、どうなろうとかまわんだろ!?』
過去に、サルカリナ領で起こった悪質な事件。その首謀者は、いずれも権威ある者だった。彼らを問いただすと、全員が口々にそんな身勝手な言葉を吐いた。似たり寄ったりの醜悪さに、リナーベルが嫌悪を通り越して憐みを抱いてしまった記憶は新しい。
セロンを中心とした父の騎士団や自警団のおかげで、幸いにも今のところ死亡者も大きな怪我人もいない。だが、この先はどうなるのか…リナーベルにも分からない。他者の利益にのみに縋ろうとする愚者の考えなど、彼女には想像もできないからだ。
だから、リナーベルは目を光らせる。領民を護るために、サルカリナ家の矜持を守るために、自分の資産を守りきるために…
リナーベルは静かに瞳を閉じると、苦々しい映像を瞼から消し去り、眼前に広がる木漏れ日の空間に意識を向ける。
「何かあれば遠慮せず、すぐに連絡してください。可能な限りすぐに対処致しますので」
「そのお言葉だけで十分でございます。こんな平凡な平民なんぞを気にかけて下さり、本当にありがとうございます」
「ごじゃいましゅ!」
深々と頭を下げる女性を真似して、一人の幼い子の頭がペコリッと下がる。顔を上げた幼子はフンッ! と、誇らしげに胸を張っていた。そのあまりにも愛らしい姿は、彼女の心の仄暗い部分を優しく照らす。
頬の筋肉を緩ませるリナーベルの瞳に宿るのは、柔らかくも固い決意を滲ませた暖かな光だった。
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