前編
とある国の、辺境の地にある屋敷。その一室に集まる者たちがいた。
掃除が行き届き清潔感溢れる客間に置かれた、アンティーク調のテーブル。その上に置かれた紅茶の数は、全部で三つ。一つは、少し大きめのソファに一人で腰を据える身綺麗な少年へ。もう二つは、その向かいに座る少女たちのために用意されたもの。
一見、お茶会にも見える光景ではあるが、机を囲む彼女たちの表情からは明るさが無い。寧ろ、その逆だ。
部屋に漂う空気は張り詰めており、重々しい緊迫感を感じるものであった。
「さぁ、早くサインを」
静寂を破ったのは、少女の物静かで穏やかな声。この屋敷の主であり、辺境伯であるサルカリナ家の娘であるリナーベルは、漆黒の髪の間からのぞく深紅の瞳で目の前で身を縮こませている少年を見据える。
サインを促された少年は、顔を俯かせ忌々しそうに机の上を睨みつけた。
少年とリナーベルの間にある机の上にあるのは一枚の紙。“婚約解消の賠償”についての詳細が記載されているその紙は、薄っぺらい見た目とは裏腹に重々しいものである。
「いくら辺境伯といえど、こんなの横暴だ! これは俺たちの問題なんだぞ!」
勢いよくソファから立ち上がる少年。その荒々しさに、リナーベルの隣に座っている少女の華奢な肩が跳ねた。感情をむき出しにする少年に、リナーベルは淡々と諭す。
「落ち着いて下さい。婚約解消はあなた方の両家が話し合った結果です。我がサルカリナ家は、見届け人としてこの場を設けただけです」
そう。今、この場で行われているのは婚約解消の最終の手続きだ。そして、婚約を解消するのは部屋を提供しているリナーベルではない。婚約を解消するのは目の前の鼻息荒い少年と、横で不安げな表情を浮かべている気弱そうな少女である。
言葉の通り、リナーベルはこの二人の婚約解消の証人として立ち会っているだけにすぎない。
(事前にご説明したはずなのに…なんとも感情的な人なのでしょうか)
子供の癇癪のような行動をとる少年でも現状が理解できるように、リナーベルはゆっくりとかみ砕いて経緯を改めて説明していく。
「書類に記載されている賠償内容についても、あなた方のご両親が納得したうえのもの…私に文句を言われても困ります」
「でたらめ言うな!」
少年がリナーベルに掴みかかろうとした瞬間、彼女の背後で控えていた青年が身構えた。腰にある剣に手を添える青年はリナーベルの護衛である、セロン。サルカリナ家直属の騎士団の中でも、リナーベル専属の護衛である。
アイスブルーの瞳を険しくさせるセロンから微かだが殺気が漏れ出す。辺境の地を生き抜く騎士の殺気は、微かであろうと戦場など経験したことのない温室育ちの令息たちの肉体の自由を奪うには十分すぎるものだ。
リナーベルは軽く手を上げ、セロンを諫めた。
「彼女が怖がります。控えなさい」
「…御意」
主人からの命に、セロンは大人しく従う。しかし、その声音には渋々という感情がはっきりと込められており、リナーベルはクスリッと思わず小さく笑ってしまった。その笑みを携えたまま、リナーベルは再度少年と向き合う。
「うちの者が失礼しました。さきほど、婚約解消の賠償について出鱈目とおっしゃいましたが…ご自身のしでかしたことがご理解できておりませんの?」
扇を広げ口元を覆うと、リナーベルは瞳を細めた。咎めるその視線に少年は息を飲んだが、自身を奮い立たせようと反論する。
「き、貴殿はその女と友人でもなんでもないだろ! 無関係な者なのに、どうして…」
「おかしなことを言いますね」
クスクスと、リナーベルは肩を揺らす。
「私と彼女は確かに交友関係が一切ございません。もちろん、貴方とも…だからこそ証人として相応しいと、クローブ殿下も認めて下さっております」
その名が出た瞬間、少年の肩が跳ねた。恐る恐る机の上にある書類へと、少年の視線だけが向けられる。都合の悪い内容などには一切目を向けず、彼の瞳が捉えたのは一つの文字の羅列。この国の第一王子であり、誰よりも誠実さに重きを置いている気高い青年の直筆の署名だ。
『此度の婚約解消が滞りなく遂行されることを、リナーベル・サルカリナはしかと見届けるよう、ここに命じる』
クローブの名が書かれた上に記載された文面に、少年は息を飲んだ。
「何故? と、言いたげなお顔ですね」
パチンッ、と扇が閉じた音に、少年の意識がサインから辺境伯令嬢へと向けられる。
「答えは簡単ですわ…あなた方、両者に肩入れする理由が私にはございませんもの」
穏やかな口調で解答を提示するリナーベルに、令嬢たちの目が見開かれた。驚愕の表情を向けられる中、リナーベルは淡々と言葉を紡いでいく。
「仮に、私と彼女が友人関係にあるとしましょう。そうすれば、私は彼女が優位になるように影で動くことでしょう…人間ですもの。それぐらいの情が働くのは当然ですわ」
世の理として、事実とは誠実に向き合うべきだ。
どれだけ親しい者であろうと、罪を犯せば罪人であることに間違いはない。庇い立てすることなく粛々と法の裁きを受けさせるのが人としての責務であり、下された正当な罰を遂行する姿を静かに見届けるのが当然である。貴族という権力者であるのなら、なおさらのこと、そうでなければならない。
しかし、リナーベルとて心ある人の子である。大切な友人が問題事に巻き込まれたのであれば、辺境伯という上位貴族であるサルカリナ家の権力や人脈を駆使し、友人を守ろうとするだろう。必要とあれば真実を捻じ曲げることも辞さない可能性とてある。
白が黒へ、黒が白へ…そんなことはあってはならない。強者が弱者を…貴族が平民を理不尽にねじ伏せてしまわないためにも―
「その逆も然りです。あなたに恋愛感情がなくとも、友情があれば友人のために多少の不正は行うかもしれませんね」
リナーベルはセロンに手を伸ばす。あらかじめ指示を受けていたセロンは懐から封筒を取り出すと、主人へと手渡した。
「例え…婚約解消の原因があなたであったとしても」
そう言って、リナーベルは封筒の中身をぶちまけた。飛び出してきたのは、数枚の写真。全ての写真に共通して映っているのは少年だ。だが、その隣にいるのは婚約者の令嬢ではなく、数人の見た目麗しい女性たちである。
慌てて写真を回収する少年の惨めな姿を映す深紅の瞳は、ひどく凪いでいた。
「そのようなことはあってはいけませんし、誰も望んでおりません。だから、あなた方のご実家より上位の爵位である辺境伯の娘であり、お二人と接点がない私が見届け人として殿下より命を受けこの場に立ち会っているのです」
ご理解いただけました? と、リナーベルは付け足す。軽蔑を孕んだ声で放たれた言葉は、少年の燃え上がっていた怒りを鎮火させていく。それを見計らったように、リナーベルは再度少年へ告げる。
「何度も申しておりますが、婚約解消もその賠償内容も私ではなく、あなた方のご両親たちが決めたこと…どれだけの感情を私にぶつけても、何一つ変えることはできません」
ニッコリと笑みを浮かべ事実を突き付けてくるリナーベルに、少年の顔色は一気に青褪める。ドサッ、とソファに身を預けるとようやく事態を把握したのか、頭を抱えだした。
「こんな額の慰謝料……無理だ…僕は廃嫡されるかもしれないのに…どうやって…」
ブツブツと絶望を語る少年。ふと、その脳裏によぎった甘い考えに希望を見出す。
少年はリナーベルの隣に座っている少女に、懇願の目を向けた。
悲痛な色を宿した彼の瞳は、少女の心を揺さぶる。彼女の顔に迷いが生まれた瞬間、少年の口の端が歪に吊り上がった。
(なんと醜悪なお顔…)
リナーベルは眉根を寄せた。
ほんの僅かであっても少年の顔に緩みが生まれた瞬間を見逃すほど、リナーベルの観察眼は未熟ではない。そして、少年の思惑に気が付かないほど間抜けでもない。
愚かな元婚約者にでも、憐れみを抱いてしまう心優しい少女。そんな純真無垢な彼女の唇が震えた瞬間―
「お止めなさい」
毅然とした声が、制止を唱える。それは、少年か少女か…どちらに向けてのものなのかは、リナーベルにしか分からない。
「婚約解消の取り下げ及び、慰謝料の減額などといった賠償内容の変更は一切認められません」
先手を打ったかのようなリナーベルの宣言に、少年は焦ったように噛みつく。
「そんな…俺たちの問題なのに!」
「あなた方の一存で決められるほど、貴族同士の婚約解消は軽いものではありません。家名に泥を塗るおつもりですか? それとも…」
スッ…と、リナーベルは鋭利に愚者を見据える。
「ご両親の意見を反故にする気で…?」
深紅の瞳に宿る冷たい炎。それは、少年の中にある両親の怒気溢れる顔を思い起こさせた。ドクリ、ドクリ、と跳ねる心臓をなんとか抑え、少年は震える声で救いを求める。
「で、でも、彼女が両親たちに掛け合ってくれれば少しくらい…」
「この期に及んで彼女に縋るのはお止めなさい。見苦しい」
ピシャリ、とリナーベルは少年の発言を一蹴した。少年の身勝手な懇願は、正論によってねじ伏せられる。けれど、彼の縋るような目は未だ少女に向けられたままだ。そして、少女の瞳からも同情が消えていない。
リナーベルは眉を顰めると、静かに最後のカードを切った。
「あなたがこれまで彼女にしたことを、お忘れですか?」
ピクリッ、と少女の瞼が反応した。これまでの少年の愚行を思い返しているであろう、彼女の纏う空気がじわじわと真逆のものへと変化していく。この期を見逃さず、リナーベルは畳みかけるように婚約解消の決定打を口にした。
「献身的に尽くしてくれた婚約者である彼女を蔑ろにし、他の女性に現を抜かすなど…果たして紳士のすることでしょうか?」
リナーベルの問いかけに、反論も弁明もないのは、彼が反省しているからではない。ただ単純に聞いていないのだ。心はおろか、その鼓膜にさえ自身の罪を留めない少年に、少女の心は徐々に冷めていく。
己の保身に必死な少年を見つめる少女の瞳には最早暖かな感情など、どこにも無かった。
(幕引き、ですわね…)
リナーベルは唇で小さな弧を描くと、それを隠すようにカップに口付けた。そして、微かな欠片でさえも取り払うための音が、紅茶で潤した喉から奏でられる。
「裏切り者にとって、愛情や慈悲は都合のいい道具でしかありません…そのことをお忘れなきよう」
諭すようなリナーベルの言葉は、少女に決意を、少年に絶望を与えた。
心を固めた少女からは温情が完全に消え去っている。強い意志を宿す少女の瞳に見据えられた少年の喉が、ヒュッと情けない音を立てた。
「さぁ、サインを。これ以上は時間の無駄です」
最後の希望の小さな灯火すらも失ったというのに、少年の手は未だペンを取ろうとしない。
「…まだ抵抗するというならば、実力行使に出ます」
往生際の悪い彼にしびれを切らしたリナーベルは、トンッと軽く机を指で叩く。それを合図に彼女の背後に控えていたセロンが腰の剣に手を添える。その眼光の鋭さに、少年は小さく悲鳴を上げると、慌ててペンを握った。
目の前の圧になのか、これからの己の人生になのか…そのペン先は恐怖でカタカタと震えていた。少年の肝の小ささに内心呆れながらも、そっ…とリナーベルは穏やかに囁く。
「慰謝料さえ払えば、あなたが求める真実の愛が手に入るのです。愛以上に価値あるものなど、あなたにはないのでは…?」
その瞬間、少年の頭によぎったのは平民ながらも美しい女性の笑顔。そして、その笑顔は少年の背中を優しく押してくれた。
「…はい。サインを確認しました。これで、お二人の婚約解消手続きは完了です」
お疲れ様でした、と署名を確認したリナーベルは笑顔で労いの言葉をかける。
「あなた方を縛るものは、もう何もございません。今後はどうぞ、ご自身の愛のため生きてください」
ささやかな祝意を伝えた直後、リナーベルは少年の退出をセロンに指示する。
意気消沈し動く気配がない少年に、セロンはとても不快そうだ。一人で歩くことが困難なほど脱力してしまっている少年の腕を、セロンは掴み半ば無理矢理立たせる。
「セロン、一応まだ貴族の人です。乱暴にしてはいけませんわ」
「…リナーベル様に敵意を向けた時点で、丁寧な扱いをする理由が自分にはございません」
そう言うと、セロンは少年の身を引きずるように部屋を出た。
(セロンったら…真面目なんだから)
護衛としての責任感が強いが故の些か乱暴な行動は、真面目なセロンの欠点となってしまう。彼の今後のためにも後で咎めておこう、とリナーベルは頭の片隅にメモ書きを残すのであった。
部屋に残ったのは、リナーベルと少女の二人だけ。リナーベルはおもむろに腰を上げると少女の前に立った。
「さて、私共の仕事もこれで終わりです。この度はご利用いただき、ありがとうございました」
ニコリ、とリナーベルは人当たりのいい笑みを浮かべる。
「お客様のご希望通りの結果になりましたこと、心から嬉しく思います」
商人のような口上を述べると、リナーベルは頭を下げた。
辺境伯の令嬢が下位の貴族へ頭を垂れるなど、あり得ないことである。しかし、二人の間にある特別な関係性がその状況を作り出していた。
“依頼人”と“請負人”
リナーベルと少女は、ビジネス関係を結んでいたのだ。
リナーベルは表立ってはいないが、とある事業を営んでいた。その事業というのが『探偵』だ。
昨今、この国では真実の愛とやらが大流行している。言葉の羅列だけ見れば美しく見えるのだが、蓋を開けてみれば浮気を美化しただけに過ぎない下賤なモノだ。しかし真実の愛の名の下であれば、婚約者を裏切ることも蔑ろにすることも問題視されず、賞賛されてしまう。酷い時は真実の愛を邪魔する婚約者や恋人を貶め、消し去ろうとすることもあるほどに、それは過激なものへとなっていた。
誠実を胸に掲げる第一王子であるクローブは、乱れていく国の秩序に嘆いた。何か策はないか…と思い悩んでいた時に、手を挙げたのがリナーベルだ。
不誠実な行いや理不尽な暴力などの証拠集めを中心とした探偵業の詳細について、リナーベルは丁寧に説明した。彼女の提案を聞き終えたグローブはすぐに国王へと秘密裏に報告し、創業の許可をもぎ取ってきたのだ。
どちらかが犠牲になる婚約は悲劇に繋がる。その悲劇が国をも揺るがす大きな事件へと成長してしまう前に、貴族同士の結婚で得られる利益を切り捨てる判断を国王は下したのだ。
その代わり、創業するにあたって王は五つの条件を提示してきた。
一つ、従業員や報酬など、探偵業に関わることは第一王子であるクローブに全て報告すること。
一つ、依頼を遂行するか否かは、クローブとリナーベルの両者の話し合いによって決定すること。
一つ、依頼完遂の計画はクローブとリナーベル、両者の合意を得ない限り実行しないこと。
一つ、強硬手段及び脅迫、無理強いなどは一切せず、最終決定は当人たちの意思を尊重すること。
一つ、誠実なる者には、救いの手を。不誠実な者には正当な裁きを。これを心に刻み込むこと。
これを守るのならば、王族であるクローブが全責任を持ち、自身も陰ながらリナーベルに協力することを約束してくれたのだ。
リナーベルがしようとしていることは、婚約に嘆く者への救いの手ともなるし、家の発展を邪魔する存在ともなる。それなりの覚悟が必要であることくらい、リナーベルは最初から分かっていた。
『このリナーベル・サルカリナ。命に…いいえ、魂にかけまして、陛下を裏切らないと誓いますわ』
国王の御前で、力強い深紅の瞳で誓いを捧げた辺境伯令嬢。嘘の欠片すら見えない高潔な彼女の心構えに、国王は深く頷いたのだった。
リナーベルにとって目の前の少女は、大切な“顧客”の一人である。故に、爵位が自分より下位である者であろうと、リナーベルは頭を下げることに一切の躊躇がない。少女も一瞬驚きはしたようだが、すぐに心を落ち着かせたようだ。
「はい、ありがとうございました」
ソファから腰を上げた少女はリナーベルと向き合うと、深々と頭を下げる。
長年、頭を悩ませていた婚約者から解放されたというのに…少女の顔には、どこか重々しい影がさしていた。
「…心が痛みますか?」
心情を察したリナーベルの問いかけに、少女は弱々しくではあるが確かに首を横に振った。
「いいえ。元は私が願った婚約解消ですもの。それに思っていたより慰謝料をもらえて、よかったです。これを軍資金に、何かできればと思っております」
「お強いのですね」
「いえ、私は未熟者です…リナーベル様のあのお言葉がなければ、私はきっと彼を…」
その先の言葉を少女は口にしなかった。軽く手を握りしめると少女は深く息を吸い込む。
己を見つめ直し、その甘さを叱咤する気高き姿。
リナーベルはか細い肩に手を置くと、柔らかく目元を緩ませた。リナーベルの美しくも暖かな笑みに、少女の目が大きく見開く。やがて、瞳を柔和にさせるとリナーベルに負けないくらいに気品あふれる微笑みを浮かべる。
リナーベルの手が肩から離れるのを合図に、少女は背筋を伸ばすとふわりとスカートの裾を軽く持ち上げた。
「婚約解消の手助けをしていただき、ありがとうございました。後日、お約束していた手数料…慰謝料の三十パーセントを必ずお支払いさせていただきます」
「えぇ、お待ちしております。また何かありましたら、是非」
少女の感謝に、リナーベルも美しいカーテシーで応える。見事な所作に見惚れながらも、少女はコソッと言葉を落とす。
「友人達にも、それとなく伝えておきますね。理不尽な婚約にもう我慢しなくていい、と」
悪戯っ子のように弾む声を忍ばせる少女につられ、リナーベルは声を潜ませた。
「それは有難いですわ」
フフッ、と上品に頬を緩ませるリナーベルに向ける少女の顔には、影などもうどこにもない。その晴れやかな笑顔は少女の今後の未来のようだと、リナーベルは一人胸の内を暖めていた。
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