第9話 魂の共鳴
半壊した地下の牢獄に静寂が戻った。漂う血の匂いの残り香を払うように、刹那は紬を強く、壊さんばかりに抱きしめ続けた。
「……刹那、様。もう、大丈夫です……。お怪我を……」
紬の掠れた声に、刹那ははっとしたように身体を離した。彼の頬や着物には返り血が飛んでいる。しかし、彼はそれらの血が目に入らないかのように、そっと紬の頬を包み込んだ。
「紬……。俺は、お前を傷つけてしまった」
刹那の赤い瞳には、これまで見せたことのない激しい後悔の念が滲んでいる。彼は、彼女の手首に残る枷の跡——自分がつけた支配の印を指先でなぞる。赤く腫れたその肌を見て、刹那は胸が裂かれるような思いでその場所に唇を落とした。
「許せとは言わん。……だが、もう一度だけ機会をくれ。お前を一人の女として、俺の隣に置かせてほしい」
彼は紬を軽々と横抱きにすると、暗い牢から、月の光が降り注ぐ寝所へと彼女を連れて行った。
◇ ◇
刹那は、未だに震えが止まらない紬を、壊れ物を扱うような手つきで寝台へと横たえた。月明かりが、彼女の白い肌と、骸によって赤く汚された首筋を無慈悲に照らし出している。
「……刹那、様……」
紬の声は、今にも消えてしまいそうに細い。刹那は彼女の左目を見た。かつて虹色に輝いていた瞳は、未だ灰色のままだ。
しかし、刹那の心には、以前のように瞳の光を惜しむ感情は欠片もない。あるのはただ、彼女を恐怖に陥れた己への嫌悪と、彼女を奪われかけたことへの狂おしいほどの情愛だけ。
「紬。……すまなかった。俺はお前を繋ぎ止め、心を折った。その隙を、あの下劣な男に突かせた」
刹那は膝をつき、彼女の手を取る。そして、骸が乱暴に舐め上げた彼女の首筋に、じっと視線を落とした。
「……汚れた場所を、俺に預けろ。あのような男の記憶など、一欠片も残させぬ」
彼は、紬の首筋にゆっくりと顔を寄せた。骸の残り香を、自身の放つ香気で塗りつぶしていく。
「ひゃ……あ、刹那、さま……っ」
紬が身を竦ませる。だが、刹那の唇が離れた場所から伝わってきたのは、暴力的な欲ではなく深い慈しみだった。刹那は、骸が舌を這わせた箇所を、丹念に、何度も何度も吸い上げるように口づける。
「……ここも、ここもだ。お前の肌は、産毛の一本に至るまで俺のものだ。他の誰にも、指一本触れさせるべきではなかった」
彼の熱い舌が、彼女の鎖骨をなぞる。骸に触れられた時の、吐き気がするほどの不快感。それが、刹那の熱によって強烈な快楽へと書き換えられていく。
刹那は紬の衣をゆっくりと寛げ、彼女の裸身を月光の下に晒した。彼はそのまま、彼女の灰色の左目に唇を落とす。
「光っていなくてもいい。宝石でなくてもいい。……俺は、この、俺を映して揺れるお前そのものが欲しいんだ、紬」
刹那の言葉が、紬の心の奥底にあった氷の楔を溶かしていく。
「……私、このままで本当にいいのでしょうか。特別な瞳を持たない、ただの人間なのに……」
「ただの人間だからこそ、これほどまでに俺を狂わせる。……夜叉の俺をここまで無様にさせたのは、お前が初めてだ」
刹那は自嘲気味に笑うと、紬の唇を奪った。それは、呼吸すらも共有せんとするほどに深く、濃厚な口づけ。二人の心音が重なり、二人の力が共鳴し始める。
「紬。俺はお前の美しさに当てられ、愛し方さえ間違えていた」
刹那は紬の目を、まっすぐに見つめる。
「俺は、お前のその少し悲しげな灰色の瞳すら、狂おしいほど愛おしいと思っているんだ」
彼は再び、紬の灰色の瞳に羽が触れるような優しい口づけを落とした。その温かさに、紬の目から涙が溢れ出す。
「……怖かったのです。光を失った私は、また捨てられるのかと……誰からも、見てもらえなくなるのだと……」
「そんなことは、断じてさせん。お前が暗闇に沈むなら、俺も共に沈もう。お前が笑えぬなら、俺が世界を変えてでもお前を守り抜く」
彼は紬の涙を指先で拭い、そのまま彼女に覆いかぶさった。これまでの強引な行為とは違う。彼女の反応を一つ一つ確かめるような、もどかしいほどに繊細な指先の動き。
重なり合う肌から、互いの心音が伝わってくる。
「紬……」
彼の低い声が、紬の鼓膜を甘く痺れさせた。
彼が熱い唇で彼女の首筋を辿り、鎖骨のくぼみに深く顔を埋めた。これまでは一方的に注がれていた力が、今は二人を包む温かな繭のように循環し始める。
「あ……刹那、様……っ」
紬が彼の広い背中に腕を回し、その漆黒の髪に指を絡める。彼女の胸に残っていた寂寥感が、彼の熱によって一つずつ塗りつぶされていく。
刹那は紬の腰を抱き寄せ、その肌に自身の力を直接注ぎ込むように愛でた。これまでの激しさとは異なる。支配が目的ではなく、守りたい、愛したいという剥き出しの心が、彼の指先から伝わってくる。
「あ……ぁ、刹那、さまぁ……。熱い、です……っ」
「もっと熱くしてやる。……明日の朝には、俺に関すること以外、何も思い出せぬようにしてやるからな」
刹那の漆黒の髪が紬の胸元に零れ、彼の赤い瞳が情熱に溢れる。彼は紬の指を一本ずつ絡め、手のひらをぴったりと合わせた。枷で繋いでいた時よりも、ずっと強く、逃れられない愛の絆。
二人の身体が溶け合う中、紬の灰色の瞳に、じわりと熱が宿った。
深い睦み合いの後。刹那は紬を腕の中に閉じ込め、彼女の髪を優しく撫でた。窓の外では、椿が二人の和解を祝うように一斉にその蕾を膨らませている。紬は刹那の腕の中に収まり、彼の優しい心音を聞きながら、心からの安らぎを感じていた。
「紬。……明後日、婚礼を挙げる。山中のあやかし、地の底の亡者、天の神々まですべてを呼んで、お前が唯一の妻であることを認めさせれやる」
「……私のような者が、本当に、刹那様の妻になってもいいのでしょうか?」
刹那は自分の角を彼女の額にコツンと当て、愉快そうに喉を鳴らした。
「不相応だと言うのなら、俺が世界を書き換えて、お前を最高位の神にでも据えてやる。……俺の横にいるのは、お前以外にあり得ない」
彼は紬の手を引き、自分の心臓の上に置かせた。
「お前は、あの日俺が拾い上げた時から、ずっと俺のものだ。……これからも、一生俺の隣にいてくれ」
「……はい、刹那様。私は、ずっとあなたのお側に……」
紬がふわりと微笑み、刹那も甘い笑みを浮かべて彼女を抱きしめる腕に力を込めた。




