第8話 王の逆鱗
地下の牢に、重苦しい沈黙が満ちている。刹那は蓮の言葉を胸に、紬の手首に食い込む黄金の鎖を解くべきか否か、葛藤の中にいた。いざ彼女を前にすると、鎖を解いた途端彼女がここからいなくなってしまうのではないかと、怖くなったのだ。
だが、その逡巡は、屋敷を揺るがす凄まじい衝撃音によって打ち砕かれた。
「——なんだ!?」
刹那が顔を上げた瞬間、結界が内側から爆ぜるような感覚が伝わってきた。屋敷の天井を破り、黒い稲妻と共に何者かが降り立ってくる。その者は、刹那と長年この山の覇権を争ってきた、西の最果てに住まう雷鬼・骸。
気高く冷徹な夜叉である刹那に対し、骸は暴力と略奪を好む下劣な雷鬼だ。骸は以前から、刹那が人間の娘を囲っているという噂を聞きつけ、それが伝説の虹色の瞳を持つと知るや否や、横取りする機会を虎視眈々と狙っていた。
刹那が氷のように端正な美貌なら、骸は灼熱の炎に焼かれた毒薬のような美しさを持っている。浅黒い肌に刻まれた稲妻の入れ墨、不適に吊り上がった口角、そして黄金色に濁った瞳。
「ふはっ、刹那! 貴様のようなスカした野郎が、こんな極上な宝玉を独り占めしようなんて、欲が深すぎるぜ!」
「骸……! 貴様、死にに来たか」
刹那の全身から、これまでにないほど禍々しい殺気が溢れ出だす。だが、骸は不敵に笑い、狙いすましたように紬の方へ右腕を伸ばした。骸の手から放たれた稲妻が、紬を繋いでいた鎖を焼き切る。自由になった紬の身体が、衝撃で投げ出された。骸はその細い腰を強引に抱き寄せ、彼女の灰色の瞳を覗き込む。
「あぁん? なんだ、輝いてねぇじゃねえかよ」
骸の指が、抵抗する力も残っていない紬の頬を乱暴に撫でる。
「おい、小娘。刹那のようなつまらぬ男に飼われるのは退屈だろう? 俺なら、お前を極限まで痛めつけて、恐怖と快楽でその瞳を最高の色に染め上げてやるよ」
彼は恐怖に震える紬のまぶたを無理やり指で開かせ、その至近距離で下卑た笑い声を上げた。彼女の喉が震え、掠れた声が出る。
「……やめて……っ、放して……」
「いい声だ、悪くない。楽しみがいがありそうだな」
身を捩る紬の抵抗を愉しむように、骸は彼女の首筋に鼻先を押し当て、大きく息を吸い込んだ。そしてその首筋を、獲物の味を確かめるように生々しく長い舌で舐め上げる。
「ひぅ……あぁ……!」
「あぁ……なるほど。夜叉の力に当てられて、ひどく甘ぇ匂いがする。刹那の野郎に、よっぽど酷い飼われ方をしていたのか?」
不快な湿り気と、獣臭が紬の鼻を突く。卑猥な感触が肌を這い回るたび、紬は激しい嫌悪感で胃の底がせり上がるのを感じた。骸の手が紬の着物の合わせ目に指をかけ、白い肩を強引に剥き出しにする。
骸は嘲笑いながら、紬の鎖骨に鋭い牙を立てる寸前まで顔を埋め、執拗に彼女の匂いを嗅ぎ、弄ぶ。
「お前、俺のところに来い。俺なら、こんな鎖じゃなく、もっと気持ちいい悦楽で縛ってやるぜ」
紬の白い肌を骸の指先が辿るたび、彼女の全身は震えた。
彼女の瞳から涙が零れた、その瞬間。
「——その汚い手で、彼女に触れるな」
地獄の底から響いたような、低い低い声が骸の手を止めた。刹那の背中から、漆黒と深紅が混ざり合ったような巨大な翼が展開される。屋敷の石壁が彼の力で粉々に砕け散り、空気が激しく振動した。
「骸。貴様を殺すだけでは足りん。一族郎党、貴様の領地の土一粒に至るまで焼き尽くしてやる」
刹那の動きは、雷鬼である骸ですら反応できない速度だった。刹那は一瞬で間を詰めると、骸の腕をその根元から素手で引き剥がさんばかりに掴みかかる。
「ぎ、ぎゃあぁぁっ!? 貴様、正気か! この娘ごと殺す気か!」
「紬に傷一つ付けはせん。だが、お前はここで終わらせる」
刹那の瞳は、もはや赤黒く染まっていた。彼は骸を壁へと叩きつけ、その旨を刃で貫く。だが、刹那の攻撃はそこで終わらなかった。彼は骸の存在そのものをこの世から抹殺しようとするかのように、狂気に満ちた猛攻を繰り返した。
「刹那様……っ、止めてください……!」
紬の震えた声が刹那の耳に入る。骸を嬲り殺そうとしていた刹那の動きが、ぴたりと止まった。
彼は血飛沫を浴びた顔でゆっくりと振り返る。そこには、震えながら自分を見つめる、今にも消えてしまいそうな紬の姿があった。
「……紬……」
刹那は足元で虫の息になっている骸をゴミのように放り投げ、紬へと歩み寄る。
「……紬。すまない。怖かったな、もう大丈夫だ……」
彼が、いつものように紬を抱き上げようとしたその時だった。
紬の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……もう、嫌です……っ」
それは、か弱く、傷ついた人間の娘の、生身の叫び。
「呪いの子だと罵られるのも……道具として扱われるのも……もう、耐えられません……。私を……一人の人間として、見てくれないなら……いっそあなた様の手で、殺してください……!」
紬は、着物の裾を握りしめ、地面に突っ伏して慟哭した。これまで虹色の瞳の重みを抱え、夜叉の寵愛に応えようと必死に背伸びをしていた彼女が、初めてその仮面を脱ぎ捨てて「ただの紬」として、刹那の前で泣きじゃくった。
刹那はその場に立ち尽くす。彼女の目が輝いているかどうかなんて、今の彼にはどうでもよかった。
目の前で泣いている彼女の震えが、今にも消えてしまいそうなほど小さい。愛おしく、そして守るべきものだと、彼は初めて魂の底から理解したのだ。
「……紬」
刹那は膝をつき、血のついた手を自分の着物で何度も拭ってから、そっと彼女を抱き寄せた。泣きじゃくる幼子をあやすような、不器用な優しさに満ちた抱擁。
「瞳の輝きなど、どうでもいい。……お前が、生きていてくれさえすれば……俺には、それだけでいいんだ」
その言葉が、紬の冷え切った心の奥底にある氷を、優しく溶かしていった。




