第6話 鏡合わせの孤独
あの夜の会話を聞いてから、私の心は死んだ。刹那様にとって、私は彼の力を増強させるただの器に過ぎない。そう確信した日から、彼に触れられるたびに、私の身体は裏切られたことによる悲鳴を上げるようになった。彼が優しく微笑むほど、その裏にある冷徹な計算を想像して、呼吸が浅くなる。
「……紬。どうした、手が震えているぞ」
ある夜、寝室で私の髪を撫でようとした刹那様の手を、私は反射的に振り払ってしまった。パチン、と乾いた音が静寂に響く。
刹那様の赤い瞳が驚愕に見開かれ、次の瞬間、今までに見たことのないほど冷たく沈んだ。
「……触れられるのが、嫌か」
「あ……っ、申し訳、ございません……。ただ、少し、体調が……」
私は逃げるように視線を伏せる。本当は、「私の身体ではなく、目を見ているのでしょう?」と叫びたかった。刹那様はしばらく無言で私を見下ろしている。その圧迫感に押し潰されそうになった時、彼は低く、突き放すような声で告げた。
「……ならば、好きにしろ。お前が望まぬことを強いるほど、俺は飢えてはいない」
刹那様は立ち上がり、私を一度も見ることなく部屋を出て行った。言い知れない虚無感が、心を満たす。彼を呼び止めたいと思ったけれど、手は宙を切っただけだった。
それ以来、刹那様は私の部屋に来なくなった。
数日が経ち、その期間は一週間、二週間と伸びていく。刹那様は以前のように私を抱きしめることも、私の瞳を見ようとすることもなくなった。私にとってはこれが、役立たずの道具を物置に放り込むようなものにしか思えなかった。
私たちの間にあった熱い時間は、嘘のように消え去った。刹那様は私に触れなくなった。食事の際も、廊下ですれ違う際も、彼は私に鋭い視線を向けるだけで、一言も発しない。
力を吸い取られることがなくなった私の身体は、どんどん重くなっていく。彼との触れ合いによる共鳴が途絶えたことで、私の左目は不安定になり、時折、視界がチカチカと不気味に点滅するようになった。
(……触れていただけないことが、こんなに苦しいなんて)
触れ合わなければ、共鳴も起きない。共鳴が起きなければ、私の虹色の瞳は輝きを増すこともない。会話が冷え、温かさを失った日々の中で、私の心は急速に冷え切っていく。私は彼の道具ですらなくなったのだという恐怖が、毎夜私を襲う。
食事は相変わらず豪華だった。けれど、一人で食べるそれは、かつて村で食べた食事よりも味気ない。温かい味を、知ってしまったから。刹那様は時折、遠くから私を見つめていることがある。しかし目が合うと彼はすぐに視線を逸らし、去っていった。
◇ ◇
一方、刹那は自室で、荒れ狂う自らの力を抑え込むのに必死だった。紬に拒絶されたあの日から、彼の渇きは限界に達している。虹色の光による共鳴が途絶え、溜まり続ける力が己の肉体を内側から焼き、理性を削り取っていく。
「……刹那様、無理をなさらず。貴方様のお力があれば、屈服させれば済む話でしょう」
蓮の進言に、刹那は殺気を込めた視線を向けた。
「黙れ。……俺が欲しいのは、怯えて膝を折る人形ではない。あの娘が、自らの意志で俺を見つめるその瞳だ」
刹那は、彼女がなぜ急に心を閉ざしたのか、その理由が分からず苛立っていた。
大切にしている。誰よりも贅沢をさせ、守っている。それなのに、なぜ彼女はあんなにも悲しそうに俺を見るのか。
紬の、あの怯えたような、何かを諦めたような目が脳裏に焼き付いて離れない。何か不満があるのなら、言葉にすればいい。欲しいものがあるなら、求めればいい。だが、彼女は何も言わず、ただ静かに、刹那の手が届かない深淵へと沈んでいく。
「何が足りない……。何を与えれば、お前はまた俺の腕の中で、あの輝きを見せるのだ」
刹那の問いに答える者はいない。王として君臨し、力で全てを従わせてきた彼にとって、彼女が自分から離れようとする事実がどうしても理解できなかった。
焦燥に駆られた刹那の魔力が、ついに部屋の机を粉々に粉砕した。
◇ ◇
鏡に映った自分の左目。そこには、歪に明滅し、今にも消え入りそうな弱々しい虹色があった。
この目のせいで、私は村を追われた。この目のお陰で、刹那様に救われた。この目のせいで、私は刹那様に器として扱われる。この目のお陰で、刹那様の寵愛をいただけた。
これがあるから、私は捨てられない。これがあるから、私は本当の姿を見てもらえない。
この目さえ、なければ——。
「……こんな目、なかったらよかったのに。これさえなければ、私はただの人間として……」
私は、鏡のそばにあった綺麗な簪を手に取る。この目を潰してしまえば、刹那様は、道具ではない「私」を見てくれるだろうか。
狂気に近い思考に支配され、私は震える手で、簪の先端を自分の左目へと突き立てようとした。
その瞬間。
「何をしているっ!!」
凄まじい風圧と共に扉が吹き飛び、刹那様が部屋に飛び込んできた。彼は一瞬で私の手首を掴み上げ、簪を床へ叩きつける。
「正気か!? お前、その瞳に、何をしようとした……!」
刹那様は私の肩を激しく揺さぶり、私の虹色の瞳を食い入るように凝視する。
「傷一つ付けてみろ。この俺は、絶対に許さぬ。この輝きが、どれほど貴重なものか分かっているのか!?」
刹那様の手は震えている。それは、紬という一人の娘を失う恐怖ではなく、彼が追い求めてきた至高の宝石が損なわれていることへの焦燥に見えた。
「……ああ、やっぱり」
私は、力なく笑った。彼は真っ先に、私を案じてくれたのではない。真っ先に、私の瞳を案じたのだ。
「刹那様にとって、私はやっぱり……この目があるから価値があるだけの、器なのですね」
「……何だと?」
私の頬を、熱い涙が伝い落ちる。愛されているという最後の希望。それが今、彼の怒りによって粉々に打ち砕かれた。
「もういいです。……疲れました」
その時だった。あふれんばかりに輝いていて左目の虹色の光が、すぅ……と熱を失うように引いていく。鏡から微かに見えていた、宝石のようだった私の瞳は、光を通さない濁った灰色の石へと変わる。
「……なっ!? 光が……消えた……?」
刹那様が、愕然とした表情で私を見つめる。私は、もう何も感じなかった。
(……役に立たなくなった私を、早く殺してください)
そう願うように目を閉じると、ただただ冷たい沈黙が二人を包み込んだ。




