第5話 虹の瞳、夜叉の心
村人たちとの騒動があってから数日が経ち、私の生活はまるでお伽噺のような輝きに満ちていた。朝は小鳥のさえずりと共に、最高級のお香が漂う部屋で目覚める。刹那様が用意してくださる豪華な食事、宝石をちりばめたような着物、そして何より、彼から注がれる熱。
目覚めるたびに、部屋には新しい贈り物が増えていた。ある日は、南方の海でしか採れないという真珠を繋ぎ合わせた首飾り。またある日は、天女の羽衣のように薄く、触れるだけで熱を帯びる不思議な織物。小鬼たちがうやうやしく私の髪を解き、最高級の椿油で磨き上げる。鏡の中に映るのは、村にいた頃の影など微塵もない、どこかの国の姫君のような姿だ。
(……これは、本当に私なの?)
着飾れば聞かざるほど、私の中の「紬」が消えていくような気がした。刹那様は私を宝だと仰ってくれる。けれど、その宝の価値は、私が私であることではなく、この左目に宿る光にあるのではないか。贅沢な食事も、美しい衣も、すべてはこの目をより強く、より鮮やかに輝かせるための手入れに過ぎないのではないか——。そんな考えが、冷たい氷のように心に溜まっていく。
「……紬。またそんな、夢見心地な顔をして」
屋敷の縁側。私の後ろから伸びてきた白い手が、ゆるりと私の腰を抱き寄せた。
振り返らなくてもわかる。白檀の香りと、少しだけ高い体温。刹那様だ。
「申し訳ありません。あまりに幸せで、時々怖くなってしまうのです」
「馬鹿なことを。お前を怖がらせるものなど、この俺がすべて滅ぼしてやると言っただろう」
刹那様は私の首筋に鼻先を寄せ、深く息を吸い込む。彼の角が私の頬をかすめるたび、心臓が跳ねた。彼はそのまま私の顎を指先で持ち上げ、熱っぽい視線で私の「左目」を覗き込む。
「……美しい。今日も、最高の輝きだ」
その言葉に、私は微笑み返した。……けれど、胸の奥で小さな棘がチクリと刺さるのを感じた。
(刹那様が求めているのは、この虹色の目……)
彼が私を抱きしめる時、彼の視線はいつも私の左目に注がれている。彼が私の力を吸い上げ、恍惚とした表情を浮かべる時。そこにいるのは「紬」という一人の娘ではなく、ただの便利な存在なのではないか。
そんな不安が、毒のように心に広がり始めた。
刹那様は、暇さえあれば私を側に呼び、その長い指で私の左目の周りをなぞった。
「今日もいい光だ。紬、もっと俺を見ろ。その瞳の奥まで、俺の力で満たしてやりたい」
彼に抱き寄せられる時、彼が見ているのは私の心ではなく、常にこの虹色の瞳。彼が甘い表情で私の首筋に牙を立てる時、私の身体を通じで彼の力が増幅され、屋敷全体が震えるほどの力が溢れ出す。
それでも、彼が私のもたらす力を愛してくださっているからなのか。刹那様と過ごす時間は、甘い蜜に浸されているようだった。けれど、ふとした瞬間に、胸の奥が冷えるのを感じる。
彼が私の頬を撫でる指先が、必ず左目のまぶたの上で止まる時。彼が「美しい」と囁く時、その視線が私の視線と重ならず、その奥にある光だけを見つめていると気づいた時。
「……そんなに、この目は珍しいのですか」
思わず零れた言葉に、刹那様は私の耳たぶを甘く噛みながら答えた。
「珍しいどころではない。この光は、俺の力を最も純粋な形で増幅させる。お前を抱いていると、俺自身が神にでもなったかのような全能感に満たされるのだ」
刹那様は美しい微笑を浮かべた。彼はその言葉に、一切の疑問も抱いていない。これ以上出過ぎたことを聞いて彼の気を悪くするのはだめだと思ったけれど、言葉を止められなかった。
「刹那様。もし……」
「ん?」
「もし、私のこの目が、ただの黒い瞳だったら。虹色の瞳なんて持たない、ただの人間だったら。その時も、刹那様は私を抱いてくださいますか?」
意を決して尋ねた問いに、刹那様は少しだけ眉を寄せる。
「なぜ、ありもしないことを考える。お前が俺の側にいる限り、俺の魔力がお前の瞳を枯れさせることなどない」
「そうではなくて……もしもの話です。ただの、光らない、濁った目をした私になっても、あなたは……」
「紬」
私の言葉を断ち切るように、刹那様が私の名を呼んだ。
「お前は、その瞳も含めて『紬』だろう。翼を失った鳥を鳥と呼べるか? 角を失った鬼を鬼と呼べるか? お前の価値は、その瞳と不可分だ」
刹那様にとって、これは「お前の一部である瞳を肯定している」という最大級の賛辞だったのかもしれない。しかし、人間の私にとって、これは「瞳がなければお前に価値はない」という宣告に近しかった。
「……そう、ですね。そうでした」
私は力なく微笑み、彼の胸に顔を埋めた。見上げた刹那様の横顔は、残酷なまでに美しく、そしてどこまでも遠い。
彼はこの目が欲しいのだ。村人たちが私を求めたのと、本質的には同じなのかもしれない。ただ、刹那様の方が圧倒的に優しく、美しく、私を大切に扱ってくれるというだけで。
「紬。なぜそんな、消えてしまいそうな顔をする」
刹那様の声が低くなる。機嫌を損ねてしまったのだろうか。私は笑みを浮かべて首を振るが、彼は私の手を握り、そのまま寝所へと私を誘った。
「夜は長い。お前のその不安も、俺の魔力で塗りつぶしてやろう」
寝台に押し倒され、彼に覆いかぶさられる。刹那様は虹色の瞳を、むさぼるように見つめた。
「ああ……いい。お前の心が揺れるたび、瞳の光が乱れて、俺をさらに狂わせる」
彼は私のまぶたに、頬に、そして唇に、激しく口づけを落とす。首筋に牙が立てられ、熱い力の奔流が体中を駆け巡る。
その夜。刹那様の愛撫はいつも以上に激しかった。
彼が左目に唇を寄せる。その瞬間、視界が弾けるような光に包まれ、強烈な力の波が脳を焼いた。
「っ、ぁ……刹那、様……!」
「逃がさん。お前のその光は、俺をどこまでも強くする。もっとだ、もっと俺にその輝きを寄越せ」
彼の熱い吐息と、首筋を貫く牙の感触。力が通い合う快感の中で、私は彼と一つになっていると感じる。けれど、瞳が輝けば輝くほど、彼との間に見えない壁が立ちはだかるような気がしてならなかった。
彼は私の名前を呼ぶ。その声は目の前の女を呼んでいるのか、それとも至高の力を賞賛しているのか。
「……刹那様、苦しいです……」
「そうだろうな。俺の力に耐えられる人間など、お前しかいない。お前は俺のために生まれてきたのだ、紬」
彼の腕の中で、私は涙をこぼした。彼はその涙さえも「美しい」と言って、愛おしそうに唇で掬い上げる。
愛されている。確かに、私は彼に求められている。それなのに、私の心は冬の夜のように冷え切り、震えが止まらなかった。
私は彼の広い背中に爪を立て、必死にしがみついた。たとえ、彼が愛しているのがこの目だけであっても。この快楽の中で、彼に必要とされている瞬間だけは、私は孤独ではないのだと自分に言い聞かせた。
(いつか、この目が光を失ったら……あなたは私を、捨ててしまうのでしょうか)
◇ ◇
夜。喉の渇きを覚えて中庭へ出た私は、離れの奥から漏れる低い話し声を聞いた。
一つは刹那様。そしてもう一つは、彼の右腕として山を統括する、漆黒の翼を持つ鴉天狗、蓮様の声だった。
「……刹那様。彼女の調子はいかがですか」
蓮様の問いに、私は息を止めて足を止めた。聞いてはいけないことだと頭で分かっていても、耳をそばだててしまう。
「順調だ。予想以上に俺の魔力と馴染んでいる。……あれだけの光を放つ個体は、千年に一度の掘り出し物だろう」
刹那様の声は、私と二人でいる時のような甘さは微塵もなく、冷徹な王そのものの響きだった。
「それは重畳。あの虹色の目さえ完成すれば、貴方様の悲願である結界の完全修復も、周辺のあやかし共の制圧も、容易いこと。……逃げられぬよう、しっかり繋ぎ止めておかねばなりませんな」
「案ずるな。あれはもう、俺なしでは生きられぬよう調教してある。……光を失わぬ限り、俺が離すことはない」
調教。光を失わぬ限り。
その言葉が、私の心臓を氷の楔で貫いた。
やっぱり、そうだったのだ。私は彼にとって、力を増幅させるための便利な道具に過ぎない。逃げ出さないように甘い言葉を与え、贅沢をさせ、飼い慣らされているだけ。
……どうやって自分の部屋に戻ったのか、記憶がない。気づけば私は、豪華な絹の布団の上で、自分の体を抱いて震えていた。鏡の中に映る私の左目は、今もなお虹色に輝いている。この忌々しい、美しい光。
(……もし、私の目が光らなくなったら? 役に立たなくなったら?)
刹那様のあの冷たい声が、頭の中で何度も反芻される。
『光を失わぬ限り、俺が離すことはない』
裏を返せば、光を失えば用済みだということだ。村の人々が私を崖から突き落としたのと、何が違うのだろう。ただ、殺すか、飼い殺すかの違いでしかない。
「……あ、あぁ……」
声にならない悲鳴が漏れる。明日、また彼が優しい顔をして私を抱きしめる時、私はどんな顔をすればいいのだろう。愛されていると思っていたのは、私ひとりだけの独りよがりな幻想。私は、鬼の王が最も大切にしている人形の一つに過ぎなかったのだ。




