第3話 椿の庭と、悪夢の再来
鬼の山の朝は、麓の村とは全く違っていた。どんよりとした曇り空ではなく、見たこともないほど澄み渡った瑠璃色の空が広っている。
刹那様の屋敷の裏手には、別世界のような庭園が広がっていた。庭園の中央には、樹齢千年以上はあろうかという巨大な椿の老木がそびえ立ち、季節外れだというのに血のような深紅の花弁を惜しげもなく咲かせている。その根元からは透き通るような清流が流れだし、小さな池には金色の鯉が優雅に泳いでいた。
小石が敷き詰められた小径を歩くと、履物の裏から心地よい音が響く。どこからか、綺麗で少しだけ物悲しい笛の音が聞こえてきて、私の心は初めて「美しい」という感情に満たされた。
「こんなにも美しい場所が、この世にあったなんて……」
指でそっと椿の花弁に触れると、絹のような滑らかさ。私は、しばらく椿の美しさに目を奪われていた。
「ほう。随分と良い顔になったな」
背後からかけられた声に、肩が跳ねる。振り向くと、刹那様が縁側に腰を下ろし、長い脚を組んでこちらを見ていた。漆黒の髪が風に揺れ、彼の白い肌と赤い角を際立たせている。相変わらず、心臓が止まりそうなほどお美しい。
「刹那様……。お召し物、ありがとうございます。こんなに立派なものをいただいたのは、初めてです」
「ふん。お前は俺のものだ。その辺の雑草のような恰好でいられたら、俺の品位にも関わる」
刹那様が私に与えてくださったのは、沈香色の地に、銀糸で流れる水と夜桜が刺繍された小袖だった。一針一針に不思議な力が込められているのか、袖を通した瞬間、凍えていた肌が内側からじわりと熱を帯びる。帯は深紅の繻子で、背中の結び目はまるで翼のように優雅な曲線を描いていた。
「……こんなに美しいものを、私が着てもよいのでしょうか」
「不相応だと思いたいなら、俺の隣に立つのにふさわしい女になる努力をしろ。……この着物はお前を守る盾だ。俺の力を纏っていると思え」
その言葉に、胸が熱くなる。突き放すような物言いだが、その瞳は私の左目——虹色の瞳をじっと捉えて離さない。
刹那様は私を手招きした。私が恐る恐る近づくと、彼は私の腰を引き寄せ、無理やり自分の膝の上に座らせた。
「きゃっ……!?」
「動くな。……お前の瞳を、日の光の下で見たかった」
至近距離で、彼の赤い瞳が私の虹彩を覗き込む。
光を浴びた私の左目は、屋敷の中よりも一層激しく、七色の火花を散らすように輝いているのだろうか。その光に当てられた刹那様の呼吸が、わずかに荒くなる。ドキドキと高鳴る鼓動を聞いていると、刹那様はふと目を和らげた。
「……そんなに庭が珍しいか」
彼の声は低く、どこか楽しげな響きを帯びている。私が頷くと、彼はいっそう私の腰をぐいと引き寄せ、まるで抱き人形のように私を抱きしめる。彼の腕の中にすっぽりと収まり、背中には彼の硬い胸板の感触。心地よい、彼の規則正しい心臓の音が聞こえてきた。
「お前が喜ぶ顔を見るのは、案外悪くない」
刹那様は私の長い髪を指で梳き、その毛先を自分の白い頬に擦り付けた。彼は私の顎をくいっと持ち上げ、その赤い瞳で私の虹色の瞳を覗き込んだ。
「お前の瞳は日の下で見ると、まるで生きた宝石のようだ。……俺の力を受け入れたからか、以前よりもずっと鮮やかに輝いている」
私の左目が、彼の言葉に呼応するように、七色の光を激しく瞬かせた。彼の顔が近づき、その冷たい角の先が私の額をかすめる。
「……ああ、やはり。お前の瞳が強くなった。俺の力にお前が適応し始めている証拠だ」
彼の大きな手が、私の頬を包み込む。冷たい指先が耳元に触れ、そのままうなじを愛撫された。彼に触れられるたび、私の左目は彼を求め、勝手に光を増していく。まるで、私の身体そのものが、彼の力を求めてるかのように。
その時だった。
屋敷の中の空気が、不自然に揺らいだ。
「……ちっ。不愉快な羽虫どもが、わざわざ死にに来たか」
刹那様の声から温度が消えた。彼が指を鳴らすと、庭の虚空に鏡のような映像が浮かび上がる。そこには、松明を手にし、卑しい笑みを浮かべて強欲な目を光らせた村の男たちが映っていた。
『おい、本当にあの娘は生きているのか?』
『ああ、間違いない。崖下に死体はなかった。それどころか、あの娘を突き落とした途端に、村の枯れ井戸から水が溢れ出したんだ!』
鏡越しに聞こえる声に、全身が凍り付くのを感じた。村長、両親、そして私の許嫁だった男。
『あの目は鬼を呼ぶんじゃねえ。鬼を従えて、幸運を絞り出すための生贄だったんだ』
『あの女をもう一度突き落としたら、村に再び祝福が与えられるに違いない』
彼らの言葉に、許嫁だった男が、唾を飛ばしながら身を乗り出した。
『あの女は村の共有物だ。あんな上等な道具、鬼なんかにくれてやるのはもったいねえ。連れ戻して、地下室に繋ぎ直して、何度も突き落して。一生村のために尽くさせたらいい。……ああ、ついでに俺の嫁にして、同じ目をした子を産ませるのも悪くねえな。あいつ、顔だけは悪くなかったから』
彼らの中には、かつて私を「呪われた子」だと罵り、石を投げた者たちもいる。自分たちが私を殺そうとした事実など、彼らの脳内からは綺麗さっぱりと消え失せているのだろうか。
「刹那様……私、私は……!」
「怯えるな、紬。……俺がお前に教えたはずだ。ここは鬼の山。人間の理屈など通用しない場所だとな」
刹那様は私を膝から降ろし、ゆっくりと立ち上がった。その背中から、今までよりも遥かに強大で、禍々しいまでの魔力が立ち上る。しかしそれを、不思議と怖いとは思わなかった。絶対に私を傷つけないと、分かったからだろうか。
「あいつらは、お前を道具としてしか見ていない。だが俺は、お前という存在そのものが、狂おしいほどに欲しい。……どちらがお前を大切にしているか、見せてやろう」
刹那様は私の手をとり、指を絡めた。その瞬間、左目から見える景色が強烈な光を放つ。刹那様の力がさらに純化され、爆発的に増大した。
彼はそのまま、私の唇を塞いだ。深く、喉の奥まで暴かれるような口づけ。
「……ん……ぁ、刹那、様……」
彼の指が私の髪に絡まり、頭を固定される。永遠にも感じられるような時間が流れ、顔を離した刹那様は妖艶な笑みを浮かべた。
「お前を傷つけた連中がどのような末路を辿るか。特等席で見せてやる」
刹那様の不敵な笑みが、残酷なまでに美しい。私は彼の手を強く握り返した。




