第2話 夜叉の毒は蜜の味
深い闇の中、パチパチと爆ぜる火の粉の音で目が覚めた。鼻をくすぐったのは、かび臭い土の匂いではなく、清冽な白檀と、どこか異国の花を思わせる甘い香りの混じり合った芳香。私の身体が触れているのは、ざらついた筵ではない。沈み込むほどに柔らかな寝具と、肌を滑る水のようになめらかな絹の感触。天窓から差し込む光は地下室の弱々しいものとは違い、色鮮やかな影を床に落としている。
「……ここは?」
身を起こそうとして、自分の肌を滑る生地の感触に驚く。着古してボロ布のようだった着物は脱ぎ捨てられ、代わりに触れるだけで指が滑るような、極上の絹の寝巻きを纏っていた。
「目が覚めたか」
部屋の隅、影に溶けるように座っていた人影が動いた。陶器のように美しい角を持つ男性——刹那様だ。
彼は手にしていた銀の杯を置き、音もなく近づいてくる。明かりに照らされたその美貌は、昨夜の霧の中で見た時よりも一層現実離れしており、私は思わず息を呑んだ。
「刹那、様……。私は、なぜ」
「なぜ、とは? 死に損なったお前を俺が拾った。それ以上の説明が必要か」
刹那様は私の枕元に腰を下ろすと、長い指先で私の左目を覆う布——いつの間にか巻かれていた眼帯のようなもの——をなぞった。
「お前のその瞳は、無防備に晒すべきではない。……俺以外のものに、余計な魔力を分け与える必要はないからな」
彼の言葉には、保護というよりも独占に近い響きがある。私の心臓は、緊張と微かな恐怖で大きく拍動した。
刹那様がパチンと指を鳴らす。すると部屋の扉が開き、小さな鬼たちが大きな膳を運んできた。
運ばれてきたものを見て、私は目を疑った。真っ白に炊き上がった米。脂の乗った焼き魚。彩り豊かな山菜の煮浸し。村ではお祭りの時ですらお目にかかれないような、豪華な食事が並んでいる。
小鬼たちが運んできた膳を前に、私の手は震えた。私の今までの食事は、いつも腐りかけた野菜の屑や、石のように硬い稗の粥だった。それすらも、家族が食べ終えた後に「お前にはこれで十分だ。与えてやるだけ感謝しろ」と言い捨てられて与えられるもの。冬の朝などは、凍りついた残り物を、奥歯が欠ける思いで嚙み砕いた記憶しかない。
けれど、目の前にあるのは……。湯気を立てる真っ白な米は、一粒一粒が真珠のように輝いている。焼き魚の皮目は香ばしく、滴る脂が食欲を刺す。
「食え。お前はあまりに細すぎる。俺の獲物が飢え死にされては目覚めが悪い」
「えっ、でも、私のような者がこんな……」
「命令だ。……それとも、俺に口移しで食わせてほしいのか?」
刹那様の赤い瞳が妖しく光り、私は慌てて箸を取った。
一口、米を口に運ぶ。噛みしめるたびに広がる、生命力そのもののような甘み。 そして、温かい。
(……こんな、おいしいもの、私なんかが食べていいはずが……)
これは単なる栄養ではなく、刹那様からの慈悲そのものだった。空っぽだった胃だけでなく、カサカサに乾ききっていた私の心まで、温かな出汁の味が満たしていく。私は逃げるように、その温もりを呑み込んだ。
「おいしい……。おいしいです、刹那様……」
気づけば、涙がポロポロと膳の上に落ちていた。刹那はそれを見て、忌々しそうに眉を寄せたかと思うと、乱暴に私の涙を指で拭った。
「泣きながら食うな。味が落ちるだろう。……お前がこれまで何をされてきたかは知らんが、ここは鬼の山だ。人間の理屈など通用しない。俺が食えと言えば食い、寝ろと言えば寝る。笑えと言えば……」
そこで刹那様の言葉が止まった。彼はじっと私の瞳を見つめ、熱のこもった声で呟く。
「……いや、無理に笑う必要はない。お前の瞳がより輝くのは、恐怖の時か、それとも——」
刹那様の手が私の首筋に回り、ぐい、と顔を引き寄せられた。彼の長い漆黒の髪が私の頬に触れ、冷たい角の先端が額をかすめる。至近距離で見る彼の顔はあまりにも整いすぎていて、見るだけで眩暈がした。
そして彼が近づくだけで、私の本能は獲物のように竦み上がる。しかし同時に、どうしようもなく彼を求めてしまうのだ。
「紬。お前はまだ、自分の価値を知らない。その瞳が、俺にどれほどの快楽を与えるかを」
彼は私の眼帯をそっと外した。閉じていた左目を開くと、刹那様の姿が七色の光を帯びて見える。
その瞬間、彼の体から黒い力の波が溢れ出し、部屋中の空気が震えた。彼の白磁のような肌に、赤い雷のような文様が浮かび上がる。
「っ……、刹那様、苦しい……!」
「耐えろ。これが共鳴だ。お前が俺を見れば見るほど、俺の力は増幅される」
刹那様は恍惚とした表情で、私の首筋に顔を埋めた。鋭い牙が、柔らかい皮ふを薄く裂く。その後には、甘い痺れが身体中に広がった。身体から何かが吸い取られていく。それは、今までに感じたことのないほど強烈な、「必要とされる感覚」だった。全身から力が抜け、私は彼の広い胸の中に崩れ落ちる。
「あ……ぁ……」
「いい声だ。……奴らはこれを呪いと呼んだのか? 愚かな。これは神の奇跡だ」
彼は私の首筋を舌で愛撫すると、満足げに微笑んだ。その笑みは、まるで大切な玩具を手に入れた子供のようでもあり、愛しい恋人を慈しむ男のようでもあった。
「いいか、紬。お前を捨てた世界に、もう居場所はない。お前を愛し、お前を使いこなせるのは、この世で俺一人だけだ」
彼は私の手を握り、指一本一本に口づけを落とす。彼の赤い瞳が私の瞳の奥まで暴くように見つめた。
「食え。そして太れ。……お前の血が俺のものと混じり合い、至高の蜜へと変わるその日まで、俺が丹念に育ててやる」
彼の吐息が唇にかかる。甘い香りがして、頭がくらくらした。
「明日からは、庭にある椿の園へ連れて行ってやろう。そこでお前の瞳を、より美しく磨き上げてやる」
私は、その熱い抱擁の中で、生まれて初めて「自分の居場所」を見つけた気がした。たとえ彼が恐ろしい夜叉であっても。この甘い毒に溺れるのなら、それも悪くない——そう思ってしまったのだ。
窓の外では、鬼の山を支配する紫の霧が、月光に照らされて美しく渦巻いていた。




