第10話 永遠の誓い
山全体が、かつてない高揚感に包まれていた。あやかし達が住まう森には数万の提灯が灯され、空には精霊達の放つ燐光が花火のように弾けている。今日は、鬼の王である刹那と、その妻となる紬の婚礼の儀。参列するのは、山のあやかし達だけではない。刹那の威光に平伏する各地の鬼の首領や、天界の使いまでもが、この奇跡のような婚儀を一目見ようと集まっている。
鏡の前に立つ私の姿には、もはや捨てられた娘の影など微塵もない。刹那様が用意してくださったのは、伝説の鳥の羽根と、月の光で織り上げたという真っ白な無垢。その白無垢は天女の羽衣のように軽く、それでいて月の雫で濡らしたようなしっとりとした真珠色の光沢を放っている。その裾には銀糸で精密な椿の刺繍が施され、私が一歩歩くたびに波打つように輝く。
背中から裾に流れるように刺繍された夜叉椿の文様は、特に私のお気に入りだ。純白の糸の中に刹那様の力が宿った紅の糸が混じっており、私の鼓動に合わせて椿の花びらが脈打つように、ほのかに赤く明滅している。それは、私が夜叉の所有者であり、同時に最も尊き半身であることを示す証。
一方の刹那様は、漆黒の剛糸で織られた重厚な狩衣に身を包んでいる。襟元には金色の龍の刺繍が施され、その瞳と同じ深紅の帯が腰を硬く引き締めていた。その裾には、私の衣装とお揃いの紅い椿の文様が刻まれている。とてもかっこよくて、美しい。
刹那様は私の側に歩み寄ると、私の手を優しく取ってくださった。
「……綺麗だ、紬。この世のどんな宝石も、お前の前では色褪せる」
「刹那様……。私、夢を見ているようです。こんなに幸せで、いいのでしょうか」
「夢ではない。これは、俺達がこれから築く永遠の、ほんの始まりにすぎん」
刹那様の顔には深い慈しみが焔のように揺らめいていて、私の胸は熱くなった。
◇ ◇
全種族が見守る誓いの儀式が行われるのは、山の頂に建つ天空の楼閣である。参列している者達は息を呑み、壇上へと進む私たちを見守ってくれていた。
刹那様は私の手を引くと、祭壇に捧げられた神酒を盃に注いだ。鬼の婚儀は血の契約に近いらしい。私たちは指先をわずかに切り、互いの血を盃に一滴ずつ落とすと、それを飲み干した。
「これで、お前の命は俺のもの。俺の魂はお前のものだ、紬」
刹那様は私の前に立って、厳かに宣言する。
「我が名は夜叉の刹那。この娘、紬を我が唯一の番とし、魂の最後の一欠片に至るまで、守り、愛し、慈しむことをここに誓う。彼女を害する者は、天の神であろうと血の底の悪鬼であろうと、俺がすべて滅ぼそう」
その力強い宣誓に、山全体が地鳴りのような歓声に包まれた。私もまた、まっすぐに彼を見つめ返す。
「私は、刹那様に命を救われ、心を与えていただきました。この命が尽きるまで、刹那様のお側にいることを誓います」
誓いの口づけを交わすために彼が私の腰を引き寄せると、婚礼衣装が衣擦れの音を立て、私たちの距離は吐息が重なり合うほどに縮まる。
刹那様はすぐに唇を重ねることはしなかった。彼はまず私の顎を長い指先で優しく持ち上げ、私の瞳をじっと見つめる。
「……あの日、お前を拾い上げた時から、俺はこの時を待ちわびていたのかもしれぬ」
刹那様の親指が、私の下唇をゆっくりとなぞった。じわり、と指から伝わる熱が私の身体を焦らし、吐息が漏れる。瞳が潤んだ。刹那様は私の羞恥で染まっているであろう表情を愛おしむように、わざと顔を近づけ、鼻先をかすめる距離で動きを止める。
「刹那……さま……」
焦がれ、誘うように彼の名を呼んだ瞬間。刹那様は我慢の限界を超えた獣のように、私の唇を深く、深く吸い上げた。
それは、誓いという名の儀式を超えた、所有の証。最初は羽が触れるような繊細な啄みだったが、私が彼の首に腕を回した時、接吻は飢えた情熱へと姿を変えた。刹那様の舌が私の唇の端を優しく割り、私の甘い吐息をすべて飲み込んでいく。
「ん……っ、ふ……」
深く、深く、魂を混ぜ合わせるような口づけ。刹那様の想いを象徴するように、彼は私の唇を噛むように強く、けれど慈しむように何度も角度を変えて繰り返された。
数秒、あるいは永遠にも感じられるような口づけが終わり、刹那様が名残惜しそうに唇を離した。
「……これで、お前は名実ともに俺のものだ。誰にも、指一本触れさせん」
刹那様の誓いの言葉と共に、祝福の咆哮が夜空へと響き渡る。
その瞬間、奇跡が起きた。
ずっと沈んでいた私の左目が、内側から激しい熱を帯び始めたのだ。一点から溢れ出した光は、かつての輝きよりも鮮やかで、世界が神々しく見える。
「……あ……!」
瞳から放たれた虹色の光が、天へと一筋の柱となって突き抜けた。それは空に巨大な七色の橋を架け、光で満たす。器としての輝きではなく、自らの意志で、愛する人のために輝きたいと願った、真の覚醒。
「……美しい。お前は、俺の最高の誇りだ」
刹那様は赤い瞳を優しく和らげて、左目のまぶたと私の唇に、深い深い接吻を落とした。
◇ ◇
婚礼の儀が終わり、私と刹那様は寝室へと向かった。刹那様は私を軽々と抱き上げると、寝台へと優しく横たえた。これまでも肌を重ねてきた私たちだけれど、今夜は違う。私たちが正式な夫婦として結ばれる、真の契りの夜だ。
「紬。……今夜は、眠らせないぞ」
刹那様の赤い瞳は、熱い情欲と限りない愛情に濡れている。彼はゆっくりと、一枚一枚、私の着物を脱がせていく。絹が肌を滑り落ちるたび、私の肌が露わになった。以前彼がつけた愛の刻印が淡く残っている。刹那様は、私の首筋に、鎖骨に、胸元に、愛おしそうに口づけを落とす。執拗に、そして慈しむように。
「あ……ん、刹那、さま……っ」
私の息が、甘く乱れる。刹那様の力が、肌から直接魂へと流れてくるような感覚。私たちの身体が、まるで最初からそうであったかのように重なり合った。
「あぁ……刹那、さま……。熱い、です……身体の奥が……」
「逃がさん。お前が俺の妻だということを、その骨の髄まで叩きこんでやる」
刹那様は、自らの角を私の額にそっと触れ合わせた。鬼にとって、角を合わせることは魂をさらけ出す行為に等しいと彼を聞いた。私には角はないけれど、私のすべてを彼にさらけ出したい。
刹那様の圧倒的な力と私の虹色の光が渦を巻いて交わり、寝室全体が淡い光に包まれた。刹那様の指先が私の秘めた場所を熱く突くと、私の身体は弓なりに逸れる。私は彼の漆黒の髪に指を絡めた。
「愛している……紬。お前の魂、お前の命、そのすべてが俺のものだ」
これまで以上に深く、激しい結合。刹那様の低い声が、私の悲鳴に似た嬌声を飲み込んでいく。刹那様は私の腰を抱き寄せ、その奥へと深く深く、彼のすべてを注ぎ込んだ。
睦み合うたびに私たちの境目は消え、一つとなって夜の静寂へと溶けていった。私たちの甘く熱い時間は、夜が明けるまで続いた。二度と離れないと誓うように、互いの身体と心を深く求め合った。
◇ ◇
それから、数年の月日が流れた。
山は今も、鬼の王である夜叉とその妻によって統治され、かつてない繁栄を見せている。村の人々が恐れた鬼の山は、今や神の宿る山として崇められ、麓には平穏な日々が流れていた。
屋敷の庭。一年中枯れることのない椿の園に、二人の姿はあった。刹那の膝の上で、紬が穏やかな笑みを浮かべている。彼女の左目は、時折、幸せを感じるたびにふわりと虹色に揺れる。
「刹那様、見てください。今年も椿が、あんなに赤く……」
「ああ。だがお前の頬の赤みには勝てんな」
刹那は紬の腰を引き寄せ、彼女の髪に顔を埋めた。かつて冷徹で、皆から恐れられていた鬼の王である夜叉は今、一人の人間の娘によって、誰よりも温かな心を知る王となっていた。
「愛している、紬。永久に、俺の隣にいろ」
「はい、刹那様。いつまでも、あなたと共に」
虹のかかる空の下、二人の幸せな笑い声が、春の風に乗ってどこまでも、どこまでも響き渡っていた。




