悪役令嬢にされかけたので成敗します
月光が差し込む王宮の舞踏会場では、貴族たちの笑い声と楽団の演奏が交錯し、華やかな雰囲気に満ちていた。
だが、誰もが心の奥で知っていた。この夜は、ただの社交では終わらない。
“王太子が、婚約者であるセレナ・ミルフォードに別れを告げる”という噂が、すでに水面下で広がっていたのだから。
主役であるセレナ本人にも、その気配は感じられていた。
だが彼女は、黙して舞踏会の中央に立っていた。
白銀の髪を肩に流し、紫水晶の瞳は微塵も揺れず、いつものように、ただ毅然としていた。
「セレナ・ミルフォード侯爵令嬢――」
突然、第一王子アルフレッドの声が空気を裂いた。
「我が婚約を、ここに解消する」
一瞬、音楽が止まった。
それが演奏の中断によるものなのか、誰かの命令なのか、あるいは空気の重みに楽団が圧されたのかは誰にも分からなかった。
ただその場にいた全員が、息を呑んだ。耳を疑った。視線を交わした。
そして一斉に、セレナを見た。
セレナは瞬きすらせず、ただ一言を返した。
「……理由を、お聞かせいただけますか?」
静かな、けれど空気を貫く声だった。
王太子の隣に立つ少女――リリー・ブランシュが、肩を小さく震わせた。
栗色の髪を揺らし、伏し目がちにセレナを見ている。
彼女はかつて平民の生まれだったが、子爵家に養子として迎えられ、今では「次代の王妃候補」とさえ噂されていた。
そして今、彼女こそが“セレナにいじめられていた”とされる当の本人である。
アルフレッドは苦しげに息を吐いた。
「……リリー嬢が、君に酷く扱われていたと証言している。侮辱、陰口、孤立――複数の使用人や関係者も、同様の証言をしている。これらが事実であれば、君は王太子妃としてふさわしくない」
ざわめきが走る。セレナは無表情のまま、その言葉を聞き届けた。
誰もが、彼女が動揺すると思った。否定し、弁明し、あるいは泣き崩れるのではと。
だが彼女は、たった一歩、前に出ただけだった。
「……証言というのは、どなたのものでしょう?」
「王宮の使用人たちだ」
「それらの証言書と、筆跡、および証人の身元を、確認させていただくことは可能ですか?」
再び、場がざわつく。
セレナの声音には、怒りも困惑もなかった。あるのはただ、確信と――冷ややかな静謐だけだった。
アルフレッドの顔に、わずかな動揺が走った。
それを見た貴族たちが、互いに囁き合う。
「……君は、自分に非がないと?」
問いかける王太子に、セレナはゆっくりと微笑んだ。
「ええ。そう信じておりますわ。むしろ、殿下が“今夜”このような場を設けてくださったことに、深く感謝申し上げます。まことに都合が、良い夜でしたから」
意味ありげなその言葉に、リリーが怯えたように目を伏せる。
アルフレッドもまた、胸騒ぎを覚えた様子だった。
セレナはくるりと踵を返すと、大扉の方へ軽く手をかざした。
扉が静かに開き、二人の人物が入ってくる。ひとりは王城付きの高位文官、もう一人は魔導院所属の鑑定士である。
「ご紹介いたします。こちらは第三魔導院の筆跡・真偽鑑定を専門とするミスト・グランフォード氏。
そしてこちらは王城記録室にて、文書の真正性を司る管理官、ロルフ・エルグレン氏です」
ざわめきが、波紋のように広がった。
“第三魔導院”――それは魔導国認定の五大機関のひとつであり、鑑定・調査に関する魔術と法令において最も高い権威を持つ場所だ。
その中でもミスト・グランフォードの名は、王都では知らぬ者はいない。王族の血縁鑑定や、過去に起きた歴史的文書の精査を手がけたことで有名な、いわば「生きた真実の証明人」である。
「ミスト氏は、王家直属の依頼にのみ応じることで知られております。今回、私の依頼を受けてくださったのは……“疑わしきは裁かれるべきではない”という、ご自身の信念ゆえですわ」
セレナの言葉が終わる前に、ミストが一礼し、口を開く。
「現在、王宮に出回っている三通の証言書……いずれも筆跡は一致しております。書き手は同一人物。
しかも、それは“リリー・ブランシュ嬢本人”の筆跡であると、鑑定の結果が出ております」
広間に、どよめきが走った。
「また、録音魔石には、被告発者である令嬢に罪をなすりつける意図が明白に録音されております」
次に、ロルフが記録文書を広げる。
「王宮内で用いられた紙の出自、日付の魔力反応、インクの調整痕跡――全てを照合した結果、文書は“事件が起きた”とされる時期より後に、密かに作成された偽造物であると断定されました」
その瞬間、リリーは膝をついた。
「違う……! そんなの……おかしいわ! 私は、ただ……!」
震える声で抗弁しようとするも、誰も彼女を助けようとはしなかった。
それどころか、周囲の視線は冷たく彼女を突き刺していた。
王太子アルフレッドは、顔を蒼白にしていた。
騎士のように信じ、守ると決めた相手が、実は誰よりも狡猾だったなどと――あってはならない失態だ。
ようやく彼が口を開く。
「……セレナ、私は……」
だが、その声は震えていた。王太子としての威厳も、気高さも、そこにはなかった。
セレナは、まるで見下すこともなく、その姿を正面から見つめる。
「殿下。私がここで泣き崩れると思っておいででしたか? 涙で許しを請うと? それとも、無実を叫び、足元に縋ると?」
彼女の声には、静かな怒りが宿っていた。
「残念ですわね。私は、“悪役”にされるほど、愚かではありませんの」
冷徹な沈黙が、場を支配する。
誰もが、彼女が“許すか否か”に注目していた。
「……改めて謝罪する。私は君を――信じるべきだった」
「謝罪は受け取ります。けれど、一度信用を落とした者が再びそれを得るには、相応の時間と労力が必要ですわ。ゆえに、私は“王太子妃”としての立場を、ここに辞退いたします。ミルフォード侯爵家の令嬢として、そしてひとりの誇り高き人間として、新たな人生を歩む所存です」
それは、王太子の隣に立つはずだった者の、優雅なる別れだった。
その夜を境に、リリー・ブランシュの名は、貴族社会から抹消された。
王宮から正式に偽証と偽造文書の罪を問われ、彼女は子爵家からも縁を切られ、平民として国外追放の処分を受けた。
社交界で彼女に肩入れしていた数名の貴族たちもまた、審問に呼び出され、権勢の一部を剥奪されたという。
セレナの処遇に関しては、王家から正式な謝罪文が送られ、ミルフォード侯爵家の威信はむしろ高まる結果となった。
王太子アルフレッドは、処罰こそされなかったが――
「見る目がなかった」という噂は止まる事がなかった。
そのせいか、社交界の舞踏会で、彼の隣に再び令嬢の姿が並ぶことは、しばらくなかった。