光の庭 ひかりのにわ
光の庭 ひかりのにわ
久しぶりだね。
三上未来がその透明なガラスで覆われたドーム状の建物の中に入ったのは、突然降り出した雨を避けるために、その場所で雨宿りをしようと思ったからだった。
最初は、入り口のところで雨が降り止むのを待つだけのつもりだったのだけど、雨はいつまでたっても止まずに、勢いも強くて、外にいてはどうしても髪や体や服の一部が濡れてしまうので、未来はそのドーム状の建物の周囲を屋根のある場所を移動して、ドアがある入り口のところまで移動した。
するとそこには『光の庭』の文字があった。
近くにある看板の文字を読んでみると、入場料は無料であることがわかった。なので未来は雨が止むまでの間、その植物園の中で、時間を潰すことにした。
未来は白いタオルを頭の上から移動させて手に持つと、そのままドアを開けて、植物園の中に移動をした。
すると、ドアを閉じるその瞬間、とても強い風が吹いて、少しだけ未来をびっくりさせた。
植物園の中は、突然雨が降り出した外の景色とはまったく違っていて、雨の音も聞こえず、とても静かな世界だった。
気温も保たれていて、未来の周囲にはたくさんの緑があった。
植物園にやってきたのは、初めてのことだったけど、案外良い場所なんだな、と未来は思った。
未来はここで、ただ雨がしのげれば良いと思っていただけなのだけど、せっかくだからと思って、(ただだし)雨の雫を白いタオルで拭ってから、この『光の庭』の中を見て回ることにした。
植物園の中は、大きなドーム型の温室の構造になっていて、その中に幾つかの大きさの違った、大中小の、丸い植物たちが植えられた九つの異なったコーナーがあり、その植物園の様子を描いた手書きの地図が、入り口の近くの看板に描いてあった。
未来はその地図を見て、順番に植物園の中の植物たちを観察していった。
雨の日の植物園の中には(こんなに素敵な場所なのに)人が誰もいなかった。それが少しだけ未来の心を不安にさせていた。
未来は三つの丸い植物のコーナーを見たあとで、中心にある、一番大きな丸い植物のコーナーのところに移動をした。
そこには休憩所のような場所があり、そこには自動販売機と、それから休憩用のベンチがあった。
「あ」
そのベンチのところを見て、未来は思わずそう声を出してしまった。
なぜならそこに、(誰もいないと思っていたのに)一人の未来と同い年くらいの男の子が、ベンチに座っていたからだった。
その男の子は声を出したことで未来のことに気がついて、ふっと顔をあげて未来を見た。
それが未来と涙との二人の初めての出会いだった。
「こんにちは」と涙は言った。
「あ、……こんにちは」未来はそう言って涙に頭を下げた。
(それが二人の交わした初めての会話だった)
未来はそのまま涙の座っているベンチのところまで移動をした。大きな植物園の中心にある丸いコーナーの前にはベンチが二つと自動販売機。空き缶用のゴミ箱。そして四角いガラスの箱のような形をした緑色の公衆電話が置いてあった。
未来はその自動販売機の前の辺りで立ち止まって、(一度、雨降りの空を透明なドームの天井越しに見上げた跡で)……涙の様子を伺った。
「どうぞ」
にっこりと笑っている涙が言った。
「え、……はい。どうも」
そう言って照れ笑いをすると、頬を少し赤くしながら未来は涙の座っているベンチの横にあるベンチに座ろうとした。
でも涙が、真ん中に座っていた場所を端っこに移動したので、未来は座る場所を変えて、涙の座っているベンチと同じベンチの反対側の端っこの辺りに(それでも三人くらいしか座れないベンチの大きさだったので、二人の距離は出会ったばかりだというのに、もうずいぶんと近かった)ちょこんと座った。
「僕は涙って言います。河原涙です」
と涙は言った。
「あ、えっと、私は三上未来です」と未来は笑顔を作りながら、涙に言った。
未来はこのとき、とても緊張していた。なぜなら未来はとても綺麗な顔をした川原涙くんに、このとき、すでに一目惚れの恋をしていたからだった。(それは未来の初恋だった)
「静かで、とてもいい場所ですね」そんなことを未来は言った。
その未来の言葉通り、二人の周囲はとても静かだった。雨の音も、ほかに誰もいないから、人の話し声も聞こえない。
まるで私たちは今、宇宙に放り出された宇宙船の中で、二人っきりで過ごしているみたいだと、未来は思った。未来がそんな連想をしたのは、この植物園に雨宿りに来る前に、未来は近くにある宇宙博物館(退役した本物の白黒のスペースシャトルがある。こちらが未来の本命だった)に寄っていたからだった。
「ここはいつも、ほとんど人がいないんです。だからこうして絵を描くのに最適な場所なんですよ」にっこりと笑って涙は言った。
「……絵、ですか?」未来は言う。
涙は初めて見たときら、ずっとその胸の辺りに大きなスケッチブックを持っていた。手には鉛筆。体の横には小さな革の鞄が一つ、置いてあった。(未来はピンクの小さなリュックを背負っていた。そのリュックは今、未来の膝の上にあった)
「絵を描くのが、僕の趣味なんです」涙は言った。
「その絵って、見せてもらったりしても、いいですか?」未来は言う。
「別にいいですよ。よく、この場所で出会った人には、そう言われて、自分の描いた絵を見てもらうことがありますから」
黒ぶちのメガネの奥で涙は未来を見てそういった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そういって、未来は涙のスケッチブックを受け取った。(その際、少しだけ指と指が触れ合って、未来は「あ」と思わず声を出して、どきっとしてしまった。涙は優しい顔で笑っているだけだった)
未来がスケッチブックのページをめくると、そこにははじめに『晴れ渡った青空』を描いた一枚の絵があった。それはまるでプロが描いたような、素晴らしいスケッチと構図(学校の屋上から、空に手を伸ばすようにして、青空を見上げているような)をした絵だった。
その鉛筆で書かれた素描の絵が、どうして『青空の絵』だと未来にわかったかというと、なぜかその絵には『青色』だけ簡単にだけど、水彩絵の具で色が塗っていあったからだった。
「すごい。素敵な絵ですね」
未来は言った。
「ありがとう」
涙はにっこりと微笑む。
涙くんのスケッチブックにはたくさんの絵があった。(そのほとんどのページがすでに、涙くんの絵で埋まっていた。そして、その絵はどれも鉛筆で描かれていた素描の絵で、絵の中にはなぜか最初に見た青空の絵と同じように、『青色だけ』その色が塗られている箇所が多くあった)
未来は最初のその涙くんの絵を本当にすごい絵だ。
趣味と言っていたけど、もうプロの絵と変わらないように見える。もしかしたら涙くんは将来画家になりたいと思っている、美術を選考している高校生なのかもしれないと思った。(まだ未来と涙は、お互いの年齢を名乗っていなかったのだけど、未来は涙のことをその見た目からだいたい自分と同じ十六歳くらいの高校生であると判断していた)
しかし、いくつかの絵をじっと見ていると、だんだんと未来はある違和感のようなものをその絵に感じ始めた。
それは最初に見た青空の絵でも、もう一度その絵をよく見てみると、感じてくる不思議な違和感のようなものだった。
……涙くんの絵は、どこか断片的であり、どこか完成していないような印象を受けた。(どこが、と聞かれたら、どこと、指摘はできないのだけど……)
そんな未来の感想をその顔の表情と雰囲気から察したのかもしれない。
「僕の絵。どれも中途半端な絵でしょ?」
とにっこりと笑って涙くんは未来にそう言った。
未来の涙くんの絵の感想は、写実的。あるいは風景的。
涙くんの絵は、すごく現実的で描写がうまい。(プロの画家さんが描いた絵みたい)……でも。
「魅力的じゃない?」と涙くんは言った。
「え?」未来は驚く。
どうやら未来の感想は、未来が思っていた以上に、その顔に出てしまっていたようだった。
「ふふ。三上さんは正直な人だね」
そう言って、涙くんは思わず顔を崩して、にっこりと笑った。
それはすごく可愛らしい(本当に子供みたいな)笑顔だった。
その笑顔を見て、思わず未来はまた、涙くんにどきっとした。
「あ、でも、すごく上手です。本当に、なんだかプロの人が描いた絵みたいだって思いました」
慌てて未来はそういった。(その感想はもちろん、嘘ではない)
「ありがとう」涙くんは言う。
それから二人は、すぐそばにある自動販売機でコーヒーを買って、それを飲みながらお互いの話をした。(その話によると、やっぱり涙くんは十六歳で、未来と同い年の高校生だった。美術の専門学校に通っている学生さんだ。将来はイラストレーターか、あるいは、画家志望らしい)
「川原くんなら、絶対に画家になれますよ」にっこりと笑って未来は言った。
「……うん。ありがとう」
涙くんは言う。(でも、涙くんの表情はあまり嬉しそうな表情じゃなかった)
その理由は、『絵が上手に描けなくなったから』、……らしい。(あんなに絵が上手なのに)
「絵が昔みたいに上手に描けないんだ。だからこうして、この場所でスケッチブックに絵を描いて、自分の絵を探している。この場所は僕の思い出の場所で、子供のころによくこうして、僕はこの場所で絵を描いていたんだ。だから、こうしてあのころみたいにこの場所で絵を描いていれば、あのころの自分の絵を見つけることができると思っていたんだけど、……なかなかうまくいかないんだ」
そういって涙くんは雨降りの透明なドーム状の植物園の天井を見上げた。未来も同じように空を見る。そこには雨音の聞こえてこない、不思議な雨の降る真っ暗な空の風景があった。
「三上さん。実は三上さんにお願いがあるんだけどいいかな?」
「え? なんですか?」
少し雑談を交えて会話をしたことで、やっと緊張がとけて、普段通りの声で未来は言った。
「僕はこの場所で自分の絵のリハビリをしているんだけど、それで……、実は一つ、試したいと思っていたことがあるんだ」
「うん。試したいこと」
缶コーヒーを飲んでから、未来は言う。
「きっかけを探している。そのきっかけっているのが、実は三上さん。君なんだ」
「え? 私?」
自分の顔を指差して未来は言う。
「うん。三上さん。もしよかったら、僕の絵のモデルになってくれないかな?」
そんなことを川原涙くんは、三上未来にそう言った。
そんなことを急に言われて、未来はすっごくびっくりしてしまった。……絵のモデルって、私を涙くんが描くってこと? え? えっと……。(未来はそんなことあるはずもないのに、自分がヌードになるようなイメージを一瞬思い浮かべてしまった。……恥ずかしい)
「さっきのスケッチブック。風景画ばかりで、人物画が一つもなかったでしょ?」涙くんは言う。
「うん。確かに」未来は頷く。(確かに人を(あるいは誰かの顔を)描いた絵は一枚もなかった。全部風景の絵ばかりだった)
うーんと言いながら、人差し指を口元に当てながら、未来はそんなことを思い出した。
未来と涙の二人は植物園の透明なドームの中心にある一番大きな植物のコーナー前にあるベンチから移動をして、ゆっくりとほかに誰も人がいない(本当に誰もいなかった。涙くんはいつもここはこんな風にすごく静かな場所なんだ、と未来に言った)植物園のほかの植物のコーナーを観察しながら、ゆっくりと歩いて、話をしながら見て回った。
この世界にはこんなにたくさんの種類の植物があるんだ。全然知らなかった。
未来は、緑色のいろんな形をした美しい植物たちを見ながら、そんなことを思った。
未来は植物にまったく興味はなかったのだけど、今日は偶然、この場所にこれて本当によかったと思った。(涙くんにも会えたし、植物の美しさもわかったからだ)
「三上さんを見たとき、すごく僕の中で感じるものがあったんだ。あ、僕はこの人を描かなくてはいけない。いや、違うな。この人を描くことができれば、僕はもう一度、あのころのように、『僕が目指した、僕の理想の絵画』を描くことができるようになるって、そんなことを思ったんだ」
黒ぶちのメガネの奥から、真剣な目をして、そんなことを涙くんは未来に言った。「……そんなことないよ。そんな『特別な力』なんて私にはないもん」
顔を赤くしながら、照れ隠しに笑って、未来は言った。
(それにしても、大人しそうな顔をして、すごいことを言うな。涙くんは。初めて会ったばかりの、それも自分と同い年の異性の人(私のことだけど)に向かって、言ってみれば『君との運命を感じた』、なんてことが真顔で言えるなんて……。絵を描く人って、あるいは美術というか、芸術をやる人って、みんなこんな感じなのかな……)
ずっと静かな目をして自分の隣を歩いている涙くんの顔を見ながら、そんなことを未来は思った。
でも結局、未来は涙くんの申し出を受けることにした。
未来が「じゃあ、せっかくだからモデルの話、受けてみようかな?」というと、すごい笑顔になって、「本当に!? ありがとう! 三上さん」と言って、ぎゅっと未来の手を握った。(突然のことですごくびっくりした。未来は思わず、すごくどきどきしてしまった)
「じゃあ、早速だけど、スケッチしてもいいかな?」
「え? 今ここで?」
「うん。さっきのベンチのところで。……だめかな?」涙くんは言う。
「ううん。別にだめじゃないんだけど、……本当にここ、誰もこないの?」モデルをしている自分を誰かに見られることはすごく恥ずかしいことだと未来は思った。
「大丈夫。誰もこないし、誰か来たとしても別に問題はないよ。三上さんはベンチに座って、僕を見て、じっとしていれくれればいいんだから」と涙くんは言った。(それが恥ずかしいと言っているのだけど……)
「……うん。わかった。いいよ」
まあ、モデルを引き受けたわけだし、別に本当の本当に嫌なわけじゃないからいいかな? と思ってにっこりと笑って未来は言った。
「ありがとう」もう一度、涙くんは未来にお礼を言った。
それから二人は初めて二人があった場所である植物園の中央にあるコーナーの前のベンチのところに戻ってきた。
未来はベンチに座って、涙くんのほうを向いてじっとした。そして涙くんは、そんな未来のことをじっと見つめながら、やがて、スケッチブックの上にすごく尖った(本当にすっごく尖っていた)鉛筆でさらさらと三上未来の人物画のスケッチを始めた。
未来は、なぜかすごく落ち着いていた。(自分でも不思議なくらいに)
世界はとても静かだった。
誰もこないし、ずっと植物園の外で降り続いている、雨の音も聞こえない。未来に聞こえてくるのはさらさらという涙くんの走らせている鉛筆の動く音だけだった。
まるで、今だけ、ずっと忙しなく動いていた時間が止まっているみたいだ。
そんなことを人形のように動かず、無表情を保っている(絵画のモデル初心者の)未来は思った。
「少しこのままお話をしてもいいですか?」
じっとしていることに我慢しきれなくなって未来は言った。
「もちろん。いいよ。三上さんが一番リラックスできるようにしてくれて、構わない。体さえ動かさないでいてくれればね」にっこりと笑ってスケッチブックの後ろから涙くんは言った。
「私、学校が嫌いなんです。学校に行ってないんですよ。今。私」そんなことを未来は言った。
もうずいぶんと二人は会話をして(と言っても名前とか、学校のこととか、ぞれぞれの生活とか、そんな当たり障りのない会話だけだけど)すごく距離が縮まった感じがしていたけど、でも二人とも、涙くんも、それから私(未来)も、一番大切なことや本当に大事なことは、まだお互いに話ができていないと思っていた。(それは当然といえば、当然の話なのかもしれない。だって私たちはまだ出会ってから一日も時間がたっていないのだから)
でも、こうして絵のモデルをしていると、なんだか自然とそんな自分の秘密(涙くんい話すつもりもなかったし、ずっと秘密にしておこうと思っていた)をなぜか、自然と口にすることができた。
涙くんに迷惑かな? とか、私なんでこんなこと話しているだろう? とか私はどうしてこんな場所で今日初めて会った出会ったばかりの男の子の絵のモデルをしているんだろう? とか、私はどうして今日、宇宙博物館にスペースシャトルを見に行こうと考えたんだろう? とかいろんな余計なことを考えてしまった。
そんなことを考えながら、未来はにっこりと涙くんの前で笑った。(そうしないと、なんだかちょっと泣いちゃうそうだったからだ。……自分が可哀想すぎて)
涙くんは無言。
「もう、一年くらいになるかな? 中等部までは普通だったんですけど、高等部に入って、いろいろあって、一年の夏休みから、もう学校にいきたくないって思うようになって、……そうしたら、本当に学校にいけなくなっちゃって……。もちろん、私は学生なんだから学校に行かなくちゃって思ったんですけど、でも、からだが震えて、心がそれを拒絶して、(絶対に行きたくない、行くなって言って)それで結局、お父さんもお母さんも先生と相談をして、私がいけるようになるまで待てばいいよ、っていう話になったんです。……引きこもりっていうか、登校拒否っていうのかな? 私、かっこ悪いですよね」ふふっと笑って未来は言った。
「ううん。かっこ悪くなんてないよ」にっこりと笑って涙くんは言った。
「慰めですか?」未来は言う。(自分がかっこ悪いことをしているのは、未来本人が一番よくわかっていた)
「違うよ。本当にそう思うんだ」鉛筆を持つ手を止めずに、涙くんは言う。
「三上さん。僕は今、絵が描けない。つまり、スランプの状態にあるって話をしたでしょ? その絵のリハビリをするために僕はこの静かな植物園の中でずっと風景の、あるいは言葉を喋らない美しい緑色の植物たちの絵を描いている。そんなときに三上さん。君が僕の前にあらわれた。それを僕は『運命』だと感じたんだ。本当に心にびびっとくるものがあった。三上さんのことを描きたいって思ったんだ。だからこうして三上さんに声をかけて、三上さんに絵のモデルのお願いをして、こうして僕は今、三上さんの絵のスケッチをしている。そうだよね?」
「はい」涙くんの話に未来はうなずく。
「そういうことって誰にでもあることだと思うんだ。うまく歩けなくなるような時期っていうのかな? 立ち止まるべき時期。心と体を落ち着かせて休む時期。それは個人差があって、いつなのかは、人によって違うと思うけど、僕が絵を描けなくなってここでもう一度、自分の満足する絵を描けるようになる練習をしていたように、三上さんも、きっと三上さんがちょっとだけ歩くことをやめて、休む時期がきたってことなんだと思うんだ。きっとそういうことなんだって、僕は思うな」涙くんは言った。
未来は涙くんの話をずっと黙って聞いていた。
鉛筆で描かれた(本当にびっくりするくらい未来にそっくりの)未来の素描画はにっこりと本当に楽しそうな顔で笑っていた。
(これが、……私?)
未来は本当に驚いた。
未来が涙くんを見ると、涙くんはにっこりと笑って未来に「どうかな? 自分では、よく描けていると思うんだけど……」と言った。
その言葉を聞いたとき、未来の涙腺は崩壊した。
「……ありがとう。涙くん」そう言って、(絵の中の笑っている未来とは違って)現実の未来は涙くんを見てぽろぽろと涙を流した。
それから未来は、涙くんから「ほら、笑ってよ。三上さん」と言われたので、未来は「……うん」と言って無理やり絵の中の自分と同じように口角を上げて、にっこりと笑った。(それは、まるで笑顔の練習をしているようだった)
わたし、やっぱり涙くんのことが、好きなんだ。
……そんなことを泣きながら、未来は思った。
「そのスケッチ。よかったら、三上さんにプレゼントしたいと思うんだけど、もらってくれるかな?」涙くんは言った。
「え? この絵、私にくれるの?」ハンカチで涙を拭いていた未来は言った。
「うん。その代わり、もう一度、三上さんの人物画を描くためのスケッチをさせてもらいたいんだけど、それでもいいなら、その絵はぜひ、三上さんにもらってほしい」と涙くんは言った。
「うん。ありがとう。何度でもモデルになる。本当に嬉しい。どうもありがとう!」と未来は本当に嬉しそうな顔と声で涙くんに言った。
未来はその言葉通り、涙くんのスケッチのモデルをもう一度した。
涙くんは二枚目の未来のスケッチを完成させると、「ありがとう。三上さん。あとは、このスケッチを見ながら、自分の部屋で、三上さんの人物画を完成させてみるよ」と涙くんは言った。
「そのスケッチを見て?」未来は言う。
未来はこのあとも、何度かモデルを続けて、涙くんの絵が完成するまでの間、ずっとこんな風な二人の時間が続くものだと思っていた。
そのことを未来は涙くんに聞いてみた。
「うん。本当なら、このまま三上さんに人物画を描くときにもモデルになってもらったほうがいいんだけど、今は、このスケッチがあれば、十分だよ。それに、この場所では、本格的な油絵はさすがに描けないし、僕の部屋に三上さんに来てもらうわけにもいかないしね」
にっこりと笑って涙くんは言う。
「そうですか」
ちょっと寂しそうな顔で笑って未来は言う。(本当は涙くんの部屋に行っても全然良かったのだけど、さすがに自分から言い出すのは、変だと思ったし、恥ずかしかった)
「じゃあ、これで私たちはお別れ、ですね」
涙くんに描いてもらったスケッチを見ながら、未来は言う。
「……絵は、きっとすぐに完成すると思う。僕は今、三上さんの人物がを描きたいってすごく強く思っているから。まあ、それでも一ヶ月はかかると思う」
……一ヶ月。未来は思う。
「絵が完成したら、またこの場所に絵を持ってやってくるよ。そしたら、三上さん。その絵を見てもらえるかな? 僕の描いた三上さんの人物画を見てもらって、その絵の感想を聞かせてもらいたいんだ」
「……うん。もちろん」にっこりと笑って未来は言った。
一ヶ月後にまたこの光の庭で会う約束をして、涙と未来は、一旦、この場所でお別れをすることにした。
(連絡先の交換はしなかった。未来はしたかったけど言い出せなかった)
涙くんはまだ、この植物園の中で絵を描くというので、未来は一人で最初に入っていた入り口のところに戻って、植物園の外に出た。
外に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
植物園の外には、眩しい太陽があって、大きな白い雲があって、そして、永遠に思えるような夏の青色の空が広がっていた。
一ヶ月後
自分の通っている白百合女学院の制服を着た三上未来は、一ヶ月ぶりに、あの偶然の雨の日に雨宿りをした場所である、宇宙博物館の敷地内にある光の庭にやってきた。
未来はもし、できることなら、二人の再会の日には、真っ青に晴れ渡った晴の天気の日がいいと思っていたのだけど、残念なことに二人の再会の約束をした日は、雨の日になった。(まあ、私らしいといえば、私らしい天気だけど……)
未来はこの一ヶ月の間、ずっとお守りみたいに自分の部屋に飾って毎日見ていた、涙くんに描いてもらった自分の素描のスケッチを、紙袋に入れて持ってきていた。
未来が植物園の入り口を開けると、あのときと同じようにとても強い風が吹いた。
未来はそのまま、植物園の中を歩いて、透明なドーム状の植物園の中央にある一番大きな植物のコーナーのところまでやってきた。
そこにあるベンチのところまで未来は移動する。
そこに川原涙くんの姿はなかった。
……まだ、来てないのかな?
未来は周囲をきょろきょろと見渡してみたけど、そこに涙くんの姿はなく、またあのときと同じように、人の気配もどこにも感じることはなかった。
まあ、いっか。
ここで待っていれば、涙くんはすぐやってきてくれるはずだ。
にっこりと笑った未来はそう思って、あのときと同じベンチの場所にゆっくりと座った。
紙袋の中には、涙くんにもらった自分のスケッチがある。そしてカバンの中には、涙くんにありがとうの意味を込めて、贈り物として買ってきた涙くんへのプレゼントが入っていた。(小さな花束も用意した)
未来はずっとどきどきしていた。
涙くん。
雨の音が聞こえない不思議な植物園の中で未来は雨降りの空を見上げる。
早く涙くんに会いたい。
あって、涙くんとお話がしたい。(学校にいけるようになったこととか。この涙くんに描いてもらった私の、にっこりと笑っている、スケッチに、私がどんなに助けてもらったか、とか、そんな話がたくさん、たくさんしたかった)
涙くんの描いた自分の油絵の人物画も見たかったし(ちょっと恥ずかしいけど)未来は一ヶ月の間に、自分が成長した姿を涙くんに見てもらいたいと思っていた。
……でも、いくら待っても、涙くんは植物園の中にやってこなかった。
涙くん。遅いな。
未来は思う。
植物園の外ではまた雨が降っている。
……三上未来は、川原涙を待ち続ける。いつまでも、いつまでも、涙くんが自分の人物画を持って、この光の庭の中にやってくるのを、ずっと、ずっと、ベンチの上に座って一人、待ち続けていた。
光の庭 ひかりのにわ 終わり