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第19話

 何も言わず、ただハンドルを握り、アクセルとブレーキを静かに踏み続ける槙野。

類以も親が話していないからか、何も言葉を発せず、両手でぬいぐるみを大事そうに抱えながら窓の外を眺めていた。


カーナビゲーションから流れてくるラジオ。今は近くの道で行われている交通規制の話がされている。でも、その音量は小さくて、後部座席に座る荻野の耳にはあまり届かない。たまらず荻野は口を挟む。


「猛、今日は本当にごめんね」

「気にしないでいいよ。太陽の光を浴びられて、小さな公園で季節の花も見れて、途中で疲れて眠っちゃったけど、類以も楽しそうにしてたから」

「なら良かったけど。でも猛も逃げられてよかったでしょ」

「ハハッ、バレてた?」

「うん。猛は緊張に弱いタイプだからね。醸し出す雰囲気から犇々《ひしひし》と伝わってたよ」

「正直、あの空間に類以と居続けるのは、変な緊張感と張り詰めた空気感で体調が悪くなりそうだったから、1回外の空気を吸って落ち着かせることができてよかった」


槙野の何気ない優しい一言に、荻野の心は救われる。交通情報のアナウンスが終わると、槙野はカーナビゲーションの音量を下げ、声のトーンも下げてから尋ねる。


「茉菜、俺が訊くのは間違っているかもしれないけど、教えて欲しいんだ。お義姉さんのこと」

「・・・・・・」

「ごめん。俺―」

「ううん。話すから」

「いま無理して話さなくてもいいよ。いつでも―」

「今話をさせて欲しい」

「分かった」

「でももし、途中で泣いちゃったらごめん」

「いいよ。そのときは俺が受け止めるから」

「うん」


 ふと類以に視線を遣る。さっきまでは景色を見ていたはずなのに、やはり遊び疲れたのか、心地よい振動に揺られて気持ちよさそうに寝ている。起こさないように、ゆっくり優しく頭を撫でてから、荻野はポツリと口を開いた。


「お姉ちゃんとは8つも歳が離れててね、昔からよく可愛がってもらってた。お姉ちゃんは両親に似たのか子供のことが好きでね。将来は結婚をして、子供を産んで、明るい家庭を築くことを夢見ていた」

「うん」

「でも、自分は子供を産めない身体であることを知ってからは、結婚も諦めて、里親制度を利用して子供と繋がろうって、それが夢だって私に語ってくれた」

「うん」

「その夢がもうすぐ叶うっていうときにね、儚く散っていったの」


撫でる手を止め、自分の胸に手を当てる。


「事故に、巻き込まれた」


 信号が黄色に変わる。車はゆっくりとスピードを落としていく。


「事故が起きたのは8月の夕方。お姉ちゃんがね、5歳の女の子を児童養護施設へ迎えに行って、一緒に帰って来る日だった。施設の目の前にある横断歩道を、手を繋いで渡っているとき、信号を無視して走ってきた車と衝突して。女の子は掠り傷で済んだけど、お姉ちゃんはね・・・・・・、目を覚まさなかった」

「・・・・」

「その日以来、私は学校帰りに毎日、両親は仕事から早く帰れるときに、お姉ちゃんに会いに行ってた。いつか目覚めてくれることを信じて待ち続けていたんだけどね、駄目だった」


類以は姿勢を変えた瞬間に掴んでいたぬいぐるみを落とすも、気付かずに寝続ける。


「いわゆる植物状態になって丸3年が経ったとき、お姉ちゃんは誰にも看取られずに、静かに逝っちゃったんだ。駆けつけたときには遅かった。冷たくなった肌に触れたとき、『やっと楽になれるね』なんてことを耳元で言っちゃって・・・。私、酷い妹だよね」


腕を伸ばし落ちたぬいぐるみを拾いあげる。少しだけ小石が顔周りに付着していた。


「そんなこと、ないと思うよ」

「え」

「多分、俺が茉菜と同じ状況に置かれても、そう声をかけると思う。ずっと苦しい思いをさせてごめん。楽になってね、って。茉菜は酷い妹じゃない。お義姉さん思いの優しい妹だよ」

「猛・・・」


 小石や土汚れを軽くはたいて落とす。ふと顔を上げると、ルームミラー越しに微笑む槙野と目が合う。その刹那、荻野は瞳から大粒の涙を落とし始めた。


「茉菜、大丈夫? ごめん、辛いこと思い出させた」

「平気だよ」


溢れ出していく涙。止まらない。


「一旦どこかに車停めようか?」

「ううん。大丈夫。そのまま走っちゃって」

「分かった」

「まだ途中だけど、最後まで話してもいいかな」

「俺は最後まで聞くけど、話すの辛かったら、もうこれ以上は言わなくてもいいんだよ?」

「大丈夫。話して一気に楽になりたいから」

「・・・、そっか」


 ようやく信号が赤から青に変わった。アクセルペダルが踏まれる。車は徐々にスピードを上げていく。


「そのお姉ちゃんのことが直接の原因か分からないんだけど、お父さんは里親とか養子縁組とか、そういうことに対して嫌悪感を持ち続けてる。お姉ちゃんが死んでからずっと、『あの女児を迎えに行かなかったら、死ぬことはなかったのに』って言い続けてた。それが今でもそうでね、話し合いのときもお姉ちゃんのことを話を出して、反対してきた」

「そうだったんだ。じゃあ、お義母さんのほうは、どんな感じだったの?」

「お父さんが隣にいたからかもしれないけど、反対まではしないけど認めてもくれてないかな。お母さんの本音までは聞けなかった」


荻野の瞳から零れる涙は少なくなったが、それでもまだ落ち続ける。服には大きな水たまりが浮かび上がっていた。


「そっか。なんかごめん」

「どうして猛が謝るの?」

「俺、何も知らないで失礼なこと言ったんじゃないかって」

「猛は間違ってないよ。私も、正直お父さんがあそこまで頭ごなしに怒ってくるとは思ってなかったから。私のほうこそごめんね。このこと、先に伝えておくべきだったって反省してる」

「茉菜、もう謝らないでよ。俺は大丈夫だから」

「ごめん・・・」

「今度、もう一度ご両親に会いに行こう。今日はちゃんとお話しすることができなかったから、チャンスをもらいたい」

「うん。今日帰ったら、お母さんに電話してみる」

「ありがとう」


 あの事故があった日以来、初めて誰かに姉のことを話した。ずっと姉のことを忘れようと生きてきた。でも、1度たりとも忘れたことはなかったし、今も心の中にずっと姉の存在が残っている。それを言葉にしたとき、ここまで泣くとは思ってもみなかった。


正直、話している最中はずっと笑顔の姉が蘇るし、その浮かび上がる姿を見ることすら辛かった。ただ、話さないでいるのも心が痛い。だからこそ、今日こうして槙野に話すことができて良かったと思えた。


姉のことを忘れていないこと、姉のことを尊敬していることを、言葉越しに伝わっていたらいいな。そう思って、荻野は槙野にこう伝えた。「今度、お姉ちゃんに会ってくれる?」と。遠く離れた山に沈んでいく夕日は、あのときの姉の笑顔ぐらい、眩しく煌めいていた。

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